第2章「三番目の娘」/二 秤の値段
宮廷詠紋院は、王宮の北翼の外れにある。
かつては王家の薬草園を管理する園丁の宿舎だった建物で、壁には今でも古い蔓の跡が這っている。詠紋院がここへ移されたのは、当代の陛下の御代の初め、三十年前のことだった。教会が星屑の管理権を手にしたとき、宮廷の術師たちは本殿の一角から追い出され、この湿った石造りの宿舎を与えられた。表向きは「研究に適した静かな環境」ということになっている。
静かなのは確かだった。誰も来ないのだから。
翌日の昼下がり、セラフィナは侍女を一人だけ連れて、北翼の回廊を歩いていた。
表向きの用件は、薬草園の見学である。第三王女が花を見に行くことに、理由を問う者はいない。侍女には園の入口で待つよう言いつけ、彼女はひとりで、蔓の跡の残る扉を叩いた。
返事はなかった。
もう一度叩いた。
「開いています」
中から、平坦な声がした。
「ただし、床に紙が積んであるので、踏まないでください。踏まれると、順番が崩れます」
セラフィナは扉を押した。
部屋は、紙でできていた。
そうとしか言いようがなかった。床、机、窓枠、椅子の座面、暖炉の上。あらゆる平らな場所に、紙の束が積まれている。束と束のあいだに、人ひとりがようやく足を置ける程度の隙間が、飛び石のように続いていた。インクと、古い羊皮紙と、薬品のような刺激のある匂いがした。
その奥の机に、女がひとり座っていた。
黒髪をうなじで適当にまとめ、分厚い眼鏡をかけている。指先がインクで青黒く染まっていた。宮廷の術師が纏うべき刺繍入りの長衣ではなく、袖を肘までまくった灰色の作業衣を着ている。
第二席詠紋術師、ミレイユ・アシャン。
彼女は顔を上げ、眼鏡の奥からセラフィナを見た。
左目の下に、細い紋が三つ、縦に並んでいる。その紋が、一瞬だけ、かすかに光った。
「第三王女殿下」
ミレイユは立ち上がらなかった。
「お越しになる予定は伺っていません」
「予定を伺わせないために、花を見に来たことになっておりますの」
「なるほど。合理的です」
ミレイユは頷き、それから、机の前の椅子を指さした。椅子の上にも紙が積まれている。
「その束は床へ。右側の、青い紐の束の上に重ねてください。左側は駄目です」
セラフィナは言われた通りにした。ドレスの裾を持ち上げて飛び石を渡り、紙の束を青い紐の上に置き、椅子に座った。座ると、机の上の紙の山の向こうから、ミレイユの眼鏡だけが見えた。
セラフィナは、隠しから折り畳んだ反故紙を取り出し、机の上に広げた。
「数字を見ていただきたいのです」
ミレイユは、紙を手に取った。
読むのは速かった。十七の数字と、その合計と、兵站局の総覧の数字。彼女の目は上から下へ一度だけ動き、そして止まった。
「出典は」
「国庫出納簿と、聖遺管理台帳の奉呈写本。九十八年から百十四年まで。台帳の側は、十七年すべて『異動なし』です」
「兵站局の数字は、閲覧制限がかかっているはずですが」
「書庫の目録を作り直したのは、わたくしですので」
ミレイユは、もう一度紙を見た。
「計算に誤りはありません」
「それは存じております」
「では、何を見てほしいのですか」
セラフィナは、隠しから二枚目の紙を出した。昨夜の事故報告書の写しである。
「こちらに、『封印の経年劣化による漏出』とあります。教会の封印は、年月が経つと劣化するものなのですか」
ミレイユは、報告書を受け取った。
今度は、読むのに時間がかかった。短い文面を、彼女は三度読み返した。三度目に読み終えたとき、彼女は報告書を机に置き、眼鏡を外して、インクの染みた指で目頭を押さえた。
「しません」
と、彼女は言った。
「聖遺管理局の封印は、紙に書いた紋や石に刻んだ紋ではありません。術者の紋から、常に供給され続けています。糸で吊っているようなものです。糸が切れれば落ちますが、糸が古くなって少しずつ伸びる、ということはありません。経年劣化という現象は、少なくとも詠紋院の記録では、一度も観測されていません」
「糸を吊っているのは、どなたです」
「大司祭猊下です」
ミレイユは、眼鏡をかけ直した。
「おひとりで」
セラフィナは、黙った。
国中の星屑を、ひとりの人間の紋が吊っている。その話は、噂としては聞いていた。王宮の誰もが聞いていて、誰もが噂の域に留めている話だった。
「では、昨日の事故は」
「糸が切れたのではありません。糸が切られたか、糸より強い何かが近くにあったかです。前者なら猊下の意思、後者なら……」
ミレイユは、そこで言葉を切った。
「後者について、私は仮説を持っていません。持っていない仮説を口にするのは、嘘に近い行為です」
正直な人だ、とセラフィナは思った。
正直すぎて、王宮では生きにくい種類の人だ。
「ミレイユ様。わたくしは、この十七年の星屑がどこへ行ったのかを知りたいのです。そのためには、教会の封印がどういう仕組みで、どれだけの量を抱えられるのかを、数字で知る必要があります。わたくしには、その知識がありません」
「私にはあります」
「お力を貸していただけますか」
ミレイユは、すぐには答えなかった。
机の上の紙の山を、指先で揃えている。揃える必要のない山だった。それを三度揃えてから、彼女は言った。
「条件があります」
「伺います」
「殿下の紋を、見せてください」
セラフィナの呼吸が、一拍だけ止まった。
止まったことを、顔には出さなかった。出さなかったつもりだった。
「……何のことでしょう」
「部屋に入られたとき、秤が反応しました」
ミレイユは、自分の左目の下を指で示した。三つ並んだ細い紋。
「この紋は、視界に入った紋の構造を読みます。殿下の左の鎖骨の下に、一つあります。刻まれてから四年から五年。独学です。刻みの深さが一定ではなく、線の交点で紋が二重になっている箇所が少なくとも三つある。教本を見ながら、鏡を使って刻みましたね。鏡に映すと、左右が逆になるので、交差の順序を間違えやすいのです」
セラフィナは、何も言わなかった。
言えなかったのではない、と自分に言い聞かせた。言う必要がなかっただけだ。
「隠していらっしゃるのは分かります」
ミレイユは続けた。声の高さは、最初から少しも変わっていなかった。
「ですから、見せていただくのは私だけで結構です。私は誰にも言いません。言う相手がいませんので」
「……なぜ、それが条件なのです」
「データが欲しいからです」
ミレイユは、あっさりと言った。
「独学で刻まれた紋の実例は、極めて少ないのです。教会が詠紋の私的な習得を禁じているので、記録に残りません。私は、紋の設計の巧拙が星蝕の進行速度を決める、という仮説を持っています。仮説ではなく、証明したつもりでしたが、論文は受理されませんでした。受理されなかったので、今も仮説のままです。殿下の紋は、その仮説を検証するための貴重な例です」
セラフィナは、目の前の女を見た。
同情も、好奇も、取引の駆け引きも、その顔にはなかった。あるのは、欲しいものを欲しいと言う、子どものような率直さだけだった。
この人は、嘘をついていない。
セラフィナは、そう判断した。そして、判断したことに少し驚いた。王宮で他人の言葉を信じるのは、久しぶりだった。
「——扉に、鍵を」
「かかっています。殿下が入られたあとで、私がかけました」
気づかなかった。
セラフィナは小さく息を吐き、それから、左の鎖骨に指を当てた。
紋に意志を通す。
冷たいものが、鎖骨の下から肩へ、首筋へ、薄い膜のように広がった。そして、部屋の音が消えた。
紙の擦れる音も、窓の外の風も、遠くの回廊を歩く足音も、すべてが一瞬で途切れた。耳鳴りすらしない、完全な無音。ミレイユが、わずかに目を見開くのが見えた。
セラフィナは、ドレスの襟元の紐をほどいた。
左の鎖骨の下。白い肌に、爪の先ほどの線が絡み合った、小さな紋。その周囲の皮膚が、指の幅ほど、うっすらと透き通っていた。
ミレイユが、身を乗り出した。
左目の下の三つの紋が、今度ははっきりと光った。青白い、細い光。彼女の視線が、紋の線を一本ずつ辿っていくのが分かった。交点で止まり、戻り、また進む。その動きは、書庫で帳簿の数字を追う自分の指によく似ていた。
長い時間だった。
無音の中では、時間の長さが分からない。
やがて、ミレイユが口を動かした。
声は聞こえなかった。静穽の内側では、話す者の声も消える。セラフィナは紋を解いた。音が戻ってきた。紙の擦れる音。風。自分の心臓の音。
「——もう一度お願いします」
「三年十一ヶ月です」
ミレイユは言った。
「誤差は、前後五ヶ月。それを過ぎると、結晶化が鎖骨から頸部へ達します。頸部に達してからの進行は、個人差が大きいので申し上げられません」
セラフィナは、襟の紐を結び直した。
指は震えていなかった。震えていないことを、確かめながら結んだ。
三年十一ヶ月。
二十三になる前だ、と頭のどこかが計算した。計算してから、自分がまず計算をしたことに、少しだけ可笑しさを覚えた。
「それは」
と、セラフィナは言った。
「長いのでしょうか、短いのでしょうか」
「紋の効果に対して、という意味でしたら、短いです」
ミレイユは、眼鏡の位置を直した。
「静穽は、出力の小さい紋です。本来、正しく設計されていれば、十年使っても鎖骨の周囲が少し曇る程度で済みます。殿下の場合、交点の二重刻みが三箇所で余計な回路を作っていて、使うたびに、効果の三倍ほどの負荷が身体にかかっています。これは、私の仮説を支持する結果です」
そして、彼女は付け加えた。
「……慰めが必要でしたか。すみません、そういう機能は持っていません」
「いいえ」
セラフィナは、首を振った。
「数字の方が、ずっとありがたいですわ」
本心だった。
たぶん、本心だった。
ミレイユは、しばらくセラフィナの顔を見ていた。眼鏡の奥の目が、何かを測るように細められた。今度は、秤の紋は光らなかった。
「殿下」
「はい」
「今の数字を聞いて、殿下の顔には何も出ませんでした」
「訓練しておりますので」
「そうでしょう。ですが、私の紋は顔は読みません。紋だけを読みます。殿下の紋は、数字を告げた瞬間に、二度、微細な共鳴を起こしました。意志を通していないのに、です」
ミレイユは、青黒い指で机を軽く叩いた。
「紋は、嘘をつきません。私はそれを、この部屋で十年研究してきました。紋はそういうものです。持ち主の方が、どれだけ上手に隠しても」
セラフィナは、答えなかった。
答えられる言葉を、持っていなかった。
ミレイユは、それ以上何も言わなかった。反故紙と報告書の写しを重ね、自分の方へ引き寄せた。
「協力します。封印の容量と、十七年分の星屑が占める体積と、それを隠しておける場所の条件を計算してみます。十日ください」
「七日では」
「七日だと、誤差が倍になります」
「では十日で」
セラフィナは立ち上がった。飛び石のような紙の隙間を渡って扉まで行き、そこで振り返った。
「ミレイユ様。昨日の事故で、団長代理の方が……アルディス・フェンマールが、右腕を使いました」
ミレイユの手が、止まった。
「あの方の数字も、ご存じなのでしょう」
「存じています」
「教えてはいただけませんか」
「できません」
即答だった。
「あの方の数字は、あの方のものです。殿下の数字が殿下のものであるのと同じように」
セラフィナは、その答えを聞いて、小さく頷いた。
断られたのに、なぜか安心していた。
この人は、自分の数字も、誰にも渡さない。
「失礼いたしました」
扉を開けると、北翼の回廊の光が眩しかった。
薬草園の入口で待たせていた侍女が、花はいかがでしたか、と訊いた。
「きれいでしたわ」
と、第三王女は微笑んで答えた。
左の鎖骨の下が、まだ少し冷たかった。
セラフィナ・ヴェルディナ
年齢: 19
所属: 聖王国ヴェルディナ王家
肩書き: 第三王女
外見: 淡い金髪を編み上げ、常に完璧に整えている。琥珀色の目。小柄で、公務用のドレスの重さにいつも密かに閉口している。左の鎖骨の下に、誰にも見せていない紋が一つある。
ミレイユ・アシャン
年齢: 24
所属: 宮廷詠紋院
肩書き: 第二席詠紋術師
外見: 黒髪をうなじで無造作にまとめ、常にインクの染みた指をしている。分厚い眼鏡。宮廷では珍しく装飾のない実務用の衣。左目の下に、計測用の微細な紋が三つ並んでいる。




