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星屑の値段  作者: tm
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第2章「三番目の娘」/一 書庫の空白

 王宮の書庫は、夜の方が正直である。

 昼のあいだ、ここには司書が三人と、写字生が七人と、閲覧を許された貴族の子弟が何人か出入りする。彼らは書架の間を歩き、囁き、咳をし、本を開いては閉じる。人の気配があると、書庫は「書庫らしく」振る舞う。背表紙を揃え、埃を隠し、何もかもが整然と並んでいるような顔をする。

 夜になると、それをやめる。

 燭台ひとつの明かりの中で、セラフィナ・ヴェルディナは、そういう書庫の顔が好きだった。

 棚の奥で、紙魚が這う音がする。梁が冷えて軋む。どこかの書架で、綴じ糸の弱った本が、重みに耐えかねて頁を一枚落とす。それらの音は、昼には誰にも聞こえない。聞こえないだけで、ずっと起きている。

 帳簿も同じだ、と彼女は思っている。

 机の上には、革装の大判の冊子が二つ、開いて並べてあった。

 左が、聖典教会から王家へ毎年奉呈される『聖遺管理台帳』の写本。

 右が、王家の財務局が記録する『国庫出納簿』の星屑の部。

 どちらも、本来なら同じ一つの流れを、両岸から記録したものである。国庫が教会へ星屑を納めれば、左の台帳には「収蔵」と書かれ、右の出納簿には「奉納」と書かれる。教会が王家へ星屑を下げ渡せば、左には「払出」、右には「下賜」。岸の名は違っても、流れる水の量は同じでなければならない。

 セラフィナはこの十年、その二つの岸を、片方ずつ歩いて測ってきた。

 十年前、九歳の彼女が最初に書庫へ潜り込んだのは、単に隠れる場所が欲しかったからだ。姉が二人いて、どちらも美しく、どちらも既に縁談の話が来ていた。三番目の娘には何も来なかった。何も来ないということは、誰にも探されないということで、それは存外に居心地がよかった。

 読むものは何でもよかった。騎士物語でも、薬草誌でも、三代前の王の料理番の日誌でも。十二の歳には読む本がなくなり、残っていたのが帳簿だった。

 帳簿は物語よりずっと面白かった。物語は書き手が嘘をつく場所だが、帳簿は、書き手が嘘をつくと、必ずどこかの数字が合わなくなる。

 セラフィナは燭台の芯を少し切り、明かりを強くした。

 大崩落暦百二十七年、聖遷祭の夜である。

 窓の外では、まだ下街の方角に祭りの灯が残っていた。遠くで太鼓が鳴っている。書庫の厚い石壁を通してもなお、その振動が机の脚から指先に伝わってきた。

 彼女は右の出納簿の頁を繰った。

 九十八年。国庫より聖典教会へ奉納、拳級換算にして二千四百十。

 左の台帳の同じ年を開く。

 収蔵、なし。払出、なし。末尾に、几帳面な書体で一行。


 ——本年、異動なし。


 九十九年。奉納、二千六百。台帳、異動なし。

 百年。奉納、二千三百八十。台帳、異動なし。

 セラフィナは、指で数字を押さえながら、年を追っていった。

 百一年、百二年、百三年。

 台帳の頁は、どの年も同じだった。上質の紙に、同じ書記の手で、同じ一行。異動なし。異動なし。異動なし。その整然とした白さは、美しいとさえ言えた。

 百十四年。

 奉納、二千五百五十。

 台帳、異動なし。

 そして、百十五年の頁をめくると、台帳は唐突に饒舌になった。収蔵が四十一件、払出が十九件、封蝋の番号と、保管の棟と、立ち会った司祭の名が、ぎっしりと並んでいる。まるで十七年分の沈黙を取り戻そうとするかのように。

 セラフィナは、ペンを取った。

 手元の反故紙に、右の出納簿の数字を順に書き写していく。九十八年から百十四年まで。十七の数字。それを縦に並べ、足していった。

 書庫の暗がりで、紙魚がまた這った。

 足し終えて、彼女はペンを置いた。

 四万二千百八十。

 拳級換算で、四万二千百八十。

 その数字を、彼女は声に出さずに三度読んだ。三度とも同じだった。念のために下から足し直し、それでも同じだった。

 それから、別の冊子を棚から下ろした。王国軍の兵站局が年に一度作る『軍備星屑総覧』である。本来は王族の閲覧すら制限されている文書だが、三年前に書庫の目録を作り直したとき、誰もこれを持ち出し禁止の棚へ戻すのを忘れた。忘れさせたのはセラフィナである。


 最新の頁。王国軍の全備蓄。北方三要塞、王都守備隊、銀環騎士団、辺境各州の駐屯地。すべてを合わせて——


 三万一千二百。

 セラフィナは、椅子の背にもたれた。

 ドレスの胴が肋に食い込んで、息が浅くなった。公務用の衣装は、夜の書庫には重すぎる。着替える暇がなかったのだ。祭りの式典から戻り、侍女を下がらせ、そのままここへ来た。

 十七年のあいだに、王国は教会へ四万二千の星屑を納めた。

 教会の台帳には、それが一粒も入ってきていない。

 入ってきていないものは、出ていくこともない。だから、異動なし。帳簿の上では、何ひとつ嘘はついていない。ただ、岸の片方が、そこに川が流れていたことを認めていないだけだ。


 ——王国軍の全部より多い。


 それがどこへ行ったのか。

 答えの候補は、いくつか浮かんだ。どれも、口に出せば首が飛ぶ種類のものだった。

 一つ。教会が、国外へ売った。

 ありえなくはない。自由都市カルネイアの商人たちは、星屑一粒のために母親の墓を掘り返すと言われている。だが、四万粒である。拳級で四万。それだけの量が十七年かけて国境を越えれば、どこかの関所の記録に、どこかの港の荷揚げ帳に、必ず澱のように溜まる。セラフィナは関所の記録も港の記録も読んでいた。澱はなかった。

 二つ。教会が、使った。

 何に。四万の星屑を使えば、要塞が三つ建つ。あるいは、辺境の小国をひとつ消せる。そんな規模の詠紋が十七年のあいだに行使されたのなら、誰かが見ているはずだ。大地が焼けるか、城が浮くか、空の色が変わるか。王国のどこにも、そういう噂はなかった。

 三つ。最初から、無かった。

 国庫は奉納したと書き、教会は受け取らなかったと書く。そのどちらかが嘘なら、話は簡単だ。だが、国庫の出納簿には各年の奉納ごとに、運搬した荷車の数と、護衛の騎士の名と、受領した司祭の署名が添えられている。司祭の署名はある。受け取った者がいるのだ。受け取った者がいて、受け取ったものが台帳に載っていない。

 どの候補も、途中で道が途切れた。

 途切れた道の先に何があるのかは、書庫のどの棚にも書かれていなかった。

 セラフィナは、自分が少し笑っていることに気づいた。

 笑っているのは、口の端だけだった。可笑しいわけではない。ただ、十年かけて読み尽くしたと思っていた書庫に、まだ読んでいない頁があった。それも、書かれていないという形で。

 三度目の縁談を破談にしたときも、同じように口の端だけで笑った覚えがある。相手は南部の伯爵家の嫡男で、領地の小麦の収量を三年続けて水増しして王家に報告していた。穀物倉の寸法と、年ごとの雨量と、伯爵家が買い入れた麻袋の数を突き合わせれば、半日で分かることだった。誰も突き合わせなかったのは、誰も三番目の娘の婚約者に興味がなかったからだ。

 あのときは、数字の嘘が、彼女を救った。

 今度の数字は、何を救い、何を壊すのか。

 セラフィナは、左の鎖骨の下に指を当てた。

 ドレスの布越しに、そこだけがわずかに冷たい。

 誰にも見せたことのない紋が、そこにある。十四のとき、書庫の奥で見つけた古い詠紋の手引書を頼りに、自分で刻んだものだ。鏡の前で、左手に針を持ち、右手で燭台を掲げて、一晩かかった。刻み終えたとき、彼女は泣いていたらしい。らしい、というのは、翌朝枕が濡れていたのを見て初めてそう思ったからで、刻んでいる最中に自分が何を感じていたのか、彼女は今でもよく分からない。

 紋名、静穽。

 半径数歩の音を、完全に消す。

 それだけの紋である。炎も出なければ、刃も生まない。けれど王宮という場所では、誰にも聞かれずに話せるということは、それだけで剣より重い。

 彼女は今、その紋を使っていなかった。夜の書庫に聞き耳を立てる者はいない。いたとしても、紙をめくる音しか聞こえないはずだ。

 それでも、指がそこへ行った。

 不安になると触れる癖が、いつの間にかついていた。そして触れるたびに、冷たい範囲が去年より少しだけ広がっている気がする。気がするだけだ、と自分に言い聞かせる癖も、同じころについた。

 セラフィナは指を離し、反故紙を丁寧に四つに折った。


          ◆


 書庫を出る前に、彼女はもう一つだけ、机の端に置いてあった書類に目を通した。

 夕刻に財務局から回ってきた、教会の事故報告書の写しである。王族の署名が要る書類ではない。ただ、星屑に関わる報告はすべて写しを書庫へ回すよう、三年前にセラフィナが目録係に頼んでおいたのだ。頼んだ理由を訊かれたので、「整理が好きなのです」と答えた。目録係はそれで納得した。三番目の王女が整理好きであることは、誰の脅威にもならない。


 ——本日、下街の中継所において、封印の経年劣化による星屑の漏出事故が発生。銀環騎士団団長代理アルディス・フェンマールが居合わせ、これを制圧。負傷者十一名、死者なし。


 短い報告だった。短すぎる、と彼女は思った。

 教会の報告書は、普段はもっと長い。誰がどの封蝋を確認し、どの司祭が立ち会い、どの聖句で浄めたかを、うんざりするほど書き連ねる。長く書くのは、責任を細かく分けるためだ。責任は、細かく分ければ分けるほど、誰のものでもなくなる。

 それをしていない。

 つまりこの報告書は、責任を分ける必要がないと考えている。誰にも問われない、と最初から分かっている書き方だった。

 セラフィナは、頁の末尾を見た。

 署名が二つあった。一つは司祭補カスパー・レーム。整った、神学校で習ったとおりの書体。

 もう一つが、アルディス・フェンマール。

 彼女は、燭台を引き寄せた。

 アルディスの字なら、知っている。護衛の交代の記録、謁見の申請、年に二度の騎士団の報告。どれも少し右へ傾いた、硬い字だ。一画ごとに力が入りすぎていて、紙の裏に跡が残る。嘘をつけない人間の字だ、と初めて見たときに思った。

 この署名は、傾いていなかった。

 むしろ左へ崩れていた。線が震え、「フ」の字の払いが途中で止まり、最後の「ル」は判読がやっとだった。紙の裏をなぞってみても、跡は残っていない。力が入っていないのだ。

 右手で書いたものではなかった。

 セラフィナは、しばらくその署名を見ていた。

 それから、報告書の本文をもう一度読んだ。負傷者十一名。死者なし。団長代理が制圧。

 どこにも、彼の右腕のことは書かれていなかった。書かれていないのだから、何も起きていない。帳簿と同じだ。異動なし。

 彼女は、署名の歪みを指でなぞった。

 そうしたら、胸の奥で何かが一度、小さく跳ねた。

 それが何であるのか、彼女には分からなかった。怒りのような気もしたし、恐れのような気もしたし、まったく別の、名前のつけられない何かのような気もした。感情を顔に出さない訓練を十年続けてきた結果、彼女はときどき、顔に出さないだけでなく、自分の中でも名札をつけ損ねるようになっていた。

 分からないものは、分からないまま棚に置いておく。

 それも、書庫で覚えたことだった。

 ただ、一つだけ、分かることがあった。

 あの人は、この署名を書くとき、何も言わなかったはずだ。右手が動かないことも、報告書の文面が事実と違うことも。言わずに、左手で、歪んだ字を書いた。一画ごとに、紙の上で一拍ずつ止まりながら。

 護衛として彼が隣を歩くとき、セラフィナはいつも、その一拍を聞いている。命令と正しさが食い違ったときに、彼の足が半歩だけ遅れる、あの間を。

 この署名には、その間が、字の数だけあった。

 セラフィナは報告書を閉じ、四つに折った反故紙と一緒に、ドレスの隠しに入れた。

 燭台を吹き消すと、書庫は完全な闇になった。

 闇の中で、紙魚が這い、梁が軋み、どこかでまた一枚、頁が落ちた。

 彼女は、それらの音を聞きながら、自分の足音だけは立てずに書庫を出た。


セラフィナ・ヴェルディナ


年齢: 19

所属: 聖王国ヴェルディナ王家

肩書き: 第三王女

外見: 淡い金髪を編み上げ、常に完璧に整えている。琥珀色の目。小柄で、公務用のドレスの重さにいつも密かに閉口している。左の鎖骨の下に、誰にも見せていない紋が一つある。

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