第1章「掏り取られた匣」/三 存在しない匣
星屑が降るのに、四十を数えるほどの時間がかかった。
支えを失った星屑は、石のようには落ちない。水に落とした灰のように、ためらいながら、揺れながら、少しずつ高度を下げてくる。その四十数える時間が、アルディスに与えられた全部だった。
彼は水路の石橋を渡り、通りの人垣に突っ込んだ。
「散れ! 上を見るな! 走れ!」
叫んだが、誰も動かなかった。人は、空に光るものがあると見上げる。見上げて、綺麗だと思う。危険であると理解するのは、その後だ。
だから彼は、押した。
言葉ではなく、身体で押した。左腕で人垣の背中を突き、路地の口へ、露店の下へ、開いている扉の中へ、片端から押し込んでいった。抗議の声が上がり、誰かが彼の外套を掴んで罵り、女がひとり転んだ。転んだ女を左腕で引き起こし、また押した。
押しながら、右腕を上げた。
銀環。
外さない紋。狙った一点へ、必ず届く紋。
だが、狙うべき一点が三十以上ある。
彼は光の環を編んだ。剣を抜き、抜いた刃の上に環を重ね、それを空へ向けた。環は彼の意志を離れて既に生まれ続けていた。腕の紋が、降ってくる星屑に呼応して、勝手に共鳴している。
その暴走を、彼は初めて利用した。
剣を振った。
軌道が修正される。一つ目の星屑へ。届く。刃が触れた瞬間、星屑は軌道を変え、屋根の上へ弾かれた。
二つ目。振る。届く。
三つ目。四つ目。
五つ目で、右腕の感覚が完全に消えた。
肘から先が、他人の腕になった。動いているのは見える。剣を握っているのも見える。だが、握っているという実感がどこにもない。
六つ目。
七つ目。
八つ——
「アルディスさん!」
声が、人垣の向こうから飛んできた。
砂色の癖毛が、人の頭の隙間を縫って走ってくる。合っていない鎧が、走るたびに肩で跳ねている。リュカ・ノーレンは、詰所へ走らせたはずの少年は、両腕に何かを抱えていた。
油布だった。露店の日除けだ。どこかから引き剥がしてきたらしい。
「こっち! 婆ちゃんたちこっち!」
少年は叫びながら、油布を人垣の上へ広げた。
愚かな判断である。油布で星屑を防げるわけがない。触れれば布ごと透ける。
だが、人は動いた。
布の下に入れと言われれば、人は入る。空を見上げていた人垣が、初めて自分の足で移動を始めた。露店の陰へ、軒の下へ、油布の下へ。
「馬鹿が」
アルディスは呟いた。九つ目の星屑を弾きながら。
それから、彼は笑っていた。自分でも気づかないうちに、口の端が上がっていた。
最後の一つが屋根へ弾かれたとき、彼の右腕はもう上がらなかった。
剣が石畳に落ちた。乾いた音がした。
それから、静かになった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて、露店の親父が、恐る恐る空を見上げた。何もない。朝の空があるだけだった。
その親父が、最初に手を叩いた。
二人目、三人目。音は波になり、通りの端まで広がっていった。歓声が上がり、誰かが「銀環だ」と叫び、その叫びが繰り返され、増幅されていった。
アルディスは、それを聞きながら、剣を拾おうとして失敗した。右手の指が閉じなかった。
左手で拾った。
鞘に納めるのに、三度かかった。
◆
負傷者は、十一名だった。
うち九名は、押し合いによる打撲と擦り傷である。転倒した際に腕を折った者がひとり。
そして、ひとり。
布を運んでいた油屋の下働きが、弾かれた星屑の破片に、左の頬を掠められていた。
少年である。十四か、十五か。頬の、掠められた部分だけが、透き通っていた。
アルディスがその場に着いたとき、少年は泣いていなかった。むしろ、心配そうに周りを見回していた。自分が何をされたのかを、まだ理解していない顔だった。
「痛みは」
アルディスは膝をついて訊いた。
「……ないです。冷たいだけで」
「そうか」
そうか、と彼は言った。それ以上の言葉が出なかった。
痛みがない。それが一番、悪い兆候である。
「アルディスさん」
背後でリュカが言った。声が震えていた。
「これ……治りますよね」
アルディスは、答えなかった。
同じ問いを、今朝すでに一度、投げつけられていた。透けた指を持つ、耳たぶのない少年から。
あのときも、彼は答えなかった。
そして、その一拍のあいだに、光が膨らんだのだ。
「……団長代理どの」
カスパー・レーム司祭補が、人垣を掻き分けて到着した。
白い外套は乱れていない。息も切れていない。彼は騒ぎの現場ではなく、荷車のそばに留まっていたのだろう。それが職務として正しいのかどうか、アルディスには判断がつかなかった。
カスパーは、地面の少年を見た。透けた頬を見た。
そして、顔を背けた。
「負傷者は、教会の療養院へ移送します。費用は教会が持ちます」
「ありがたい」
「その代わり」
司祭補は、声の高さを一段下げた。
「本日の報告書について、確認させていただきたい」
アルディスは立ち上がった。
右手はまだ動かない。左手で外套の埃を払った。
「確認とは」
「本日、下街の中継所において、封印の経年劣化による星屑の漏出事故が発生しました。銀環騎士団の団長代理どのが居合わせ、これを制圧。負傷者十一名、死者なし。……以上です」
通りの音が、遠くなった気がした。
露店の親父の声も、拍手の余韻も、赤子の泣き声も、すべてが薄い膜の向こうへ退いていく。
「聖遺輸送は」
アルディスは言った。
「予定通り、南棟へ到着します」
「三台目の左側面は」
「封蝋に異常はありませんでした」
「私は自分の手を突っ込んだ」
「団長代理どの」
カスパーは、初めてアルディスの目を見た。
その目には、悪意も、傲慢も、なかった。あるのは疲労と、恐怖と、そしてもう決まってしまった手続きへの諦めだけだった。
「あの匣は、存在しません」
彼は言った。
「元から、記録がないのです。積荷目録にも、封蝋台帳にも、聖遺登録簿にも。存在しないものは、盗まれません。盗まれていないものを、我々は探せません」
「では、あの少年の指は何だ」
「どの少年です」
「掏った少年だ。指先が結晶化していた。今朝、触れた瞬間からだと言った」
「団長代理どの」
カスパーは、ゆっくりと首を振った。
「その少年も、存在しません」
◆
行列が動き出したのは、それから半刻後のことである。
騾馬が嘶き、鈴が鳴り、白木の箱車が三台、白砂の上を進んでいく。民は道の両脇に並び、幾人かは膝をついて祈った。何事もなかったかのように、聖遷祭は続いた。
アルディスは、隊列の先頭に戻された。
右手は、まだ動かなかった。手甲の下で、指がどこにあるのかも分からない。だが外套の下に隠していれば、誰も気づかない。英雄は片手が動かなくても英雄である。
リュカが、横に並んだ。
今朝からずっと走り続けていたはずの少年は、しかし息を切らしていなかった。ただ、顔が青かった。
「アルディスさん」
「なんだ」
「あの司祭補の人、嘘をついてますよね」
アルディスは、前を見たまま歩いた。
白砂。騾馬の尻。金泥の聖句。魔除けの鈴。
「訊くな、と言ったな」
「はい」
「あれは撤回する」
リュカが、隣で息を呑んだ気配があった。
「いいか、リュカ。教会は嘘をついていない」
「え」
「嘘をつくには、まず事実を認めなければならない。認めた上で、別のことを言うのが嘘だ。あの男がやっているのは、そうではない」
アルディスは、自分の右腕を見下ろした。
黒い手甲。その下の、感覚のない肘から先。三年、と秤の術師は言った。今朝、その三年から何ヶ月かが確実に削れた。
「あの男は、事実を作り直した。記録がなければ、存在しなかったことになる。存在しなかったものは、誰も探さない。誰も探さなければ、誰も責任を取らない」
「……でも、あの油屋の子は」
「そうだ」
アルディスは頷いた。
「あの子の頬は、記録に載らないまま、透き通ったままだ」
行列が、通りの角を曲がった。
下街の屋根が、朝の光を跳ね返していた。あの屋根のどこかに、彼が弾いた星屑がまだ転がっているはずだ。誰かが拾うだろう。拾って、売るだろう。売った金で、薬を買うだろう。透き通ったものを元に戻しはしない、ただ濁りを薄めて、進みを遅らせるだけの薬を。それでも、星蝕を抱えた者が手を伸ばせるものは、その薬しかない。
そしてその薬を作るための星屑は、教会が独占している。
輪だ、と彼は思った。
どこにも切れ目のない、閉じた輪。
「アルディスさん」
リュカが、まっすぐ前を見たまま言った。
「僕、字を書くのが遅いんです」
「知っている」
「でも、書きます。今日のこと、全部書きます。あの子の名前も、いま聞いてきました。ミハエルっていうんです。油屋のミハエル。十四歳です」
アルディスは、少年の横顔を見た。
そばかす。まだ声変わりの済んでいない喉。合っていない鎧。
まっすぐで、疑うことを知らない目。
——それは美徳だ。
そして、この王都において、最も危険な資質でもある。
「リュカ」
「はい」
「その紙は、誰にも見せるな。俺にも見せなくていい。ただ、書いて、隠しておけ」
「……分かりました」
少年は頷いた。理由を訊かなかった。訊かないという判断ができるくらいには、この半日で何かを学んだらしい。
アルディスは、それを喜ぶべきかどうか分からなかった。
◆
その日の夕刻、聖遺は無事に南棟へ収められた。
報告書は、カスパー・レーム司祭補が読み上げた通りの文面で提出された。封印の経年劣化。漏出事故。負傷者十一名。死者なし。銀環騎士団団長代理アルディス・フェンマールの働きにより、被害は最小限に留まった。
書類の末尾に、アルディスは署名を求められた。
右手が動かなかったので、左手で書いた。
字は、ひどく歪んでいた。
◆
同じ頃、下街の南の外れ。
水路が街の外へ抜ける、その暗渠の入口で、テオ・ブランシュは自分の右手を見つめていた。
人差し指と、中指。第一関節から先。
朝には二本だった。
夕方には、薬指の先も、白く濁りはじめていた。
彼は懐から布包みを取り出した。中身を確かめるのは、これで六度目である。六度とも、確かめないほうがいいと分かっていて、確かめた。
掌ほどの、黒い匣だった。
金属でも、石でも、木でもない。表面には細かい紋様が刻まれている。テオは字が読めないが、紋様が字ではないことくらいは分かる。渦。線。点。それが層になって重なっている。
彼が下街で見たことのある紋は、どれも人の肌に彫られていた。あるいは剣に、盾に、扉に。
この紋様は、そのどれにも似ていなかった。
もっと古いもの、という気がした。理由は説明できない。
「……売れねえよな、これ」
テオは呟いた。
誰も聞いていない。暗渠の水が流れる音だけがしていた。
星屑なら、売れた。いや、売るつもりもなかった。雫級を、一掴み。それを砕いて、水に溶いて、姉貴に飲ませるつもりだった。
カルネイアの蝋燭屋の三階で、姉貴は朝と晩に、硝子瓶から一口ずつ薬を飲む。飲んで四半刻もすると、喉の透けたところの縁の、霜みたいな白い濁りが、すうっと薄くなる。掠れていた声が、少しだけ戻る。テオは、それを何度も横で見てきた。
透けたところが、肌に戻ったことは、一度もない。
薬は、治すものじゃない。濁りを薄めて、進みを遅らせるだけのものだ。それでも、飲まなければ、霜は毎日、少しずつ外へ広がっていく。去年は紋の縁だけだったのが、いまは喉を横切りかけている。そして、その薬を買う金を稼ぐために、姉貴は客の前で喉を使う。使えば、また霜が広がる。
だから、一掴み欲しかった。半年、姉貴が喉を使わずに済む分だけ。
手に入ったのは、星屑じゃなかった。
カルミラの元締めのところへ持っていけば、たぶん値はつく。だが、値をつけられた瞬間、自分がどうなるかも分かっている。この匣を持っていた人間は、この匣ごと消える。
姉貴のところへ持っていくしかない、と彼は思った。
カルネイアまで、歩いて十二日。舟なら六日。舟賃は、いま持っている全財産の三倍。
彼は透けた指で、匣を布に包み直した。
包み終えたとき、指先が布に引っかかった。感覚がないので、力の加減が分からない。布が裂けた。
テオ・ブランシュは、しばらくその裂け目を見ていた。
今朝、路地で自分を壁に押しつけた騎士の顔を思い出した。
あの男は、答えなかった。治るのかと訊いたのに、答えなかった。
嘘をつくことも、慰めることもせずに、ただ黙った。
——たぶん、あれが答えだったんだろうな。
姉貴の喉が、そうであるように。
彼は裂けた布のまま匣を懐へ押し込み、暗渠の暗がりへ歩き出した。
アルディス・フェンマール
年齢: 28
所属: 聖王国ヴェルディナ/銀環騎士団
肩書き: 団長代理
外見: 黒みがかった栗色の短髪、灰青の目。長身だが筋肉質というより刃物のような細さ。右腕の肘から先が薄い水晶色に変質しており、常に黒い手甲で隠している。祭礼用の白銀の外套は、式典以外では面倒がって着ない。
リュカ・ノーレン
年齢: 16
所属: 聖王国ヴェルディナ/銀環騎士団
肩書き: 従者見習い
外見: 砂色の癖毛、そばかす。まだ声変わりが済んでいない。支給された鎧が大きすぎて、袖を折って着ている。いつも何かを抱えて走っている。
テオ・ブランシュ
年齢: 18
外見: くすんだ金髪、痩せた頬、異様に長い指。動きが猫のようで、狭い場所を通るのが得意。片方の耳たぶがない(過去に捕まったときに削がれた)。人懐こい笑顔を武器にしている。




