第1章「掏り取られた匣」/二 細路の追跡
下街の路地は、地図に載っていない。
載せようとした役人が過去に三人いて、三人とも途中で諦めた記録が残っている。家が増えれば路地は狭まり、家が焼ければ路地は生まれる。持ち主のいない土地に誰かが小屋を建て、その小屋と隣の壁の隙間が、いつのまにか道と呼ばれるようになる。下街とは、そういう場所だった。
アルディスは、乾物屋の脇の口へ身体を滑り込ませた。
肩幅がぎりぎりだった。白い外套が両側の壁に擦れ、金の刺繍が糸を引いて剥がれる。頭上には洗濯物が渡され、朝の光が斑になって落ちてくる。足元には泥と生ゴミと、名前をつけたくない何かが溜まっていた。
三歩進んで、彼は足を止めた。
路地は、そこで三又に分かれていた。
左は下りの階段。正面は洗濯物の下をくぐる直進。右は水路沿いへ抜ける細道。
選ぶ材料がない。
いや——
彼は屈み込んだ。泥の上に、足跡がある。ひとつではない。無数にある。この路地を今朝だけで何十人が通ったか分からない。
だが、そのうちの一組だけが、他と違っていた。
踵が浅い。爪先が深い。歩幅が広い。
走った跡だ。しかも、逃げ慣れた者の走り方だった。逃げ慣れていない者は、足を地面に叩きつけるように走る。逃げ慣れた者は、地面を後ろへ蹴る。
その跡は、右へ折れていた。
アルディスは走り出した。
三軒目の戸口で、老婆が桶を持って出てきた。彼女はアルディスの白い外套を見て、それから彼の顔を見て、そのまま桶を路地の真ん中に置いた。
わざとだった。
アルディスは桶を跨いだ。
「そっちは行き止まりだよ」
老婆が背中に声を投げた。
「嘘だ」
彼は振り返らずに答えた。
「そうかい。ならお行き」
悪意ではない。下街とはそういう場所だ。役人が追う者は、たいてい下街の人間である。追う側に道を教える理由がない。教会が星屑を独占し、星蝕の薬が金貨十枚になり、その金貨十枚を作れない人間がこの路地に住んでいる。それだけの、単純な算術だった。
彼は、その算術の側に立っている。
外套を着ている限り、どう言い訳しても。
右の細道は、緩やかに下っている。壁の高さが不揃いで、日の当たる面と当たらない面が交互に流れていく。どこかで赤子が泣いていた。どこかで女が誰かを罵っていた。生活の音が、走る彼の耳の横を後ろへ流れていく。
角をひとつ曲がった。
いた。
二十歩ほど先。細道の先が水路の石垣に突き当たる、その手前。
くすんだ金髪の少年が、走っていた。
背は高くない。痩せている。走り方は、まるで路地そのものと契約を結んでいるかのようだった。曲がり角の手前で速度を落とさない。壁に片手をついて、その反動で身体を折り曲げるように方向を変える。無駄がない。
「止まれ!」
アルディスは叫んだ。
止まるはずがないと知っていて叫んだ。だが、叫ばねばならない。これは追跡ではなく職務であり、職務には手順がある。呼びかけずに追えば、それは狩りになってしまう。
少年は振り返らなかった。ただ、その背中が一瞬だけ強張るのが見えた。
次の瞬間、少年は跳んだ。
水路の石垣に足をかけ、そこから隣家の庇へ。庇の縁に指をかけ、身体を持ち上げる。長い指だった。異様に長い。その指が、瓦の縁を掴む。
屋根へ上がるつもりだ。
アルディスは舌打ちしたい衝動を飲み込んだ。屋根に上がられれば終わりである。下街の屋根は隣家と接し、そのまた隣家と接している。屋根伝いに三区画も走られれば、地上の追手は完全に見失う。
彼は速度を上げた。
石垣まで十歩。八歩。五歩。
少年の身体が、庇の上へ引き上げられていく。
届かない。
——ならば。
アルディスは、右腕を上げた。
黒い手甲の下、肘から手首にかけて刻まれた環状の紋が、皮膚の下で熱を持つ。熱、というのも正確ではない。熱の記憶のようなものだ。感覚を失いつつある腕が、それでも「ここに紋がある」と主張してくる、そのざらついた圧。
彼は腰の剣に手をかけた。抜かない。抜かずに、鞘のまま。
銀環。
紋の名を、口に出さずに呼んだ。
剣の周囲に、細い光の環が生まれた。輪郭のはっきりしない、水面に浮かぶ油膜のような光である。それが鞘に沿って走り、切っ先の方向を指し示した。
銀環は、外さない。
斬撃の軌道を強制的に修正する紋である。狙った一点へ、刃が必ず届く。
だが、いま彼が狙ったのは少年ではなかった。
彼は鞘ごと剣を抜き、投げた。
銀色の光の環が、投擲の軌道を曲げた。剣は空中で一度上へ跳ね、それから庇の支柱——少年が体重を預けている、その一本——の根元へ吸い込まれるように飛んだ。
乾いた音がした。
支柱が折れたわけではない。剣の鞘が支柱を叩き、庇全体が数寸だけ揺れたのだ。それで十分だった。
少年の指が、瓦から滑った。
「——っ!」
落ちた。
背中から水路の石垣に叩きつけられ、そのまま細道の泥の上へ転がる。少年は一瞬だけ動きを止め、それから、驚くべき速さで四つん這いになった。
アルディスは、その上に到達していた。
左手で少年の襟首を掴み、壁へ押しつける。少年の身体は驚くほど軽かった。骨と皮しかない。押しつけた瞬間、その肩甲骨が掌に食い込むのが分かった。
「動くな」
アルディスは言った。息が上がっていた。
少年は暴れなかった。暴れる代わりに、笑った。
「……いてぇ」
軽い声だった。恐怖の色が、驚くほど薄い。
「あんた、騎士だろ。騎士が、庇を壊すのかよ」
「壊していない。揺らしただけだ」
「それ、屋根屋に言ってくれよ。あの庇、婆さんの家のなんだ」
アルディスは、束の間、返す言葉を失った。
少年は続けた。息を切らしながら、それでも軽い調子を崩さずに。
「修理代、あんた持ちな。銀環騎士団様なら、そのくらい——」
「匣を出せ」
少年の口が止まった。
薄く笑ったままの表情が、そのまま凍る。目だけが動いた。左へ、右へ。逃げ道を探す目ではない。
言い逃れを探す目だ。
「……匣って、なんの話だよ」
「聖遺輸送の三台目、左側面の開口部。封蝋が切られていた。断面は新しい。切ったのは、この四半刻以内だ」
「知らねえよ」
「お前の指」
アルディスは、少年の右手首を掴んだ。
少年が初めて抵抗した。腕を引き、身をよじり、蹴りを放とうとした。だがアルディスの掌はその手首を離さなかった。
そして、少年の右手が、光の下に引き出された。
アルディスは、そこで動きを止めた。
人差し指と中指の、第一関節から先。
透けていた。
肉が透けているのではない。爪も、皮膚も、指紋の渦も、すべてがそのままの形で——水晶に変わっていた。朝の斑な光が指先を通り抜け、泥の上に、小さく歪んだ光の点を落としている。
「……星蝕か」
アルディスは呟いた。
だが、違う。
星蝕は、詠紋を刻んだ者が、その紋を使った代償として結晶化していく病である。紋のある場所から始まり、時間をかけて広がる。数年、あるいは十数年をかけて。
この少年の指先は、そういう広がり方をしていない。
まるで、たった今、そこだけを切り取って別のものに置き換えたようだった。
「離せよ」
少年の声から、軽さが消えていた。
「離せって言ってんだろ!」
「これは、いつからだ」
「知らねえ」
「いつからだと訊いている」
「……今朝!」
少年は叫んだ。
「今朝からだよ! あんたらの荷車に手ぇ突っ込んだ、その瞬間からだ! ちくしょう、あんな石ころ、触っただけだぞ! 掴んじゃいねえ! 布越しに、こう、指の先が触れただけだ!」
アルディスの掌の中で、少年の手首が震えていた。
軽口も、笑いも、削がれた耳たぶも、すべてが剥がれ落ちて、残っていたのは怯えだった。当たり前の、十八歳の怯えだった。
「……治るのかよ、これ」
少年は言った。
「なあ。あんた、騎士だろ。教会の連中と一緒に歩いてただろ。知ってるんだろ。これ、治るのかよ」
アルディスは、答えなかった。
答えるべき言葉が思いつかなかったのではない。
思いついた言葉が、嘘か、あるいは残酷かのどちらかしかなかったからだ。
その一拍。
その、いつもの一拍を、彼は自分の中で聞いた。
そして、その一拍のあいだに——
少年の懐が、光った。
最初は、蛍のような小さな点だった。
外套の内側、心臓の位置。そこから薄紫の光が滲み出し、布地の織り目を透かして広がっていく。
「……なんだ、これ」
少年が自分の胸を見下ろした。
「なんだこれ! 熱っ——」
アルディスは反射的に少年を突き飛ばした。自分から遠ざけるためではない。壁から引き剥がすためだった。
次の瞬間、光が膨らんだ。
音はしなかった。
衝撃もなかった。
ただ、世界の色が、一段階だけ薄くなった。
薄紫の光が路地を満たし、壁も、泥も、洗濯物も、すべてが同じ色に染まった。アルディスの視界の中で、遠近感が消えた。二十歩先の水路と、目の前の少年の顔が、同じ距離にあるように見えた。
そして、右腕が痛んだ。
感覚を失っていたはずの右腕が、久しく忘れていた鋭さで痛んだ。肘から先の紋が、勝手に発動しようとしている。制御を離れて、光に呼応して、環を編もうとしている。
「——止まれ」
アルディスは、自分の腕に命じた。
紋は従わなかった。
銀色の環が、右腕から勝手に生まれ、空中で四つ、五つと連なった。それは彼の意志ではなく、彼の腕が周囲の何かに引きずられて起きている現象だった。
そのとき、彼は聞いた。
路地の向こう、水路を挟んだ先。下街の中継所——教会が街の各所に置いている、小さな星屑の保管所。その方角から、硝子が一斉に割れるような音が響いた。
いや、硝子ではない。
封印だ。
封じられていた星屑が、いま、一斉に解けている。
「うわああっ!」
悲鳴が上がった。ひとつではない。十、二十、それ以上。祭りの通りの方角から、人の声の塊が押し寄せてくる。
薄紫の光が退いていく。世界の色が戻ってくる。
そして、色が戻りきったとき——
水路の向こう、家々の屋根の上に、無数の光の粒が浮かんでいた。
星屑だった。封印を解かれ、支えを失い、地上へ降ろうとしている、剥き出しの星屑だった。
その真下に、人がいる。
祭りの人垣が、そのままそこにいる。
剥き出しの星屑が人の身体に触れれば何が起きるか、アルディスは知っていた。二年前の辺境で、彼はそれを三度見ている。三度とも、間に合わなかった。触れた者の皮膚は、触れた形のまま透き通り、その透き通った部分から先が、痛みを感じないまま動かなくなる。子どもの場合は、早い。
いま屋根の上に浮かんでいる粒の数は、三十では利かない。
それが降りる。
通りには、朝から焼き菓子を売っていた親父がいる。誰かの足を踏んだ子どもがいる。悲鳴のような笑い声を上げていた女がいる。倍額で払えとリュカに言った、あの六枚の串を焼いた者がいる。
アルディスは、右手の少年を見た。
少年は、水路沿いの細道を、既に十歩ほど走り出していた。振り返っていた。透けた指を胸に押し当てて、こちらを見ていた。
その顔に、勝ち誇った色はなかった。
あったのは、ただの怯えと——それから、なぜか、ひどく申し訳なさそうな何かだった。
アルディスは、選んだ。
一拍の、半分もかからなかった。
彼は少年に背を向け、水路へ向かって走った。
右腕が、勝手に環を編み続けていた。
一つ、二つ、三つ。数えるのは後にすると決めていたのに、今日はどうしても数が耳に入ってくる。この腕であと何度これができるのか、その答えを持っているのは宮廷の術師と、彼女が使う秤の紋だけだ。
背後で、細道を蹴る足音が遠ざかっていった。
それでいい、と彼は思った。
それでいい。あの匣が何であれ、いま屋根の上にあるものより重いはずがない。
アルディス・フェンマール
年齢: 28
所属: 聖王国ヴェルディナ/銀環騎士団
肩書き: 団長代理
外見: 黒みがかった栗色の短髪、灰青の目。長身だが筋肉質というより刃物のような細さ。右腕の肘から先が薄い水晶色に変質しており、常に黒い手甲で隠している。祭礼用の白銀の外套は、式典以外では面倒がって着ない。
リュカ・ノーレン
年齢: 16
所属: 聖王国ヴェルディナ/銀環騎士団
肩書き: 従者見習い
外見: 砂色の癖毛、そばかす。まだ声変わりが済んでいない。支給された鎧が大きすぎて、袖を折って着ている。いつも何かを抱えて走っている。




