第1章「掏り取られた匣」/一 聖遷の護衛
聖遷祭の朝は、王都ヴェルディナの下街にとって年に一度の稼ぎ時である。
石畳は昨夜のうちに撒かれた白砂で覆われ、両脇には露店が肩を寄せ合って並んでいた。焼いた腸詰の脂の匂い、安酒の酸い匂い、香を焚く匂い、そして人の匂い。それらが朝の湿った空気に溶けて、道の底に溜まっている。露店の親父が銅鑼を叩き、子どもが誰かの足を踏み、女が悲鳴のような笑い声を上げた。
その雑踏の中央を、白い列がゆっくりと進んでいく。
聖典教会の輸送隊だった。八頭立ての騾馬が引く箱車が三台。車体は白木に金泥で聖句が書かれ、車輪の軸には魔除けの鈴が下がっている。前後を固めるのは教会付きの衛士が十二名、そして——
「団長代理どの。もう少し前へお願いします。民が近すぎます」
声をかけてきたのは、輸送隊を監督する司祭補だった。名をカスパー・レーム。三十路手前の、青白い、細い男である。祭礼用の白い外套の襟を几帳面に正しながら、彼はアルディス・フェンマールを見上げた。見上げるといっても、アルディスの方が頭半分ほど高いだけのことだ。
「近いのは、道が狭いからだ」
アルディスはそう答えた。
実際、道は狭かった。下街の目抜き通りは、そもそも祭礼行列を通すために作られてはいない。両側の露店を撤去させれば話は早いが、聖遷祭の朝に露店を出せないとなれば、下街の半年分の実入りが消える。教会は毎年それを検討し、毎年見送ってきた。要するに、民の恨みを買いたくないのである。
「ですが、規定では聖遺の周囲十歩は——」
「十歩空けたら、行列が動かん」
カスパーは口をつぐんだ。それから、聞こえよがしにため息をついて、白い手袋の指で自分のこめかみを押さえた。
「銀環騎士団は、こういう任務に慣れておられないのですね」
嫌味である。それも、かなり出来のいい嫌味だった。
銀環騎士団は、王国最古の騎士団のひとつである。北方戦役では王旗を守り、三峠の役では殿軍を務めた。その騎士団の団長代理が、祭礼の日に教会の荷車の横を歩いている。それがどういう意味を持つのかを、この司祭補は正確に理解した上で口にしている。
アルディスは答えなかった。答えるべき言葉が思いつかなかったからではない。思いついた言葉が、どれも自分を惨めにするものばかりだったからだ。
代わりに彼は、行列の後方を振り返った。
「リュカ」
「はいっ」
返事だけは早い。
人垣の隙間から、砂色の癖毛の頭が飛び出してきた。従者見習いのリュカ・ノーレンである。十六歳。支給された鎧は明らかに身体に合っておらず、肩当てが動くたびに首をこすっている。両腕に、何かの束を抱えていた。
「それは何だ」
「あ、これは、その、露店の方が……騎士様に、と」
見れば、串に刺した焼き菓子の束である。まだ湯気が立っている。
カスパー司祭補の眉が、はっきりと上がった。
「従者。祭礼中の受け取りは——」
「頂いておけ」
アルディスが遮った。
「ただし、後で代金を払え。倍額でだ。いいな」
「え、あ、はい。倍額……えっと、じゅう、二十枚?」
「十二枚だ。六枚の倍は十二だ」
「あっ、はい! すみません!」
リュカは真っ赤になって、菓子の束を抱え直した。カスパーは何か言いたげに口を開いたが、結局は何も言わずに前へ向き直った。おそらく、「倍額で払う」と言われてしまえば、規定違反を指摘する足場がなくなるのだろう。教会という組織は、そういう理屈の立て方に弱い。
リュカが小走りに横に並んだ。菓子の匂いが、香の匂いを押しのけて漂ってくる。
「あの、アルディス様」
「様はいい。何度も言っている」
「……アルディスさん。この荷車、何が入ってるんですか」
アルディスは前を見たまま答えた。
「聖遺だ」
「はい、それは聞きました。でも、その、聖遺って、星屑のことですよね。星屑なら、聖都の管理局にもう山ほど……」
「リュカ」
彼は声を落とした。
「訊くな。それが答えだ」
少年は口をつぐんだ。それから、ゆっくりと肩を落とした。
アルディス自身、荷車の中身を知らされていない。護衛の任務書には「聖遺三箱、聖遷祭に伴い管理局北棟より南棟へ移送」としか書かれていなかった。北棟から南棟まで、直線距離ならば街を突っ切って半里もない。それをわざわざ下街の目抜き通りを大回りさせているのは、民に「聖遺は教会が守っている」という光景を見せるためだ。
つまりこれは、輸送ではない。行進である。
そして行進の護衛に王国最古の騎士団の団長代理を引っ張り出すこともまた、輸送とは何の関係もない。二年前に「英雄」と呼ばれてしまった男を、教会の隊列の横に立たせておく。それだけで、教会と騎士団は同じ方を向いている、という絵になる。
アルディスは、自分がその絵の一部であることを知っていた。知った上で、ここに立っている。
——それが一番、性質が悪い。
彼は無意識に右腕をさすった。
黒い手甲の下、肘から先の感触が、いつもより遠い。指を握ったつもりでも、握ったという実感が一拍遅れて届く。まるで、厚い革の手袋を三枚重ねて着けているようだった。
その一拍が、去年の秋には無かったものだ。
「アルディスさん」
リュカが、また声をかけてきた。今度は少し声が硬い。
「なんだ」
「……その、あそこ」
少年が示した先を、アルディスは目で追った。
通りの左側。乾物屋の軒先である。人垣の中に、少年がひとり立っていた。
いや、立っている、というのは正確ではない。人垣に紛れている。祭りの行列を見ようと押し合う人々の中で、その少年だけが押し合っていなかった。ぬるりと、水が石の隙間を通るように、人と人の間を移動している。
くすんだ金髪。痩せた頬。年の頃は十七か十八。
そして——片方の耳たぶが、無かった。
アルディスの目が、その一点で止まった。
耳たぶを削ぐのは、王都の下街における私刑の一種である。掏摸が三度目に捕まったとき、市場の親方衆がやる。役人に突き出せば手首を落とされるから、それよりはましだという理屈で、下街ではそれが「温情」ということになっていた。
つまりあの少年は、二度捕まって、二度赦されている。
「リュカ」
「はい」
「あの少年から、目を離すな。だが、見ているとは気取られるな」
「は、はい。……えっと、どうやって?」
「顔を向けるな。視界の端に置け。歩調を変えるな」
リュカは真面目な顔で頷き、そして即座に顔を左へ向けた。
「顔を向けるな」
「あっ! すみません!」
アルディスは目を閉じたくなったが、閉じなかった。
その代わり、彼は行列の速度を測った。騾馬の歩みは遅い。人垣の圧力で、時折ほとんど止まる。三台目の荷車——最も小さい箱車——の左側面が、いま、乾物屋の軒先に差しかかろうとしている。
衛士は十二名。前に四、両脇に各三、後ろに二。三台目の左側面を担当しているのは、まだ若い衛士だった。祭りの人出に気を取られ、視線が上下している。
悪くない配置ではある。ただし、それは「奪う」相手を想定した配置だ。
押し寄せる群衆を押し返し、荷車に手をかける者を弾く。そのための十二名である。
しかし、掏摸は奪わない。
掏摸は、持ち主に気づかせずに、持ち主から離すのだ。
「……カスパー司祭補」
アルディスは前へ声を投げた。
「三台目を、隊列の中央に入れ替えろ」
司祭補が振り返った。訝しげな顔だった。
「なぜです」
「左側面が薄い」
「規定では、聖遺の序列に従って——」
「規定の話をしている場合ではない」
「団長代理どの」
カスパーは足を止めずに、しかし明確に声を硬くした。
「行列の順序は、聖典に定められた序列に基づいています。あなたに変更する権限はありません」
アルディスは、ほんの一拍、黙った。
その一拍を、彼は自分で聞いた。
いつもだ。命令や規定と、目の前の現実が食い違ったとき、彼は必ず一拍止まる。父はそれを「思慮」と呼び、ガレス・ドゥルック将軍はそれを「甘さ」と呼び、部下たちはそれを「頼りない」と呼んだ。
そして本人は、それを何と呼べばいいのか、まだ決めかねている。
「……ならば、私が左側面に付く」
「団長代理どのの位置は、隊列の先頭です」
「先頭には衛士が四人いる」
アルディスは、もう返事を待たずに歩調を変えた。
列の内側へ入り、三台目の荷車の左へ回り込む。白い外套が人垣に触れ、誰かが「銀環だ」と囁くのが聞こえた。囁きは波のように広がり、いくつかの手が伸びてきて、彼の外套の裾に触れた。触れて、幸運を持ち帰ろうとするのだ。
二年前、辺境の村ひとつを焼けという命令を拒んだ男。住民三百人を独断で逃がし、処罰されるはずが、逆に英雄になってしまった男。
彼らが触れているのは、その物語である。アルディス・フェンマールという人間ではない。
「アルディスさん、あの子、」
リュカが息を切らして追いついてきた。
「消えました」
アルディスは、通りの左側をもう一度見た。
乾物屋の軒先。人垣。押し合う肩。焼き菓子の湯気。
くすんだ金髪は、どこにもなかった。
背筋を、冷たいものが伝った。
「三台目を止めろ」
彼は言った。今度は誰かに向けてではなく、声そのものを飛ばした。訓練された声だった。雑踏を裂いて、荷車の御者にまっすぐ届く。
「止めろ! 三台目!」
御者が反射的に手綱を引いた。騾馬が嘶き、車輪が石畳の上で軋んで止まる。行列の後方で、押されていた人垣が崩れ、悲鳴が上がった。
「何をなさる!」
カスパー司祭補が駆け戻ってきた。青白い顔が、怒りで赤くなっている。
「行列を止めるとは——」
アルディスは答えず、荷車の左側面に手をかけた。
白木の側板。金泥の聖句。魔除けの鈴。
そして——側板の下部、車軸の陰になる位置に、掌ほどの大きさの開口部があった。
封蝋が、切られていた。
断面は白く、まだ新しい。指で触れれば、蝋の粉が落ちるほどに。
アルディスは、その断面を一秒だけ見つめた。
それから、開口部の奥へ手を入れた。
空だった。
「……カスパー司祭補」
彼は手を抜き、振り返った。
「この区画に、何が入っていた」
司祭補は、開口部を見ていた。切られた封蝋を見ていた。そしてアルディスの空の手を見ていた。
その顔から、赤みが引いていく。怒りの赤ではなく、血の気が引く色に変わっていく。
アルディスは、それを見た。
この男は、いま、何を失ったかを知っている。知っていて、しかもそれが「失ってはならないもの」であることを知っている。
「カスパー司祭補」
「……あ」
「何が、入っていた」
「……申し上げられません」
その答えを聞いた瞬間、アルディスの中で何かが静かに位置を変えた。
盗まれたものが何かを言えない。それはつまり、盗まれたものが「聖遺」ではないということだ。星屑ならば、堂々と言えばいい。教会が民に見せるために行進させていたのは、まさにその星屑なのだから。
「リュカ」
「はい!」
「北へ走れ。管理局北棟に、聖遺輸送の物損があったと伝えろ。名は出すな。それから騎士団詰所へ回って、非番の者を五人集めて下街の南口に来させろ。走れるか」
「走れます!」
少年は菓子の束を露店の台に叩きつけるように置き、走り出した。人垣が割れ、その隙間へ吸い込まれるように消えていく。
速い。異様に速い。
「団長代理どの」
カスパーが、震える声で言った。
「大事にしないでいただきたい。これは、教会の内部で——」
「祭りの通りで盗まれた」
アルディスは短く言った。
「内部の話ではない」
彼は、通りの左側へ向き直った。
乾物屋。その脇に、人ひとりがようやく通れる幅の路地がある。看板も出ていない、下街の毛細血管のような路地だ。あそこに入られたら、あとは網の目である。
右腕をさすった。手甲の下で、指の感覚が一拍遅れて返ってくる。
——三年、と秤の術師は言った。
この腕で銀環を編めるのは、あと何度か。それを数えるのは、いつも戦いが終わってからにしている。
「アルディス・フェンマール」
彼は自分の名を、自分に向かって告げた。
それが、彼の癖だった。何か面倒なことを始める前に、自分の名を確認する。誰の判断で、誰が責任を取るのかを、はっきりさせておくために。
そして、走り出した。
アルディス・フェンマール
年齢: 28
所属: 聖王国ヴェルディナ/銀環騎士団
肩書き: 団長代理
外見: 黒みがかった栗色の短髪、灰青の目。長身だが筋肉質というより刃物のような細さ。右腕の肘から先が薄い水晶色に変質しており、常に黒い手甲で隠している。祭礼用の白銀の外套は、式典以外では面倒がって着ない。
リュカ・ノーレン
年齢: 16
所属: 聖王国ヴェルディナ/銀環騎士団
肩書き: 従者見習い
外見: 砂色の癖毛、そばかす。まだ声変わりが済んでいない。支給された鎧が大きすぎて、袖を折って着ている。いつも何かを抱えて走っている。




