序章「空に島があったころ」
むかし、空には島があった。
大陸アルヴェンディアの子どもは、たいていこの一文から歴史を教わる。教えるのが聖典教会の司祭であれ、鍛冶場の親方であれ、草原の語り部であれ、最初の一文だけは変わらない。変わるのは、その次からだ。
島は、雲よりも高いところに、いくつも浮かんでいたという。
晴れた日に地上から見上げると、空の青のなかに、白い腹を見せた岩の塊が、ほとんど動かずに流れていた。大きいものは都ひとつぶん、小さいものでも村ひとつぶんはあった。島の縁からは細い滝が落ちていたが、その水は地上に届く前に霧になって消えた。だから島の真下の土地には、晴れていても、ときどき虹がかかった。
島に何が住んでいたのかを、地上の者は知らなかった。
知ろうとした者がいたのかどうかも、今となってはわからない。空はただ、そこにあった。太陽や月と同じように、見上げるものであって、訪ねるものではなかった。
百二十七年前の、ある夏の日。
その島々が、砕けて落ちた。
*
その日のことを覚えている者は、もうほとんど生きていない。
人間にとって百二十七年は長すぎる。あの日に生まれた赤子でさえ、とうに土の下にいる。残っているのは、ドワーフの山の奥に住むわずかな長老と、エルフの森の奥で口を閉ざしている古老がいくらか。それに、魔族の国の書庫に眠る、誰も読みに来ない記録が何枚か。それだけだ。
残された話は、どれも同じところから始まる。
昼だった。空が、鳴った。
鐘のような音だったと言う者がいる。張りつめた弦を断ち切ったような音だったと言う者もいる。とにかく何かが鳴り、それから空の一角が白く光った。
光は強すぎた。それが上から来たのか、下から行ったのか、見ていた者たちは誰も、はっきりとは言えなかった。
——そして、のちには、誰も言わなくなった。
光が消えたあと、島は崩れはじめた。
最初はゆっくりだった。白い腹に、黒い筋がいくつも走った。滝が途切れ、虹が消えた。それから岩が剥がれ、剥がれた岩がさらに砕け、砕けた欠片が尾を引いて落ちてきた。昼の空に、無数の流れ星が降った。
落下は七日続いた。
人間の都が三つ、地図から消えた。エルフの森の一角が、一夜で焼け野原になった。ドワーフの山脈は尾根の形が変わり、牙連の草原には、今も草の生えない窪地がいくつも口を開けている。死者の数は、どの国の記録にも正確には残っていない。数える者も、また死んでいたからだ。
七日目の夕暮れ、最後の欠片が落ちた。
空には、何も残らなかった。
雲と、太陽と、月と、星。今の子どもたちが見上げる空は、それで全部だ。かつてそこに島が浮かんでいたことを、彼らは絵でしか知らない。
人々はこの災厄を、大崩落 と呼んだ。
そして、この年を元年とした。今年は、大崩落暦百二十七年である。
*
落ちてきた欠片は、燃え尽きなかった。
地面に突き刺さった岩は、冷えて、割れて、その割れ目の奥から、光る石を吐き出した。透きとおっていて、淡く青白く、内側でかすかに何かが瞬いている。
それが、星屑である。
星屑は、温かい。
掌にのせると、生き物の体温ほどの熱を伝えてくる。何年たっても、それは冷めない。鉱夫たちは「星屑は眠っている」と言い、子どもたちは「星屑は息をしている」と言う。どちらも本気で言っているわけではない。ただ、そう言いたくなる温かさなのだ。
星屑は大きさで等級が分けられる。
露の一滴ほどの雫級。麦の一粒ほどの粒級。握りこぶしほどの拳級。そして、人の頭より大きく、大陸にも数えるほどしか見つかっていない核級。
雫級ひとつで、貧しい家族がひと月食べていける。拳級ひとつで、小さな村が丸ごと買える。核級については、値段がついたという話を聞かない。値段をつける前に、たいてい誰かが死ぬからだ。
星屑は魔法の源であり、燃料であり、通貨であり、そして——毒である。
*
大崩落のあと、地上の者たちは、星屑の使い方を覚えた。
星屑を砕いて粉にし、針の先に含ませて、紋様を刻む。その紋様を紋 と呼び、紋を用いる技を詠紋 と呼ぶ。
紋はどこにでも刻める。石壁に刻めば、壁は砲弾を弾く。剣に刻めば、刃は鎧を裂く。井戸の縁に刻めば、水は腐らない。紋にはそれぞれ固有の名があり、名を呼んで意志を通すと、刻まれた線が光り、現象が起きる。火が灯る。水が凍る。風が向きを変える。傷が塞がる。
だが、最もよく効くのは、生きた体に刻んだ紋だった。
石や鉄に刻んだ紋は、刻んだ者の手を離れれば、ただの模様にすぎない。体に刻んだ紋は違う。術者の意志と紋のあいだに距離がない。考えた瞬間に、紋は応える。名を呼ぶ必要すらない者もいる。
だから、強い術者は皆、自分の体に紋を刻む。腕に、背に、首に、額に。
そして、刻んだところから、石になっていく。
最初は、紋の縁が白く濁る程度だ。触れると少し冷たい。それだけである。痛みもない。術者たちは手袋をはめ、襟を立て、袖を長くして、それを隠す。
やがて、濁りは広がる。
皮膚が硬くなる。指が曲がらなくなる。触れられても、何も感じなくなる。肉が透きとおり、内側から淡い光を放ちはじめる。その光は、星屑の光によく似ている。
末期には、意識ごと結晶に取り込まれる。最後に残るのは、生前の姿をとどめた、人の形をした石だ。目は開いたままで、何も見ていない。
この病を、星蝕 と呼ぶ。
治す方法は、ない。進みを遅らせる方法も、ほとんどない。わかっているのは、紋を使えば使うほど、刻めば刻むほど、星蝕は速く進むということだけだ。
王国の騎士たちのあいだには、古い戯れ歌がある。
——一つ刻めば、名が残る。二つ刻めば、歌が残る。三つ刻めば、石が残る。
酒場で若い騎士がこれを歌うと、年かさの騎士は笑わずに杯を置く。笑えるのは、まだ一つも刻んでいない者だけだからだ。
それでも、人は刻む。
守りたいものの前に立ったとき、腕に紋があれば、間に合うかもしれない。紋がなければ、間に合わない。その差を知っている者は、自分の腕が石になる日のことよりも、間に合わなかった日のことを恐れる。だから、刻む。刻んで、袖を下ろし、手袋をはめ、何事もなかった顔で朝の食卓につく。
隣で笑っている誰かが、もう肘まで冷たいかもしれない。それを確かめる方法は、この大陸には、ほとんどない。
強い術者ほど、長く生きられない。
それが、この大陸の魔法の値段である。
*
星屑をどう呼ぶかで、大陸は割れた。
西の聖王国ヴェルディナでは、星屑は聖遺と呼ばれる。天が地上に遺した、聖なる賜りもの。聖典教会はそう教え、聖遺管理局を置いて、王国じゅうの星屑を一粒残らず台帳に記し、管理している。民が星屑を私有することは許されない。必要な者は教会に願い出て、祈りとともに分け与えられる。
その教会の大司祭は、いつも白い手袋をはめている。
南の海に面した自由都市同盟カルネイアでは、星屑は祈りの対象ではない。値札である。交易ギルド「天秤楼」が毎朝その日の相場を張り出し、商人たちはそれを見て、笑い、青ざめ、手紙を書く。カルネイアに王はいない。いるのはギルドの長たちと、彼らが金で雇った傭兵と、表の帳簿には載らない裏市場だ。
北のシルヴァリア森林域に住むエルフ——静樹の民は、星屑を森の傷と呼んで忌む。森に星屑を持ち込む者は、たとえ同族であっても射られる。エルフは長命で、三百年を生きる者もいる。だから森の奥には、大崩落の日をその目で見た古老が、まだ何人か生きている。
彼らは、あの日のことを語らない。
東の山脈の地下には、ドワーフの鉄脈公国ドラガルドがある。山の腹に、大陸最大の星屑の鉱脈が眠っており、ドワーフたちは百二十七年、それを掘り続けてきた。星屑を溶かし込んだ合金を打てるのは、大陸でもドラガルドの鍛冶だけだ。山の掟は厳しく、技術は外へ出ない。出た者は、山へ戻れない。
さらに東の草原と砂漠には、獣人たちの遊牧連合——牙連諸部族が暮らしている。彼らは星屑を持たない。持とうとしない。紋を刻まず、己の脚と牙と腕だけで狩り、戦う。だから星蝕を知らない。人間の学者たちは、それを不思議がっている。
そして、大陸の北の果て、陽の短い土地に、常闇のノクトゥルナがある。
魔族の国だ。彼らは大崩落よりもずっと前から、この大陸にいた。長命で、夜目がきき、人間とは四百年にわたって戦を繰り返してきた。人間の子どもは、悪さをすると「魔族に連れていかれるぞ」と叱られて育つ。魔族の子どもが何と叱られて育つのかを、人間は知らない。
魔族の国には、記録官という役目がある。
起きたことを、起きたとおりに書き留める。解釈はしない。書いたものは消さない。百二十七年前の夏の日のことも、彼らは書き留めたはずだ。だが、それを読みに来た者がいたという話は、聞かない。
どの旗の下にも立たない者たちもいる。傭兵、盗賊、隊商の護衛、旅の一座。破門された学者。記憶を失った流れ者。そして、星蝕に体を蝕まれ、故郷を追われた病者たち。彼らは国境から国境へと流れ、どこにも数えられない。
*
大崩落暦百二十七年。
地上の星屑は、尽きかけている。
百二十七年のあいだに、落下地点の浅い鉱脈はあらかた掘り尽くされた。残る大鉱脈は、ドラガルドの山の地下と、ノクトゥルナの領内にしかない。星屑の値は年ごとに上がり、雫級ひとつのために人が殺される話も、もう珍しくなくなった。
聖王国は「聖遺回収」の名のもとに、国境の向こうへ兵を出しはじめている。王は病の床にあり、王宮の廊下では、誰が次の冠を戴くのかが、声をひそめて囁かれている。
星蝕の病者は、どの国でも増え続けている。辺境の療養院はとうに寝台が足りず、廊下にも礼拝堂にも、石になりかけた人々が横たわっている。
ごくまれに、星屑を体の内に宿して生まれてくる子がいる。
星の子と呼ばれるその子どもたちは、星蝕に侵されない。理由は誰にもわからない。ある者はそれを奇跡と呼んで匿い、ある者はそれを答えと呼んで追う。
そして——大陸のいくつかの場所で、奇妙な記録が見つかりはじめている。
地層の奥に刻まれた、誰の様式でもない紋。台帳から消えた、十七年分の数字。古老の沈黙。書庫の、誰も開けない棚。
それらは、まだ一本の線で結ばれていない。
結ぼうとする者も、まだいない。
*
聖遷祭の前夜、王都ヴェルディナ。
聖遺管理局の北棟の奥で、白木の箱車に三つの箱が積み込まれていた。
うち二つは、重い。中身は星屑で、正しく台帳に記されている。
残る一つは、軽かった。掌にのるほどの、古びた黒い匣だった。台帳のどこにも、その名はなかった。
匣の蓋には、細い紋が刻まれていた。管理局の書記官は、それを読もうとして、やめた。読めなかったのではない。見たことのない様式だったのだ。教会のものでも、エルフのものでも、ドワーフのものでもない。紋の外縁の線が、途中で途切れて、どこにも閉じていなかった。
まるで、どこか遠くへ、繋がろうとしているかのように。
書記官は蓋から目を逸らし、箱車の扉を閉め、閂を下ろした。それから窓の外を見上げた。
夜空には、星が出ていた。雲が流れていた。月が傾いていた。
それだけだった。そこにはもう、何も浮かんでいなかった。
明日の朝、その箱車は下街の目抜き通りを、ゆっくりと進むことになる。祭りの人混みのなかを、白い列を作って。
そして、その雑踏のどこかで、ひとりの少年が、盗んではいけないものを盗むことになる。
——これは、星屑の値段を誰が払うのかを、決め直そうとした者たちの物語である。




