第8章「語らぬ古老」/一 境の宿
咳は、夜明け前にいちばんひどくなる。
ベネディクトはそれを、四十年の放浪のあいだに身につけた数多の知識の一つとして、ほとんど学術的な興味をもって観察していた。夜のあいだ、横になっている胸の中で、何かが少しずつ溜まっていく。溜まったものが、明け方の冷えで固くなる。固くなったものを、体が外へ押し出そうとする。押し出せないものを押し出そうとするから、咳になる。
押し出せないものの正体も、分かっていた。
街道沿いの安宿の、藁の匂いのする寝台の上で、ベネディクトは身を二つに折って咳き込んだ。一度、二度、七度。八度目で、ようやく息が通った。口に当てていた布を見る。血は混じっていない。混じっていれば、まだましだったかもしれない。血が出るのは、肺がまだ柔らかい証拠だ。
布を畳み、枕元の手帳を取った。上等な革装丁の手帳だった。旅装は継ぎ接ぎだらけで、背嚢は擦り切れ、靴底には穴が開いているが、手帳と筆記具だけは、四十年、上等なものしか使ったことがない。書いたものが残らなければ、歩いた意味がない。
——暦百二十七年、某月某日。シルヴァリア西境、街道宿「枯れ柳」。明け方の咳、八度。前回より一度多い。
書いてから、少し考えて、書き足した。
——胸骨の上、昨夜より指一本分、硬化の縁が上がる。
手帳を閉じ、寝間着の襟をくつろげて、胸を見下ろした。鎖骨のすぐ下まで、皮膚が灰色に変わっている。触れると、冷たい。陶器の表面のように滑らかで、指で叩けば、こつ、と音がしそうだった。叩いてみたことはない。叩けば、音がすることを確かめてしまう。
喉の紋が、かすかに疼いた。
反問——自分の紋だ。相手の言葉に含まれる論理の綻びを、聞いた瞬間に喉の奥で感じ取る。聞いた言葉だけではなく、ときには自分自身の考えにも反応する。今の疼きは、たぶんそれだ。
あと数年。そう思っていた。その「数年」という見積もりそのものに、紋が疼いている。
「分かっておるよ」
ベネディクトは、喉に手を当てて呟いた。
「分かっておる。……もう、年ではなく、季節で数えるべきなんだろう」
◆
アーシェが宿に戻ってきたのは、昼過ぎだった。
つばの広い帽子を目深に被り、派手な古着を三枚重ねた、いつもの格好だった。ただ、その足取りだけが、いつもと違っていた。軽すぎる。わざと軽くしているのが、四十年分の人間観察で分かる。
「爺さん。許しが出たよ」
「ほう」
「古老に会わせてもいいって。姉さんが。……たぶん、ね」
「たぶん、とは」
「はっきり『よい』とは言ってない。『古老の許へ連れて行け』って、警備隊長に命じただけ。あたしの話には、一言も答えなかった」
アーシェは帽子を脱いで寝台の端に放り、自分もその横に腰を下ろした。日に焼けた顔の、目元だけが赤かった。
ベネディクトは、それについては何も訊かなかった。訊けば、この娘は笑ってはぐらかす。はぐらかすために、無理に笑う。六十年ぶりに姉に会ってきた者の顔に、それをさせるほど、ベネディクトも無神経ではなかった。いや、実際にはかなり無神経な方なのだが、この娘に対してだけは、少し気をつけている。
「それで、もう一人の客は」
「もうすぐ着くはず。ドラガルドの山の麓から、手紙が来てた。三日前の日付」
アーシェが懐から出した紙切れには、小さく、細かく、びっしりと文字が詰まっていた。行間にまで注釈がある。書いた者の性格が、紙面から湯気のように立ち上っていた。
「ヴェッサ・ロウ、か」
「知ってる?」
「論文は読んだ。……いや、読んだと言うと語弊があるな。読ませてもらえなかった論文の、要約の要約を、人づてに聞いた」
「大崩落は自然現象じゃない、ってやつ?」
「それだ」
ベネディクトは、手帳の最後の方の頁を開いた。そこには、四十年分の旅の途中で集めた、誰かが誰かから聞いた話の断片が、年代順に並んでいる。そのうちの一つに、震える字で、こう書いてあった。
——ドラガルドの学者、落下地点の地層に、落下以前の人工紋を認むと。論文は学院地下に封印。真偽不明。
「十年前に書いたものだ。真偽不明、と書いた」
「真偽、確かめたいんだろ」
「確かめたいとも」
ベネディクトは、手帳を閉じた。
「儂はな、四十年、星蝕は星屑の毒ではなく、紋の設計の欠陥だと言い続けてきた。それを言ったら、教会に破門された。破門したのは、同期の男だった。一番の友人だった。……あの男は、儂を守るために破門したんだ。異端審問にかけられる前に、先に追い出した。そうでなければ、儂は火刑台の上だった」
「その話、三回目」
「そうか。何度でも聞け。年寄りの話は、繰り返すことで意味が増す」
アーシェが、ようやく本物の笑い声を立てた。
「で、爺さんの説と、ヴェッサの説は、どう繋がるのさ」
「分からん。分からんから、会いたいんだ」
ベネディクトは、窓の外に目をやった。街道の向こうに、森が見える。境界の沼の靄に霞んで、緑というよりは黒に近い。その森の奥に、大崩落を自分の目で見た、ただ一人の生き証人がいる。
「ただな、アーシェ。儂の説には、ずっと一つ、穴がある」
「穴?」
「紋の設計が欠陥なら、誰がその設計をした。星屑が落ちてきたのは百二十七年前だ。人がそれで紋を刻みはじめたのは、そのあとだ。なのに、どの紋も、最初から同じ欠陥を抱えておる。まるで、初めから誰かがそう設計しておいたかのように」
喉の紋が、今度ははっきりと疼いた。自分の言葉の中の、どこかに綻びがある。それがどこなのかは、まだ分からない。
「……百二十七年前に、落ちてきた、というところが、どうも喉に引っかかる」
◆
ヴェッサ・ロウは、夕刻に着いた。
驢馬一頭に、身の丈ほどもある羊皮紙の束と、麻袋が四つ。麻袋の中身は、すべて石だった。
「すみません、遅れました。途中で、面白い露頭がありまして」
宿の戸口で、小柄なドワーフの女が、早口の小声でそう言った。灰色の髪をきつくひっつめ、眼鏡を二重に重ねてかけている。爪のあいだに岩の粉が入り込んで、指先が白っぽく汚れていた。
「露頭?」
「地層が地表に出ているところです。街道の切り通しで、大崩落の年の層が綺麗に見えていて。触ったら、半刻くらい動けなくなってしまって」
ヴェッサは、驢馬の手綱を柱に結びながら喋り続けた。
「あ、ヴェッサ・ロウです。ドラガルド地質詠紋学院の主席研究員です。今は、たぶん、学院からも追い出されかけていますけど。アーシェさんから、あなたのことは手紙で聞いています。ベネディクトさん。星蝕は紋の設計の欠陥だという説の。四十年前に異端認定された」
「……いかにも」
「その説は、間違っていると思います」
ベネディクトは、目を瞬いた。
ヴェッサは、二重の眼鏡の奥から、まっすぐにベネディクトを見ていた。悪意はない。挑発でもない。石の表面を観察するのと同じ目つきだった。
「いえ、正確には、半分だけ間違っていると思います。紋の設計に欠陥があるのは、たぶん正しい。でも、あなたの論文の要約を読む限り、あなたはその欠陥を、人が紋を刻む過程で生じたものだと考えていますね。独学者の刻み方が悪いとか、伝承の途中で線が歪んだとか」
「そう書いた」
「それは違います。私が落下地点の地層から読んだ紋は、大崩落より前の年代の層に刻まれていました。人間が星屑を手にする前です。そして、その紋にも、同じ欠陥の線がありました」
喉の紋が、疼かなかった。
ベネディクトは、自分の喉に手を当てた。何も感じない。ヴェッサの言葉には、どこにも綻びがない。論理が、まっすぐ通っている。
四十年、誰かにこれを言われるのを待っていた。
「……君」
「はい」
「それを、もう一度言ってくれんか。ゆっくりと」
ヴェッサは、少し首を傾げた。それから、言われた通りに、一語ずつ区切って繰り返した。
ベネディクトは、手帳を開いた。震える手で、上等な筆記具を握った。手が震えるのは、星蝕のせいではなかった。
——ヴェッサ・ロウ、曰く。欠陥は落下以前より存す。
書いてから、手帳の端に、小さく付け足した。
——儂の説、半分誤り。四十年目にして、初めて指摘を受く。
「……ありがとう」
「え?」
「間違いを指摘されたのは、四十年で初めてなんだ」
ヴェッサは、きょとんとした顔をした。それから、少し考えて、嬉しそうに言った。
「では、反論してください。あなたが反論してくれたら、私の説もどこか間違っているかもしれない。石は嘘をつきませんけど、石を読んだ私は、嘘をつくかもしれないので」
アーシェが、寝台の上で腹を抱えて笑っていた。
「似た者同士だねえ、あんたたち」
◆
翌朝、三人は森に入った。
境の沼のほとりで、警備隊長が待っていた。短く切った薄緑の髪に、人間の革の外套。左頬に古い矢傷がある。エルフにしては異例の姿だった。
「フィン・ラス・エルディ。翠矢の隊長です。巫女長の命により、古老の座までお連れします」
礼儀正しい、しかし感情のない声だった。視線がベネディクトの顔を通り、ヴェッサの麻袋を通り、アーシェの帽子の上で、一瞬だけ止まった。
「人間と、ドワーフか」
「文句ある?」とアーシェ。
「ありません。命じられたのは、客を連れて行くことです。客が誰であるかは、命じられていません」
フィンは、踵を返して歩き出した。
足音がしなかった。森の土の上を、落ち葉の上を、苔の上を、まるで重さがないかのように歩いていく。アーシェも同じだった。ベネディクトとヴェッサだけが、枯れ枝を踏み、石に躓き、息を切らしてそのあとを追った。
森は、深かった。
ベネディクトは、これまで大陸中の森を歩いてきた。人間の国の森、ドラガルドの山麓の針葉樹林、牙連の草原に点在する疎林。そのどれとも違った。ここの樹は、太さが違う。高さが違う。そして、静けさが違う。鳥の声さえ、梢の上の方で吸い込まれて、地面まで降りてこない。
一刻ほど歩いたところで、ヴェッサが足を止めた。
「……あれは」
道の脇に、白樫の巨木が立っていた。その葉が、すべて灰色に縮れていた。
「枯れてるやつ」とアーシェが言った。「あたしが来るとき見た四本のうちの一本」
フィンが立ち止まり、振り返った。何も言わなかった。ただ、ヴェッサがその樹に近づいていくのを、止めもしなかった。
ヴェッサは、樹の根元にしゃがみ込んだ。土を指で掻き分ける。黒い土の下から、古い石が覗いた。拳ほどの窪みのある石。
「触ってもいいですか」
ヴェッサは、フィンに訊いた。
フィンは、長いあいだ黙っていた。それから、小さく頷いた。
ヴェッサは、右の掌を石に当てた。掌の紋——層読が、淡く茶色に光った。
ヴェッサの目が、二重の眼鏡の奥で、ゆっくりと焦点を失っていった。石が形成された年代と、そこに何が起きたかを読んでいるのだ。ベネディクトは、息を詰めてそれを見守った。
長い時間が過ぎた。四半刻か、それ以上か。
やがてヴェッサは、石から手を離した。額に汗が浮かんでいた。
「……この窪みにあった欠片は、六十年前に抜かれています」
「それは知ってる」とアーシェ。「あたしたちが抜いた」
「その前に、欠片は六十七年、ここにありました。そのあいだ、欠片の周りの土は、ずっと温かかった。根が、欠片を抱えていました。……抜かれてから、土が冷えはじめています。ゆっくりと。六十年かけて、ようやく根の奥まで冷えた」
フィンの肩が、わずかに動いた。
「それと、もう一つ」
ヴェッサは、自分の掌を見下ろしていた。困惑した顔だった。
「この石の、もっと下の層です。百二十七年より、少し前。……熱の跡があります。上からではなく、下から来た熱です」
「下から?」
ベネディクトは、思わず身を乗り出した。
「どういうことだ。落ちてきたものは、上から来る。熱も、上から来るはずだ」
「分かりません。まだ、一か所だけです。一か所では、何も言えません」
ヴェッサは立ち上がり、膝の土を払った。
「石は嘘をつきません。でも、一つの石だけでは、石が何を言っているのか分からないこともあります」
ベネディクトは、喉に手を当てた。
紋が、疼いていた。ヴェッサの言葉ではない。自分の頭の中にある、四十年分の前提のどこかが、音を立てて軋んでいた。
——百二十七年前に、落ちてきた。
落ちてきたのなら、熱は上から来る。
下から来た熱は、何だ。
「隊長殿」
ベネディクトは、前を行くエルフの背中に声をかけた。
「古老殿は、大崩落の日、どこにおられた」
フィンは、振り返らなかった。
「記憶守の座だと、そう伝えられています。今と同じ場所に」
「その座は、ここから遠いのかね」
「半日ほど」
「では、その座の石の下にも、同じ熱の跡があるかもしれんな」
フィンは、答えなかった。ただ、足を速めた。音のない足取りが、ほんのわずかに、乱れた気がした。
ベネディクト
年齢: 79
所属: 無所属(元・聖典教会詠紋研究局)
肩書き: 破門された研究者
外見: 禿頭に、耳の上だけ白髪が残っている。分厚い眼鏡と、書物で膨らんだ背嚢。曲がった背中。旅装は継ぎ接ぎだらけで、しかし手帳と筆記具だけは常に上等なものを使う。
アーシェ・ミル・ロス
年齢: 89
所属: 無所属(放浪)
肩書き: 破門者
外見: 白緑の髪を人間風に無造作に束ね、耳を隠すために帽子を深く被っている。日焼けした肌(エルフには珍しい)。派手な人間の古着を重ね着し、姉とは正反対の格好を意図的に選んでいる。
ヴェッサ・ロウ
年齢: 115
所属: 鉄脈公国ドラガルド/地質詠紋学院
肩書き: 主席研究員
外見: 灰色の髪をひっつめ、分厚い羊皮紙の束を常に抱えている。眼鏡を二重に重ねてかけている(近視と老眼)。爪の間に岩粉が入り込んで取れない。声が小さく、早口。
フィン・ラス・エルディ
年齢: 132
所属: シルヴァリア森林域/森林警備隊「翠矢」
肩書き: 隊長
外見: 薄緑の髪を短く切り揃えている(エルフとしては異例)。左頬に矢傷。動作に無駄がなく、森の中では足音を一切立てない。人間の作った革の外套を着ており、それを同族から批判されている。




