第8章「語らぬ古老」/二 語らぬ
記憶守の座は、泉のほとりにあった。
森の奥の、さらに奥。樹々が急に途切れて、ぽっかりと空が開けた場所だった。中央に小さな泉があり、澄んだ水が音もなく湧いている。その泉の縁に、一人の老人が座っていた。
座っていた、というのは正確ではないかもしれない。
老人は、枯れ枝のように細かった。白く濁った両目は、何も見ていない。長い髭と髪が地面まで届き、そこから細い根が何十本も伸びて、泉の周りの土に潜り込んでいる。老人の体そのものが、一本の古い樹の根元のようだった。
「トール・ヴェン・ナハ。記憶守です」
フィンが、低い声で告げた。
「百年、この場所から動いておられません」
ベネディクトは、しばらく言葉が出なかった。
四十年、この老人に会うことを考えてきた。大崩落を自分の目で見た、ただ一人の生き証人。人間の記録はすべて、落下の翌年以降に書かれたものだ。落下の瞬間を見て、なお生きている人間は一人もいない。ドワーフも、牙連も同じだ。魔族には記録があるという噂だが、それを人間が読んだという話は聞かない。
だから、ここしかなかった。
ベネディクトは、背嚢を下ろした。膝が震えていた。歩き疲れたせいだと思うことにした。
「古老殿」
声をかけると、老人の白い目が、わずかに動いた。見えていないはずの目が、声の方向を正確に捉えた。
「……人間か」
乾いた声だった。枯れ葉が擦れ合うような。
「人間の、年寄りだな。胸が、硬い」
ベネディクトは、思わず胸に手をやった。
「お分かりになりますか」
「水が教える。おぬしの足が、この泉の水脈を踏んだ。踏んだ足の、その上の胸が、硬い。……長くないな」
「はい」
ベネディクトは、泉の縁に膝をついた。アーシェとヴェッサが、その少し後ろに立った。フィンは、座の入口の樹の陰に控えた。
「儂はベネディクトと申します。元は、人間の教会の研究者でした。四十年前に破門され、以来、大崩落のことを調べて歩いております」
「大崩落」
老人は、その言葉を舌の上で転がすように繰り返した。
「聞きたいか」
「はい」
「では、語ろう。語るのが、わしの務めだ」
◆
トールは、語りはじめた。
声の抑揚が、変わらなかった。高くもならず、低くもならず、速くもならず、遅くもならず。まるで、何百回、何千回と繰り返してきた言葉を、そのまま唇の上に並べていくような語り方だった。
「その日は、晴れていた。雲は一つもなかった。空には、島々が浮かんでいた。大きな島が七つ。小さな島は数えきれぬほど。島々は、いつものように、ゆっくりと東から西へ流れていた」
ベネディクトは、手帳を開いた。筆記具を握る。
「昼を少し過ぎた頃だった。空が、割れた。島々が、砕けた。砕けた島々が、光を帯びて降ってきた。一日のうちに、大地の百か所に、光が落ちた。落ちた光は、欠片になった。欠片は、紫に光っていた。……それが、星屑のはじまりだ」
抑揚のない声が、泉の水面を渡っていく。
「森にも、光が降った。樹々が焼けた。民が死んだ。わしの母も、わしの妹も、その日に死んだ。生き残った者は、焼けた森の中で、紫の欠片を見つけた。欠片は、森の傷だった。空から降ってきた、森の傷だった」
ベネディクトは、書く手を止めた。
喉の紋が、疼いていた。
はっきりと。これまでにないほど、はっきりと。
何かがおかしい。老人の言葉の、どこかに綻びがある。だが、どこなのかが分からない。晴れていた、島が浮かんでいた、空が割れた、光が降った。どれも、人間の記録と一致している。一致しすぎている。
——一致しすぎている。
ベネディクトは、目を閉じて、今の語りを頭の中で繰り返した。
「……古老殿」
「なんだ」
「今の語りを、もう一度、お願いできますか」
トールは、何も言わずに、もう一度語った。
一語一句、同じだった。抑揚も、間も、息継ぎの場所も。
ベネディクトは、目を開けた。
「古老殿。あなたは、空が割れたと仰った」
「そうだ」
「空が割れるのを、ご覧になったのですか」
「見た」
「その前は」
トールの白い目が、わずかに動いた。
「空が割れる、その前です。昼を少し過ぎた頃、空が割れた。……では、昼を少し過ぎる、その少し前は。空が割れる直前、あなたは、何を見ておられましたか」
泉の水面が、揺れた。
風はなかった。
「……空を、見上げておった」
「なぜ」
ベネディクトは、自分の声が震えているのを感じた。
「雲一つない晴れた日に、島々がいつものように流れていた。いつものことです。いつものことなら、わざわざ見上げる理由はない。……何か、見上げる理由があったのではありませんか」
老人は、答えなかった。
ベネディクトは、手帳を閉じた。四十年分の手帳を。そして、四十年かけて用意してきた、ただ一つの問いを口にした。
「古老殿。大崩落の日——空から、何かが落ちてきたのですか。それとも、地上から、何かが撃ち上がったのですか」
◆
トール・ヴェン・ナハは、口を閉じた。
閉じた、という動作がはっきりと見えた。乾いた唇が、ゆっくりと、上下から合わさった。そして、それきり動かなくなった。
泉の縁の空気が、張り詰めた。
ベネディクトは待った。十数える。百数える。老人は動かない。白く濁った目は泉の方を向いたまま、何も映していない。長い髭の先から伸びた根が、土の中で、かすかに脈打っているのが見えた。
喉の紋が——静かだった。
ベネディクトは、自分の喉に手を当てた。何も感じない。疼きがない。綻びがない。
当たり前だ、と思った。沈黙には、矛盾がない。言葉を発しない者の論理は、破れようがない。反問は、言葉にしか反応しない。
だが、喉が静かであることそのものが、答えだった。
さっきまでの語りには、綻びがあった。一語一句同じ語りの中に、何かが欠けていた。欠けているものを問うた瞬間、老人は口を閉じた。語っていたことが嘘なのではない。語っていないことがあるのだ。語らないと決めていることが。
「……古老殿」
ベネディクトの声は、掠れていた。
「語らぬ、と仰るのですか」
老人は、ゆっくりと、ほんのわずかに頷いた。
それから、閉じていた唇が、一度だけ開いた。
「わしは見た」
低い、抑揚のない声だった。それまでの語りの声とは、何かが違った。何百回と繰り返してきた言葉ではない声。百二十七年、一度も発したことのない声。
「……いいや。語らぬ。語れば、森が覚える。森が覚えれば、それは、真実になってしまう」
そして、また口を閉じた。
今度は、二度と開かなかった。
◆
座の入口の樹の陰で、フィンが身じろぎする気配がした。
アーシェが、ベネディクトの隣にしゃがみ込んだ。いつもの軽口が、出てこないようだった。
「……爺さん」
「うむ」
「今の、答え?」
「答えだ」
ベネディクトは、泉の水面を見つめていた。
「語れば、森が覚える。森が覚えれば、真実になる。……つまり、今はまだ、真実ではないということだ。森はまだ覚えていない。古老殿が語らなかったから。語らなかったことは、この森において、起きなかったことになる」
「それって——」
「古老殿は、見たんだ。見て、百二十七年、語らなかった。語らないことで、起きなかったことにしてきた。……撃ち上がったか、落ちてきたか。どちらかを問うて、口を閉じた。落ちてきただけなら、閉じる理由がない。落ちてきたとは、もう何千回も語っておるのだから」
ヴェッサが、息を呑む音がした。
「下からの、熱」
ヴェッサは、自分の掌を見下ろしていた。
「白樫の根元の石に、下からの熱の跡がありました。百二十七年より、少し前の層に」
誰も、それ以上何も言わなかった。
泉の水が、音もなく湧き続けていた。老人の根が、土の中で脈打ち続けていた。森が、黙っていた。
アーシェが、ぽつりと言った。
「……古老はさ、あたしが出てった日、ただ一人だけ、『行け』って言ってくれたんだ。姉さんも、長老たちも、誰も言わなかったのに」
アーシェは、老人の白い目を見上げた。
「今なら、分かる気がする。あたしに、見てきてほしかったんだ。自分が語れないことを。落下地点を一つずつ歩けば、いつか、誰かが、自分の代わりに気づくかもしれないって」
老人は、何も答えなかった。
だが、泉の水面が、また一度だけ揺れた。
◆
ベネディクトは、立ち上がろうとした。
立ち上がりかけたところで、胸の奥で、何かが軋んだ。
咳が来た。
一度、二度、三度。止まらない。身を二つに折る。膝をつく。四度、五度、六度。泉の縁の苔を掴む。指が滑る。七度、八度、九度。
アーシェの手が、背中をさすっていた。何か言っている。聞こえない。耳の奥で、自分の咳の音だけが、岩を叩くように響いている。
十度目で、ようやく息が通った。
口に当てていた布を見た。血は、混じっていなかった。代わりに、細かい、灰色の粉のようなものが、布の繊維に絡みついていた。
肺の内側から剥がれた、何か。
ベネディクトは、布を素早く畳んだ。畳んで、懐に押し込んだ。それから、襟元を整えた。咳き込んだはずみで、襟が大きくはだけていた。鎖骨の下の、灰色の皮膚が見えていたかもしれない。
「爺さん、大丈夫——」
「大丈夫だとも」
ベネディクトは、アーシェの手を軽く払って、自分で立ち上がった。膝が笑っていた。それでも、立った。
「年寄りの咳だ。森の空気が、儂には上等すぎたらしい」
喉の紋が、疼いた。
自分の言葉の嘘に、自分の紋が反応している。ベネディクトは、それを無視した。四十年、他人の嘘を聞き分けるために使ってきた紋が、最後に自分の嘘を咎めるのは、なかなか皮肉が効いている、と思った。
入口の樹の陰から、フィンがこちらを見ていた。何も言わなかった。エルフの隊長の左腕が、外套の下で、ほんのわずかに不自然な角度で垂れているのに、ベネディクトは気づいた。気づいたが、何も言わなかった。
同じ病を持つ者同士の、礼儀だった。
ヴェッサが、泉の縁の平たい石に、そっと掌を伸ばしかけていた。層読の紋が、淡く光りはじめている。
「ヴェッサ殿」
フィンの声が、樹の陰から飛んだ。低く、しかし有無を言わせない声だった。
「その石に触れる許しは、巫女長から出ておりません」
ヴェッサの手が、止まった。石の表面まで、指一本分の距離だった。彼女はしばらくその距離を見つめていたが、やがて手を引っ込め、膝の上で握りしめた。
「……では、また今度にします」
ヴェッサは、小さな声で言った。
「石は逃げませんから。百二十七年待ったんですから、もう少しくらい、待ってくれます」
フィンは、何も答えなかった。ただ、止めたのが自分の意志なのか、巫女長の決まりなのか、自分でも測りかねているような顔をしていた。
「古老殿」
ベネディクトは、泉の縁の老人に向かって、深く頭を下げた。
「今日のところは、これで失礼いたします。……ですが、儂はまた参ります。あなたが語る日まで。あるいは、儂が語れなくなる日まで」
老人は、答えなかった。
ベネディクトは背嚢を背負い、踵を返した。歩き出してから、手帳を開き、歩きながら書いた。字が揺れた。構わなかった。
——暦百二十七年、某月某日。シルヴァリア、記憶守の座。古老トール・ヴェン・ナハに問う。落ちたか、撃ち上がったか。古老、口を閉ざす。
——沈黙は、答えである。
書いてから、少し考えて、もう一行書き足した。
——残り時間、見積もりを改む。年ではなく、季節にて。
手帳を閉じた。上等な革の表紙が、夕暮れの光の中で、鈍く光った。
歩きながら、ベネディクトは、四十年前の友人の顔を思い浮かべていた。
オルグレン。君は、儂を火刑台から遠ざけるために、儂を破門した。君は教会の奥で、儂の知らない記録をいくつも読んできたはずだ。——君は、知っていたのか。落ちてきたのではないかもしれない、ということを。知っていて、儂を真実から最も遠い場所へ追いやったのか。それとも、君もまた何も知らされずに、ただ友を守ったつもりでいたのか。
喉の紋は、答えなかった。問いには、矛盾も綻びもない。答えのない問いを、紋は咎めない。
森を出るまでの半日のあいだ、ベネディクトは一度も咳をしなかった。咳をしないように、ずっと、浅く息をしていた。
トール・ヴェン・ナハ
年齢: 310
所属: シルヴァリア森林域
肩書き: 古老・記憶守
外見: 枯れ枝のような細さ。両目は白く濁り、既に見えていない。長い髭と髪が地面まで届き、そこから実際に根が生えて地面と繋がっている。もう百年、同じ場所から動いていない。
フィン・ラス・エルディ
年齢: 132
所属: シルヴァリア森林域/森林警備隊「翠矢」
肩書き: 隊長
外見: 薄緑の髪を短く切り揃えている(エルフとしては異例)。左頬に矢傷。動作に無駄がなく、森の中では足音を一切立てない。人間の作った革の外套を着ており、それを同族から批判されている。
ベネディクト
年齢: 79
所属: 無所属(元・聖典教会詠紋研究局)
肩書き: 破門された研究者
外見: 禿頭に、耳の上だけ白髪が残っている。分厚い眼鏡と、書物で膨らんだ背嚢。曲がった背中。旅装は継ぎ接ぎだらけで、しかし手帳と筆記具だけは常に上等なものを使う。
アーシェ・ミル・ロス
年齢: 89
所属: 無所属(放浪)
肩書き: 破門者
外見: 白緑の髪を人間風に無造作に束ね、耳を隠すために帽子を深く被っている。日焼けした肌(エルフには珍しい)。派手な人間の古着を重ね着し、姉とは正反対の格好を意図的に選んでいる。
ヴェッサ・ロウ
年齢: 115
所属: 鉄脈公国ドラガルド/地質詠紋学院
肩書き: 主席研究員
外見: 灰色の髪をひっつめ、分厚い羊皮紙の束を常に抱えている。眼鏡を二重に重ねてかけている(近視と老眼)。爪の間に岩粉が入り込んで取れない。声が小さく、早口。
オルグレン・ハイド
肩書き: 大司祭・聖遺管理局総裁




