第7章「枯れゆく静樹」/二 傷を見てきた者
三日後の昼、西の境で、見張りが侵入者を報せた。
報せ方が妙だった。翠矢の見張りは、侵入者を見つけると、梢から梢へ鳥の声を真似て伝える。人間なら一声、獣なら二声。その日、伝わってきたのは三声だった。——判じかねる、という意味だ。
フィンが西の境に着いたとき、侵入者はもう森の中を歩いていた。
隠れてもいなかった。獣道でもない、エルフしか知らないはずの細い踏み分け道を、まっすぐに、迷いのない足取りで歩いてくる。派手な色の古着を何枚も重ね着し、つばの広い帽子を目深に被っている。帽子の下から、無造作に束ねた白緑の髪がはみ出していた。
フィンは、弓に矢を番えなかった。
番える前に、足音で分かった。いや、足音がしないことで分かった。人間の靴を履いているのに、森の土の上で、その足は音を立てていなかった。九十年この森の縁を歩いてきたフィンと、同じ歩き方だった。
侵入者は、フィンの潜む樫の木の真下で立ち止まった。そして、帽子のつばを指で押し上げ、真上を見上げた。
「降りてきなよ、フィン。あんた、昔から隠れるのが下手なんだ」
日に焼けた顔だった。エルフには珍しい、蜂蜜のような色の肌。それでも、縦に長い翠の瞳は、巫女長と同じ形をしていた。
アーシェ・ミル・ロス。
六十年前に森を出て、破門された、巫女長の妹。
◆
フィンは枝から降りた。着地に音はなかった。アーシェは、それを見て、にやりと笑った。
「変わんないね。髪、切ったんだ」
「……二十年前に」
「似合わないよ。人間の外套も」
「貴女に言われたくはない」
言ってから、しまった、と思った。六十年ぶりに交わす言葉が、これか。
アーシェは声を上げて笑った。森の中でそんな声を出す者は、この六十年、一人もいなかった。周囲の梢で、見張りたちが身を強張らせる気配がした。
「なにしに戻った」
「姉さんに会いに」
「破門された者は、森に入ることを許されていない」
「知ってるよ。だから、あんたのところに来たんじゃないか。翠矢の隊長さまが連れてってくれれば、門前払いはされないだろ」
フィンは、アーシェの顔を見た。六十年前、彼女は二十九歳だった。エルフとしては、まだほんの子どもだった。今は八十九。それでもエルフとしては、ようやく少女期を出たばかりの年だ。顔立ちはあまり変わっていない。変わったのは、肌の色と、目の奥にある何かだった。
「一人か」
「連れがいる。人間の爺さんだよ。境の外の、街道沿いの宿で待たせてる。咳のひどい爺さんでさ、森の中を歩かせたら途中で死んじまう」
「人間を、森に入れるつもりか」
「古老に会わせたいんだ。……その話は、姉さんとする」
アーシェは帽子を被り直した。その仕草に、ほんのわずかな躊躇が見えた。
「フィン。あたしが出てった夜のこと、覚えてる?」
覚えていた。
六十年前の、欠片抜きの年の終わりだった。森じゅうの星屑を抜き、沈め沼に運び終えた夜。巫女長が「これで森の傷は癒えた」と告げた、その夜。アーシェは姉の前で、「じゃあ、傷を見てくる」と言い放った。森の中の傷は抜いた。なら、傷のもとになったものを、落ちてきた場所を、自分の目で見てくる、と。
その夜、フィンは森の境まで彼女を追った。何か言おうとした。何を言おうとしたのか、六十年経った今でも、はっきり言葉にできる。できるのに、あの夜は言えなかった。
「……覚えていない」
「嘘つき」
アーシェは、それ以上何も言わずに歩き出した。静樹の座の方角へ。一度歩いた道を、彼女の足首の紋は決して忘れない。六十年前に歩いた道でさえ。
◆
静樹の座に、民が集まっていた。
破門者が戻ったという報せは、フィンが座に着くよりも早く森を駆け巡っていた。大樹の根の籠を囲むように、数十人のエルフが立っている。誰も声を出さない。ただ、アーシェの派手な古着と、日に焼けた肌と、人間の靴を、じっと見ている。
巫女長は、座の中心にいた。
三日前と同じ場所、同じ姿勢だった。裸足の足首を根に沈め、翠の目を半ば閉じている。アーシェが根の籠の入口に立っても、その目は開かなかった。
「姉さん」
アーシェが言った。軽い声だった。軽くしようとしている声だった。
「……アーシェ」
巫女長が言った。
それだけだった。六十年ぶりの姉妹の言葉は、互いの名前を一度ずつ呼んだだけで終わった。
フィンは入口の脇に控えた。巫女長の顔を見た。表情は変わらない。二百四十年を生きた者の顔は、そう簡単には動かない。それでも、根に沈めた足首のあたりで、樹皮のような皮膚がわずかに軋むのを、フィンは見た気がした。
「破門された者が、何用じゃ」
「用は三つある。一つ目は、ただいまって言いに来た。二つ目は、古老に会わせたい人がいる。三つ目は——」
アーシェは、帽子を脱いだ。白緑の髪が肩に落ちた。
「——姉さんに、見てきた傷の話をしに来た」
巫女長の目が、開いた。
「申してみよ」
アーシェは、根の籠の中に一歩入った。民がざわめいた。破門者が静樹の座に足を踏み入れるのは、この森が始まって以来のことだった。巫女長は、止めなかった。
「六十年で、大崩落の落下地点を四十一か所、歩いた。人間の国も、ドワーフの山の麓も、牙連の草原も、魔族の境の近くまで」
アーシェは指を折りながら話しはじめた。
「落下地点ってのはさ、だいたい二種類ある。人間が星屑を掘り尽くしたところと、まだ掘ってないところ。掘ってないところは、危なくて近寄れないか、誰も気づいてないか、どっちか」
「それで」
「掘り尽くしたところはね、どこも、周りの木が枯れてた」
民のざわめきが、止まった。
「最初は、人間が木を切ったんだと思った。掘るのに邪魔だからね。でも違った。切られてない木が、立ったまま枯れてるんだ。葉っぱが灰色に縮れて、幹が冷たくなって」
フィンは、腰の革袋に手をやった。
「で、掘ってないところは」
アーシェは、そこで一度、言葉を切った。
「——森が、一番濃かった。星屑の欠片を、根っこで抱え込むみたいにして、木が育ってた。欠片の周りだけ、土が黒くて、温かくて。牙連の草原のど真ん中に、一か所だけ、ここと同じくらい深い森があった。真ん中に、拳級の欠片が埋まってた」
「……偽りを申すな」
巫女長の声が、初めて硬くなった。
「偽りじゃない。四十一か所、全部この足で歩いた。あたしの紋は、歩いた道を忘れない。姉さんが望むなら、全部の道を描いてみせる」
「星屑は、森の傷じゃ」
「そうだよ。あたしもそう思ってた。だから見に行ったんだ。傷なら、傷の周りの森は病んでるはずだって。それを確かめて、姉さんは正しかったって、言いに帰ってくるつもりだった」
アーシェの声が、わずかに震えた。
「でも、違った。傷じゃなかった。少なくとも、森にとっては」
アーシェは、座の外の森を指さした。
「姉さん。ここに戻ってくる途中、西の境から座まで歩いてきた。六十年前と同じ道を。——枯れてる木が、道の脇だけで四本あった。四本とも、六十年前に、あたしたちが欠片を抜いた場所だった」
フィンの呼吸が、止まった。
四拍に一度、という規律が、崩れた。
「星屑を拒み続けたことが」
アーシェは、姉をまっすぐに見て言った。
「——この森を、枯らしてるんじゃないのか」
◆
静樹の座に、沈黙が降りた。
民の誰も、息をしていないようだった。梢の上の見張りたちも、根の籠の周りに立つ長老たちも、巫女長の答えを待っていた。百二十七年、この森の民は、巫女長の言葉を疑わずに生きてきた。星屑は森の傷である。傷は抜かねばならぬ。抜けば森は癒える。その言葉が、今、揺れていた。
巫女長は、答えなかった。
翠の目を、ゆっくりと閉じた。根に沈めた足首が、もう一度、かすかに軋んだ。
フィンには分かった。巫女長は今、森を見ているのだ。静樹の紋で、森のすべての樹と感覚を繋いで。枯れた七本と、枯れかけている十一本を。その根元にあるものを。
——知っておる。
三日前、巫女長はそう言った。原因は調べている、と。
本当は、調べるまでもなく知っていたのではないか。すべての樹が見える者が、枯れた樹の根元に何があるのかを、見ていないはずがない。
「巫女長」
フィンは、声を出していた。
座の全員が、フィンを見た。九十年、一度も巫女長に反論したことのない男が、民の前で口を開いたのだ。
フィンは、腰の革袋から、雫級の欠片を三つ取り出した。掌の上で、淡く紫に光る。民がざわめいた。星屑を静樹の座に持ち込むのは、禁忌だった。
「三日前、沈め沼で人間の女を射ました。死んでも、この欠片を離しませんでした。首から療養院の請求書を下げた男もいました。自分の手に紋を刻んだ若者もいました。——巫女長」
声が震えないように、腹に力を込めた。
「この者たちが何のために森へ入ったのか、一度、お聞きになりましたか」
巫女長の目は、閉じたままだった。
「白樫の根元を掘りました。六十年前に、私が欠片を抜いた跡がありました。……私も、知っておりました。知っていて、報告しませんでした」
それは、半分だけ本当だった。知っていたのではない。知ることを避けていた。ほかの六本の根元を掘らなかったのは、掘れば知ってしまうからだ。
「フィン」
巫女長が言った。目を閉じたまま。
「アーシェを、古老の許へ。その人間の客もじゃ」
それが、答えだった。答えではなかった。
「——皆、下がれ」
巫女長はそれ以上、何も言わなかった。
アーシェは、長いあいだ姉を見つめていた。それから、ふっと笑った。笑おうとして、うまくいかなかった顔だった。
「……姉さんはさ、百二十七年、目を閉じてるんだよ」
小さな声だった。巫女長にだけ届けばいいという声だった。
アーシェは帽子を被り直し、踵を返した。根の籠を出るとき、フィンの横を通り過ぎながら、アーシェは誰にも聞こえないくらいの声で言った。
「言えたじゃん」
◆
その夜、フィンは再び癒し手の庵を訪れた。
三日で二度目の訪いに、リィナは何も聞かなかった。座での出来事は、もう森じゅうが知っている。リィナは黙ってフィンを寝台に座らせ、左の袖をまくった。
若葉の光が、灯の代わりに庵を照らした。
リィナの指が、肘の下を押す。肘を押す。肘の上を押す。そこで、指が止まった。
「……弓を、たくさん引きましたか。この三日で」
「沼に、また人間が来た。二人。足元に矢を立てたら、逃げた。射てはいない」
「でも、紋は使いましたね」
「足元に立てるだけでも、紋は目を覚ます」
リィナは答えなかった。フィンの肘の内側に、掌を当てたまま、じっとしていた。
冷たいのは、肘の上まで来ていた。三日前は、肘の下だった。
「リィナ」
「……はい」
「三日前、君は、肘の上はちゃんと温かいと言った」
リィナの三つ編みの陰で、首筋が、また赤くなった。今度は、耳の先から首の付け根まで、一息に。
「ご、ごめんなさい。わたし——」
「責めているのではない」
フィンは、右手で、リィナの手の上から自分の左腕を押さえた。自分の腕の冷たさと、リィナの手の温かさが、掌のあいだで混ざらずに並んでいた。
「君は、治せないと言うのが苦手だな」
リィナは、答えなかった。答えられなかった。前掛けの上に、ぽたりと一つ、滴が落ちた。
「巫女長には、言わないでくれ。隊の者にも」
「……言えません。言ったら、隊長さまは、弓を取り上げられます」
「そうだな」
「弓を置いたら、進みは遅くなります。何年も、何十年も、遅くなります」
「それも、そうだな」
フィンは、それ以上答えなかった。
弓を置けば、左腕はあと何十年かもつだろう。だが弓を置けば、森の縁に立つ者がいなくなる。沈め沼に来る人間を、次は別の誰かが射る。決まり通りに、正しく。子どもであっても、例外なく。
あるいは——と、フィンは思った。
巫女長が、いつか答えを出す日が来るなら。星屑が森の傷ではないと、民の前で認める日が来るなら。そのとき、沈め沼は必要なくなる。沼に人間が来る理由もなくなる。そうなれば、弓を置いてもいい。
それまでは。
「リィナ。ハンナ殿への次の手紙に、一つ書き添えてくれないか」
「……なにを、ですか」
「沈め沼の近くの、人間の村に、十にもならない娘が一人、流れ着いているはずだ。母親を亡くした娘だ。どこか、行き先があるなら」
リィナが、初めて顔を上げた。泣き腫らした目で、フィンの顔をまっすぐに見た。人の目を見て話せない娘が、九十年分の顔を覚えている男の目を、見ていた。
「……書きます」
「ありがとう」
フィンは袖を下ろし、立ち上がった。
庵を出ると、森は夜の沈黙に沈んでいた。見上げると、梢の隙間に星が見えた。本物の星だ。空に浮かんでいたという島々が砕け落ちる前から、あそこにあった星だ。
フィンは、左手を握ろうとした。
人差し指と、親指と、小指が曲がった。中指と薬指は、途中で止まった。止まった先が、冷たかった。
座の方角から、風もないのに、枯れ葉が一枚、落ちてきた。灰色に縮れた、白樫の葉だった。フィンはそれを右手で受け止めた。葉は、フィンの左腕と同じくらい、冷たかった。
フィン・ラス・エルディ
年齢: 132
所属: シルヴァリア森林域/森林警備隊「翠矢」
肩書き: 隊長
外見: 薄緑の髪を短く切り揃えている(エルフとしては異例)。左頬に矢傷。動作に無駄がなく、森の中では足音を一切立てない。人間の作った革の外套を着ており、それを同族から批判されている。
アーシェ・ミル・ロス
年齢: 89
所属: 無所属(放浪)
肩書き: 破門者
外見: 白緑の髪を人間風に無造作に束ね、耳を隠すために帽子を深く被っている。日焼けした肌(エルフには珍しい)。派手な人間の古着を重ね着し、姉とは正反対の格好を意図的に選んでいる。
シルヴィエル・アイナ・ロス
年齢: 240
所属: シルヴァリア森林域
肩書き: 巫女長
外見: 腰まで届く白緑の髪、瞳孔が縦に長い翠の目。裸足で、足首から先が樹皮のように硬化している——星蝕ではなく、森と繋がった証。表情の変化が極端に少ない。
ハンナ・ベルク
年齢: 33
所属: 聖典教会/辺境療養院「白灯」
肩書き: 院長・修道女




