第7章「枯れゆく静樹」/一 翠の矢
夜明け前の森は、音を持たない。
鳥はまだ眠っていて、風は梢の高さで止まっている。露が葉から葉へ落ちる音さえ、苔に吸われて地面まで届かない。フィン・ラス・エルディは、その沈黙の中に一本の杭のように立っていた。息を吐くのは四拍に一度。吐いた息が白くならないよう、口の中で温度を殺してから吐く。
九十年、この森の縁で同じことを繰り返してきた。
左の頬の古い矢傷が、冷えるとわずかに疼く。それが、まだ夜が明けきっていない合図だった。
境界の沼は、ここから北に三百歩。静樹の民が「沈め沼」と呼ぶ場所だ。森の中で見つかった星屑の欠片——巫女長の言う「森の傷」——は、すべてあの沼に運ばれ、沈められる。抜いた棘を捨てる場所。森の外でもなく、内でもない、その境目の泥の底に、百二十七年分の星屑が眠っている。
人間は、それを知っていた。
沼のほとりで、灯が三つ揺れている。油の灯だ。星屑の灯ではない。星屑の灯を買える者は、そもそもこんな沼に膝まで浸かりに来ない。
「……三人」
右手の岩陰で、部下のエルンが囁いた。囁くというより、唇の形だけだ。翠矢の隊員は、声を出さずに話す術を最初の十年で叩き込まれる。
「四人だ」
フィンは唇だけで返した。灯を持つ者が三人。沼の縁の葦の中に、灯を持たずにしゃがんでいる者がもう一人。小さい。子どもか、でなければ、ひどく痩せた大人だ。
隊の決まりは単純だった。沈め沼に踏み入った者には、まず一度、足元に矢を立てる。去らなければ、射る。
フィンは矢筒から一本を抜いた。弦に番える。右手で引き、左手で弓を支える。——その左手の、中指と薬指が、握りを包みきらなかった。
ほんのわずかな隙間だった。指の腹と弓の握りのあいだに、麦の穂一本ほどの空白がある。握れと命じても、指は途中で止まる。止まった先は、冷たい。自分の指なのに、他人の指を借りて握っているような、遠い冷たさだった。
フィンは握りを持ち替え、人差し指と親指で弓を支えた。構えは崩れない。崩れたことは、隊の誰にも気づかれていない。
息を止め、放つ。
矢は、灯の一つの足元、泥の中に音もなく突き立った。
灯が跳ねた。人間の男が振り返り、何か叫ぶ。森の外の言葉だ。フィンは人間の言葉を理解できる。九十年聞いていれば、嫌でも覚える。
「——いる、いるぞ、耳長だ!」
「構うな、掘れ! もう少しで拳が出る!」
「馬鹿、逃げ——」
去らなかった。
灯の一つが、泥の中に屈み込んだ。両腕を肘まで沈めて、何かを引き抜こうとしている。二人目は鋤を振り上げて、こちらの闇に向かって威嚇するように構えた。見えてもいない闇に向かって。
フィンは二本目を番えた。
紋が、両の前腕で目を覚ます。翠矢——自分の紋と、自分の隊と、同じ名だ。刻まれた線に意志を通すと、腕の内側を細い風が走り抜けるような感覚がある。放った矢は、視界に入っている限り、標的を追う。外れることはない。この九十年、一度も外れたことはない。
放った。二本目、三本目、四本目。
矢は闇の中で緩やかに曲がり、それぞれの胸に吸い込まれた。鋤が泥に落ちる音。灯が沼に転がり、じゅっと消える音。人の体が水に倒れる、重たい音。
三つの灯が、すべて消えた。
葦の中の小さな影だけが、動かなかった。
◆
夜が明けてから、フィンは沼に降りた。
死体を検めるのは、隊長の務めだった。部下には任せない。九十年前、初めて人を射たときに当時の隊長からそう教わり、その隊長が死んだあとも、フィンはそれを守っている。
一人目は、四十がらみの男だった。鋤を握ったまま仰向けに倒れている。指の関節が太く、爪の中まで土が詰まっている。農夫の手だ。首から紐で下げた小さな革袋を開けると、中には銅貨が七枚と、畳んだ紙が一枚。
紙には、人間の文字で数字が書かれていた。フィンは人間の文字も読める。これも、九十年のうちに覚えた。
——鎮蝕薬 十日分 銀貨二枚。未払い分 銀貨六枚。
療養院の請求書だった。宛名は、女の名前だった。
二人目は、まだ若い男だった。二十にもなっていないだろう。右手の甲に、下手な紋が刻まれている。自分で刻んだのだろう。線が震えて、ところどころ途切れている。その途切れた線の周りから、皮膚が灰色に変わりはじめていた。星蝕だ。まだ浅い。放っておいても、あと二十年は生きられたかもしれない。
三人目は女だった。沼の中から引き上げると、泥にまみれた両手に、小さな星屑の欠片を握りしめていた。粒級にも満たない、雫級の欠片が三つ。死んでも、指は開かなかった。
フィンは、三人の顔を順に見た。
見て、覚えた。
これで、三百十四人になる。
覚えようとしているのではない。覚えてしまうのだ。九十年のあいだに射た人間の顔を、フィンは一人残らず思い出せる。若い者、老いた者、泣いていた者、笑っていた者。昔は、それが誇りだった。自分は相手を物として射ているのではない、顔を持つ者として射ているのだと。
今は、それが重い。
ここ十年ほどで、沼に来る人間の顔が変わった。昔は、商人に雇われた荒くれ者が多かった。武器を持ち、仲間を連れ、エルフを殺してでも星屑を持ち帰る気で来る連中だった。今は違う。鋤を持った農夫。震える手で自分に紋を刻んだ若者。薬代の請求書を首から下げた父親。彼らは戦いに来ているのではない。泥の底の欠片を、一つでも多く掴んで帰りたいだけだ。
「隊長」
背後から、エルンが声をかけた。今度は、声に出して。
「葦の中の、あれは」
フィンは振り返った。
葦の陰に、子どもがしゃがみ込んでいた。十にもならない少女だ。夜のあいだ、ずっとそこにいたのだろう。膝を抱え、唇を紫にして、震えている。フィンが歩み寄っても、逃げなかった。逃げる力が残っていないのか、逃げても無駄だと分かっているのか。
少女の視線は、フィンではなく、泥の中の女に向いていた。
「……おかあさん、まだ、にぎってる」
人間の言葉だった。
フィンは、少女の前に膝をついた。何を言えばいいのか分からなかった。九十年、この森を守ってきた。三百十四人を射てきた。そのどれ一つとして、間違っていたと思ったことはない。命じられた通りに、決まり通りに、正しく射てきた。
正しく射た結果が、ここにある。
「エルン」
「はい」
「この子を、境の外の街道まで送れ。人間の村がある。そこまででいい」
「……隊長、それは」
決まりにはない。沈め沼に踏み入った者は、射る。子どもであっても例外はない。そう定めたのは巫女長で、それを九十年守ってきたのはフィン自身だった。
「私が命じた。責めは私が負う」
エルンは少しのあいだ黙っていたが、やがて頷き、少女を抱き上げた。少女は抵抗しなかった。ただ、エルンの肩越しに、最後まで泥の中の母親を見ていた。
フィンは女の手を取った。握りしめられた指を一本ずつ開き、雫級の欠片を三つ取り出す。欠片は、泥の中でも淡く紫に光っていた。
決まりでは、これも沼に沈め直すことになっている。
フィンは、それを自分の腰の革袋に入れた。なぜそうしたのか、自分でもよく分からなかった。
◆
沼から森の奥へ戻る途中で、フィンは足を止めた。
樹が、枯れていた。
静樹の森の樹は、枯れない。そう教えられて育った。巫女長の紋が森のすべての樹と繋がっている限り、森の樹は病まず、老いず、ただゆっくりと太くなり続ける。倒れるのは嵐か雷のときだけで、それさえ巫女長が先に察して、倒れる前に根を移す。
その樹は、嵐にも雷にも遭っていなかった。
白樫の古木だった。幹の太さは、大人が五人で手を繋いでも回りきらない。三百年はここに立っていただろう。その葉が、一枚残らず灰色に縮れていた。秋の紅葉とは違う。色が抜けたのではなく、色が止まったような灰色だった。
フィンは幹に掌を当てた。右の掌を。
冷たかった。樹皮の下に、流れているはずのものが流れていない。
ここ三年で、同じような樹を見るのは七本目だった。一昨年に、最初の二本。去年は四本。今年はまだ春だというのに、もう一本目がこれだ。フィンはそのたびに巫女長に報告してきた。巫女長はそのたびに、「森が自ら病んだ枝を落としておるだけじゃ」と答えた。
病んだ枝ではない。これは幹だ。根だ。
フィンは枯れ木の周りを歩いた。根元の土を、足先でわずかに掘る。黒い土の下から、古い石が覗いた。石には、浅い窪みがあった。何かが長いあいだ埋まっていて、それを抜いた跡のような、拳ほどの窪み。
見覚えがあった。
六十年前、フィンがまだ一介の隊員だった頃、この辺りで星屑の欠片を掘り出したことがある。巫女長の命令だった。森の中に残っている「傷」を一つ残らず抜き、沈め沼に運べ、と。隊総出で一年かけて森を歩き、土を掘り、欠片を抜いた。拳ほどの欠片が多かった。抜いた跡は、こういう窪みになった。
——偶然だ。
森じゅうで欠片を抜いたのだ。どこの樹の根元を掘っても、窪みの一つくらいは出てくるだろう。
フィンはそう思おうとした。思おうとして、思いきれなかった。ほかの六本の枯れ木の根元を、自分は掘ってみたことがない。
◆
静樹の座は、森の最も奥にある。
座とは言うが、建物ではない。千年を超えるという大樹の根が地上に盛り上がり、編まれた籠のような空間を作っている。その中心に、巫女長シルヴィエル・アイナ・ロスはいた。
裸足の足首から先が、樹皮のように硬い。星蝕ではない。森と繋がった証だと、民の誰もが知っている。白緑の髪は腰まで届き、縦に長い瞳孔の翠の目は、フィンが入ってきても動かなかった。
「沈め沼にて、人間四名。三名を射ました」
フィンは片膝をつき、報告した。
「四名のうち、一名は」
「子どもでしたので、境の外へ送らせました」
巫女長の目が、初めて動いた。フィンを見たのではない。フィンの肩の向こう、座の外の森の方を、ほんのわずかに見た。
「……フィン」
「はい」
「そなたは九十年、決まりを違えなんだ」
「はい」
「今日が、九十年と一日目か」
責める声ではなかった。問いでさえなかった。ただ、季節が一つ巡ったことを確かめるような声だった。巫女長にとって、人間の一生は季節の一つにすぎない。エルフの九十年も、せいぜい数年の感覚だろう。
「責めは私が負います」
「負わずともよい。子ども一人、沼の外へ出たところで、森は揺らがぬ」
それきり、巫女長はその件に触れなかった。
フィンは頭を下げたまま、次の報告に移った。
「北の沼道で、白樫がまた一本、枯れておりました。三年で七本目です」
「森が病んだ枝を——」
「幹です、巫女長。根まで冷えています」
遮ったのは、初めてだった。自分でも驚いた。座の中の空気が、一瞬だけ張り詰めた気がした。
巫女長は黙っていた。長いあいだ、黙っていた。エルフの「長いあいだ」は、人間には耐えられないほど長い。フィンは片膝をついたまま、自分の呼吸を四拍に一度に保った。
「……知っておる」
やがて、巫女長は言った。
「我には、森のすべての樹が見える。枯れた七本も、いま枯れかけておる十一本も」
十一本。フィンの知らない数だった。
「原因は」
「調べておる」
「私にできることは」
「ない」
静かな、しかし二度と開かない扉のような声だった。
フィンは、腰の革袋の重みを意識した。沼から持ち帰った、雫級の欠片が三つ。あの女が、死んでも手を開かなかった欠片。
言うべきことがあった。言いたいことも。
——巫女長、この者たちが何のために森へ入ったのか、一度お聞きになりましたか。
あの請求書のことを。震える手で自分に紋を刻んだ若者のことを。葦の中の少女のことを。森が枯れはじめたのと、沼に来る人間の顔が変わったのが、ほとんど同じ頃だということを。そして——六十年前に抜いた欠片の跡の上で、白樫が死んでいたことを。
「下がってよい、フィン」
「……はい」
フィンは立ち上がり、一礼して、座を出た。
言わなかった。九十年、一度も巫女長に反論しなかった男は、九十年と一日目も、結局それを言わなかった。
◆
癒し手の庵は、静樹の座から少し下った、小川のほとりにある。
夕暮れどき、フィンがその戸口に立つと、中から小さな悲鳴のような声が上がった。
「ひゃっ——た、隊長さま」
リィナ・ソルが、薬草を刻んでいた包丁を取り落としそうになっていた。淡い金緑の三つ編みが揺れ、耳の先がみるみる赤くなる。四十七歳。エルフとしては、まだ子どもから抜けきらない年だ。
「すまない、驚かせた」
「い、いえ、わたしが勝手に……あの、どうぞ」
リィナは目を合わせずに、奥の寝台を示した。フィンは外套を脱ぎ、左の袖をまくって、寝台の端に腰を下ろした。月に一度の、誰にも知らせていない診察だった。
リィナが、フィンの左腕を両手で包んだ。
途端に、彼女の手が変わる。震えが止まり、指先が確かな重さで皮膚を押す。患者の前に立つと、この娘は別人になる。手首から肘へ、肘から二の腕へ、ゆっくりと指を這わせていく。掌の紋——若葉——が、淡い緑に光っていた。
「……中指と薬指が、握れなくなった」
フィンが言うと、リィナの指が一瞬止まった。
「いつから、ですか」
「十日ほど前から。今朝、弓を持ったときに、はっきり分かった」
リィナは答えず、フィンの手を取って、指を一本ずつ曲げさせた。人差し指は曲がる。親指も。中指は、第二関節で止まる。薬指は、ほとんど曲がらない。小指は、まだ曲がる。
リィナは、フィンの前腕の内側に、そっと掌を当てた。
冷たいのが、自分でも分かった。彼女の掌の温かさが、肌の上で止まって、中まで入ってこない。先月は、まだ入ってきた。
「……肘の下まで、来ています」
リィナは、ようやく言った。声が細かった。
「先月は、手首の少し上まででした」
「進みが、速くなっているのか」
「エルフの星蝕は、人間の十分の一の速さだと言われています。でも、それは平均で……紋を使えば使うほど……」
リィナの言葉が途切れた。フィンは、彼女が何を言おうとしたか分かっていた。紋を使うのをやめれば、進みは遅くなる。弓を置けば。
「若葉で、どうにかならないか」
聞いてから、聞かなければよかったと思った。
リィナの紋は、傷の治りを速める。生命の流れを速める紋だ。星蝕は、その流れが止まる病だ。止まったものを速めることはできない。それはフィンも知っているし、リィナはフィンの百倍よく知っている。
リィナは、しばらく黙っていた。それから、顔を上げずに言った。
「……まだ、柔らかいところがあります。肘の上は、ちゃんと温かいです。だから、大丈夫です」
嘘だと、フィンには分かった。
嘘をつくとき、この娘は耳の先だけでなく、首筋まで赤くなる。今も、三つ編みの陰の首筋が、夕日よりも赤かった。
「そうか」
フィンは言った。
「ありがとう、リィナ」
リィナの肩が、小さく震えた。
フィンは袖を下ろし、外套を羽織った。立ち上がるとき、寝台の脇の小机に、人間の文字で書かれた紙の束が置かれているのが目に入った。封筒の端に、聖王国の療養院の印がある。
「……ハンナ殿からか」
リィナが、ぎくりと体を強張らせた。人間との文通は、森では禁じられている。それを知っているのは、この森ではフィンだけだった。見逃していることも、フィンだけが知っている。
「は、はい。あの……四十粒しか、来ないそうです。二百四十の寝台に、一月で四十粒。それで、みんなを看ているって」
リィナは早口で言った。言い訳のように。
「それと……最近、紫の目をしたお客が来るって。エルフの、男のひとだって。わたし、もしかしたらって——」
そこまで言って、リィナは口をつぐんだ。フィンの顔を見たからだ。
紫の目のエルフ。
フィンは、その名前を口に出さなかった。二十年前に森を追われた、翠矢の元副長。自ら星屑を体に取り込み、同胞を救う術を探そうとして、巫女長に破門された男。フィンがかつて「先輩」と呼んでいた男。
「……そうか」
それだけ言って、フィンは庵を出た。
小川の水音が、夕闇の中で妙に大きく聞こえた。フィンは腰の革袋に右手を入れ、三つの欠片を握った。欠片は、左腕よりも温かかった。
フィン・ラス・エルディ
年齢: 132
所属: シルヴァリア森林域/森林警備隊「翠矢」
肩書き: 隊長
外見: 薄緑の髪を短く切り揃えている(エルフとしては異例)。左頬に矢傷。動作に無駄がなく、森の中では足音を一切立てない。人間の作った革の外套を着ており、それを同族から批判されている。
シルヴィエル・アイナ・ロス
年齢: 240
所属: シルヴァリア森林域
肩書き: 巫女長
外見: 腰まで届く白緑の髪、瞳孔が縦に長い翠の目。裸足で、足首から先が樹皮のように硬化している——星蝕ではなく、森と繋がった証。表情の変化が極端に少ない。
リィナ・ソル
年齢: 47
所属: シルヴァリア森林域/癒し手の庵
肩書き: 見習い治癒者
外見: 淡い金緑の髪を三つ編みにした、まだ幼さの残る顔立ち(エルフの四十七歳は人間の十代半ばに相当)。薬草で汚れた前掛け。緊張すると耳の先が赤くなる。




