第6章「あと十九年」/一 山の客
ドラガルドには、空がない。
正確に言えば、ある。山脈の頂には雪が積もり、その上には、地上の人間が見上げているのと同じ空が広がっているはずだ。ただ、鉄脈公国の民の九割は、一生のほとんどをその空の下では過ごさない。山の腹の中、幾層にも掘り抜かれた岩の街で生まれ、働き、酒を飲み、死ぬ。頭の上にあるのは、星ではなく、岩盤に埋め込まれた灯石の、白く冷たい光だ。
ミカ・トゥーンは、その光が嫌いだった。
嫌い、というのは少し違うかもしれない。見飽きていた。六十三年、毎日同じ白さで、同じ高さに灯っている光。雨も降らなければ、日も暮れない。時を告げるのは、坑道の交代を知らせる鐘だけだ。
第三工房の作業台で、ミカは、油染みたつなぎの袖をまくり、一冊の本を広げていた。
人間の本だった。
表紙には、カルネイアの印刷工房の刻印がある。『水車機構図解・第二版』。商会の荷に紛れて山に入ってくる地上の書物を、ミカは十五のときから密かに買い集めてきた。ドワーフの尺度で十五歳は、まだ母親の膝の上でくず鉄を積んで遊んでいる年頃だ。
頁の図には、川の流れで回る木の輪が描かれていた。輪が回ると、歯車が回り、歯車が回ると、石臼が回る。
川。
ミカは、川を見たことがなかった。
山の中にも水は流れている。地下水脈だ。だがそれは、岩の隙間を黙って滲み出してくるもので、木の輪を回すほどの勢いはない。この本に描かれた川は、幅が十歩もあって、水面に空が映っているという。
空が映る水。
ミカは、自分の顎を撫でた。
つるりとしていた。髭は、三年前に剃った。ドワーフの女は、成人すると髭を蓄え、編み込んで、工房の印の革紐で縛る。母もそうしている。ミカは、それをしなかった。剃刀を当てた朝、第三工房の職人たちは一斉に手を止め、年寄りの一人は目を覆って祈りの言葉を呟いた。
母は、何も言わなかった。
ただ、その日の夕飯のとき、いつもより大きな声で、「今日の湯は熱い」と三回言った。
「ミカ!」
工房の入口で、誰かが叫んだ。
第三工房の見習い頭、ドゥリンだった。息を切らしている。
「お前の母ちゃんが、呼んでる! 炉心の方だ! 急げ!」
「なに、また坩堝が割れたの?」
「違う!」
ドゥリンは、髭を震わせた。
「客だ。——地上から、人間が来た!」
◆
王立鍛冶場「炉心」は、第七層の最奥にある。
山の腹の、最も熱い場所だ。地下深くから湧き上がる地熱を、太い煙道で引き込み、七十の炉を同時に焚いている。その熱気は、第七層に降りる螺旋階段の中ほどで、もう肌を焼きはじめる。
ミカは、その階段を、三段飛ばしで駆け下りた。
鍛冶場の入口に、人だかりができていた。鍛冶職人たちが、仕事の手を止め、槌を握ったまま、何かを遠巻きに見ている。
その輪の真ん中に、母がいた。
ヘルガ・トゥーン。王立鍛冶場の鍛冶頭。真っ赤な髭を編み込み、革紐で縛り、火傷で赤黒くなった両腕を、腰に当てて仁王立ちしていた。
その前に、人間が二人、立っていた。
一人は、少年だった。
砂色の癖毛に、そばかす。背は、ミカより頭ひとつ高い。人間は、みんな背が高い。けれど、身体つきは細く、頼りなかった。大きすぎる旅装の袖を、何重にも折り返している。鍛冶場の熱気に、顔を真っ赤にして、目をしばたたかせていた。
もう一人は、男だった。
煤で汚れた前掛け。火傷痕だらけの太い腕。癖の強い茶髪を布で縛っている。人間にしては、がっしりとした体格だった。そして、左の目が、炉の火を映して、虹色に濁っていた。
男は、胸に、布で包んだ細長いものを抱えていた。
「——十七年だ」
母が、言った。
声が大きかった。いつも大きいが、今日は、七十の炉の轟音を、全部押しのけるほど大きかった。
「十七年、音沙汰なしで、今さら何の用だ。ヨナ・スタイン」
ミカの足が、止まった。
ヨナ・スタイン。
その名前を、ミカは知っていた。山の誰もが知っている。けれど、誰も口にしない名前。
人間の子どもでありながら、母の工房で七年、刻紋を学び、そして、ドワーフの門外不出の技術を持ち出して山を下りた、裏切り者の名前。母が、公の場で破門を宣告した、唯一の弟子の名前。
ミカは、ずっと、その人に会ってみたかった。
「用は、ある」
人間の男——ヨナが、言った。
低い、無愛想な声だった。
「工房を、焼かれた」
鍛冶場が、静かになった。
七十の炉は、相変わらず轟々と鳴っていた。それでも、静かになったと、ミカには感じられた。
「教会の連中にだ。管理外の刻紋を作ってるってな。炉ごと、潰された。十二年、一度も消さなかった炉だ」
母は、何も言わなかった。
「新しい炉を作る。そのための、合金が要る。あんたの星屑合金だ。インゴットを三本。——それと」
ヨナは、胸に抱えていた包みを、母の前に差し出した。
「一人前かどうかは、あんたが決めろ」
布が、はらりとめくれた。
中から出てきたのは、小さな金槌だった。柄が擦り切れて、握りの部分だけが黒く光っている。ヨナの手には、明らかに小さすぎる金槌。
母は、その金槌を、長いあいだ見ていた。
それから、顔を上げて、ヨナの顔を見た。
そして——
ミカは、見た。
母が、右の拳を、振りかぶるのを。
鍛冶場の職人たちが、一斉に息を呑んだ。母の拳は、溶けた鉄を素手で捏ねる拳だ。人間の頭など、熟れた瓜のように割れる。
拳は、ヨナの顔の、指一本手前で、止まった。
止まって、ゆっくりと開いた。
開いた掌が、ヨナの頭の上に、どすんと置かれた。
「……馬鹿が」
母は、言った。
声が、少しだけ、小さくなっていた。
「破門ってのはな、二度と顔を見せるなって意味じゃねえ。一人前になるまで戻るなって意味だ。——十七年も、かかりやがって」
ヨナは、母の掌の下で、何も言わなかった。
ただ、生身の右目を、固く閉じていた。
◆
人だかりが散ったあとも、ミカは、鍛冶場の入口の柱の陰から、動けずにいた。
母とヨナは、炉の一つの前に並んで座り、ヨナの抱えてきた金槌を挟んで、何かを低く話していた。母の声は、もういつもの大きさに戻っていた。「女房が」「教会の」「銀環の」という言葉が、途切れ途切れに聞こえてきた。
「……あの」
横から、声がした。
ミカは、飛び上がりそうになった。
人間の少年が、いつの間にか隣に立っていた。熱気に真っ赤な顔で、額の汗を、折り返した袖で拭っている。
「すみません、驚かせて。僕、リュカ・ノーレンです。王国の……えっと、今は、ヨナさんの荷物持ちです」
「荷物持ち」
「はい。ほんとは、騎士団の従者見習いなんですけど。僕の仕えてる人が、カルネイアで調べ物があって動けないから、代わりにヨナさんについていけって。ヨナさん、道中、ほとんど喋らないから、ずっと一人で喋ってました」
少年は、へへ、と笑った。
ミカは、その顔を、まじまじと見上げた。
人間を、こんなに近くで見るのは、初めてだった。山に来る人間の商人は、みんな第一層の交易所から奥へは入れない。ミカは、交易所の格子越しに、何度か遠くから見たことがあるだけだ。
顔の皮膚が、薄い。髭がない。いや、男の子だから、そのうち生えるのだろうか。人間の男は、髭を剃るのだと、本で読んだ。
「……あなた、何歳」
「十六です」
「十六」
ミカは、思わず繰り返した。
十六歳。ドワーフなら、まだ言葉も片言の幼子だ。それが、この背丈で、ひとりで山を越えてきた。
「あなたは?」
「六十三」
「ろくじゅう……」
少年は、目を丸くした。
それから、ミカの顔を、じっと見た。顎のあたりを。
「あの、失礼だったら、ごめんなさい。ドワーフの女の人って、髭を生やすって聞いてたんですけど……」
ミカは、自分の顎に手をやった。
つるりとしていた。
ここへ来るまでの三年間、この顎について、山の誰かに訊かれたことはなかった。訊かれる前に、目を逸らされたからだ。
「剃ったの」
ミカは言った。
「剃っちゃいけないって、みんな言うけど。わたしは、髭を編む時間があったら、本を読みたかったの。それだけ」
「へえ」
少年は、感心したように頷いた。
「いいですね、それ」
「……いい?」
「はい。僕も、字を書くのが遅いから、髭を編む時間があったら字の練習したいです。まだ生えてないけど」
ミカは、しばらく、少年の顔を見ていた。
そして、自分でも気づかないうちに、笑っていた。
山で、この顎のことで笑ったのは、初めてだった。
◆
「ねえ、リュカ」
「はい」
「地上の川って、本当に空が映るの?」
二人は、鍛冶場の入口の石段に並んで腰掛けていた。ミカは、懐に入れていた『水車機構図解』を膝の上に広げ、川の図を指さしていた。
「映りますよ。晴れてると青くて、夕方は赤くて、夜は星が映ります」
「星も」
「はい。僕の村の近くの川は、夏になると、星が映って、水の中にも空があるみたいになるんです」
少年は、そこで少しだけ、言葉を切った。
「……もう、村はないんですけど」
ミカは、少年の横顔を見た。
何か訊こうとして、やめた。人間の顔は、ドワーフより薄い分、中身が透けて見える気がした。訊かない方がいいことが、そこに書いてあった。
「あの人のこと、教えて」
ミカは、話を変えた。炉の前で母と話しているヨナの背中を、顎で示した。
「ヨナさんですか?」
「うん。わたし、ずっと会いたかったの。母さんの技術を、人間の世界に持っていった人。地上で、刻紋の工房を開いてるって、商人の噂で聞いてた。わたし、あの人が作った武器を、一度だけ交易所で見たことがあるの。刃に彫られた紋の線が、母さんのと同じなのに、どこか違ってた。人間の手の癖が、混ざってた」
ミカは、自分の指先を見下ろした。
右手の五本の指の腹に、細かな紋が刻まれている。紋名、継目。異なる素材同士を、紋で繋ぐ。母の星屑合金が「混ぜる」技術なら、ミカのそれは「繋ぐ」技術だ。まだ誰にも、その使い道を認められていないけれど。
「母さんの技術と、人間の手の癖が、一本の刃の中で繋がってた。わたし、あれを見て、思ったの。山の中で、同じ技を八十年磨くより、外に出て、違うものと繋げた方が、ずっと面白いものができるんじゃないかって」
リュカは、ミカの指先を、じっと見ていた。
「……それ、ヨナさんに言ったら、たぶん三時間止まらないですよ」
「え」
「ヨナさん、自分の打った剣の話を始めると、止まらないんです。カルネイアの焼け跡の小屋で、アルディスさんの剣の設計図の話を、夜明けまでしてました。アルディスさんは途中で寝ちゃって、僕だけ最後まで聞いてました」
「アルディスさん」
「僕の仕えてる人です。王国の騎士で、右腕が」
少年は、そこで口をつぐんだ。
それから、少し考えて、続けた。
「右腕が、星蝕なんです。ヨナさんは、その人のために、剣を打とうとしてるんです。腕に彫らないで、剣に彫る紋を。そのための炉を作るのに、合金が要るんです」
ミカは、炉の前の二人の背中を見た。
母が、ヨナから何かを受け取っていた。薄い鉄の板だった。母はそれを、炉の火にかざして、長いあいだ見ていた。
鉄の板の表面に、環の形の紋が、三重に刻まれているのが、遠目にも見えた。
そして、その環の外側に、細い線が一本、添えられているのも。
ミカの指先が、ちりっと疼いた。
継目の紋が、何かに反応していた。
あの線。あの一本の線は、紋と、紋の外にあるものを「繋ぐ」線だ。ミカには、それが分かった。見た瞬間に、指先が分かった。
母は、鉄の板を炉から離した。
そして、ヨナに向かって、何かを言った。
ミカには、聞こえなかった。
ただ、母が首を横に振るのが見えた。一度だけ、重たく。
ヨナが、立ち上がった。何か言い返している。母も立ち上がった。二人の声が、炉の轟音を越えて、大きくなった。
「——合金は、山の外に出せねえ! 大公の命令だ!」
「おれが持ち出した技術は、とっくに山の外にある! 今さら何を——」
「技術の話じゃねえ! 合金の話だ! 星屑の話だ!」
母の声が、鍛冶場じゅうに響いた。
「山の星屑は、一粒たりとも、もう外に出せねえんだよ!」
職人たちが、また手を止めた。
ミカは、石段の上で、身体を固くした。
母の声には、怒りがあった。けれど、怒りだけではなかった。ミカは、六十三年、母の声を聞いてきた。怒鳴る声も、笑う声も、酒に酔って歌う声も。
今の声は、そのどれとも違った。
怯えている声だった。
「……一粒たりとも、って」
リュカが、小さな声で言った。
「どういう意味ですか。ドラガルドって、星屑がいっぱいあるんじゃ」
ミカは、答えられなかった。
答えを、知らなかった。
ただ、母が怯えているということだけが、分かった。溶けた鉄を素手で捏ねる母が。大公と何十年も殴り合ってきた母が。
そして、その怯えの理由を、山の中の誰かが知っているはずだ、ということも。
ミカは、石段から立ち上がった。
「リュカ」
「はい」
「第七坑道に行ってみない?」
「……え」
「この山で一番大きい星屑の鉱脈。母さんが星屑の話をするとき、いつもその坑道の名前が出てくるの。坑道長のブラムおじさんなら、何か知ってる」
ミカは、工具帯を締め直した。
「わたし、坑道には入っちゃいけないって言われてるんだけどね。ブラムおじさんに」
「じゃあ、駄目なんじゃ……」
「うん。駄目」
ミカは、剃った顎を上げて、にっと笑った。
「だから、行くの」
ミカ・トゥーン
年齢: 63
所属: 鉄脈公国ドラガルド/技師見習い
肩書き: 第三工房技師
外見: 母譲りの赤毛を短く刈り、ドワーフの伝統である髭を剃り落としている(同族からは強く咎められる行為)。工具帯を斜めがけにし、油の染みたつなぎを着ている。ドワーフとしてはやや細身。
ヘルガ・トゥーン
年齢: 142
所属: 鉄脈公国ドラガルド/王立鍛冶場「炉心」
肩書き: 鍛冶頭
外見: 筋骨隆々とした腕、火傷で赤黒くなった前腕。髪も髭も(ドワーフの女性も髭を蓄える)真っ赤で、編み込んで革紐で縛っている。声が異様に大きい——長年の炉の音で耳が遠い。
ヨナ・スタイン
年齢: 29
所属: 自由都市同盟カルネイア/詠紋鍛冶工房「星槌」
肩書き: 親方
外見: 煤で汚れた前掛け、火傷痕だらけの太い腕。癖の強い茶髪を布で縛っている。左目は義眼——星屑の破片が飛び込んだ事故で失った。義眼もまた星屑製で、光の下では虹色に濁る。
リュカ・ノーレン
年齢: 16
所属: 聖王国ヴェルディナ/銀環騎士団
肩書き: 従者見習い
外見: 砂色の癖毛、そばかす。まだ声変わりが済んでいない。支給された鎧が大きすぎて、袖を折って着ている。いつも何かを抱えて走っている。




