第4章「天秤楼の値づけ」/二 灰帳の茶
迎えは、その日の夕刻に来た。
蝋燭屋の階段の、三段目と七段目が、同時に鳴った。
二人いる、とニナは思った。そして、どちらの足音も、隠そうとしていない。
扉が叩かれた。三度、間を置かずに。礼儀正しい叩き方だった。
「灯り屋のニナ・カルテ殿」
扉の向こうで、男の声がした。
「灰帳の元締めより、茶のお誘いです」
テオが、部屋の隅で、音もなく立ち上がった。窓の方へ目をやる。窓の下は運河だ。三階から飛び降りれば、泥の浅瀬に落ちる。死にはしない。死にはしないが、右手が使えない今のテオが、泳いで逃げ切れるとは思えなかった。
ニナは、弟分に向かって、小さく首を振った。
「断ったら」
扉越しに、ニナは訊いた。
「断ることもできます、と申し上げるよう言いつかっております」
男の声は、少しも変わらなかった。
「元締めは、いつも選択肢をお出しになりますので」
ニナは、単眼鏡をかけ直した。
灰帳の元締めが出す選択肢が、どういうものか。この街で知らない者はいない。どちらを選んでも、同じ場所に着く。ただ、着くまでの道が違うだけだ。
「行くよ」
ニナは言った。
「テオは、ここに残る」
「元締めは、お二人でと」
「私一人で行く。それが嫌なら、断る方を選ぶ」
扉の向こうで、しばらく沈黙があった。
やがて、男の声が言った。
「……承知しました。お一人で」
ニナは、懐の包みを確かめた。
それから、テオの方を向いた。
「姉貴」
「これ、預かってて」
ニナは、懐から包みを出して、テオの左手に押しつけた。
「え、でも、持ってかないと——」
「持ってったら、取られる」
ニナは、弟分の、耳たぶのない方の耳に口を寄せた。
「三刻経って私が戻らなかったら、赤鎖の本部へ行って。ドミニクって斡旋人がいる。私の名前を出せば、話は聞いてくれる」
「姉貴」
「三刻」
ニナは、身体を離した。
テオの顔が、九歳の子どもに戻っていた。
ニナは、その頭を、軽く小突いた。
「大丈夫。お茶飲んでくるだけだよ」
◆
灰帳は、場所を持たない。
カルネイアの裏市場は、運河の底に沈んだ古い倉庫街と、評議会の地下の廃水路と、港の沖に係留された廃船と、そのほか数え切れない場所に散らばっている。今日の市場がどこに立つのかは、その日の朝まで誰も知らない。元締めのいる場所も、同じだった。
ニナが連れていかれたのは、旧市街の外れの、閉鎖された礼拝堂だった。
教会が五十年前に手放した建物で、屋根の半分が落ちている。落ちた屋根の穴から、夕暮れの空が覗いていた。長椅子はすべて取り払われ、代わりに、身廊の真ん中に、小さな円卓がひとつと、椅子が二つ置かれていた。
円卓の上に、茶器があった。
湯気が、立っていた。
その向こうに、黒衣の女が座っていた。
「ようこそ、灯り屋さん」
低い、ゆっくりとした声だった。
喪服のような黒衣。頭から肩まで、黒紗の被り物を垂らしている。その紗の下に、顔が透けて見えた。
顔の右半分に、網目があった。
細い、透明な線が、蜘蛛の巣のように、額から頬、頬から顎へと広がっている。線の交わるところだけが、小さく盛り上がって、光を鈍く跳ね返していた。結晶だった。顔そのものが、ひとつの紋になっている。
灰帳の元締め、カルミラ・ヴォス。
「お掛けになって。お茶が冷めますわ」
ニナは、椅子に座った。
カルミラは、金で装飾した長い爪で、茶器を摘まみ、茶を注いだ。紅い茶だった。甘い、花のような香りがした。
「南の島の茶ですの。わたくし、渋いお茶は好みませんので」
「いただきます」
ニナは、茶碗を手に取った。
口をつけた。熱く、甘かった。毒は入っていないだろう、と思った。灰帳の元締めは、茶に毒を入れない。入れる必要がないからだ。
「弟さんは、お元気?」
カルミラが、微笑んだ。結晶の網目が、微笑みに合わせて、わずかに軋んだ。
「右手の指が三本、透けているそうですわね。お気の毒に。あの子の指は、この街でいちばん器用な指だと、わたくしの部下たちも褒めておりましたのに」
「……よくご存じで」
「存じておりますわ。聖遷祭の朝から、ずっと」
ニナは、茶碗を卓に置いた。
手が、震えていなかった。震えていないことを、確かめてから置いた。
「単刀直入に申しますわね。わたくし、急いでおりますの」
カルミラは、黒紗の下で、自分の頬の網目を指先でなぞった。
「四年で片づけねばならないものですから。……ええ、顔をご覧のとおり」
「匣が欲しい」
「ええ」
「いくらで」
「金貨三万」
ニナは、一瞬、自分の耳を疑った。
金貨三万。天秤楼の、一年の商いに匹敵する額だ。カルネイアの評議員の椅子が、十脚は買える。
「それに加えて」
カルミラは、茶を一口飲んだ。
「弟さんの身の安全を、わたくしが保証いたします。教会の手も、王国の手も、黒鴉の手も、あの子には届かないように。この街にいる限り、一生」
カルミラは、黒紗の下で、ニナの喉に目をやった。
「それから、灯り屋さんのお薬。雫級を、毎月、お望みの量だけお届けしますわ。天秤楼の札がいくらになろうと。——弟さんが、もう二度と、教会の荷車に手を入れずに済むように」
◆
ニナは、すぐには答えなかった。
答える代わりに、訊いた。
「なぜ、それほど」
「あら。値段の理由を訊くのは、灯り屋さんの流儀でしたかしら」
「私の流儀は、聞いた内容で値段を決めること。だから、中身を知らないものの値段は、決められない」
カルミラは、ゆっくりと笑った。
「では、少しだけ、中身をお聞かせしましょう」
元締めは、茶碗を置いた。長い爪が、陶器の縁で、かちりと鳴った。
「あの匣は、教会のものではありませんのよ」
「教会の荷車から出てきた」
「教会が、持っていただけですわ。三年前に、横から攫って」
ニナは、単眼鏡の奥で、目を細めた。
三年前。ソルラの掌が読んだのと、同じ数字。
「では、本当の持ち主は」
「生きておりますわ」
カルミラは、あっさりと言った。
「三年前に、目を覚まして。今は、剣を下げて、どこかを歩いております。自分が何の持ち主なのかも知らずに」
屋根の穴から、夕暮れの風が吹き込んだ。黒紗が、わずかに揺れた。
「わたくしは、あの匣を、持ち主に返して差し上げたいの」
「……親切ですね」
「いいえ」
カルミラは、微笑んだまま、首を振った。
「わたくしは、親切ではありません。返せば、持ち主は、自分が何者だったかを思い出す。思い出せば、この大陸の誰もが隠してきたものが、表に出る。教会も、王国も、森の長老たちも、山の大公も。わたくしは、それが見たいのですわ。四年のうちに」
ニナは、何も言わなかった。
カルミラが、何を言っているのか、半分も分からなかった。分からないまま、その言葉の一つ一つを、喉の奥に刻みつけていた。
反響の紋は、聞いた声を忘れない。
「さあ、灯り屋さん」
カルミラは、両手を卓の上で組んだ。
「金貨三万と、弟さんの一生と、あなたの声。お売りになる?」
「売らない」
ニナは、言った。
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。
カルミラの微笑みが、ほんのわずかに、形を変えた。
「理由を伺っても?」
「売っちゃいけないものが、あるから」
「それは、何ですの」
ニナは、少し考えた。
考えて、正直に答えることにした。
「分からない」
「分からない?」
「私は、売っていいものと、売っちゃいけないものの線を、自分の中に持ってる。今まで、その線を越えたことはない。この匣は、線の向こう側にある。なぜ向こう側なのかは、まだ分からない。分からないから、売らない。分かってから、決める」
カルミラは、しばらく、ニナの顔を見ていた。
それから、黒紗の下で、目を閉じた。
「……残念ですわ」
顔の網目が、光った。
◆
恐怖は、音もなくやってきた。
最初は、指先だった。茶碗を持っていた指が、冷たくなった。それが、手首へ、腕へ、肩へと這い上がってきた。
心臓が、跳ねた。
息が、浅くなった。
理由のない恐怖だった。何かが怖いのではない。怖いということそのものが、胸の奥から湧き上がってきて、止まらない。屋根の穴の暗がりが、何かを隠しているように見えた。円卓の向こうの女が、人ではない何かに見えた。自分の喉の透けた皮膚が、今この瞬間にも、首全体に広がっていくような気がした。
声が出なくなる。
明日にも。今夜にも。今すぐにも。
テオの顔が浮かんだ。透けた三本の指。九歳の痩せっぽちの顔。三刻経って私が戻らなかったら。三刻。もう、どれだけ経った。
売れば、と、頭のどこかが囁いた。
売れば、この恐怖は止まる。金貨三万。テオの一生。毎月届く雫級。瓶の底の澱を、もう数えなくていい。客の前で、喉を削らなくていい。テオが、私の薬のために、二度と教会の荷車に手を入れなくていい。売れば。売れば。
「灰帳、と申しますの」
カルミラの声が、遠くから聞こえた。
「わたくしの紋。恐怖を、少しだけ大きくして差し上げる紋ですわ。ほんの少しだけ。あなたが元々持っていた恐怖を、ほんの少しだけ。——わたくしは、何も新しいものを差し上げてはおりませんのよ」
ニナは、卓の縁を掴んだ。
指の関節が、白くなった。
怖かった。
本当に、怖かった。
それでも。
ニナは、喉に意志を通した。
反響の紋が、冷たく、目を覚ました。
そして、口を開いた。
「——あの匣は、教会のものではありませんのよ」
出てきたのは、カルミラ・ヴォスの声だった。
低く、ゆっくりとした、甘い茶の香りを纏った声。寸分違わず。
「——三年前に、目を覚まして。今は、剣を下げて、どこかを歩いております。自分が何の持ち主なのかも知らずに——」
カルミラが、目を開けた。
顔の網目の光が、揺らいだ。
ニナは、紋を止めた。喉の奥が、焼けるように冷たかった。咳が込み上げてきたのを、歯を食いしばって堪えた。
「……今の声」
ニナは、自分の声で言った。掠れて、ほとんど息だけの声だった。
「今の声を、私は、どこででも鳴らせる。評議会の議場でも。天秤楼の七層でも。教会の、大司祭の前でも」
カルミラは、動かなかった。
「匣の持ち主が生きていて、剣を下げて歩いてるって、灰帳の元締めが知ってる。それを、教会が聞いたら。——元締めの四年は、もっと短くなるんじゃないかな」
長い、沈黙があった。
屋根の穴の向こうで、夕暮れが夜に変わっていった。
やがて、胸の奥の恐怖が、潮が引くように、少しずつ小さくなっていった。
カルミラの顔の網目が、光を失っていた。
「……素晴らしいわ」
元締めは、囁くように言った。
「本当に、素晴らしい。わたくしの弟子の中にも、あなたほど肝の据わった子は、一人しかおりませんでしたわ。——その子は、今は天秤楼の七層におりますけれど」
カルミラは、冷めた茶を、ゆっくりと飲み干した。
「今日のところは、あなたの勝ちにして差し上げます。灯り屋さん」
「今日のところは」
「ええ。わたくし、急いではおりますけれど、四年もございますもの」
元締めは、黒紗の下で、優しく微笑んだ。
「それに、あなたの喉は、四年ももちませんでしょう?」
◆
蝋燭屋の三階に戻ったのは、二刻半が過ぎた頃だった。
テオは、扉の前で、包みを抱えて座り込んでいた。ニナの顔を見るなり立ち上がり、何か言おうとして、言葉にならずに、ただ姉の外套の袖を掴んだ。
「……戻ったよ」
ニナは、ほとんど声にならない声で言った。
テオは、何も言わなかった。
袖を掴んだまま、しばらく離さなかった。
◆
夜更け。
テオは、部屋の隅で、包みを抱えたまま眠っていた。左手で、しっかりと。透けた右手は、胸の上に置かれていた。
ニナは、窓辺に座っていた。
満ち潮の、海の匂いがした。
喉が、痛かった。反響を二度使った。それも、あの恐怖の中で、全力で。手鏡を見なくても分かった。透けた範囲が、今日一日で、また広がっている。
引き出しから、硝子瓶を出した。
振って、澱を立たせて、一口飲んだ。冷たい粒が、喉の内側へ吸い込まれていく。しばらくすると、焼けるような痛みが、少しだけ引いた。
少しだけ、だった。今日広がった分は、もう戻らない。
瓶の底の澱は、三日分になっていた。
金貨三万を断った夜に、薬の残りを数えている。ニナは、自分が可笑しくて、口の端だけで笑った。
ニナは、卓の上の紙を引き寄せた。
ペンを取った。
声を失う前に、何を言い残すか。
今まで、そこでいつも止まっていた。今夜は、止まらなかった。書くことが、多すぎるくらいあった。
一つ目。テオに。
——君のせいじゃない。騎士の腕も、祭りの人たちも、君のせいじゃない。それから、私の薬のために、もう何も盗まなくていい。私の喉は、君の指と引き換えにするほどの値打ちはないよ。
二つ目。ソルラに。
——残りの半分が分かったら、約束通り最初に売る。値段は、タダでいい。タダは一番高いって、君が言ってたから。
三つ目。
ニナは、ペンを止めた。
三年前。落下地点。掘り出された。剣を下げて歩いている。自分が何の持ち主なのかも知らずに。
どこかで聞いた数字。どこかで聞いた声。
反響の紋は、聞いた声を忘れない。ニナは目を閉じて、記憶の棚を、一段ずつ辿っていった。
そして、見つけた。
数年前、偶然聞いてしまった、あの会話。教会の星屑輸送に関わる、二人の司祭の囁き声。ニナを最も危険な人間にした、あの声の、その片隅に。
——落下地点の件は、黒鴉に先を越された。掘り出されたのは、器だけではない。
ニナは、目を開けた。
ペンを握り直した。
三つ目は、まだ、誰に宛てるのか決まっていなかった。それでも書いた。いつか、声が出なくなったとき、この紙が代わりに喋ってくれるように。
窓の外で、天秤楼の頂の天秤が、夜風に軋んでいた。
明日の朝、その皿には、また新しい値段が掛けられる。
ニナ・カルテは、その値段が、少しでも正しいものであることを願った。
自分では、もう、祈り方を知らなかったけれど。
ニナ・カルテ
年齢: 22
所属: 自由都市同盟カルネイア/無所属(情報屋)
肩書き: 「灯り屋」
外見: 黒髪の断髪、右目に単眼鏡。痩せていて、いつも同じ色褪せた外套を着ている。指先はインクとチョークで汚れている。表情の変化が乏しく、笑うときは口の端だけ動く。
テオ・ブランシュ
年齢: 18
所属: 自由都市同盟カルネイア/無所属
肩書き: スリ
外見: くすんだ金髪、痩せた頬、異様に長い指。動きが猫のようで、狭い場所を通るのが得意。片方の耳たぶがない(過去に捕まったときに削がれた)。人懐こい笑顔を武器にしている。
ソルラ・ヴィント
所属: 自由都市同盟カルネイア/星屑交易ギルド「天秤楼」
肩書き: 商会長
カルミラ・ヴォス
年齢: 44
所属: 自由都市同盟カルネイア/裏市場「灰帳」
肩書き: 元締め
外見: 黒衣に喪服のような黒紗の被り物。顔の右半分に薄い結晶の網目が広がっており、それを隠さない。声は低く、ゆっくり喋る。爪を長く伸ばし、金で装飾している。




