第4章「天秤楼の値づけ」/一 灯り屋と天秤楼
自由都市カルネイアでは、何でも売れる。
運河の水が売れる。運河の水を汲む権利が売れる。その権利を担保にした借用書が売れ、借用書が焦げついたという噂が売れ、噂が嘘だったという証言がまた売れる。塩も、絹も、星屑も、人の名前も、ここでは同じ秤に載る。
だから、ニナ・カルテの商売も成り立つ。
蝋燭屋の三階、傾いた屋根裏の一室。窓はひとつきりで、運河に面している。潮の満ち引きのたびに水の匂いが変わるので、ニナは窓を見なくても時刻が分かった。いまは引き潮で、泥と藻の匂いがする。夕刻の二つ前の鐘が、さっき鳴ったばかりだった。
卓の向こうに、客がひとり座っていた。
羊毛商組合の書記である。四十がらみの、指の太い男。膝の上で帽子を握りつぶすように抱え、しきりに唇を舐めていた。
「——それで」
男は言った。
「本当に、あの男がそう言ったのか。うちの組合長が、評議会の前夜に、塩商のところで」
「言ったよ」
ニナは答えた。
「聞きたい?」
「いくらだ」
「聞いた内容で決める。いつもそう言ってるでしょ」
男は、帽子をさらに握りつぶした。それから、小さく頷いた。
ニナは、自分の喉に指を当てた。
細い首の、ちょうど喉仏の下。そこに、爪の先ほどの紋が刻まれている。紋名、反響。一度聞いた声を、そのまま、寸分違わず、この喉で鳴らし直すことができる。
意志を通すと、喉の奥がひやりと冷えた。
ニナは口を開いた。
「——羊毛の関税なんぞ、評議会でいくらでも下げてやるさ。下げた分は、塩で取り返す。組合の連中には、わしが身を削ったと言っておけばいい。あいつらは、わしの顔しか見ておらん——」
出てきたのは、ニナの声ではなかった。
太く、湿った、年配の男の声。語尾に港訛りが残り、笑うときに喉で痰が絡む。羊毛商組合の組合長その人の声だった。三日前の夜、塩商の屋敷の裏口で、ニナが壁越しに聞いたままの声。
客の顔から、血の気が引いた。
帽子が、膝から床に落ちた。
ニナは、口を閉じた。喉の冷たさが、ゆっくりと引いていく。
「銀貨四十」
と、ニナは自分の声で言った。
客は、何も言わずに、懐から革袋を出した。数えもせずに、卓の上に置いた。
◆
客が帰ったあと、ニナは窓を開けた。
引き潮の泥の匂いが、部屋に入ってきた。
それから、咳をした。
一度では止まらなかった。二度、三度。喉の奥で、何か硬いものが擦れ合うような音がした。咳の終わりに、声にならない、ひゅう、という細い音が漏れた。咳が収まるまで、彼女は窓枠に手をついて、背を丸めていた。
収まってから、卓の上の手鏡を取った。
顎を上げ、喉を映した。
反響の紋の周りの皮膚が、透き通っていた。
去年の今ごろは、紋のすぐ縁だけだった。春には、親指の幅になった。いまは、喉仏の下を横切って、指三本の幅に届いている。透けた部分の縁は、霜が降りたように白く濁っていて、その濁りが、日ごとに少しずつ外へ這い出していく。透けた皮膚の奥に、自分の喉の中が見えそうで、ニナはいつも、そこまで覗き込む前に目を逸らす。
ニナは、卓の引き出しから、小さな硝子瓶を出した。
鎮蝕薬。雫級の星屑を砕いて、水に溶いたもの。瓶の底に、銀色の澱が、指一本分だけ沈んでいる。
瓶を振って澱を立たせてから、一口だけ、飲んだ。
冷たかった。水の冷たさではない。喉を落ちていく星屑の粒が、透けた皮膚の内側へ、吸い寄せられていくような冷たさだった。
四半刻待って、もう一度、鏡を見た。
縁の白い濁りが、薄くなっていた。霜が朝日に溶けるように濁りが引いて、その下から、くすんだ肌の色が、ぼんやりと戻ってきている。喉の奥で擦れていた硬いものも、少し、角が取れた。
「……あ」
声を出してみた。さっきよりは、ましな声だった。
けれど、透き通った真ん中は、何も変わらなかった。
鎮蝕薬は、透けたものを元には戻さない。濁りかけた縁を押し戻して、進みを少し遅らせるだけだ。効き目は半日。夜には、また霜が降りる。だから朝と晩に飲む。飲み続ける限り、声は、どうにか保てる。
飲み続ける限りは。
ニナは、瓶を窓の光にかざした。澱は、あと四日分だった。
天秤楼の皿に掛かる雫級の札は、この半年で倍になった。星蝕の患者が増えるほど、薬は高くなる。薬代を稼ぐには、客の前で反響を使うしかない。反響を使えば、喉はまた透ける。今日の銀貨四十で、薬は十日分。今日の一度で、喉はどれだけ進んだのか。
輪だ、とニナは思った。
どこにも切れ目のない、閉じた輪。
声が出なくなるまで、あとどれくらいか。
宮廷の術師なら、数字で言えるのだろう。王国には、他人の余命を目で読む女がいると聞く。ニナはその女に会ったことがない。会いたいとも思わない。数字を知ってしまったら、その数字に合わせて生きなければならなくなる。
それでも、ときどき考える。
声を失う前に、何を言っておくべきか。
誰に、何を。
考えはじめると、いつも途中で止まる。言っておくべきことが多すぎるのか、少なすぎるのか、それすら分からない。他人の声なら、いくらでも鳴らし直せる。自分の声で言いたいことが、自分でよく分からない。
ニナは、瓶を引き出しに戻して、鏡を伏せた。
そのとき、階段が軋んだ。
◆
蝋燭屋の階段は、三段目と七段目が鳴る。
ニナは、客の足音を覚えている。羊毛商の書記は、三段目も七段目も、どすんと踏んだ。蝋燭屋の親父は、三段目だけ避ける。ここへ来る者の多くは、どちらかを鳴らす。
いまの足音は、どちらも鳴らさなかった。
鳴らさずに上がってこられる人間を、ニナはこの街に一人しか知らない。
扉が、ノックもなしに開いた。
「……よう、姉貴」
テオだった。
ニナは、しばらく何も言わなかった。
弟分の顔を、上から下まで見た。
くすんだ金髪は、泥と埃で灰色になっていた。頬が、出ていったときより明らかにこけている。外套の裾は擦り切れ、靴の片方は底が剥がれかけていた。片方の耳たぶのない耳が、夕陽に赤く透けていた。
そして、いつもの、人懐こい笑顔。
笑顔だけが、いつも通りだった。
「王都に行ってたんじゃないの」
ニナは言った。
「祭りの稼ぎ時だって。一月は戻らないって」
「うん、まあ。予定変更」
テオは、へらりと笑って、部屋に入ってきた。
扉を閉めた。閉めるとき、右手を使わなかった。左手で閉めた。
ニナの単眼鏡の奥で、右目が細くなった。
「手」
「ん?」
「右手。見せて」
「いや、別に、たいしたことじゃ——」
「テオ」
ニナは、声を低くした。
テオは、笑顔のまま、しばらく黙っていた。
それから、観念したように、右手を外套の下から出した。
布を巻いていた。汚れた、裂けた布。それを、左手でゆっくりとほどいた。
人差し指と、中指と、薬指。
三本とも、第二関節から先が、透き通っていた。
夕陽が、その指を通り抜けて、床に淡い虹を落とした。
ニナは、椅子から立ち上がった。
立ち上がって、何をするつもりだったのか、自分でも分からなかった。弟分の手を取ろうとしたのか。叩こうとしたのか。ただ、座っていられなかった。
「いつから」
声が、掠れた。喉のせいなのか、それ以外のせいなのか、分からなかった。
「十三日前。祭りの朝」
「何に触った」
テオは、答える代わりに、懐に左手を入れた。
取り出したのは、裂けた布の包みだった。指に巻いていたのと同じ布だ。それを、卓の上に置いた。そっと。まるで、卓が割れるのを恐れるように。
布の端が、はらりとめくれた。
掌ほどの、黒い匣が、そこにあった。
◆
「教会の荷車から、掏った」
テオは、床に座り込んで、壁に背を預けていた。ニナが出してやった蕪の汁を、左手の匙ですすりながら。
「聖遷祭の行列。三台目の箱車の、横っ腹に、小さい開き口があってさ。封蝋だけで閉じてあった。封蝋なんて、俺の指なら、触ればすぐ外れる。中に手を入れたら、これが入ってた」
「星屑だと思ったんだ」
「思ったよ。教会の荷車だぜ。星屑以外に何が入ってるんだよ」
テオは、汁の椀を膝に置いた。
「聖遷祭の箱車には、国中から集めた聖遺が積んであるって、王都の故買屋が言ってた。雫級なら、一掴みでよかったんだ。一掴みあれば、姉貴の薬が半年もつ。半年、客の前で喉を使わなくて済む」
ニナは、黙った。
「……祭りの稼ぎ時って、言ってたのは」
「嘘。ごめん」
テオは、へらりと笑おうとして、うまく笑えなかった。
ニナは、弟分の透けた三本の指を見た。
自分の喉のために、この子は教会の荷車に手を入れた。そして、指を三本、失くしかけて帰ってきた。
怒るべきなのか、礼を言うべきなのか、ニナには分からなかった。分からないまま、喉の奥が熱くなった。紋を使ったときの冷たさとは、まるで逆の熱さだった。
「触った瞬間に、指が冷たくなった。最初は、ああ星屑だ、雫級の上物だ、って思った。でも、冷たいのが、止まらなかった。走ってる間に、どんどん指の奥に入ってきた」
「それで」
「騎士に追っかけられた。銀環騎士団の、団長代理って奴。王都で英雄って呼ばれてる奴。路地で捕まって、壁に押しつけられた」
テオは、少し笑った。
「あいつ、変な奴だったよ。俺の指見て、顔色変えてさ。俺が、これ治るのかって訊いたら、黙った。嘘もつかないし、大丈夫だとも言わない。ただ、黙った」
ニナは、卓の上の匣を見ていた。
「そしたら、これが光った。勝手に。俺、何もしてないのに。光って、そしたら、近くの教会の中継所の星屑が、封印ごと溶けて、空に浮かんで——」
テオは、そこで言葉を切った。
「騎士は、俺を放して、そっちへ走っていった。祭りの人垣の方へ。俺は、逃げた」
「そう」
「……姉貴」
「なに」
「俺、あれ見てたんだよ。逃げながら、振り返って。騎士が、降ってくる星屑を、一個ずつ剣で弾いてた。右腕が、光ってた。十個くらい弾いて、最後の方は、腕が上がってなかった」
テオは、透けた右手を、膝の上で見下ろした。
「俺のせいだよな、あれ」
ニナは、答えなかった。
代わりに、卓の上の匣に、手を伸ばした。
「触るな!」
テオが、叫んだ。汁の椀が、床に転がった。
ニナの指が、匣の手前、髪一筋ほどの距離で止まった。
「……触ると、なる。俺みたいに」
ニナは、ゆっくりと手を引いた。
そして、単眼鏡を外し、布で拭い、かけ直した。卓に顔を近づけ、匣の表面を覗き込んだ。
金属でも、石でも、木でもない。夕陽を跳ね返しもしなければ、吸い込みもしない。ただ、黒い。その黒い表面に、細かな紋様が、層を成して刻まれていた。渦。線。点。一つの層の下に、別の層が透けて見え、その下にまた別の層がある。
ニナは、紋を読める。
詠紋師ではないが、商売柄、紋の様式くらいは頭に入っている。王国式、教会式、ドワーフの鉱山式、エルフの樹紋。魔族の古い呪紋も、写本で何度か見たことがある。
この紋は、そのどれでもなかった。
どれにも似ていない、というのとは少し違う。どれにも、少しずつ似ていた。王国式の渦の巻き方にも、ドワーフ式の直線の切り方にも、魔族の呪紋の点の打ち方にも。まるで、すべての様式が、この紋から枝分かれしたかのように。
背筋が、ぞくりとした。
怖かった。
そして、それ以上に——知りたかった。
ニナ・カルテは、自分のその性分を、よく知っていた。九つで初めて情報を売ってから、ずっとそうだった。危ないと分かっている扉ほど、開けたくなる。
「売らなかったんだね」
ニナは、匣から目を離さずに言った。
「……売れなかったんだよ」
テオは、床に転がった椀を拾いながら、ぼそりと言った。
「売ろうとは思った。王都の故買屋に、二軒。でも、店の前まで行って、入れなかった。こいつに値がついた瞬間、俺ごと消されるって、なんか分かった。……怖くて」
「賢明」
「褒めてんの、それ」
「褒めてる」
ニナは、卓の上の匣を、布でそっと包み直した。直接触れないように、布の端だけを摘まんで。
「これが何なのか、知りたい」
「言うと思った」
「知らないまま持ってる方が、危ない。何なのか分かれば、誰が欲しがってて、いくらで、何のために欲しがってるかも分かる。そうすれば、君をどうやって守るかも決められる」
テオは、黙った。
それから、透けた指を、左手でそっと握った。
「姉貴の喉は」
「なに」
「咳。階段の下まで聞こえてた」
ニナは、答えなかった。
「薬、あと何日分」
「……四日」
テオは、透けた指を握る手に、力を込めた。
「四日じゃねえだろ。朝晩ちゃんと飲んだら、二日だ。……一口ずつにして、量、減らしてるだろ」
ニナは、やはり答えなかった。
窓の外で、夕刻の鐘が鳴った。満ち潮が始まって、泥の匂いが、少しずつ海の匂いに変わっていく。
「天秤楼に行く」
ニナは言った。
「ソルラに見せる。あの人の掌なら、これが何でできてて、どこから来て、いつ封じられたか、全部読める」
「ソルラ・ヴィントに? あの人、タダじゃ何もしないぞ」
「知ってる」
ニナは、包みを懐に入れた。布越しに、匣の冷たさが、肋に伝わってきた。
「だから、行くんだよ。タダじゃないってことは、値段をつけられるってことだから」
テオは、しばらく姉を見上げていた。
それから、小さく笑った。人懐こい笑顔ではなかった。もっと子どもの頃の、ニナが路地で拾ったときの、痩せっぽちの九歳の顔だった。
「……ただいま、姉貴」
「遅いよ」
ニナは、口の端だけで笑った。
「おかえり」
言ってから、喉の奥が、少しだけ冷たくなった。紋を使ったわけではないのに。
ニナは、その冷たさを、覚えておくことにした。
◆
天秤楼は、カルネイアで最も高い建物である。
運河の合流点に建つ、七層の石の塔。一層ごとに窓の数が減り、最上層には窓がひとつしかない。塔の頂には、青銅の巨大な天秤が据えられていて、その両の皿に、毎朝、その日の星屑の相場が札で掛けられる。街のどこからでも見える札だ。カルネイアの商人たちは、朝起きるとまず東を見る。日の出を見るためではない。天秤の皿を見るためだ。
その天秤を掛けているのが、ソルラ・ヴィントだった。
翌朝、ニナとテオは、天秤楼の裏口から入った。
表の大扉は、取引に来た商人たちで朝から埋まっている。裏口は、荷運びの人夫と、ソルラに個人的な用のある者だけが使う。裏口の番をしている大男は、ニナの顔を見ると、黙って顎をしゃくった。七層まで、階段を上れという意味だ。
「……昇降籠、使わせてくんないの」
テオが、階段を見上げて呻いた。
「あれは、商会の客用。私たちは、客じゃない」
「じゃあ何だよ」
「売り込みに来た側」
◆
七層の部屋は、明るかった。
壁の三方が、書架と帳簿棚で埋まっている。残りの一方に、窓がひとつ。窓の外には、青銅の天秤の、巨大な支柱が見えた。部屋の中央に、黒檀の大きな卓。卓の上には、帳簿と、秤と、小さな木箱がいくつも積まれている。
その卓の向こうで、女がひとり、足を卓の上に投げ出して、林檎を齧っていた。
銀に近い灰色の髪を、高く結っている。耳から鎖骨にかけて、細い鎖に通した星屑の粒が、何連も垂れ下がっていた。女が林檎を齧るたびに、それがしゃらしゃらと、硝子のような音を立てる。両手の指に、指輪が七つ。どれも形が違う。
「おや」
ソルラ・ヴィントは、林檎を齧ったまま、目尻に皺を寄せた。
「灯り屋じゃないか。朝から七層まで階段で? 健気だねえ。膝、笑ってない?」
「笑ってる」
「正直でよろしい」
ソルラは、林檎の芯を窓の外へ放り投げた。それから、足を卓から下ろし、テオの方を見た。
目が、テオの右手で止まった。布を巻いた、その右手で。
陽気な顔のまま、目だけが、ほんの一瞬、冷えた。
「……その坊やの手。星屑に触ったね」
「星屑じゃない」
ニナは言った。
「だから、来たんだよ」
ニナは、懐から布の包みを取り出し、黒檀の卓の上に置いた。布の端を摘まんで、ゆっくりとめくる。
黒い匣が、朝の光の中に現れた。
ソルラは、しばらく何も言わなかった。
身を乗り出しもしなかった。ただ、卓の上の匣を、椅子に深く座ったまま、じっと見ていた。耳の星屑の鎖が、一度だけ、しゃらりと鳴って、止まった。
「どこで手に入れたか、は訊かない方がいいかい」
「訊いてもいいけど、聞いたら値段が上がる」
「じゃあ、訊かない」
ソルラは、両手の指輪を、一つずつ外しはじめた。
七つ。全部外して、卓の端に並べた。それから、両手を広げて、掌をニナに見せた。
左右の掌の中央に、対になった紋が刻まれていた。天秤の皿のような、二つの弧。紋名、天秤。触れた星屑の純度と、産地と、封印の履歴を読む。この大陸の星屑の値段は、実質、この掌の上で決まっている。
「坊やがそうなったってことは、素手で触ると、あたしもそうなる」
「たぶん」
「たぶん、ね」
ソルラは、笑った。
「灯り屋。あんた、あたしにこれを触らせに来たんだろ。自分の指が透けるかもしれないものを、他人の掌で鑑定させに。いい度胸だよ」
「ソルラなら、触ると思った」
「なんで」
「知りたいから」
ソルラは、一拍、黙った。
それから、声を上げて笑った。卓を叩いて、身体を折って、耳の星屑がじゃらじゃらと鳴った。
「ああ、そうだよ。知りたいよ。悔しいね、あんたにそれを見抜かれるのは」
笑いを収めると、ソルラは両手を擦り合わせた。
「条件がある」
「聞く」
「これが何か分かったら、その情報は、あたしが最初に買う。値段はあんたが決めていい。ただし、あたしより先に、誰にも売るな」
「……いいよ」
「商談成立」
ソルラは、右の掌を、匣の上にかざした。
そして、ゆっくりと、下ろした。
◆
掌が触れた瞬間、ソルラの顔から、表情が消えた。
陽気さも、皮肉も、好奇心も、全部が一度に剥がれ落ちたように。目が見開かれ、そのまま、瞬きをしなくなった。
掌の紋が、光っていた。
淡い金色の光。それが、匣の表面の紋様に沿って、流れ込んでいくように見えた。渦の中へ、線の上を、点から点へ。一つの層を辿り終えると、その下の層へ、また下の層へ。
ソルラの唇が、かすかに動いていた。
声にはなっていない。数を数えているような、何かを読み上げているような。
テオが、ニナの袖を掴んだ。
どれくらい、そうしていたのか。
窓の外で、天秤の皿が、朝の風に揺れて、軋んだ。
ソルラが、掌を離した。
離したというより、弾かれたように見えた。右手を胸に抱え込み、椅子の背に倒れ込んだ。額に、汗が浮いていた。
「ソルラ」
ニナは、身を乗り出した。
「手」
ソルラは、胸に抱えた右手を、ゆっくりと開いた。
掌の紋の、弧の片方。その縁が、ほんのわずかに、白く曇っていた。
透き通っては、いなかった。
「……大丈夫。紋が、盾になった」
ソルラは、荒い息のまま言った。
「天秤は、読むための紋だからね。読んだものを、身体の奥まで通さない。坊やの紋は、たぶん、触ったものを軽くする紋だろ。軽くするには、触ったものと一瞬、繋がらなきゃならない。だから、奥まで入られた」
テオが、自分の右手を見下ろした。
ソルラは、卓の上の水差しから、直接水を飲んだ。一息で、半分ほど。それから、口元を手の甲で拭い、匣を見た。
今度は、笑っていなかった。
「灯り屋」
「うん」
「これはね、星屑じゃない」
「知ってる」
「最後まで聞きな」
ソルラは、指輪を一つ、摘まみ上げた。それを、指の間で転がしながら、言った。
「星屑にはね、結晶の目ってものがある。木の年輪みたいなもんさ。どの粒にも、どの等級にも、必ず同じ形の目が入ってる。雫級でも核級でも、ドラガルドの鉱脈でも、ノクトゥルナの露頭でも、同じ。あたしはこの掌で、十四年、その目を読んできた。星屑ってのは、そういうものだと思ってた。そういう形に生まれつく、自然の石だってね」
ソルラは、指輪を卓に置いた。
「この匣の紋はね、その目と、同じ形をしてる」
部屋が、静かになった。
「……同じって」
「似てる、じゃない。同じなんだよ。星屑の結晶の目は、この紋の、出来損ないの写しだ。層の重なり方も、渦の巻き方も、全部この紋から来てる。ただ、星屑の方は、途中が欠けてる。潰れてる。まるで、この紋を刻んだ何かが、砕けて、その破片がそのまま固まったみたいに」
ニナは、息をするのを忘れていた。
「つまり」
「つまり、順番が逆なんだ」
ソルラは、匣を指さした。七つの指輪を外した、剥き出しの指で。
「星屑を使って、この紋を刻んだんじゃない。この紋が先にあって、星屑は、その後から生まれた。——灯り屋。この紋は、星屑より古い」
◆
「そんなの」
テオが、掠れた声で言った。
「そんなの、あり得んのかよ。星屑って、大崩落で降ってきたんだろ。天空島が砕けて。百二十七年前に」
「そうだね」
「じゃあ、それより古いってことは——」
「大崩落の前に、誰かが、この技術を持ってた」
ソルラは、静かに言った。
「今のあたしたちの詠紋なんか、この紋の、欠けた写しの、そのまた写しを、星屑を削って真似てるだけってことになる。教会の聖籠も、王家の王環も、全部」
ニナは、単眼鏡を外した。
外して、布で拭った。拭う必要はなかった。ただ、手を動かしていないと、何かが胸の奥から溢れ出しそうだった。
怖い、のではなかった。
知ってしまった、という感覚だった。九つで初めて情報を売ったとき以来、何度も味わってきた感覚。その中でも、今のは、一番重かった。
「ほかに、読めたことは」
ニナは訊いた。声が、少し震えた。
「封印の履歴」
ソルラは、白く曇った掌を、もう一度見下ろした。
「この匣には、封印がかけられてた。かけたのは、教会の聖籠。紋の手癖で分かる。大司祭のだ。国中の星屑を吊ってるって噂の、あの爺さんの封印だよ。それが、三年前から、十三日前まで」
「三年前」
「そう。三年前より前には、封印の履歴がない。誰にも封じられてなかった。その代わり——」
ソルラは、眉を寄せた。
「土の味がした」
「土」
「それも、ただの土じゃない。落下地点の土だ。星屑が降った場所の土は、独特の味がするんだよ。焦げた硝子みたいな。その味が、匣の表面に、何層にも染みついてる。百年以上、ずっと、落下地点の土の中にあったんだ。そして三年前、掘り出されて、教会に封じられた」
ニナは、その数字を、頭の中の棚に置いた。
三年前。落下地点。掘り出された。
どこかで、同じ数字を聞いたことがある気がした。反響の紋は、聞いた声を忘れない。けれど、どの声だったのか、今はまだ思い出せなかった。
「それから、もう一つ」
ソルラは、匣を布で包み直しながら、言った。
「十三日前に、封印が切れた。切ったのは、外からじゃない」
「内側から?」
「この匣が、自分で、大司祭の封印を食い破ったんだよ。坊やの指に触れた瞬間に。——たぶん、坊やの紋に反応したんだろうね。軽くする紋。重さを消す紋。この匣にとっちゃ、それが鍵穴にちょうどいい形をしてたのかもしれない」
テオが、青い顔で、自分の右手を抱え込んだ。
ソルラは、包み終えた匣を、ニナの方へ押しやった。
「持って帰りな」
「……買わないの」
「買いたいよ。喉から手が出るほど」
ソルラは、七つの指輪を、一つずつ指に戻しはじめた。
「でも、これを天秤楼に置いたら、明日には天秤楼が燃えてる。教会が、三年かけて隠してたものだ。聖遷祭の行列にまぎれ込ませて、どこかへ運ぼうとしてたものだ。そういうものの置き場所としちゃ、この塔は目立ちすぎる」
最後の指輪を嵌め終えると、ソルラは、また目尻に皺を寄せて笑った。
いつもの、陽気な顔だった。
「それにね、灯り屋。あんたの約束は、もう買った。これが何か分かったら、あたしが最初に買う。——で、分かったのは、まだ半分だろ?」
ニナは、答えなかった。
「残りの半分が分かったら、また来な。そのときは、ちゃんと値段をつけてやる」
ソルラは、窓の外の天秤を見上げた。
「それとね。気をつけな。この街で、この匣のことを嗅ぎつけて、あたしより高い値をつける奴がいるとしたら、一人しかいない」
「……灰帳」
「そう。あたしの、昔の先生さ」
ソルラ・ヴィントは、耳の星屑をしゃらりと鳴らして、言った。
「あの人は、あたしと違って、置き場所になんか困らないからね」
ニナ・カルテ
年齢: 22
所属: 自由都市同盟カルネイア/無所属(情報屋)
肩書き: 「灯り屋」
外見: 黒髪の断髪、右目に単眼鏡。痩せていて、いつも同じ色褪せた外套を着ている。指先はインクとチョークで汚れている。表情の変化が乏しく、笑うときは口の端だけ動く。
テオ・ブランシュ
年齢: 18
所属: 自由都市同盟カルネイア/無所属
肩書き: スリ
外見: くすんだ金髪、痩せた頬、異様に長い指。動きが猫のようで、狭い場所を通るのが得意。片方の耳たぶがない(過去に捕まったときに削がれた)。人懐こい笑顔を武器にしている。
ソルラ・ヴィント
年齢: 31
所属: 自由都市同盟カルネイア/星屑交易ギルド「天秤楼」
肩書き: 商会長
外見: 銀に近い灰髪を高く結い、耳から鎖骨まで星屑の装身具を垂らしている。歩くたび硝子のような音が鳴る。笑うと目尻に皺が寄り、それを隠さない。指輪を七つ、全部違う契約の証として嵌めている。




