第3章「石の口が語る」/二 石の口
目を開けたとき、厨房の隅が空だった。
革の外套だけが、床の上に、脱ぎ捨てられた蛇の皮のように残っていた。
マリカは跳ね起きた。
「クロウ」
戸口の男は、既に立ち上がっていた。
「いつだ」
「分からない」
クロウの声には、珍しく、かすかな揺れがあった。
「俺は、外を見ていた。外からは、誰も来なかった」
内側から、出ていったのだ。
マリカは外套を掴み、廊下へ飛び出した。
療養院の廊下は、夜明け前の薄闇に沈んでいた。燭台はとうに燃え尽き、窓の外の空が、ようやく墨から鉛の色に変わりかけている。雨は止んでいた。
右肩の紋に意識をやりかけて、舌打ちした。烙印は、触れた相手にしか付かない。あの娘には、付けていない。付けようと思えば、いつでも付けられた。三日のあいだ、何度も肩に手を置いた。そのたびに、紋に意志を通すのをやめた。
荷に紋を付けるのは、荷を信用していないということだ。
——なんて、格好をつけている場合じゃなかった。
「足跡」
クロウが、床にしゃがみ込んでいた。
石の床に、小さな、濡れた足跡が点々と続いていた。竈の前で乾かしきれなかった、裸足の跡。それが、廊下の奥へ、奥へと向かっている。
東棟ではない。西棟でもない。
廊下の突き当たりの、低い石の扉へ。
扉の上に、古い聖印が彫り込まれていた。
最奥の礼拝堂。
◆
扉は、わずかに開いていた。
隙間から、光が漏れていた。燭台の光ではない。もっと白く、もっと冷たく、脈打つように明滅する光。
マリカは、剣の柄に手をかけて、扉を押した。
礼拝堂は、狭かった。
両側に木の長椅子が四列ずつ。正面に小さな祭壇と、壁に掛けられた色褪せた聖画。天窓がひとつあって、そこから鉛色の空がわずかに覗いている。
その祭壇の前に、椅子がひとつ置かれていた。
背の高い、肘掛けのついた、古い木の椅子。
そこに、人が座っていた。
人、と呼んでいいのか、マリカには一瞬分からなかった。
身体のほとんどが、水晶だった。
肩から胸、胸から腹、腹から膝。粗い修道服の生地の下で、透き通った結晶が、服の形を内側から押し上げている。袖から覗く両腕は、肘から先が完全に透明で、椅子の肘掛けと区別がつかないほどに溶け合っていた。脚も同じだった。裸の足首が、椅子の脚と、床の石と、繋がっているように見えた。
そして、顔。
右半分は、まだ人の顔だった。痩せて、皺が寄り、年齢も性別も分からない、灰色の肌。
左半分は、水晶だった。
額から顎まで、透き通った結晶が顔の形をなぞっている。その奥で、光が明滅していた。白く、青く、また白く。遠い灯台の灯りのように、ゆっくりと。礼拝堂を満たしている光は、その顔から漏れているものだった。
七割だ、とマリカの中の看護婦が、冷静に数えた。
身体の七割が、結晶化している。野戦病院なら、とうに「看取り」の札を下げられている段階だ。いや、野戦病院では、こんな段階まで生きている患者を見たことがない。普通は、半分を超えたあたりで、心臓か肺が石に食われて止まる。
この人は、まだ生きていた。
右半分の目が、開いていた。
その目の前に、イオリが立っていた。
裸足のまま、祭壇の前の石の床に。頭巾は脱げていて、硝子のような毛先が、水晶の顔から漏れる光を受けて、同じ色に光っていた。
娘の頬も、光っていた。
昨夜の、弱った蛍のような光ではない。はっきりと、明るく。まるで、目の前の水晶の顔と、呼吸を合わせるように。明滅の間合いまで、同じだった。
「イオリ」
マリカは、低く呼んだ。
娘は振り向かなかった。
「……呼ばれたんです」
小さな声が、礼拝堂に響いた。
「眠ってたら、誰かが歌ってて。歌ってるの、この人の中の、星屑でした。わたしの中のと、同じ歌でした。それで、来ちゃいました。……すみません」
マリカは、娘の肩に手を伸ばした。
そのとき、椅子の上の人が、口を開いた。
結晶化した唇の左半分は動かず、右半分だけが、軋むように開いた。
「来たか」
声は、乾いていた。長いあいだ使われていない井戸の、滑車の音のようだった。
「おまえたちは、来る。今日だ。……ああ、今日だったな。まだ来ていないと思っていた。順番が、たまに、逆になる」
ヴェル、という名なのだと、あとでハンナから聞いた。
本当の名かどうかは、誰も知らない。本人も、覚えていない。
右半分の目が、ゆっくりと、イオリから外れた。
マリカを通り越し、その後ろへ。
礼拝堂の戸口に、クロウが立っていた。
剣は抜いていなかった。ただ、立っていた。水晶の顔から漏れる光が、彼の顔を白く照らしていた。黒髪の中の、白く抜けた一房が、その光の中で銀色に見えた。
ヴェルの目が、クロウを見た。
長い間、見ていた。
顔の左半分の水晶の奥で、光の明滅が、速くなった。白、青、白、青。灯台の灯りが、何かを知らせようとするように。
そして、ヴェルは言った。
「おかえり」
礼拝堂が、静まり返った。
天窓の外で、夜明けの鳥が一羽、鳴いた。
マリカは、クロウを見た。
クロウは、動かなかった。
表情は、変わらなかった。いつもと同じ、静かすぎる顔。けれど、マリカには分かった。三年、隣を歩いてきた。この男が、怒りも喜びも「そういうものらしい」と外から眺めていることを知っている。
その男の左手が、握り締められていた。
左の掌。誰の様式とも一致しない紋が刻まれた、あの掌を、爪が食い込むほどに。
「……俺を、知っているのか」
クロウが言った。
声は、いつもと同じ高さだった。
ヴェルは、答えなかった。
右半分の口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。あるいは、ただ、結晶が軋んだだけかもしれない。
「おまえは、帰ってきた。……いや、まだか。まだ、帰ってきていないのか。すまない。おまえは、もう、帰ってきたことになっている。こちらでは」
「こちらって、どこだ」
「ここだ。……ここは、もう、終わった場所だ」
意味が分からなかった。
マリカには、少しも分からなかった。
クロウにも、分かっていないようだった。彼は、左手を握ったまま、もう一度訊いた。
「俺は、誰だ」
ヴェルは、答えなかった。
代わりに、右半分の目が、再びイオリへ戻った。
娘は、まだ、祭壇の前に立っていた。頬の光が、ヴェルの明滅と同じ間合いで、脈打っている。
ヴェルの、結晶化した左腕が、動いた。
動くはずのない腕だった。肘掛けと溶け合った、透明な腕。それが、軋む音を立てながら、ほんの指一本分だけ持ち上がった。硝子を擦り合わせるような、耳の奥に刺さる音がした。
透き通った指先が、イオリを指した。
「その子は」
ヴェルは言った。
「まだ、生まれていない」
イオリの肩が、びくりと震えた。
マリカは、娘の肩を掴んだ。今度は、迷わなかった。引き寄せ、自分の身体の陰へ入れた。
「どういう意味だ」
マリカの声は、自分でも驚くほど低かった。
「この子は、ここにいる。十四年前に生まれて、今、ここに立ってる。生まれてないって、どういう意味だ」
ヴェルは、答えなかった。
持ち上がっていた指が、ゆっくりと、肘掛けの上に戻った。軋む音が、長く尾を引いて、消えた。
右半分の目が、閉じた。
顔の左半分の水晶の奥で、光の明滅が、少しずつ緩やかになっていった。白、青。白。……白。
それきり、ヴェルは、何も言わなかった。
マリカは、もう一度問いかけようとして、やめた。
分かったのだ。看護婦の目で。
この人は、もう、ここにいない。
眠ったのではない。意識を失ったのでもない。ただ、どこか別の場所へ——ヴェル自身が「こちら」と呼んだ場所ではない、どこかへ——戻っていったのだ。
◆
背後で、慌ただしい足音がした。
「——だから、行かないでって言ったのに」
ハンナだった。
燭台を掲げ、息を切らしている。頭巾が少しずれて、その下から、短く刈り込んだ赤毛が覗いていた。
修道女は、礼拝堂の中を見回した。
椅子の上のヴェル。祭壇の前で、マリカの陰に隠れたイオリ。戸口に立ったまま、左手を握り締めているクロウ。
「……何か、言いましたか」
ハンナが、低い声で訊いた。
「あの人、何か言いましたか」
「言った」
マリカは答えた。
「こいつに、おかえりって」
ハンナの顔から、血の気が引いた。
修道女は、クロウを見た。長いあいだ見ていた。それから、椅子の上の患者を見た。
「……あの人が、わたし以外の誰かに話しかけたの、半年ぶりです」
ハンナは、燭台を持つ手を、もう片方の手で押さえた。濁った掌が、かすかに震えていた。
「それに、あの人は、人に『おかえり』なんて、言ったことがない。わたしにも。……紫の目のお客さんにも」
クロウは、何も言わなかった。
握っていた左手を、ゆっくりと開いた。
マリカは、その掌を見た。
誰の様式とも一致しない紋。三年前、落下地点で拾ったときから、ずっとそこにある紋。
その紋が、ほんの一瞬だけ、ヴェルの顔と同じ色に光ったように見えた。
見えた、と思った。
瞬きをしたら、もう、ただの掌だった。
天窓の外で、鳥がまた鳴いた。夜が、明けようとしていた。
そして、マリカの右肩の紋が、焼けるように熱を持った。
瞼の裏で、光点が動いていた。
西から、まっすぐに、こちらへ。
◆
「何人」
ハンナが訊いた。
礼拝堂の戸口で、マリカは目を閉じたまま答えた。
「隊長を入れて、たぶん十。馬の足だ。四半刻もかからない」
瞼の裏の光点は、もう迷っていなかった。丘の麓の道を、まっすぐこちらへ登ってくる。昨夜、雨宿りの間に、斥候の三人が療養院に灯が増えたことを報告したのだろう。あるいは、もっと単純に、ほかに身を隠せる場所がこの辺りにはないと、隊長が気づいたのか。
どちらでも同じだった。
逃げるには、遅すぎる。丘の上の療養院から麓まで、隠れる場所のない斜面が続いている。今、門を出れば、登ってくる騎馬と真正面から鉢合わせる。
「斬るか」
クロウが言った。
昨日と同じ問いだった。昨日と同じ、晩飯の献立を訊くような声。
ただ、今日は、左手を握ったままだった。
「十人は、斬れなくはないだろうけどさ」
マリカは目を開けた。
「ここで斬ったら、この院が回収隊を斬った場所になる。二百四十床ごと、教会に潰されるよ」
ハンナが、小さく息を呑んだ。
マリカは、修道女の方を向いた。
「悪い。あんたに迷惑をかけるつもりはなかった。……いや、あった。追手を撒くのに、教会の施設を使った。迷惑をかけるつもりで来たんだ。今さら言っても遅いけど」
「本当に、今さらですね」
ハンナは、ずれた頭巾を直した。
それから、礼拝堂の中を、ぐるりと見回した。
祭壇。長椅子。天窓。そして、椅子の上で目を閉じたまま、顔の左半分を静かに明滅させているヴェル。
「その子、ここに置いていってください」
修道女は言った。
「ヴェルさんの隣に」
マリカは、眉を寄せた。
「光ってる子を、光ってる人の隣に?」
「だからですよ」
ハンナは、ヴェルの椅子の陰、祭壇と壁の間の、狭い隙間を指さした。
「あの人の顔、いつもあんなふうに光ってるんです。回収隊の人たちは、この院に来るたびに、一度だけ礼拝堂の扉を開けて、あの光を見て、すぐに閉めます。中まで入ってきた人は、今まで一人もいません」
修道女は、少しだけ笑った。疲れた、しかし悪戯を思いついた子どものような顔だった。
「光の中に、光を隠すんです。木を隠すなら森、って言うでしょう」
◆
回収隊が門をくぐったのは、それからほどなくのことだった。
マリカは、東棟の病室にいた。
ハンナの予備の修道服を頭からかぶり、頭巾を深く下ろして、手桶を持っていた。鼻梁の傷は、頭巾の影に隠れている。左耳の十九の金環は、外して懐に入れた。環を外したのは、軍を抜けて以来、初めてだった。
クロウは、奥から二番目の寝台に寝ていた。
毛布を顎まで引き上げ、顔の半分を包帯で巻いてある。包帯を巻いたのはマリカだ。軍式で、端を内側に折り込んだ。隣の寝台の老人が、昨夜ハンナの灯芯で眠った、あの手首の透けた老人だった。老人は一度だけ目を開けて、包帯だらけの新入りを見て、また目を閉じた。何も言わなかった。この院の患者は、他人の事情を訊かない。訊く余裕がないのだ。
広間の方から、声が聞こえてきた。
「——院長。聖遺回収隊、隊長のレオポルト・グラーツです。早朝から失礼」
男の声だった。よく通る、訓練された声。
「昨夜、この近辺で、手配中の人物を見失いました。女がひとり、男がひとり、それに子どもがひとり。子どもは、少女です。十四ほど。見かけませんでしたか」
「見かけましたよ」
ハンナの声が、平然と答えた。
マリカは、手桶を握り締めた。
「昨日の夕方、門の前を通っていきました。三人連れで。泊めてくれって言われたので、寝台がないって断りました。本当にないんです。床も埋まってます。北の方へ歩いていきましたよ。北の、ブレスの宿場の方」
「……北、ですか」
「ええ。雨の中、気の毒でしたけど」
沈黙が、あった。
マリカは、瞼の裏の光点に意識を向けた。光点は、広間の中央で止まっている。動かない。隊長は、修道女の顔を見ているのだろう。嘘を探している。
「院長。念のため、院内を拝見しても」
「どうぞ」
即答だった。
「ただ、隊長さん。手袋は、外してもらえますか」
「……なぜです」
「東棟の包帯交換が、まだ半分残ってるんです。人手が足りなくて。見て回るついでに、手伝っていただけると助かります。結晶の境目は膿みやすいので、素手の方が加減が分かるんですよ。大丈夫、星蝕はうつりません。教会がそう言ってるんですから」
また、沈黙があった。
今度は、さっきより長かった。
「……いえ。拝見するだけに留めます」
隊長の声が、ほんのわずかに、硬くなっていた。
◆
回収隊の男たちは、東棟の病室を、戸口から覗いただけだった。
白い外套の男が三人。先頭の男——隊長だろう、襟に銀の刺繍がある——が、細長い部屋の二列の寝台を、端から端まで目で撫でた。透けた腕。軋む関節。燭台の光に鈍く光る、結晶の頬。呻き声。膿と薬湯の匂い。
隊長の目が、奥から二番目の寝台で、一瞬止まった。
包帯だらけの男。毛布から覗く、日焼けした首筋。
マリカは、その寝台の脇に膝をつき、隣の老人の包帯を解きはじめた。手首の、結晶と肉の境目。昨夜より、境目が少し進んでいる。膿が滲んでいた。
彼女は、湯に浸した布で、そこを丁寧に拭った。
老人が、呻いた。
隊長の目が、クロウから外れ、老人の透けた手首に移った。そして、そこで、顔をしかめた。
隊長は、それ以上、部屋に入ってこなかった。
足音が遠ざかっていく。西棟を覗き、厨房を覗き、やがて、廊下の突き当たりで止まった。
最奥の礼拝堂。
マリカは、布を持つ手を止めた。
石の扉が、軋んで開く音がした。
しばらく、何の音もしなかった。
瞼の裏の光点が、戸口で止まったまま動かない。
——入るな。
マリカは、祈るような気持ちでそう思った。祈るのは、軍を抜けて以来、初めてだった。今日は、初めてのことが多い。
やがて、声がした。
隊長の声ではなかった。
乾いた、使われていない井戸の滑車のような声。
「……おまえは、もう、帰った」
ヴェルだった。
「おまえは、北へ行った。三人を追って。……そうだったな。まだか。すまない。順番が、たまに」
隊長が、何か低く言った。聖句のようだった。
石の扉が、閉まる音がした。
足音が、足早に、広間の方へ戻っていった。
◆
回収隊が北へ馬を向けたのは、日が昇りきる前だった。
マリカは、瞼の裏で、光点が丘を下り、北の街道へ曲がり、ブレスの宿場の方角へ遠ざかっていくのを確かめた。昼過ぎには、烙印の三日が切れる。そうすれば、もう追えない。追えなくていい。こちらは東へ行くのだから。
礼拝堂から出てきたイオリは、泣いていなかった。
ただ、ひどく静かだった。祭壇と壁の隙間に、一刻近く身を縮めていたのだ。ヴェルの椅子のすぐ陰で、ヴェルの光と同じ間合いで、自分の頬を光らせながら。
「……あの人、隊長さんに、嘘をついてくれました」
娘は言った。
「嘘じゃないのかもしれないね」
マリカは答えた。
「あの人にとっては、もう起きたことなんだろ。隊長が北へ行くのは」
「じゃあ」
イオリは、足元を見た。裸足の爪先が、朝の光の中で、薄く光っている。
「わたしが、まだ生まれてないっていうのも、あの人にとっては、本当のことなんですか」
マリカは、答えなかった。
答えを持っていなかった。
◆
出立の前に、ハンナが門まで見送りに出てきた。
手には、例の「消毒用」の瓶を持っていた。半分ほど残っている。修道女はそれを、黙ってマリカの荷袋に押し込んだ。
「いいのか。備品だろ」
「割れたことにします」
ハンナは、濁った掌で、自分の頭巾を直した。
それから、クロウを見た。
包帯はもう外していた。いつもと同じ、静かすぎる顔。ただ、左手だけは、今朝からずっと、外套の中に入れたままだった。
「……訊かないんですね、何も」
クロウが言った。
この男が、自分から誰かに話しかけるのは、珍しいことだった。
「訊いても、あなた、答えを持ってないでしょう」
ハンナは言った。
「わたしも、持ってません。ヴェルさんが何を知ってるのか、わたしにも分からない。何年もそばにいて、分からないんです」
修道女は、少しだけ目を伏せた。
「ただ、あの人が『おかえり』って言ったのは、たぶん、嬉しかったからだと思います。あの人に、まだ、嬉しいって気持ちが残ってたなら、ですけど」
クロウは、何も答えなかった。
ただ、小さく頭を下げた。
マリカは、それを見て、この男が誰かに頭を下げるのを初めて見たと思った。
◆
丘を下り、東の街道に出たところで、マリカは足を止めた。
「イオリ」
「はい」
娘が、少し遅れて立ち止まった。今日も裸足だった。泥はもう乾きかけている。
「肩、貸しな」
「……え」
「右でも左でもいい」
イオリは、戸惑ったように、マリカを見上げた。それから、おずおずと、右の肩を差し出した。
マリカは、その肩に手を置いた。
骨ばった、薄い肩だった。十四歳の、まだ育ちきらない肩。昨夜、外套の下で震えていた肩。
「あたしの紋は、触った相手の居場所が、三日だけ分かる」
マリカは言った。
「今朝、あんたがいなくなったとき、あたしには、あんたがどこにいるか分からなかった。分からなかったのは、あんたに紋を付けてなかったからだ。付けなかったのは、荷に紋を付けるのは、荷を信用してないってことだと思ってたからだ」
イオリは、黙って聞いていた。
「でも、違った。付けてなかったせいで、あたしは、あんたを見失った。見失うってのは、信用とは関係ない。ただ、見失うってだけだ」
マリカは、右肩の紋に、意志を通した。
熱が、肩から腕へ、腕から掌へ、そして掌から娘の肩へと、流れていった。
「三日ごとに、付け直す。いいか」
イオリは、長いあいだ、マリカの手を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……はい」
そして、少しだけ間を置いて、言った。
「マリカさん。わたし、生まれてますか」
マリカは、娘の肩から手を離した。
離して、その手で、頭巾の上から、娘の頭を乱暴に撫でた。
「生まれてるよ」
と、彼女は言った。
「あたしが保証する。前金もらってるからね。生まれてない奴の前金なんか、受け取るわけないだろ」
イオリは、頭を押さえたまま、しばらく動かなかった。
それから、頭巾の陰で、何かを小さく言った。
聞こえなかった。聞き返さなかった。
マリカは懐から金環を取り出し、一つずつ左耳に付け直した。十九個。数を確かめながら。
少し先で、クロウが待っていた。
外套の中から、左手を出していた。掌を上に向けて、じっと見下ろしていた。朝の光の中で、その紋は、ただの紋だった。光ってはいなかった。
「クロウ」
「なんだ」
「おかえりって言われて、どうだった」
クロウは、掌を見たまま、しばらく考えていた。
「分からない」
と、彼は言った。
「ただ——あの部屋は、寒くなかった」
マリカは、それ以上訊かなかった。
三人は、東へ歩き出した。
背後の丘の上で、療養院の鐘楼が、朝の祈りの鐘を鳴らしはじめた。
マリカ・アシュ
年齢: 27
所属: 無所属(傭兵ギルド登録)
肩書き: 賞金稼ぎ
外見: 日焼けした肌に、鼻梁を横切る傷。癖のある黒髪を雑に結んでいる。実用一辺倒の革鎧と、背に負った幅広の直剣。左耳に賞金首の数だけ増える金環(現在十九個)。
イオリ
年齢: 14
所属: 無所属
肩書き: 「星の子」
外見: 黒髪に、根元から先へ向かって透明になっていく毛先。虹彩に星屑と同じ光の粒が浮かんでいる。痩せていて、日に当たると肌が薄く発光する。裸足を好む。
クロウ
年齢: 不詳(外見30前後)
所属: 無所属
肩書き: 流れの剣士
外見: 黒髪に、白く抜けた一房。日焼けした肌に無数の古傷。左の掌に、誰の様式とも一致しない紋が刻まれている——人間のものでも、ドワーフのものでも、魔族のものでもない。目つきが静かすぎて、逆に怖い。
ハンナ・ベルク
年齢: 33
所属: 聖典教会/辺境療養院「白灯はくとう」
肩書き: 院長・修道女
外見: 赤毛を短く刈り込み、頭巾で隠している(患者に髪を掴まれることが多いため)。丸みのある体つきと、荒れきった手。修道服の裾はいつも泥で汚れている。
ヴェル
年齢: 不詳(30〜50の間)
所属: 無所属
肩書き: 「石の口」
外見: 身体の七割が既に結晶化しており、動くたびに軋む音がする。顔の左半分は透明な水晶に置き換わり、その奥に光が明滅している。歩行は不可能で、辺境の礼拝堂の椅子に座ったまま数年が経つ。




