↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星屑の値段  作者: tm
PR
10/14

第3章「石の口が語る」/二 石の口

 目を開けたとき、厨房の隅が空だった。

 革の外套だけが、床の上に、脱ぎ捨てられた蛇の皮のように残っていた。

 マリカは跳ね起きた。

「クロウ」

 戸口の男は、既に立ち上がっていた。

「いつだ」

「分からない」

 クロウの声には、珍しく、かすかな揺れがあった。

「俺は、外を見ていた。外からは、誰も来なかった」

 内側から、出ていったのだ。

 マリカは外套を掴み、廊下へ飛び出した。

 療養院の廊下は、夜明け前の薄闇に沈んでいた。燭台はとうに燃え尽き、窓の外の空が、ようやく墨から鉛の色に変わりかけている。雨は止んでいた。

 右肩の紋に意識をやりかけて、舌打ちした。烙印は、触れた相手にしか付かない。あの娘には、付けていない。付けようと思えば、いつでも付けられた。三日のあいだ、何度も肩に手を置いた。そのたびに、紋に意志を通すのをやめた。

 荷に紋を付けるのは、荷を信用していないということだ。


 ——なんて、格好をつけている場合じゃなかった。


「足跡」

 クロウが、床にしゃがみ込んでいた。

 石の床に、小さな、濡れた足跡が点々と続いていた。竈の前で乾かしきれなかった、裸足の跡。それが、廊下の奥へ、奥へと向かっている。

 東棟ではない。西棟でもない。

 廊下の突き当たりの、低い石の扉へ。

 扉の上に、古い聖印が彫り込まれていた。

 最奥の礼拝堂。


          ◆


 扉は、わずかに開いていた。

 隙間から、光が漏れていた。燭台の光ではない。もっと白く、もっと冷たく、脈打つように明滅する光。

 マリカは、剣の柄に手をかけて、扉を押した。

 礼拝堂は、狭かった。

 両側に木の長椅子が四列ずつ。正面に小さな祭壇と、壁に掛けられた色褪せた聖画。天窓がひとつあって、そこから鉛色の空がわずかに覗いている。

 その祭壇の前に、椅子がひとつ置かれていた。

 背の高い、肘掛けのついた、古い木の椅子。

 そこに、人が座っていた。

 人、と呼んでいいのか、マリカには一瞬分からなかった。

 身体のほとんどが、水晶だった。

 肩から胸、胸から腹、腹から膝。粗い修道服の生地の下で、透き通った結晶が、服の形を内側から押し上げている。袖から覗く両腕は、肘から先が完全に透明で、椅子の肘掛けと区別がつかないほどに溶け合っていた。脚も同じだった。裸の足首が、椅子の脚と、床の石と、繋がっているように見えた。

 そして、顔。

 右半分は、まだ人の顔だった。痩せて、皺が寄り、年齢も性別も分からない、灰色の肌。

 左半分は、水晶だった。

 額から顎まで、透き通った結晶が顔の形をなぞっている。その奥で、光が明滅していた。白く、青く、また白く。遠い灯台の灯りのように、ゆっくりと。礼拝堂を満たしている光は、その顔から漏れているものだった。

 七割だ、とマリカの中の看護婦が、冷静に数えた。

 身体の七割が、結晶化している。野戦病院なら、とうに「看取り」の札を下げられている段階だ。いや、野戦病院では、こんな段階まで生きている患者を見たことがない。普通は、半分を超えたあたりで、心臓か肺が石に食われて止まる。

 この人は、まだ生きていた。

 右半分の目が、開いていた。

 その目の前に、イオリが立っていた。

 裸足のまま、祭壇の前の石の床に。頭巾は脱げていて、硝子のような毛先が、水晶の顔から漏れる光を受けて、同じ色に光っていた。

 娘の頬も、光っていた。

 昨夜の、弱った蛍のような光ではない。はっきりと、明るく。まるで、目の前の水晶の顔と、呼吸を合わせるように。明滅の間合いまで、同じだった。

「イオリ」

 マリカは、低く呼んだ。

 娘は振り向かなかった。

「……呼ばれたんです」

 小さな声が、礼拝堂に響いた。

「眠ってたら、誰かが歌ってて。歌ってるの、この人の中の、星屑でした。わたしの中のと、同じ歌でした。それで、来ちゃいました。……すみません」

 マリカは、娘の肩に手を伸ばした。

 そのとき、椅子の上の人が、口を開いた。

 結晶化した唇の左半分は動かず、右半分だけが、軋むように開いた。

「来たか」

 声は、乾いていた。長いあいだ使われていない井戸の、滑車の音のようだった。

「おまえたちは、来る。今日だ。……ああ、今日だったな。まだ来ていないと思っていた。順番が、たまに、逆になる」

 ヴェル、という名なのだと、あとでハンナから聞いた。

 本当の名かどうかは、誰も知らない。本人も、覚えていない。

 右半分の目が、ゆっくりと、イオリから外れた。

 マリカを通り越し、その後ろへ。

 礼拝堂の戸口に、クロウが立っていた。

 剣は抜いていなかった。ただ、立っていた。水晶の顔から漏れる光が、彼の顔を白く照らしていた。黒髪の中の、白く抜けた一房が、その光の中で銀色に見えた。

 ヴェルの目が、クロウを見た。

 長い間、見ていた。

 顔の左半分の水晶の奥で、光の明滅が、速くなった。白、青、白、青。灯台の灯りが、何かを知らせようとするように。

 そして、ヴェルは言った。

「おかえり」

 礼拝堂が、静まり返った。

 天窓の外で、夜明けの鳥が一羽、鳴いた。

 マリカは、クロウを見た。

 クロウは、動かなかった。

 表情は、変わらなかった。いつもと同じ、静かすぎる顔。けれど、マリカには分かった。三年、隣を歩いてきた。この男が、怒りも喜びも「そういうものらしい」と外から眺めていることを知っている。

 その男の左手が、握り締められていた。

 左の掌。誰の様式とも一致しない紋が刻まれた、あの掌を、爪が食い込むほどに。

「……俺を、知っているのか」

 クロウが言った。

 声は、いつもと同じ高さだった。

 ヴェルは、答えなかった。

 右半分の口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。あるいは、ただ、結晶が軋んだだけかもしれない。

「おまえは、帰ってきた。……いや、まだか。まだ、帰ってきていないのか。すまない。おまえは、もう、帰ってきたことになっている。こちらでは」

「こちらって、どこだ」

「ここだ。……ここは、もう、終わった場所だ」

 意味が分からなかった。

 マリカには、少しも分からなかった。

 クロウにも、分かっていないようだった。彼は、左手を握ったまま、もう一度訊いた。

「俺は、誰だ」

 ヴェルは、答えなかった。

 代わりに、右半分の目が、再びイオリへ戻った。

 娘は、まだ、祭壇の前に立っていた。頬の光が、ヴェルの明滅と同じ間合いで、脈打っている。

 ヴェルの、結晶化した左腕が、動いた。

 動くはずのない腕だった。肘掛けと溶け合った、透明な腕。それが、軋む音を立てながら、ほんの指一本分だけ持ち上がった。硝子を擦り合わせるような、耳の奥に刺さる音がした。

 透き通った指先が、イオリを指した。

「その子は」

 ヴェルは言った。

「まだ、生まれていない」

 イオリの肩が、びくりと震えた。

 マリカは、娘の肩を掴んだ。今度は、迷わなかった。引き寄せ、自分の身体の陰へ入れた。

「どういう意味だ」

 マリカの声は、自分でも驚くほど低かった。

「この子は、ここにいる。十四年前に生まれて、今、ここに立ってる。生まれてないって、どういう意味だ」

 ヴェルは、答えなかった。

 持ち上がっていた指が、ゆっくりと、肘掛けの上に戻った。軋む音が、長く尾を引いて、消えた。

 右半分の目が、閉じた。

 顔の左半分の水晶の奥で、光の明滅が、少しずつ緩やかになっていった。白、青。白。……白。

 それきり、ヴェルは、何も言わなかった。

 マリカは、もう一度問いかけようとして、やめた。

 分かったのだ。看護婦の目で。

 この人は、もう、ここにいない。

 眠ったのではない。意識を失ったのでもない。ただ、どこか別の場所へ——ヴェル自身が「こちら」と呼んだ場所ではない、どこかへ——戻っていったのだ。


          ◆


 背後で、慌ただしい足音がした。

「——だから、行かないでって言ったのに」

 ハンナだった。

 燭台を掲げ、息を切らしている。頭巾が少しずれて、その下から、短く刈り込んだ赤毛が覗いていた。

 修道女は、礼拝堂の中を見回した。

 椅子の上のヴェル。祭壇の前で、マリカの陰に隠れたイオリ。戸口に立ったまま、左手を握り締めているクロウ。

「……何か、言いましたか」

 ハンナが、低い声で訊いた。

「あの人、何か言いましたか」

「言った」

 マリカは答えた。

「こいつに、おかえりって」

 ハンナの顔から、血の気が引いた。

 修道女は、クロウを見た。長いあいだ見ていた。それから、椅子の上の患者を見た。

「……あの人が、わたし以外の誰かに話しかけたの、半年ぶりです」

 ハンナは、燭台を持つ手を、もう片方の手で押さえた。濁った掌が、かすかに震えていた。

「それに、あの人は、人に『おかえり』なんて、言ったことがない。わたしにも。……紫の目のお客さんにも」

 クロウは、何も言わなかった。

 握っていた左手を、ゆっくりと開いた。

 マリカは、その掌を見た。

 誰の様式とも一致しない紋。三年前、落下地点で拾ったときから、ずっとそこにある紋。

 その紋が、ほんの一瞬だけ、ヴェルの顔と同じ色に光ったように見えた。

 見えた、と思った。

 瞬きをしたら、もう、ただの掌だった。

 天窓の外で、鳥がまた鳴いた。夜が、明けようとしていた。

 そして、マリカの右肩の紋が、焼けるように熱を持った。

 瞼の裏で、光点が動いていた。

 西から、まっすぐに、こちらへ。


          ◆


「何人」

 ハンナが訊いた。

 礼拝堂の戸口で、マリカは目を閉じたまま答えた。

「隊長を入れて、たぶん十。馬の足だ。四半刻もかからない」

 瞼の裏の光点は、もう迷っていなかった。丘の麓の道を、まっすぐこちらへ登ってくる。昨夜、雨宿りの間に、斥候の三人が療養院に灯が増えたことを報告したのだろう。あるいは、もっと単純に、ほかに身を隠せる場所がこの辺りにはないと、隊長が気づいたのか。

 どちらでも同じだった。

 逃げるには、遅すぎる。丘の上の療養院から麓まで、隠れる場所のない斜面が続いている。今、門を出れば、登ってくる騎馬と真正面から鉢合わせる。

「斬るか」

 クロウが言った。

 昨日と同じ問いだった。昨日と同じ、晩飯の献立を訊くような声。

 ただ、今日は、左手を握ったままだった。

「十人は、斬れなくはないだろうけどさ」

 マリカは目を開けた。

「ここで斬ったら、この院が回収隊を斬った場所になる。二百四十床ごと、教会に潰されるよ」

 ハンナが、小さく息を呑んだ。

 マリカは、修道女の方を向いた。

「悪い。あんたに迷惑をかけるつもりはなかった。……いや、あった。追手を撒くのに、教会の施設を使った。迷惑をかけるつもりで来たんだ。今さら言っても遅いけど」

「本当に、今さらですね」

 ハンナは、ずれた頭巾を直した。

 それから、礼拝堂の中を、ぐるりと見回した。

 祭壇。長椅子。天窓。そして、椅子の上で目を閉じたまま、顔の左半分を静かに明滅させているヴェル。

「その子、ここに置いていってください」

 修道女は言った。

「ヴェルさんの隣に」

 マリカは、眉を寄せた。

「光ってる子を、光ってる人の隣に?」

「だからですよ」

 ハンナは、ヴェルの椅子の陰、祭壇と壁の間の、狭い隙間を指さした。

「あの人の顔、いつもあんなふうに光ってるんです。回収隊の人たちは、この院に来るたびに、一度だけ礼拝堂の扉を開けて、あの光を見て、すぐに閉めます。中まで入ってきた人は、今まで一人もいません」

 修道女は、少しだけ笑った。疲れた、しかし悪戯を思いついた子どものような顔だった。

「光の中に、光を隠すんです。木を隠すなら森、って言うでしょう」


          ◆


 回収隊が門をくぐったのは、それからほどなくのことだった。

 マリカは、東棟の病室にいた。

 ハンナの予備の修道服を頭からかぶり、頭巾を深く下ろして、手桶を持っていた。鼻梁の傷は、頭巾の影に隠れている。左耳の十九の金環は、外して懐に入れた。環を外したのは、軍を抜けて以来、初めてだった。

 クロウは、奥から二番目の寝台に寝ていた。

 毛布を顎まで引き上げ、顔の半分を包帯で巻いてある。包帯を巻いたのはマリカだ。軍式で、端を内側に折り込んだ。隣の寝台の老人が、昨夜ハンナの灯芯で眠った、あの手首の透けた老人だった。老人は一度だけ目を開けて、包帯だらけの新入りを見て、また目を閉じた。何も言わなかった。この院の患者は、他人の事情を訊かない。訊く余裕がないのだ。

 広間の方から、声が聞こえてきた。

「——院長。聖遺回収隊、隊長のレオポルト・グラーツです。早朝から失礼」

 男の声だった。よく通る、訓練された声。

「昨夜、この近辺で、手配中の人物を見失いました。女がひとり、男がひとり、それに子どもがひとり。子どもは、少女です。十四ほど。見かけませんでしたか」

「見かけましたよ」

 ハンナの声が、平然と答えた。

 マリカは、手桶を握り締めた。

「昨日の夕方、門の前を通っていきました。三人連れで。泊めてくれって言われたので、寝台がないって断りました。本当にないんです。床も埋まってます。北の方へ歩いていきましたよ。北の、ブレスの宿場の方」

「……北、ですか」

「ええ。雨の中、気の毒でしたけど」

 沈黙が、あった。

 マリカは、瞼の裏の光点に意識を向けた。光点は、広間の中央で止まっている。動かない。隊長は、修道女の顔を見ているのだろう。嘘を探している。

「院長。念のため、院内を拝見しても」

「どうぞ」

 即答だった。

「ただ、隊長さん。手袋は、外してもらえますか」

「……なぜです」

「東棟の包帯交換が、まだ半分残ってるんです。人手が足りなくて。見て回るついでに、手伝っていただけると助かります。結晶の境目は膿みやすいので、素手の方が加減が分かるんですよ。大丈夫、星蝕はうつりません。教会がそう言ってるんですから」

 また、沈黙があった。

 今度は、さっきより長かった。

「……いえ。拝見するだけに留めます」

 隊長の声が、ほんのわずかに、硬くなっていた。


          ◆


 回収隊の男たちは、東棟の病室を、戸口から覗いただけだった。

 白い外套の男が三人。先頭の男——隊長だろう、襟に銀の刺繍がある——が、細長い部屋の二列の寝台を、端から端まで目で撫でた。透けた腕。軋む関節。燭台の光に鈍く光る、結晶の頬。呻き声。膿と薬湯の匂い。

 隊長の目が、奥から二番目の寝台で、一瞬止まった。

 包帯だらけの男。毛布から覗く、日焼けした首筋。

 マリカは、その寝台の脇に膝をつき、隣の老人の包帯を解きはじめた。手首の、結晶と肉の境目。昨夜より、境目が少し進んでいる。膿が滲んでいた。

 彼女は、湯に浸した布で、そこを丁寧に拭った。

 老人が、呻いた。

 隊長の目が、クロウから外れ、老人の透けた手首に移った。そして、そこで、顔をしかめた。

 隊長は、それ以上、部屋に入ってこなかった。

 足音が遠ざかっていく。西棟を覗き、厨房を覗き、やがて、廊下の突き当たりで止まった。

 最奥の礼拝堂。

 マリカは、布を持つ手を止めた。

 石の扉が、軋んで開く音がした。

 しばらく、何の音もしなかった。

 瞼の裏の光点が、戸口で止まったまま動かない。


 ——入るな。


 マリカは、祈るような気持ちでそう思った。祈るのは、軍を抜けて以来、初めてだった。今日は、初めてのことが多い。

 やがて、声がした。

 隊長の声ではなかった。

 乾いた、使われていない井戸の滑車のような声。

「……おまえは、もう、帰った」

 ヴェルだった。

「おまえは、北へ行った。三人を追って。……そうだったな。まだか。すまない。順番が、たまに」

 隊長が、何か低く言った。聖句のようだった。

 石の扉が、閉まる音がした。

 足音が、足早に、広間の方へ戻っていった。


          ◆


 回収隊が北へ馬を向けたのは、日が昇りきる前だった。

 マリカは、瞼の裏で、光点が丘を下り、北の街道へ曲がり、ブレスの宿場の方角へ遠ざかっていくのを確かめた。昼過ぎには、烙印の三日が切れる。そうすれば、もう追えない。追えなくていい。こちらは東へ行くのだから。

 礼拝堂から出てきたイオリは、泣いていなかった。

 ただ、ひどく静かだった。祭壇と壁の隙間に、一刻近く身を縮めていたのだ。ヴェルの椅子のすぐ陰で、ヴェルの光と同じ間合いで、自分の頬を光らせながら。

「……あの人、隊長さんに、嘘をついてくれました」

 娘は言った。

「嘘じゃないのかもしれないね」

 マリカは答えた。

「あの人にとっては、もう起きたことなんだろ。隊長が北へ行くのは」

「じゃあ」

 イオリは、足元を見た。裸足の爪先が、朝の光の中で、薄く光っている。

「わたしが、まだ生まれてないっていうのも、あの人にとっては、本当のことなんですか」

 マリカは、答えなかった。

 答えを持っていなかった。


          ◆


 出立の前に、ハンナが門まで見送りに出てきた。

 手には、例の「消毒用」の瓶を持っていた。半分ほど残っている。修道女はそれを、黙ってマリカの荷袋に押し込んだ。

「いいのか。備品だろ」

「割れたことにします」

 ハンナは、濁った掌で、自分の頭巾を直した。

 それから、クロウを見た。

 包帯はもう外していた。いつもと同じ、静かすぎる顔。ただ、左手だけは、今朝からずっと、外套の中に入れたままだった。

「……訊かないんですね、何も」

 クロウが言った。

 この男が、自分から誰かに話しかけるのは、珍しいことだった。

「訊いても、あなた、答えを持ってないでしょう」

 ハンナは言った。

「わたしも、持ってません。ヴェルさんが何を知ってるのか、わたしにも分からない。何年もそばにいて、分からないんです」

 修道女は、少しだけ目を伏せた。

「ただ、あの人が『おかえり』って言ったのは、たぶん、嬉しかったからだと思います。あの人に、まだ、嬉しいって気持ちが残ってたなら、ですけど」

 クロウは、何も答えなかった。

 ただ、小さく頭を下げた。

 マリカは、それを見て、この男が誰かに頭を下げるのを初めて見たと思った。


          ◆


 丘を下り、東の街道に出たところで、マリカは足を止めた。

「イオリ」

「はい」

 娘が、少し遅れて立ち止まった。今日も裸足だった。泥はもう乾きかけている。

「肩、貸しな」

「……え」

「右でも左でもいい」

 イオリは、戸惑ったように、マリカを見上げた。それから、おずおずと、右の肩を差し出した。

 マリカは、その肩に手を置いた。

 骨ばった、薄い肩だった。十四歳の、まだ育ちきらない肩。昨夜、外套の下で震えていた肩。

「あたしの紋は、触った相手の居場所が、三日だけ分かる」

 マリカは言った。

「今朝、あんたがいなくなったとき、あたしには、あんたがどこにいるか分からなかった。分からなかったのは、あんたに紋を付けてなかったからだ。付けなかったのは、荷に紋を付けるのは、荷を信用してないってことだと思ってたからだ」

 イオリは、黙って聞いていた。

「でも、違った。付けてなかったせいで、あたしは、あんたを見失った。見失うってのは、信用とは関係ない。ただ、見失うってだけだ」

 マリカは、右肩の紋に、意志を通した。

 熱が、肩から腕へ、腕から掌へ、そして掌から娘の肩へと、流れていった。

「三日ごとに、付け直す。いいか」

 イオリは、長いあいだ、マリカの手を見ていた。

 それから、小さく頷いた。

「……はい」

 そして、少しだけ間を置いて、言った。

「マリカさん。わたし、生まれてますか」

 マリカは、娘の肩から手を離した。

 離して、その手で、頭巾の上から、娘の頭を乱暴に撫でた。

「生まれてるよ」

 と、彼女は言った。

「あたしが保証する。前金もらってるからね。生まれてない奴の前金なんか、受け取るわけないだろ」

 イオリは、頭を押さえたまま、しばらく動かなかった。

 それから、頭巾の陰で、何かを小さく言った。

 聞こえなかった。聞き返さなかった。

 マリカは懐から金環を取り出し、一つずつ左耳に付け直した。十九個。数を確かめながら。

 少し先で、クロウが待っていた。

 外套の中から、左手を出していた。掌を上に向けて、じっと見下ろしていた。朝の光の中で、その紋は、ただの紋だった。光ってはいなかった。

「クロウ」

「なんだ」

「おかえりって言われて、どうだった」

 クロウは、掌を見たまま、しばらく考えていた。

「分からない」

 と、彼は言った。

「ただ——あの部屋は、寒くなかった」

 マリカは、それ以上訊かなかった。

 三人は、東へ歩き出した。

 背後の丘の上で、療養院の鐘楼が、朝の祈りの鐘を鳴らしはじめた。


マリカ・アシュ

年齢: 27

所属: 無所属(傭兵ギルド登録)

肩書き: 賞金稼ぎ

外見: 日焼けした肌に、鼻梁を横切る傷。癖のある黒髪を雑に結んでいる。実用一辺倒の革鎧と、背に負った幅広の直剣。左耳に賞金首の数だけ増える金環(現在十九個)。


イオリ

年齢: 14

所属: 無所属

肩書き: 「星の子」

外見: 黒髪に、根元から先へ向かって透明になっていく毛先。虹彩に星屑と同じ光の粒が浮かんでいる。痩せていて、日に当たると肌が薄く発光する。裸足を好む。


クロウ

年齢: 不詳(外見30前後)

所属: 無所属

肩書き: 流れの剣士

外見: 黒髪に、白く抜けた一房。日焼けした肌に無数の古傷。左の掌に、誰の様式とも一致しない紋が刻まれている——人間のものでも、ドワーフのものでも、魔族のものでもない。目つきが静かすぎて、逆に怖い。


ハンナ・ベルク

年齢: 33

所属: 聖典教会/辺境療養院「白灯はくとう」

肩書き: 院長・修道女

外見: 赤毛を短く刈り込み、頭巾で隠している(患者に髪を掴まれることが多いため)。丸みのある体つきと、荒れきった手。修道服の裾はいつも泥で汚れている。


ヴェル

年齢: 不詳(30〜50の間)

所属: 無所属

肩書き: 「石の口」

外見: 身体の七割が既に結晶化しており、動くたびに軋む音がする。顔の左半分は透明な水晶に置き換わり、その奥に光が明滅している。歩行は不可能で、辺境の礼拝堂の椅子に座ったまま数年が経つ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。