1話「それは輪廻の朝、甦る人霊」
月の光も通さぬ闇の中、幽かに女性の声が聞こえてくる。
「輪廻甦滅、これが私の与える永遠の罪。」
「貴方達はこれから一度だけ、この世の理を外れた者として甦ります。」
「人の形を持ちし霊、人霊として。」
「それは、人であり、人ならざる者の証。」
「老いることも、生きることも、死ぬこともない異端なる存在。」
「永劫にして、須臾たる時間を過ごせし者となるのです。」
同じ発生主であろう声が、闇の中、方向も分からぬ四方八方から聞こえてくるような感覚。朧げでありながら、しかしはっきりと明瞭に耳に届く。支離滅裂なその言葉は理解できずとも、心に深く刻まれていく。
「死してなお生きるのです、希望の子よ。」
「死することなく生きるのです、祝福の子よ。」
「死を越して生きるのです、寵愛の子よ。」
「死を受け入れて生きるのです、慈悲の子よ。」
「死に怯えることなく生きるのです、歓喜の子よ。」
「死が別つその時まで生きるのです。地上の子よ。」
『さあ、今一度、人としての生を失い、生きてゆくのです…』
最後の言葉が告げられた瞬間、世界が光に包まれていく。
ーーー
「…んんっ、ここは…?」
目が覚めると、見慣れた天井がそこにあった。いつもの家、いつもの寝床。空の月は隠れ、忌々しいほどに眩しい日の光が窓から差し込んでくる朝。隣には愛してやまない最愛の家族が一人。だがおかしい。身体が強張っておりまるで動かない。とてもとても長い時間ここで眠っていた後に目覚めたかのような感覚が全身を支配する。視覚・聴覚のみはっきりとしているが、他の身体の部位はまるで自分ではないかのように感じる。どうしたものかと思っていると、あの声が頭の中で幻聴のように想起される。
ーーー「この世の理を外れし存在、人霊としてーーー」
ーーー「老いも生も死も無きーーー」
ーーー「輪廻甦滅、永遠の罪ーーー」
ああ、あの闇の中聞こえてきた全ての言葉が鮮明に、正確に心に刻み込まれている。そして確信する。
俺は、篠懸海斗はあの夜、あの月の神を称する女の能力で人間としての生を削除された。そして、人間でも霊でもない存在、人霊として甦らされたのだ。生きているわけでも死んでいるわけでもない、だが実体は残っている。あの女の言葉を借りるのであれば、異端なる存在になってしまっていた。まあ簡単に今の状況をまとめるならば、一度俺は死んでしまい、同じ霊を持った別の存在として生まれ変わったと言えるだろう。分かりやすく、生まれ変わる前を生前、今の状態を転生後と呼ぶことにする(死んでいるわけではないというのは何となく理解しているのだが、今は難しく考えている場合ではない)。
そして恐らく、いや確実に俺の隣でまだ眠っている唯一の家族である遥 楓音も同じ存在になっている。楓音が目覚めた時、今の俺たちの状態を何て説明すれば良いのだろうか。楓音は俺よりも2つも幼いし、あまり頭もいいほうではない。それでなくても理解し難い状況に置かれているのに、楓音が今の状況を理解し、素直に受け入れることができるとは考えにくい。楓音が目覚めた後のことは心配だが、兎にも角にも、一先ずこの、恐らく何も変わっていないだろう己の肉体を生前と同じように扱えるようになるべきだろう。
頭、手、肩、足、指、骨の一つ一つまで、今までどうやって動かしていたのかを思い出す。人間、生きている間は脳が、神経が、関節が、身体のパーツそれぞれに作用し、それらを意識して動かす時もあれば、無意識に動かしている時もある。無意識に身体を動かすというのは、生死という概念から書き換えられた今の俺の感覚では難しそうだ。
ならば、神経を限りなく研ぎ澄まし、細かい関節や骨まで一つずつ動かすことを意識してみるとどうだろう。最初は指先から、そして腕、足といった大きな身体の部位まで、生前と同じように意識的に動かすことができるようになるまでにはそこまで多くの時間を要することはなかった。体感二時間もしないうちにぎこちないながらも立ち上がり、歩いたり、手を使う簡易な動作を行うことができるようにはなっていた。まるで神経を損傷した怪我人のリハビリのような感覚だった。
時刻は正午を過ぎていた。楓音はまだ目覚めない。しかし、必ずすぐ目覚めるという確証があった。なぜならあの女の声の一つがこう言ったのだ。
「貴方達はこれから一度だけ、この世の理を外れた者として甦ります。」と。
そう、『貴方達』と言ったのだ。女の目的は終ぞ分かることはなかったが、あの言葉全てに於いて嘘はないと俺は考えていた。その理由は女が「月の神を名乗ったから」だ。
エルスに生を受けた者たちにとって月の神は絶対的存在であり、負の存在であってはならない。嘘なんて吐こうものなら月から追放され、地上で悪魔にでも堕ちるも同然となる。顔や表情ははっきりとは見えなかったが、あの女からは悪魔特有の穢れや邪な情を感じることはなかった。抑々彼女が月の神を騙り、嘘を吐いていたのだとしたら、俺が生まれ変わっている現状が矛盾していることになる。よって今はあの女が本当に月の神であり、その言葉全てに嘘がない、と信じるしかないのだ。
さて、身体がある程度馴染んできたからには、次は楓音が目覚めた時のことを考えよう。海斗は未だ寝床で眠る楓音に目を向けながら、これまでの楓音との人生を思い出す。楓音は生前、心身ともにかなり脆い人間だった。幼い頃はよく一緒に楽園を元気に駆け回ったりして遊んでいたが、十歳を超えたあたりから、外に出かける度に体調を崩しがちになり、家に籠ることが多くなった。原因はわからない。次第に、楓音は家の外に出ることそのものに恐怖を感じるようになっていった。更に、家にいる間も常に側に海斗がいないと不安になるのだという。楓音の体調が悪い時は海斗がつきっきりで楓音の看病や世話をし、体調が善い時もいつも海斗の側を離れなかった。海斗も楓音に無理をさせるようなことはしたくなかったし、唯一の家族として海斗は楓音を一生懸けて守っていかなきゃいけないと考えていた。転生後も、楓音を守るのは俺の役目だ。そう意志を固め、気合を入れ直していると、寝床からごそごそと何かが動く音が聞こえてきた。
「…ふわぁ…」
「!! 楓音!目が覚めたのか!」
「あぁ…海斗が起きてる〜おはよ〜」
さも何もなかったかのように身体を起こし、少し眠そうに布団から出る楓音。その姿を見た海斗は呆気にとられていた。
「う、動けるのか、楓音。」
「? どうしたの?今日は特に体調も悪くないから普通に動けるよ?」
「そ、そうか…」
どういうことだ?海斗は首を傾げた。俺が起きた時のあの霊と人の間となったような感覚、元の身体を動かせるようになるまでに必要だった慣らしの時間はなんだったんだ。もしや楓音は人間のままで、人霊になっていないのだろうか?いやあの女の発言を考慮するとそれは考えにくい。一先ず、楓音に確認すべきことがあるだろう。
「楓音、昨夜のことは覚えているか?」
「…」
一刻の逡巡を経て、楓音が口を開く。
「覚えてるよ、全部。」
「全部、どこまでだ!?」
「月の神様を名乗る女の人に殺されたこと。闇の中でその女の人に私は人でも幽霊でもない存在に生まれ変わるって言われたこと。永遠の罪?輪廻?なんかそんなことも言ってたよね。」
つまり、楓音も海斗と同様人霊として転生したことは間違いないようだ。楓音は更に語り出す。
「私、海斗みたいに頭よくないから、難しいことはわからない。一度殺されたのになんで生き返らせてくれたのかも分からない。もちろん元のまんまではないことはなんとなく分かるけど、本質的なところはあの女の人の話を聞いてても何一つ理解できなかったの。」
「楓音…」
「だからね、私はこう考えることにしたの。海斗とこうやってまた一緒に暮らしていけるなら、私の存在そのものがどういうものになったかなんて気にしないようにしよう!って。」
楓音は海斗が思っていた以上にポジティブな結論に至っていた。
「…多分、海斗は私のために今の状況を分かりやすく説明するために色々考えてくれてたんだよね。ありがとう。」
楓音は微笑みながら海斗の手を握った。
「でもね、とりあえずは大丈夫。身体も生まれ変わる前と同じ私の身体なんだと思ったら割と自然に動かすことができたよ。多分海斗は色々考え込んじゃって最初起き上がりすらできなかったでしょ。」
「…今日の楓音はやけに勘が鋭いな。」海斗は苦笑いする。
「ふふ、何年一緒に生きてきたと思ってるの?海斗の考えることなんて実はお見通しなのです。」
自慢気に腰に手を当てふふん!と言わんばかりのドヤ顔を見せつける。昨夜の一件を経て、どうやら楓音は海斗が思っていたよりもよっぽど逞しくなっていた。
「それにね海斗、この人霊?になった状態って悪いことばかりでもないんじゃないかな?だって、老いることも死ぬこともないんでしょ?不老不死ってやつなんじゃない?」
不老不死、言われてみれば今の俺たちの状態は確かにそうなのかもしれない。海斗は改めて女の言葉を振り返る。
ーーー「老いることも、生きることも、死ぬこともない異端なる存在。」
ーーー「永劫にして、須臾たる時間を過ごせし者となるのです。」
ところどころ言葉の意味が矛盾している箇所が気になるが、要約すると確かに不老不死の状態にされたと言ってもいいだろう。
「海斗は深く考えすぎだよ。起きてしまったことはしょうがないし、これからどう新しい生き方をしていくかを考える方がいいと思うな。」
「…そうだな。さて、お腹が空いただろ?昼飯にしようか。今日はオムレツだぞ。」
「やったぁ!海斗の作るオムレツ大好き!」
二人は今の状況を深く考えるのをやめ、これからの生き方に向き合うための一歩を進み出す。しかし、すぐに彼らの考えを一転させる事件が起こることとなる。




