第三章① ルキフェル
あの嵐から二十七日が過ぎた。
今日は四月五日、海上。逆風が続いて航海はやや難航しているが、ルキフェルは特別な問題だとは感じていなかった。むしろ、これだけの人数でよく船を動かせている、と素直に思っている。舵、帆、索具の扱い、どれも無駄がなく互いの動きが噛み合っている。人数が少ない分、意思疎通も早く船は一定の速度を保ったまま進んでいた。
……もっとも、それはあくまで体感での話だ。
ルキフェル自身は相変わらず船長室に引き籠もる生活を続けている。甲板に立って風を読むわけでもなく、帆を締め直すわけでもない。床越しに伝わる船体の振動と時折聞こえる索の鳴る音から、なんとなく状況を測っているに過ぎなかった。
ソフィーという女は相変わらず甲板には出てこないらしい。船内の掃除、家畜の世話、マテオの調理の手伝い、主に衛生管理全般を任されていると聞いた。ある時、ルキフェルはふと疑問に思って、ジャスパーに言ったことがある。
「……なんで帆を畳むのを手伝わせない」
「医者は手が大事なんだよ」
ジャスパーは即座に返した。それだけならまだしも、少し間を置いて続けざまに言われた。
「お前、あの子に文句言う暇あったら手伝え」
正論だった。あまりにも正論すぎて、ルキフェルは何も言い返せなかった。船は回っている。仲間はそれぞれの役目を果たしている。誰も立ち止まっていない。止まっているのは、自分だけ。それでも心が追いつかなかった。仲間に対する罪悪感と、申し訳なさがどうしても足に絡みつく。何かをしようとするたびに、「今さら」という声が胸の奥で響く。役に立とうとすることすら、どこか自己満足のように思えてしまう。船は逆風の中でも前へ。それなのに、ルキフェルだけがその流れに身を預けきれずにいた。
——足手纏いだな。
ルキフェルは椅子にもたれた。船体の軋む音が低く、遠くで続いていた。船長室に差し込む陽光の中、ゆっくりと舞う埃をルキフェルはぼんやりと眺めていた。光の筋に照らされて、細かな粒が浮かんでは沈む。その単調な動きが妙に心を落ち着かせた。
「……掃除くらいはしとくか」
この部屋には極力誰も入れたくなかった。ひとりでいたいか。もっとも、勝手に入ってくる連中がいないわけではない。だ、ルキフェルは咎めなかった。大抵は食事を運んでくるだけで余計なことはしない。部屋の物に触れる者はいないし、触る理由もない。触らせるつもりもない。とりあえず目についた本棚から手を付けるかと思ってルキフェルが棚の前に立った瞬間、ぐらりと船体が大きく傾く。
「……っ」
ルキフェルは反射的に足を踏み込み、重心を落とした。危な、と思ったが体は自然と動いていた。揺れはすぐに収まり、船は元のリズムを取り戻す。
「……逆風か」
ルキフェルが息を吐いた瞬間、ふと自分に落ちてくる影に気づいた。彼が顔を上げた、刹那。
「——な、っ!?」
今まで自分でも聞いたことのない、間の抜けた叫び声が船長室に響いた。
ドサァッ!!
本棚から本、本、本。まとめて容赦なく雪崩のように降ってくる。分厚い航海記録、地図帳、東方の書物、どこの言語かも分からない本。さらに棚の上に無造作に置いていた小物まで巻き添えになり、床に叩きつけられる。
ガン! ドサッ! バサバサッ!
「ちょ、待て!」
ルキフェルの肩に一冊、腕に一冊、頭すれすれにもう一冊。避けきれず、ルキフェルは思わずしゃがみ込んだ。数秒後、部屋には静寂が戻ってくる。床一面に散乱した本。倒れた本棚。無残に転がる紙束と小物。その中心で、ルキフェルは呆然と膝をついたまま固まっていた。彼がゆっくりと顔を上げると埃が舞い上がり、光の中で先ほどよりも盛大にきらめいている。ルキフェルは額を押さえた。
——なんで、こうなる。
さっきまでの沈んだ思考も自己嫌悪も、今はすっかり吹き飛んでいた。代わりに残ったのは、どうしようもない脱力感と散らかり放題の現実だけ。ルキフェルは本の山を見下ろした。
「……ジャスパーに見られたら絶対笑われる」
掃除は思ったより大仕事になりそうだ。ルキフェルはまず倒れた本棚を見下ろす。……笑えない。まずやるべきことは一つだ。彼は息を整え、足の位置を確かめると本棚の側面に両手をかけた。
「……っ」
持ち上げた瞬間、腕と肩にずしりと重みがのしかかる。思わず歯を食いしばった。筋肉が一斉に抗議の声を上げる。ここ数日、まともに身体を動かしていなかったツケだ。
「なんで固定してないんだよ」
ルキフェルは悪態を吐きながら体幹を意識して力を込めると。ぐぎ、と木材が軋む音がして本棚がゆっくりと起き上がった。
「予算ケチるな」
誰に言うでもなく呟き、壁際まで押し戻す。一人で誰にも頼まず、誰も呼ばず。元の位置に収まった瞬間、ルキフェルは本棚から手を離し、そのまま額に前腕を当てた。呼吸が少し荒い。
「……コリンに、あとで固定させとこ」
独り言を発してから、ようやく床へ視線を落とした。そこには惨状が広がっている。
「……はあ」
拾わなきゃいけない。まるで自分の頭の中を、そのまま床にぶちまけたみたいだ、と。そんな考えがふと浮かんで、すぐに消えた。
……考えすぎだ。
そう自分に言い聞かせるように彼は一歩、床に散らばった本の間へ足を踏み入れた。扉が開いた気配は音より先に空気で分かった。人が三人分、入ってきた。足音の重なり方で察がつく。ルキフェルは顔を上げなかった。床に散らばった本を一冊拾い上げ、背表紙を指でなぞる。革装丁。角が少し潰れている。落ちた衝撃だろうか。破れていないかを確かめてから軽く埃を払った。
「悪ぃ。ジャスパーが『この海流なら逆風でも行ける』って言うもんだから、舵を切ったら思ったより波が荒くてさ」
マテオの声だ。少し照れたようで言い訳がましい。
「え、そんな海流あったっけ?」
コリンがくすっと笑う。彼の声音には心配と好奇心が半分ずつ混じっている。
——ああ、来たか。
そう思いながらも、ルキフェルは本を脇に置き、次の一冊に手を伸ばす。今度は海図だ。折り目を辿り、破損がないかを見る。インクの線は無事だ。問題ない。また足音。今度は一人分。
「……そっか。ニールの指示だと、航路は大西洋を真っ二つに横断してるはず。つまり今は、新大陸側から流れてくる穏やかな海流に逆らって進んでるってことよね」
ソフィーの声が少し低くなる。考えを整理した時の声だ。
——よく見てる。
ルキフェルはそう思ったが、顔には出さない。床に膝をつき、積み上げた本の位置を微調整する。背の高いものを下に、軽いものを上に。無意識の癖だ。
「その通り。でもな、ジャスパーの勘は鋭い。風と波を読む力は信用に足る」
マテオが続ける。
「別に構わねぇよな、ルカ?」
名前を呼ばれた。ルキフェルは黙ったまま最後の海図を拾い上げる。端が少し折れている。指で伸ばし、掌で軽く押さえた。揺れた。誰かの判断が悪かったわけでもない。嵐でもない。事故でもない。ただ、海の気まぐれに棚が耐えられなかっただけ。それを口にする気はなかった。言葉を足せば余計な心配をさせる。今はそれが億劫だった。ルキフェルは本を抱え、ゆっくりと立ち上がる。本棚の前に戻り、一冊ずつ元の場所へ差し込んでいく。逆風でも進める。少人数でも船は動く。それはもう分かっている。分かっているからこそ、自分だけがここに留まっていることがひどく場違いに思えた。やがて、マテオの声が落ちてきた。いつもの軽さを削ぎ落とした、低く穏やかな声で。
「……これはな。酒場で偶然会った水兵から聞いた話なんだが」
ルキフェルはまだ床に視線を落としたまま、本を棚へ戻していた。耳だけを向ける。こういう話し方をする時のマテオは冗談ではない。
「最近の海と天候は、妙に不安定らしい。予測がつかねぇってよ。だからこれからは、知識に頼るだけじゃなく、直感ってやつも必要なんだと」
——直感。
その言葉が、ルキフェルの胸の奥で小さく反響する。知識、経験、計算を積み上げた先に最後に残るもの。ルキフェルはようやく顔を上げて淡々と感情を削ぎ落とした声で答える。
「そうか。でもジャスパーほど勘の鋭い奴は、他にいないだろうな」
それは評価であり、信頼だった。同時に、自分にはない資質への認識でもある。マテオが息を吐いたのが分かった。否定されなかったことへの安堵か、それとも話が通じたことへの安心か。ソフィーが無意識にマテオの横顔を見つめている。彼女の視線の意味までは、ルキフェルには測れない。測ろうとも思わなかった。
「だね。そんな奴が味方にいて、ぼくらってラッキーだよね」
コリンの声は少しだけ明るい。そのまま彼は本の山に近づき、片付けを手伝い始めた。ソフィーも床に転がっていた一冊を拾い上げる。
——東方見聞録 マルコ=ポーロ著。
その題名をルキフェルは一瞬で認識した。かつて自分も読んだ。遠い土地、異なる文化、海の向こうの世界。
「読みたいか?」
自分でも意外なほど自然に言葉が出た。声は抑えたつもりだったが、室内でははっきりと響いた。ソフィーが驚いたように顔を上げる。ほんの一瞬、視線が交わった。
「ううん、大丈夫。ありがとう」
その返事を最後まで聞く前にルキフェルは視線を外した。これ以上、踏み込む必要はない。机に向かい、海図を広げる。指先が紙の端を押さえ、無意識に位置関係をなぞっていた。ルキフェルは海図から目を離さずに問う。
「ニールは、今どの辺だって?」
「えーっと……このあたりだって言ってたな」
マテオの指が広大な海の真ん中を示す。新大陸側、目的地まではまだ距離があるが。
「思ったより進んでるな。やっぱり新型のガレオン船は、改良が効いてる」
ルキフェルは頷いた。
「優秀な操舵手と航海士、それに整備士兼雑用係のおかげだな」
評価は事実だったが、その言葉の裏にある感情までは誰にも伝えなかった。自分はそこに含まれていない。今はまだ。
「もうちょっと感謝してほしいな~」
マテオが肩をすくめ、コリンが頬を膨らませてわざとらしく割り込む。二人のやり取りを、ルキフェルは横目で見ただけだった。彼の胸の奥で、わずかな温度が生まれているのを自覚しながら。
「このまま順調なら……あと三週間ってとこか。嵐でも来なきゃ、な」
ぽつりと零した言葉。それは予測であり、願いでもあった。口元がほんのわずかに緩む。気づかれない程度に。
——三週間。
そこまで行けば何かが変わるのか。それとも、何も変わらないまま進み続けるのか。ルキフェルは再び海図に視線を落とした。航路は一本の線として未来へ伸びていた。三人が部屋を出ていったあと、船長室には再び静けさが戻る。ルキフェルは扉が閉まる音を聞いてから、ほんの一瞬だけ息を吐いた。理由は何でもよかった。
「邪魔するな。作業の続きだ。少し考えたい」
どれも本音であり、どれも逃げだった。彼は床に残った埃を見下ろし、箒を取ろうとしてやめる。結局、さっきの本棚整理で満足してしまったらしい。
「トルチュ島に着いたら、何しよう」
思わず零れた呟きは、部屋に吸い込まれて消えた。自分でも驚くほど何も浮かばなかった。これまでの人生で、やるべきことは常に決まっていた。追うべき敵がいて、果たすべき役割があって、剣を抜く理由があった。生き甲斐と仕事はほとんど同義だった。休むという選択肢はあっても後回しにされるものだった。今は違う。剣を握る理由は失われ、命じられる立場でもなく、守るべき役職もない。仲間はいるが、自分が何者としてここにいるのかは、はっきりしない。ルキフェルは机の端に腰をかけ、視線を宙に彷徨わせた。未来のことを考えようとすると、霧がかかったように輪郭が曖昧になる。計画を立てる習慣はあったはずなのに、目的地のない道の先は想像しづらい。まるで、地図を持たずに歩いている感覚だった。
——放浪者。冒険者。
そんな言葉を頭の中で転がしてみる。自由で気ままで、どこへでも行ける存在。同時に帰る場所を持たない者たちでもある。
「……こんな感じなのか」
誰に向けるでもなく、ルキフェルは呟いた。今を生きるだけで精一杯だった日々。その延長線上に、未来があるとは思えなかった。思わなかったというより、考える余裕がなかったのかもしれない。船体がきしむ音が遠くで規則正しく鳴っている。その音に身を委ねながら、ルキフェルはしばらく動かなかった。何も決められないまま。何者でもないまま。
船が進むのに合わせて、時間だけが流れていく。




