第二章② ロザリー
三月二十五日。フランス本土。
ロザリーがサン=ジェルマン=アン=レーに着いたのは、ブレストを発ってから七日が過ぎた頃だった。馬車が止まり、御者が扉を開ける。ロザリーは一歩地面に降り立つと顔を上げ、目の前に聳えるクレマン邸を見上げた。立派な正面玄関、均整の取れた石造りの外壁。王宮儀礼を務める家に相応しい、無駄のない威厳。見慣れたはずの景色なのに胸の奥が微かに軋んだ。ロザリーの背後で馬車が向きを変える音がした。車輪が石畳を擦り、やがて遠ざかっていく。その音が完全に消えた時、ロザリーはようやく自分が戻ってきてしまったのだと実感した。癒されに来たわけではない。社交界に戻る覚悟を決めたわけでもない。ここにいないと、もっと辛いから。
ロザリーが玄関をくぐると、使用人が気配を察して現れた。驚きはないが、どこか戸惑いを含んだ視線が一瞬だけ彼女を測った。応接間へ通されるまでの間、足取りは重かった。軍靴ではないが、身体に残った疲労は靴を変えた程度で消えるものではない。長旅の疲れというより、もっと深いところに溜まった消耗だった。ほどなくして、両親が姿を現す。父は相変わらず背筋を伸ばし、母は穏やかな表情を保っていたが、二人とも娘の顔を見た瞬間に言葉を選び直したのが分かる。
「……帰ってきたんだな」
「道中はどうでした?」
ロザリーは一礼する。
「ええ。問題ありません」
父は一瞬だけ彼女を見つめ、視線を逸らした。軍人の家ではないが、王宮に出入りし、戦争と政治の距離を知っている男だ。その目は娘の疲弊を十分に理解していた。沈黙が落ちる隙を逃さず、ロザリーは言った。
「……少し、休ませてください」
母が口を開きかけ、すぐに閉じる。父は息を吐いて頷いた。
「分かった」
「部屋は、そのまま整えてあるわ」
ロザリーは再び一礼すると応接間を後にした。階段を上り、自分の部屋の扉を開ける。懐かしいはずの空間が安心はしなかった。外よりは静かだと思えただけ。扉を閉め、背中を預ける。ここは帰る場所ではない。逃げ込んだ場所ですらない。今ここにいないと壊れる。それだけの理由で選んだ場所だ。
二日間、ロザリーは屋敷の中からほとんど出なかった。朝は遅く、昼も曖昧で、夜はやけに長い。使用人が気を利かせて食事を運んでくるが、量は減ったり増えたりで一定しない。誰も咎めないし、誰も心配しすぎない。ロザリーは二日目の朝、ようやく軍服を脱いだ。鏡の前で金具を外し、襟を緩める。指先が一瞬だけ躊躇ったが、それでも外した。布の重みが消え、肩が軽くなると同時に身体の芯が冷えたような感覚が走った。私服に着替え、椅子に腰を下ろす。何もすることがない。報告書も航海図も、指示書もない。誰かの判断を待つ必要も、判断を下す必要もない。時間だけが無抵抗に流れていく。ロザリーは自分の手を見た。剣を握る手。舵を取る手。命令を書き付ける手。だが今は、何の役目も与えられていない。軍人ではない時間。航海士でもない時間。
「……私、何者でもないな」
ぽつりと零れた声が部屋に吸い込まれて消えた瞬間だった。思い出すつもりはなかったが、空白が続くと人は勝手に過去を掘り起こす。
十三年前の記憶が唐突に浮かび上がった。幼馴染。許婚。名前を呼ぶことすら今はできない。
あの頃、自分はすでに軍にいた。第四部隊で教職任務についていた頃。まだ若く、「居場所がある」ことを疑わなかった時代。彼は優しかった。愚直で、政治には疎く、それでも誇りを持って生きていた。
ある日、彼は捕らえられた。内通者。国家への裏切り。濡れ衣だった。ロザリーは知っていた。彼がそんなことをする人間ではないと。証言も状況も、いくつもの矛盾に気づいていた。それでも声を上げなかった。軍人だったから。沈黙が職務だったから。正義と秩序を守る側にいたから。まもなく彼の一族は処刑された。あの時、自分は何を失ったのか。それを考えることを、ずっと避けてきた。
「……私は」
ロザリーは目を伏せる。戦場を失った不安。役割を失った恐怖。それだけだと思っていた。違う。もっと前から、自分は居場所を一つ失っていた。選ばなかった人生。選べなかった未来。そして、沈黙を選んだ自分。
「……業、か」
自嘲にもならない呟きが落ちる。軍にいれば考えなくて済んだ。役割があれば、前を向けた。だが、今はどちらもない。何者でもない時間は、容赦なく過去を連れてくる。ロザリーは息を吐いた。静養とは傷を癒す時間ではない。向き合わされる時間なのだとようやく理解する。
三日目の朝、ロザリーは呼ばれた。朝食の席ではなく、応接間でもない。父の書斎だった。それだけで胸の奥が僅かに硬くなる。分厚い机。書類の山。王宮儀礼を司る文官らしく、整理された空間。父は椅子に腰掛けたまま、ロザリーを見上げも見下ろしもせず、事実を述べるための姿勢でそこにいた。
「三日後、舞踏会がある」
ロザリーは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。舞踏会。その単語が、今の自分とどう繋がるのか分からない。
「……私が?」
「お前も出席する。王党派の顔合わせだ。最近、動きが慌ただしい。欠席は好ましくない。加えて、お前は軍人の娘。謹慎中とはいえ、失脚したわけではない。むしろ、ここで姿を見せる必要がある。問題はないと示すために」
正論だった。家のため。派閥のため。そして、娘の立場を守るため。どれも否定しようがない。ロザリーは唇を噛んだ。
「……私、静養中なんだけど」
「だからだ。静養とは隠れることではない。壊れていないと示すことでもある。お前が出なければ、何かあったと噂される。それは、お前にとって不利だ」
理解できてしまう。理解できるからこそ逃げ場がない。ロザリーの中で何かがゆっくりと冷えていく。守られているが、戻れと言われているのと同じだった。役割を失い、過去に向き合わされ、ようやく息を整え始めた矢先に社交界へ。評価の場へ。「元の場所」へ。
「……嫌だ」
気づいたら、口をついて出ていた。拒否ではない。嫌悪だ。父が初めてロザリーの顔を正面から見る。
「ロザリー。お前が嫌がるのは分かる。だが——」
「分かってる」
ロザリーは立ち上がった。椅子が音を立てる。
「分かってるから、嫌なの」
戻れと言われた場所が、もう安全じゃないと身体が知っている。
「……準備はします」
ロザリーは踵を返して廊下に出た瞬間、ロザリーは深く息を吐いた。三日後。舞踏会は救いではない。それは、彼女を元に戻そうとする社会の手だ。ロザリーは拳を握りしめた。戻れるはずがない。戻りたくもない。それでも、行かなければならない。
舞踏会当日。ロザリーは会場の隅、壁際の装飾柱の影に身を寄せ、扇子をゆるやかに仰いでいた。淡い絹のドレスは身体に馴染みすぎるほど馴染み、歩き方も、立ち姿も、もう初舞台の人間ではない。中央では、今日が社交界デビューとなる娘たちが踊っている。十五、六。せいぜい十八。足取りは覚束ないが、笑顔だけは眩しい。未来を疑わない顔だ。
——ああ、適齢期。
ロザリーの扇子の向こうから囁き声が流れてくる。決して大きくないが、よく通る。
「……あの方、綺麗よね」
「ええ。とても」
「でも……三十五、ですって」
「まあ……」
「独身のままよね?」
驚きでも哀れみでもない。ただの分類。商品を棚卸しするような、淡々とした声音。ロザリーは扇子で口元を隠したまま表情を変えなかった。聞こえていないふり。気づいていないふり。振る舞うことだけは、若い頃から上手かった。別の囁きが重なる。
「教養はある方よ。落ち着いていらっしゃる」
「気品も……ええ、確かに」
全部、褒め言葉の形をした距離。続く言葉は必ずこうだ。
「でも、どうして結婚なさらなかったのかしら」
「性格が……強いのでは?」
「若い頃に何かあったのかも」
誰も純潔とは言わないが、三十五歳という数字が勝手にそれを補ってしまう。男を知ってしまった女。知りすぎた女。あるいは失敗した女。ロザリーは視線を中央の踊りから外し、天井のシャンデリアを見上げた。光が多すぎて眩しい。男たちの視線も感じる。好奇と欲と、そして慎重さ。興味はあるが、妻にはしない。その線引きが痛いほど明確だった。女たちの視線はまた違う。値踏みと警戒と、薄い敵意。危険な女。三十五歳。美貌があり、色気があり、独身。家庭を壊しかねない存在。若い男を誑かすかもしれない存在。だから近づかない。だから孤立する。ロザリーは扇子を閉じた。ぱちりと乾いた音がして一瞬、周囲の囁きが止まる。
「……もしかして、ロザリーか」
彼女の背後から聞き慣れた声がした。ロザリーが振り返ると、そこに立っていたのはシルヴェストルだった。随分と久しぶりに見る顔だ。記憶の中と変わらない。いや、変わらないことそのものが少し不気味に思えた。肩につかない長さの黒髪は、照明の下でわずかに青を含んで見える。淡いアイスグレーの瞳は相変わらず感情を映さず、こちらを捉えていた。背は高すぎず細身で、どこか頼りなげにすら見える体躯。人混みの中にいれば、意識しなければ視界から零れ落ちてしまいそうな存在感だが、動きが静かすぎる。気配がない。人の流れを割ることもなく、空気に溶け込むようにいつの間にかそこにいる。
「久しぶりだな」
シルヴェストルは口元に微笑みを浮かべていたが、顔の筋肉はほとんど動いていない。笑っているのは瞳だけだった。ロザリーは口を開く。
「……久しぶり、ね」
「君が公の場に姿を見せるとは珍しい」
彼はそう言って、軽く首を傾げた。動作は控えめで舞踏会という華やかな場においても決して目立たない。
「王宮にも、軍からの報告が回ってきましたよ。大層なご活躍だったそうですね。大海賊フランソワの討伐。これでまた、この国の平穏が保たれる」
祝辞としては完璧だった。王宮向けの言葉。書類向けの言葉。そこに個人的な感情はほとんど混ざっていない。ロザリーは口元だけで微笑んだ。
「痛み入ります」
上っ面だけの返答。社交の場で使い慣れた、何の意味も持たない言葉。シルヴェストルはそれを気にした様子もなく、穏やかに頷いた。
「またこうして直接言葉を交わせるとは」
「そう」
「軍務から離れていると聞いたが……元気そうで何よりだ」
離れている。その言い方が引っかかった。謹慎とも、処分とも言わない。あくまで今は現場にいないという無害な言い換え。
「……ええ。おかげさまで」
シルヴェストルはロザリーを改めて一瞥した。視線は露骨ではないが、逃げ場もない。
「……また、綺麗になったな」
ロザリーは扇子を持つ指先にわずかに力を込めた。
「そう言われる歳でもないでしょう」
「いや。そうは思わない。年齢というのは案外、重要ではないものだ。役割と立場があれば、人はいつまでも価値を保てる」
ロザリーは扇子の端を軽く叩いた。
「今夜は随分と饒舌ね」
「そう見えるか?」
シルヴェストルは微笑んだまま首を振る。
「君と話すのは、昔から嫌いではない」
ロザリーは視線を一度だけ会場中央へ戻した。若い娘たちが、まだぎこちなくステップを踏んでいる。
「用件はそれだけ?」
「いいや」
そう言って、シルヴェストルがほんの少しだけ距離を詰める。近づいたところで体温は感じられない。むしろ空気が薄くなる。彼は手を差し出した。
「もしよろしければ……一曲、踊っていただけませんか」
——来た。
逃げ場のない、社交界の正解。断れば角が立つ。受ければ周囲は納得する。ロザリーは差し出された彼の手を見つめた。彼の指先は驚くほど綺麗だった。剣も、ペンも持たない人間の手。一瞬の沈黙。その間に周囲の視線が集まるのを嫌というほど感じる。
「ええ、一曲だけ」
ロザリーの返事にシルヴェストルの微笑みは変わらないが、瞳の奥で何かが定まったのをロザリーは見逃さなかった。これはただの踊りじゃない。そう直感しながら、ロザリーは彼の手を取った。舞踊は会場の中央ではなかったが、気づけば視線はそこに集まっていた。シルヴェストルとロザリー。二人の動きは過剰に目立つものではない。跳ねもせず誇示もせず、ただ滑るように音楽に沿っていく。それがかえって、周囲の喧騒から切り離された完成された対のように見えた。
「……やはり、お似合いね」
「ええ。あの年齢で、あの落ち着き」
「未婚同士だもの。理にかなっているわ」
囁きは音楽よりも耳に届く。ロザリーは指先にわずかな力を込めた。
——見られている。
戦場では見られることは判断材料だった。敵の視線、仲間の位置、死角。すべては情報だが、今の視線は違う。意味も意図も、勝手に押し付けられてくる。
「……落ち着いて」
ロザリーの耳元で低い声がした。囁くようでいて音楽に紛れるちょうどいい距離。
「気にするな」
シルヴェストルだった。彼の手は驚くほど柔らかく、迷いがない。次の動きをそこにあるものとして提示する。
「俺もよく思われていないんだ。この歳で、未だ妻を持たない。説明責任が発生する立場というのは、なかなか厄介だな」
ロザリーは視線を上げないまま言葉を返す。
「……私なんかと踊って、恥ずかしくないわけ?」
「いいや。俺は君と踊りたかった。だから、誘った」
次の振りで二人の距離が縮まる。ほんの一瞬、視線が重なるほど近くなる配置。その刹那、彼は低く続けた。
「今は俺に任せて。周囲の視線も、責任も……すべて俺が背負う」
ロザリーは気づく。彼のリードは優しい。無理をさせない。踏み出す先を必ず示し、転ばせない。——だからこそ怖い。この腕の中にいれば守られるが、選択を委ねることでもある。音楽が流れ、二人は再び距離を取った。周囲では、満足げな視線が交わされていた。
「……素敵な組み合わせだこと」
「ええ。ああいう形が正しいのよ」
ロザリーは微笑みを崩さないまま、心の奥で息を吐いた。
——戦場より息が詰まる。
優雅な舞踏の裏で彼女は初めて知った。守られるという行為がこんなにも静かに人を縛るものだということを。しばらくのあいだ、二人は踊り続けていた。一曲がやけに長い。ロザリーはそう感じながらも足運びを止めなかった。否、止める理由がなかった。音楽に身を預け、視線を合わせず、ただ定められた距離と動きの中に留まる。その間だけは考えなくて済んだ。やがて、楽団の音がふっと途切れる。拍手が起こり、ざわめきが戻ってくる。シルヴェストルは自然な動きで一歩引いてロザリーの手を離したが、すぐに肘を軽く差し出した。
「外に出ようか」
ロザリーは一瞬だけ周囲を見回す。注がれる視線。含みを持った笑み。期待と好奇と、無遠慮な憶測。ここに留まる方がよほど面倒。
「……ええ」
ロザリーは彼の肘に手を添えた。断れなかったわけじゃないが、今はあの視線の渦から離れたかった。二人は並んで歩き出す。途中で、シルヴェストルがさりげなく給仕を呼び止めた。
「二つ、頼む」
ほどなく差し出されたグラスのうち、一つをロザリーへ。彼女は迷わず受け取った。シルヴェストルも自分のグラスを手に取り、歩みを止めることなく進む。バルコニーの扉が開いて、夜気がふわりと流れ込んだ。室内の熱と香水と人いきれが、嘘のように遠のく。外は静かで冷たい空気が肺の奥まで入り込んできた。ロザリーは無意識のうちに息を吐く。やっと呼吸ができる。二人は並んでバルコニーへ出た。欄干の向こうには、月明かりに照らされた庭園と静まり返った夜の空。シルヴェストルはロザリーの隣に立ち、グラスを軽く傾けた。
「……少しは楽になった?」
ロザリーはグラスを見つめたまま肩をすくめる。
「楽という言葉の定義次第ね」
そう言って、ロザリーは小さく口をつける。喉を通る冷たさが思考を少しだけ現実に引き戻した。二人の背後ではまだ舞踏会が続いているが、ここには音楽も拍手も届かない。バルコニーに流れる沈黙は気まずさというより、整理された間だった。シルヴェストルはしばらく夜景を眺めてからぽつりと言う。
「踊っている間……昔を思い出していた」
ロザリーは答えなかった。グラスを持ったまま視線だけを彼に向ける。その仕草をシルヴェストルはよく知っていた。続きを促す時の無言の合図。
「君は、ずいぶんお転婆だったな。屋敷の庭を駆け回って、靴を泥だらけにして……叱られても、ちっとも懲りなかった。それでも、真っ直ぐだった。だから、士官学校に入ると聞いた時も驚きはしなかったよ」
ロザリーは小さく鼻で笑った。
「買い被りすぎ。あの時は……ただ、副司令官に憧れてただけ」
ロザリーの脳裏に浮かぶ影があった。女性として初めて海軍に名を連ね、貴族社会に波紋を投げ込んだ存在。強く揺るがず、誰にも媚びなかった背中。今や海軍の実質的な要となり、誰もがその判断に従う人物。
「女性だから、とか。家のために、とか。そういう言葉で、立ち止まる理由を与えられるのが……嫌だった」
シルヴェストルは口を挟まず耳を傾けている。
「戦場に出れば、少なくとも役割はあった」
ロザリーのグラスの中身がわずかに揺れる。
「航海士として、軍人として。年齢も、女であることも、そこでは関係なかった。……でも今は、その場所がない」
夜風が二人の間をすり抜ける。シルヴェストルはゆっくりとグラスを手すり置き、ロザリーの横顔を見た。
「君は何も失っていない。役割を奪われたように見えるだけだ」
ロザリーはほんのわずかだけ眉を寄せる。
「……そう言えるのは、失わない側の人間だからよ」
シルヴェストルは苦笑に近い表情を浮かべる。
「そう思われても、仕方ないな」
ロザリーはグラスを傾けながら思った。あの人の背中を追いかけていた頃の自分は、まだ選べていた。今はもう、その選択肢がどこにあるのか分からないだけで。しばらく二人とも口を開かなかった。先に沈黙を破ったのは、シルヴェストルだった。
「……俺たちは、もう若くないね」
ロザリーは視線を夜空に向けたまま答える。
「もうと言えるのは取り戻せる人だけよ」
シルヴェストルがわずかに目を瞬かせた。
「取り戻せない、と?」
「ええ。時間は平等じゃない。少なくとも……私には」
シルヴェストルは少し困ったように微笑む。
「君は厳しいことを言う」
「事実を言っているだけ」
ロザリーは肩をすくめた。
「あなたは、まだ選べる。そういう顔をしているわ」
「……それでも、君は後悔しているようには見えない」
ロザリーはほんの一瞬だけ目を伏せた。
「後悔はしていないわ。ただ背負っているだけ」
風が吹いて、ロザリーの髪が揺れた。シルヴェストルは少しだけ声を落とす。
「今も……忘れられないのかい?」
ロザリーはゆっくりと彼の方を見る。責める目でも、怒った目でもない。
「……聞かないで」
ロザリーはグラスを手すりに置いた。
「今日は踊りに来ただけよ。それ以上でも、それ以下でもない」
シルヴェストルはゆっくりと頷いた。
「……そうだね」
舞踏会が終わりに近づくにつれ、楽団の音も次第に輪郭を失っていった。人々は別れの挨拶を交わし、余韻を引きずるように会場を後にしていく。
「今日は踊ってくれてありがとう」
シルヴェストルは静かな声で言った。社交辞令としては、これ以上なく整った一言。ロザリーはゆっくりと息を吐く。
「ええ。これで役目は果たしたわね」
自分でも驚くほど感情のない声だった。舞踏会も舞踊も、笑顔も。すべて役目。胸の奥で張りつめていたものがわずかに緩む。
——やっと、解放される。
そう思った時だった。シルヴェストルがふっと微笑む。
「俺もだよ。……やっと、自分に戻れる」
「え?」
ロザリーが聞き返すより早く、距離が詰められた。顎に指先がかかる。拒む間もなく視界が遮られる。触れた唇は意外なほど熱を帯びていた。ロザリーは反射的に彼の胸を押した。拒絶の意思は込めたが、動かない。頭が妙に冷えていく。
——頼りなさそうな顔してるくせに。私、部隊じゃそれなりに強い方なのに。
体格差。重心。押し返せない現実。男の基礎体力という、どうしようもない差がはっきりとそこにあった。やっと唇が離れた。距離ができたはずなのに、空気はまだ熱を帯びている。シルヴェストルは一瞬だけロザリーの表情を確かめるように見つめ、口を開いた。
「……送ろうか」
あくまで紳士の提案として整えられた言葉が、ロザリーは気づいていた。彼の瞳、淡いアイスグレーの奥で揺れているものに。静かで、熱を隠した情動。まるで毒を織り込んだ布地の裏側に、熱源が潜んでいるような視線。ロザリーはハッキリと答えた。
「結構よ。一人で帰れるわ」
それだけ言って、ロザリーは彼の方をもう見なかった。彼女は背筋を伸ばし、踵を返す。バルコニーを後にする足取りは揺れていない。迷いも未練も、そこには見せなかった。残されたシルヴェストルは何も言わない。追いかけることも、呼び止めることもなく、遠ざかっていく彼女の後ろ姿を見つめていた。夜気に揺れる灯りの中で、彼の表情は相変わらず穏やかだったが、その瞳だけがしばらくの間、ロザリーの背を離さなかった。
四月一日。大海賊フランソワが海に身を投げてから、ちょうど一ヶ月が経っていた。
たった一ヶ月。それなのに、あまりにも多くのものが剥がれ落ちた。フランソワとの交戦。マルセロの死。嵐の海での戦闘。マクシムの大怪我。部隊の謹慎処分。街では英雄。上層部では問題児。社交界では危険な女。ロザリーは実家の自室で一人きりの時間を過ごしていた。カーテン越しの春の光は柔らかいのに、どこか他人行儀で落ち着かない。昨日の舞踏会の喧騒が、嘘のようだった。扇子の向こうの視線。囁かれる噂。そして、あの人の体温。思考を断ち切るように、ロザリーは息を吐いた時だった。控えめなノックの音が自室の扉を叩き、ロザリーの背筋が反射的に伸びる。
「……どうぞ」
扉が静かに開き、入ってきたのは父付きの執事だった。年季の入った所作。視線は控えめで声も低い。
「お休みのところ、失礼いたします。お嬢様にお客様がお見えです」
ロザリーは一瞬、眉を寄せる。
「……誰?」
「シルヴェストル・ダラス様でございます」
名前を聞いた瞬間、ロザリーの胸の奥がわずかに軋んだ。
——やっぱり、来た。
ロザリーはベッドの端に置いていた手をゆっくりと膝の上に戻す。
「……応接間に通して。私も後で向かうわ」
「かしこまりました」
執事は一礼し、部屋を出ていった。扉が閉まる音がやけに大きく響く。ロザリーはしばらく動かなかった。昨日で終わったはずの役目。昨夜で引かれたはずの線。それが、今またこちら側に引き寄せられてくる。
「……昨夜の続き、か」
——これは偶然の訪問じゃない。話されるべきことが残されている。
ロザリーは立ち上がり、鏡の前に立った。整えすぎない。武装もしない。逃げもしない。やがて、ゆっくりと扉に手をかけて応接間へ向かって歩き出した。やがて、応接間に入るとロザリーはソファに腰掛け、背筋を伸ばしたまま待っていた。扉が開き、シルヴェストルが姿を現した。昨日と変わらぬ穏やかな装い。表情も同じだが、空気が違う。互いに一歩も動かないまま、視線だけが絡む。先に口を開いたのは、シルヴェストルだった。
「……昨夜はすまなかった。許可もなく、あんなことをした」
ロザリーは一瞬、瞬きをしただけで表情を変えなかった。
「……謝罪は受け取るわ。お互い忘れましょう。昨夜のことは」
シルヴェストルは彼女の言葉を咀嚼するように黙り込み、ふっと小さく笑った。
「忘れる、か。君は……あんなことをされても、忘れようとするんだな」
ロザリーの眉がほんのわずかに動く。
「それで、用事はそれだけ?」
「いや。まだ、ある」
シルヴェストルが一歩踏み出し、距離が縮まる。ロザリーは立ち上がらないが、指先にだけ緊張が走る。
「……話すなら、そこからでいい。これ以上、近づかないで」
シルヴェストルは下がらなかった。アイスグレーの瞳がロザリーを逃がさない。
「距離を取るのが癖になったな」
ロザリーは彼の視線を正面から受け止めたまま、答えなかった。
「ここに来たのは、他でもない。昨日、できなかった話の続きをしに来た。君は……あの男のことを、今も忘れられないのかい」
ロザリーの胸の奥がきしんだ。思い出そうとしていなかったはずの顔が勝手に浮かび上がる。まだ青年だった幼馴染、許婚。
「……当然でしょう。奪われたのよ。あなたが側で支えている、国家そのものから。罪をでっち上げられて。一族ごと処刑されて。理由も釈明の場も与えられなかった。でも……」
ロザリーの指先がきゅっと握られる。
「一番赦せないのは、私。無実だって分かってた。知ってたのに、黙っていた。何もできなかった。何も言えなかった。……今も、迷って逃げてる」
ふと別の顔がロザリーの脳裏をよぎる。マクシム。リラ。サミュエルや、メリッサ。嵐の夜、甲板に立っていた仲間たち。ロザリーは息を整えるように息を吸った。声にほんのわずかだけ熱が宿る。
「それでも……守りたい人たちがいる。守りたい居場所がある。だから私は、この罪の意識を捨てない」
ロザリーの視線がまっすぐにシルヴェストルを射抜く。
「忘れるためじゃない。これ以上、間違った方向へ舵を切らないために。……それが、私が今も軍にいる理由だから」
ロザリーが言い切ったあと応接間に静けさが戻る。逃げ場のない沈黙だが、ロザリーにとって逃げなかった証でもあった。シルヴェストルはロザリーを見つめたまま息を吐く。
「……仲間、か。君はまだ折れないらしい」
ロザリーはわずかに眉を寄せた。
「折れないんじゃないわ。挫けていられないだけ。逃げたくないだけよ」
シルヴェストルは低く問いかける。
「……君は、今もあの男が好きか?」
不意打ちの問いに。ロザリーは一瞬言葉を失う。
「……っ」
ロザリーの胸の奥で何かが反射的に跳ねたが、それを掴み取る前に首を横に振る。
「今は、前を向きたいの」
曖昧な答え。肯定でも否定でもない。その時、シルヴェストルは一歩、距離を詰めてロザリーの手を取った。
「……え?」
次の瞬間、ルヴェストルは彼女の前に膝をついていた。
「ロザリー、結婚しよう」
ロザリーの思考が真っ白になる。
「……な」
何を言われたのか、理解が追いつかない。シルヴェストルは彼女の手を離さないまま続ける。
「重荷を抱えて、茨の道を無理に進む必要はない。傷ついていく君を……俺は、これ以上放っておけない」
「何を言って——」
ロザリーが言いかけた言葉は遮られた。
「好きだ。ずっと昔から……やっと、伝えられる」
彼の指先がわずかに強くなり、声に熱が滲む。
「俺のそばにいてほしい。俺も……君のそばにいる。守るから」
言葉は優しかった。あまりにも正しくて、あまりにも救いの形をしていた。彼は自分が壊れていることに気づいている。だからこそ、「守る」という言葉を選んだ。ロザリーの胸の奥で警鐘のようなものが鳴った。この手を取れば、戻れなくなる。ロザリーが黙っているとシルヴェストルはそれを揺らぎと誤解したらしく立ち上がった。ロザリーが腰を下ろしているソファ。その背もたれに、片手を置いた。逃げ道を塞ぐように、体重を預けるでもなく囲い込む位置取りで。
「それに、滅んだ一族のことをいつまでも引き摺っていても未来はない。自分を罰して縛りつける必要はない。忘れるのが一番だ」
この距離、この角度、この言い方。ロザリーははっきりと理解した。この男は守るのではなく、選択肢を奪う位置に立っている。ロザリーは息を吸った。
「……絶対に嫌」
ロザリーはそのまま彼の手をきっぱりと振り払った。
「っ……」
シルヴェストルの表情が凍りついた。想定外だったのだろう。だが次の瞬間、その顔に浮かんだのは驚きではなく、不快感だった。
「君は……今、何をしたか分かっているのか? やっぱり……やっぱり、あの男がまだ好きなのか」
シルヴェストルの怒りが言葉の端々に滲み出る。拒絶の理由を、過去の男に押し付けた。
「あいつのことは忘れろ。俺の元に来い。結婚して……俺のものになれ」
ロザリーはゆっくりと顔を上げた。もう怯えはない。
「違うわ。拒絶しているのは、過去の未練じゃない。私はね、選択肢を奪われるのが大嫌いなの。社交界も、そう」
二人の視線が真正面からぶつかる。
「でも、一番嫌いなのは……あなたの歪んだ性根よ。人の痛みを“忘れればいいもの”として切り捨てて、守っているつもりになる。毒みたいに蝕んでくる」
ロザリーの口角が上がる。
「もっと良い男だったら嫁いでたわよ。でも、毒蛇に嫁ぐ気はないから」
シルヴェストルは笑った。乾いた笑い声には、昨夜までの柔らかさは残っていない。
「……それでこそ、君だ」
ロザリーは眉をひそめる。理解できないというより、理解したくない種類の納得だった。
「……どうして、そういう結論になるの」
シルヴェストルは一歩も引かない。
「ならば、奪うだけ」
彼はロザリーの顎に手をかけ、逃げ道を塞ぐ瞬間、ロザリーは笑った。好戦的で、どこか懐かしい笑み。
「やってみれば?」
挑発。剣を抜く前の、あの感覚と同じ。シルヴェストルの口元がわずかに歪む。次の瞬間、距離は強引に詰められたが、ロザリーは彼の口元に噛みついた。鋭い痛みが走り、シルヴェストルが反射的に身を引いた。
「……何をする」
シルヴェストルの口の端に赤が滲んでいる。ロザリーはハンカチを取り出し、自分の口元と指先についた血を拭った。
「あら、ごめんなさい。私ね……士官学校時代、剣術の稽古で不意打ちと小細工ばかりして、教官にずいぶん叱られたの。意地悪したくなるのよね。ムカつく相手には。最短で片付けるのが癖なの」
軍人の目は揺れていない。ロザリーは冷たい笑みのまま問いかける。
「ねえ……昔のお転婆娘と、今の危険な女。——どっちが好み?」
二人の睨み合いは奇妙な静けさを孕んだまま続いていた。その沈黙を破ったのは、不意のノック音だ。
「どうぞ」
ロザリーはわざと軽やかに応じた。扉が開き、室内に足を踏み入れた人物を見た瞬間、ロザリーは息を潜める。
短めに整えられた黒髪。艶はあるが、光をほとんど反射しない。瞳はスレートグレー、冷えた石のような色で感情の揺らぎが読み取れない。身体つきは細いが、立ち姿には無駄がなく気配が異様なほど薄かった。
……似ている。顔立ちそのものではないが、佇まいの奥にある影の質がシルヴェストルと重なる。
ロザリーは瞬時に理解した。ダラス家三男、ピエール。重責を担う兄たちに比べ、遊び呆ける弟、狩猟仲間と姿をくらます、表に出てこない男。社交界ではそんな噂ばかりが先行する人物。ロザリー自身、彼を最後に見たのはまだ少年だった頃だ。ピエールは一礼して告げた。
「兄上。お迎えにあがりました。そろそろお帰りの時間です。お屋敷にて、職務がございますでしょう」
シルヴェストルは舌打ちをする。
「……先に行っていろ。馬車の用意を」
「承知しました」
ピエールはそれ以上何も言わず、踵を返した。扉が閉まるまで足音はほとんど聞こえない。優雅、というより、音がない。ロザリーの胸に微かな違和感が残る。その視線を感じ取ったのか、シルヴェストルが低く言った。
「俺は、君を諦めたわけじゃない。軍人として、君は誰のために戦っているのか自覚するべきだ」
シルヴェストルの言葉に、ロザリーは息を吐いた。
「……私は、仲間のために戦ってる。確かに、軍に属している以上、国家のために身を捧げる立場ではあるわ。でも、私が剣を取る理由は仲間を守るため」
シルヴェストルの表情がわずかに強張る。ロザリーは続けた。
「第七艦隊部隊。マクシミリアン・ブーケ隊。上層部からは厄介者の寄せ集めだと揶揄される。今は謹慎で皆ばらばら。でも、間違いなく私の居場所よ」
シルヴェストルはロザリーを見つめていたが、やがて踵を返した。扉が閉じられる。その音は、はっきりとした決裂。ロザリーは一人、応接間に残された。
馬車の中は異様なほど静かだ。車輪の軋む音と規則正しい揺れだけが続いている。シルヴェストルは窓の外に流れていく街並みを眺めたまま口を利かない。向かいに座るピエールは、彼の横顔をちらりと盗み見た。
——口の端が赤い。……女絡みかよ。
ピエールは内心で呆れはしたが、それを言葉にするほど愚かではない。不用意な一言がどんな結果を招くか、ピエールは嫌というほど知っていた。馬車内の沈黙を破ったのはシルヴェストルの方だった。
「……ピエール。あれはやりすぎだ。フランソワの残党どもがトゥーロンを襲い、即座に一斉斬首。王宮にも報告が上がってきた。——お前が裏で煽動していたんだろう」
ピエールは肩をすくめた。
「仰るとおり。もっとも、煽動という表現は正確ではありませんが、オレはサン・マロから連れ出しただけですよ。あいつらは失われた船長の仇を討ちたかっただけです」
シルヴェストルは息を吐いた。
「……言い換えただけだ」
「そうかもしれませんね」
「それで? なぜ戻ってきた」
シルヴェストルが問いを投げると、ピエールは一瞬だけ視線を伏せて口を開いた。
「報告があります。処刑された残党の中に……ジャスパーの姿はありません」
シルヴェストルの眉がかすかに動く。
「いや、ジャスパーだけじゃない。フランソワの精鋭と思われる五人。彼らはフランソワの死以降、姿をくらましています」
「生死も不明、か」
「はい。生きているのか、死んでいるのかも」
シルヴェストルはしばし考え込み、やがて口を開いた。
「あいつが野垂れ死ぬとは思えん。どこかで、しぶとく生きているだろう」
ピエールは口角をわずかに上げた。
「それなら黒辰封儀教団を率いて捜索しますか?」
シルヴェストルは首を横に振った。
「いや、後回しだ。それより、エドガーにはフランソワの死を伝えたか」
「ええ。フランソワが死んだその日に、手紙の遣いを出しています。死んだこと、それから必要とあらば援助すると」
「返事は?」
「今は待ちです」
馬車が石畳を踏み、わずかに揺れる。シルヴェストルはようやく窓から視線を外した。
「……ならば屋敷に戻り次第、本格的な計画を練る必要があるな。本来ならフランソワとエドガー、二人を同時に海軍にぶつけたかったが、フランソワが死んだ以上は仕方あるまいな」
シルヴェストルの舌が口元の血に触れる。ピエールは黙って聞いている。
「“フランソワの弔い合戦”と謳えばいい。エドガーを旗頭に、海賊どもを煽動する。下積みが肝心だ」
シルヴェストルは淡々と続けた。
「気を引き締めていくぞ」
ピエールは不敵な笑みを湛えて言った。
「承知しました、兄上」
馬車は走り続ける。その中で、二人はすでに次の嵐の話をしていた。誰かが巻き込まれることを前提に。




