第二章① 五人組海賊
航海の始まりを祝った翌日。コリンは甲板に錬金術の道具を広げていた。空は高く、雲は薄い。風も穏やかで、船はきしむことなく一定の揺れを刻んでいる。試すなら今日だ。
「うーん……」
コリンは腕を組み、並べた器具を見下ろす。ガラス瓶。乳鉢。金属製の匙。計量用の小さな分銅。どれもそれなりに揃っているのに、成果はさっぱりだった。錬金術。聞こえはいいが、実態はほとんど手探りだ。火を灯すことと、理論を理解することはまるで別物らしい。
「やっぱり、独学は無理があるのかなぁ」
コリンがぼやいていると、視線が船長室の扉に吸い寄せられた。相変わらず、閉まったまま。ルキフェルは今日も姿を見せていない。食事は運ばれているはずだが、甲板に出てくる気配はなかった。
「……うーん」
しばし考えた末、コリンは思い出したように立ち上がる。
「そうだ」
船長室の本棚。あそこには、やけに胡散臭い本が混じっていたはずだ。東洋の錬金術だったかな。コリンは軽い足取りで船長室へ向かい、ためらいもなく扉をノックする……ことはなく、そっと隙間から中を覗いた。返事はない。
「……借りるだけだし、いいよね」
コリンは小声で言い訳をしながら、本棚から一冊を抜き取った。分厚く、紙質は独特で挿絵もどこか奇妙だった。彼は甲板に戻り、ぱらぱらとページをめくる。
「えーっと……」
難解な理論を綴ったページが続いたあと、不意に目を引く見出しが現れた。
——白煙爆弾の作り方
「……え?」
コリンは思わず二度見する。内容はやけに具体的だった。配合比率、攪拌の順番、火種の扱い方。冗談とも比喩とも思えない、実用的な記述。
「これ……錬金術っていうか、ほぼ工作じゃない?」
コリンは呟きながらも指は自然とページを追っていた。白煙。視界を覆い、相手を混乱させる。殺傷性は低い。コリンの口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「……これ作って、部屋から出させよう」
もちろん本気半分、冗談半分が、頭の中ではすでに光景が浮かび始めていた。煙にむせて、眉をひそめながら船長室から出てくるルキフェル。「何をやっている」と低い声で文句を言いながらも、久しぶりに甲板に立つ姿。
「……うん。悪くないかも」
コリンは一人で頷き、まず材料を揃えに探索に入る。やがて探索から戻ると、コリンは甲板の隅に膝をつき、乳鉢の中身を慎重にすり潰した。白っぽい粉末と、わずかに黄味を帯びた結晶。匙で量を測り、比率を何度も確かめる。
「えーっと……一、二……いや、三?」
コリンは独り言を呟きながら蒸留器の下で弱火を保つ。炎は小さく、安定している。ガラス管の中を、透明な液体がゆっくりと循環していた。
——蒸留が終わるまで目を離すな。
本の端に走り書きされた注意書きが脳裏をよぎるが、コリンは次のページをめくって手を止める。材料欄の一行に見覚えのある単語があった。
「……あ。これ……船倉にあるやつだ」
飼料用に積んであった、あの袋。ついさっき見たばかりだ。
「よし、取ってこよ」
軽い調子で呟き、コリンは蒸留器に背を向けた。火を消すという工程が、完全に頭から抜け落ちていることに本人は気づいていない。コリンが階段へ向かい、軽快に降りていった後、甲板に残された蒸留器がコトンと嫌な音を立てた。内部の圧がわずかに上がり、ガラス管が震える。
「……ん?」
少し離れた場所で作業していたジャスパーが、足元に転がっている道具の山に気づく。乳鉢、匙、書きかけの本。そして、火のついたままの蒸留器。
「……あれ?」
ジャスパーは一歩近づき、覗き込んだ。液体の色がさっきより濁っている。
「……え、これ」
ジャスパーの背筋に嫌な予感が走った。
「コリン!! やばいって! 火、消し忘れてるけど、これ……これ、やばいんじゃないの!?」
ジャスパーの声に、階段の途中だったコリンが足を止めた。
「……え?」
コリンは振り返り、状況を理解して顔色が変わる。
「うそうそうそうそうそ!!」
彼は喚き声と同時に袋を放り出して階段を駆け上がる。
「待って待って待って!! 今消す! 今消すから!!」
コリンは甲板に飛び出し、蒸留器に手を伸ばす。
「ジャスパー! 早く消して!!」
彼の言葉が終わるより、乾いた爆発音が甲板中に鳴り響く。
——ボンッ!
白い煙が一気に噴き上がり、蒸留器が弾けたと同時に、爆弾の基となる煤と粉末が二人の上から容赦なく降り注ぐ。
「うわあああっ!!」
「言っただろ!!」
二人の視界は真っ白。煙の中で、二人の人影がよろめく。やがて煙が薄れた時、そこに立っていたのは、全身粉まみれで真っ白になったコリンとジャスパーだった。髪も眉も服も、見事に同色。二人は顔を見合わせ、数秒、無言になる。先に口を開いたのは、ジャスパーだった。
「……白煙爆弾、完成ってことでいいの?」
コリンは煤を払おうとして余計に汚しながら震える声で答える。
「……うん……たぶん……」
その後、階段を駆け上がる足音が響き、ソフィーが甲板に姿を現した。ソフィーが息を切らしながら顔を上げると、視界いっぱいに白い煙が広がっていた。
「……何があったの?」
煙はまだ完全には晴れていない。焦げた匂いと、薬品の刺激臭が混じって鼻を突く。甲板の中央では全身を白く染め上げた二人が、煤を払いながら言葉を失って立ち尽くしていた。だが、その騒ぎとは裏腹に船長室は静かだった。分厚い扉の向こう。揺れも、爆音も、白煙も、まるで別世界の出来事であるかのように。ベッドの上で横たわる男は依然として眠っている。乱れた髪、無防備な呼吸。外で起きた混乱など夢の一部にすらならない。一瞬だけ、重たい瞼がわずかに持ち上がった。音か、気配か、何かを感じ取ったのかもしれないが、それも数秒のことだった。再び意識は深いところへ沈み、呼吸は規則正しさを取り戻す。甲板では白煙が立ちこめ、仲間たちが右往左往しているというのに。その中心人物は相変わらず眠り続けていた。まるで、嵐の外側に取り残されたように。
さらに翌日。扉を叩く、控えめなノックの音で目が覚める。最初に戻ってきたのは音ではなく重さだ。身体の奥に沈殿したままの疲労が、寝台に縫い留めるように残っている。
ルキフェルは息を吐き、天井を見上げたまま数秒だけ動かなかった。考え事を始める前に起きる。そう決めて、ようやく上体を起こした。裸足のまま床に足を下ろすと、ひんやりした感触が伝わって眠気が少しだけ引く。ルキフェルは軽く肩を回し、首を鳴らした。関節が軋む音が、静かな船長室にはやけに大きく響く。椅子の背に掛けてあった麻の白いシャツを手に取り、特に迷いもなく袖を通すが、前は留めない。布が肌に触れる感触を確かめるように、軽く裾を引いた。洗いざらしの少しごわついた感触だ。悪くない。次に視線を向けたのは、壁際に置かれた小さな鏡。近づきすぎることなく、一瞬だけ見る。目の下の影。深く確かめるほどの気力はない。手櫛で前髪を後ろへ流し、指先に少量の水を含ませて髪をまとめる。几帳面でも丁寧でもない。視界の邪魔にならないようにするための動作だ。癖の残る髪を押さえつけて額を出す、これで終わり。再びノックの音がした。今度は少しだけ強い。
「……今行く」
低く返事をしてから扉へ向かう。歩くたび、床板がわずかに鳴る。最後に一度だけ深く息を吸って吐いた。ルキフェルは扉に手をかけて開けた途端、思考を止めた。そこに立っていたのはジャスパー。ただし、口に何かを咥えている。細長く、先が少しほぐれた木の枝。噛み心地を確かめるように、奥歯で軽くクイッと動かしている。無言のまま枝に目を向けるルキフェルに、ジャスパーはにやりと口角を上げた。
「朝からエロいな」
「殺すぞ」
反射的だったが、ジャスパーはまったく怯まない。むしろ楽しそうに、視線をルキフェルの肩口から胸、腹部へと滑らせてくる。
「いやあ、昔からいい体してるよな。海の男にありがちな、ただの筋骨隆々じゃなくてさ。しなやかって感じ」
ジャスパーは言いながら、わざとらしく手振りまで添える。
「無駄がないっていうか。重心が低くて、軸がぶれねえ体。動いたときのラインが綺麗なんだよ」
——こいつ、何を言い出してる。
ルキフェルは眉間に皺を寄せたまま一歩も退かない。逆三角形の体躯は確かに引き締まっているが、誇示するつもりなど一切ない。東西関係なく剣術流派に嵌るように、おまけに跳躍も鍛えられた。必要だから鍛え、使うから残っただけ。ただし、鍛すぎも良くない。理想は朝起きてすぐに空中二回転できる肉体を保つこと。
「……用件はそれか」
「いやいや、話はまだ続く」
ジャスパーは楽しそうに続ける。
「腹も割れてるけど、主張しすぎてないのがいい。それに、一番は背中だよな。きれーだよ」
ルキフェルは一瞬、本気で扉を閉めようかと思ったが、声を低くして切り替える。
「それより、その枝は何だ」
「あ、これ?」
ジャスパーはようやく口から枝を外すと、今まで隠していた片手の荷物を差し出した。木製のコップとさっき咥えていたのと同じ種類の、いや先端が整えられた木の棒。
「ほら。やるよ」
——これ渡すためだけに来たのか。しかも肉体を褒めながら。
ルキフェルは心の中で全力ツッコミを入れつつ受け取らずに聞く。
「……なんだ、これ」
「歯ブラシ」
「はあ?」
「ほら、おれたちも本格的な歯磨き習慣つけようぜ」
ジャスパーにさらっと言われて、ルキフェルは思わず鼻で笑った。
「要らない。チュー・スティックで十分だ」
ルキフェルは突っぱねると、ジャスパーは「だと思った」とでも言いたげに肩をすくめる。
「いやいや、あのお医者さんが言ってたぜ?」
ジャスパーは枝——歯ブラシを指でくるりと回しながら続ける。
「雨水があるうちに歯磨きして、ちゃんと衛生管理しようってさ。チュー・スティックも悪くないけど、歯ブラシの方が効率よく汚れ落とせるって」
……あの医者、余計なことまで。
ルキフェルが渋い顔をしているのを見て、ジャスパーは追撃をかける。
「それにな。この歯ブラシ、コリンが作ったんだ」
ぴたり、とルキフェルの思考が止まる。
「……は?」
「全員分。ソフィーの私物を参考にしてな」
ジャスパーの一言で、ルキフェルの中で拒否の言葉が喉に詰まった。
「わざわざ削って、毛先整えて、試作までしてさ。あいつなりに真面目なんだよ」
そう言ってジャスパーは半ば強引に、木製のコップと歯ブラシをルキフェルの手に押し付けた。
「使え」
ルキフェルはしばらく黙って見下ろす。歯磨きか。どうでもいいはずの生活の細部がやけに重く感じられた。
「……ほんと、余計なことしかしないな」
ルキフェルはぼそりと呟くと、ジャスパーは満足そうに笑った。
「そういうの嫌いじゃないくせに」
ルキフェルは黙って扉を閉めると、歯ブラシセットを床に放り投げることはしなかった。そのまま、机の端に置く。ルキフェルは机の上に置かれた歯磨きの道具を無言で眺めていた。木製のコップと素朴な作りの歯ブラシ。毛先に指を近づけて軽く撫でる。
——牛、か。
この感触は知っている。硬すぎず、柔らかすぎない。確か、この船には牛が一頭と、鶏が二羽いる……らしい。らしい、というのが自分でも笑える。本来なら、船長室の扉越しに聞こえてくるはずの鶏の鳴き声すら、今の自分には届いていない。音がないわけじゃない。聞こうとしていないだけだ。
「……ほんと、心が腐ってる」
ルキフェルは小さく呟いて苦笑した。このまま放っておいたら、心だけじゃなく身体まで腐っていくのだろうか。そんな想像が妙に現実味を帯びて浮かんでくる。いや、それだけは嫌だった。少なくとも、あいつらに余計な心配はかけたくない。ルキフェルの脳裏に、さっきのジャスパーの顔がよぎる。軽口ばかりで揶揄うような物言いだったが、あれはあいつなりのやり方だ。そうでなければ、わざわざ船長室まで押しかけてくる理由がない。ルキフェルは息を吐いた。フランソワの死を、まだ受け止めきれていない。フランソワがいない世界に、身体も心も慣れていない。だからといって、このままでいいわけがない。仲間が必死に船を動かしている間、自分だけが引きこもっている。そんな船乗りで、いいはずがない。
「……ここから、かもな」
ルキフェルは試すように歯ブラシを手に取った。水差しの中身を確かめ、毛先を軽く濡らす。それから歯に当て、ゆっくりと動かし始めた。しゃり、と小さな音が船長室に響く。思っていたよりも感触は悪くない。歯列に沿って毛先が入り込み、汚れを掻き出していくのが妙に実感として伝わってくる。ルキフェルは歯ブラシを咥えたまま天井を見上げた。
「……意外といい」
その時、扉がノックもなく開いた瞬間、ルキフェルは悟った。ノックせずに船長室に入ってくる無礼者は、この船に一人しかいない。ルキフェルは嫌な予感に歯ブラシを咥えたまま顔を上げる。
……やっぱりだ。
扉口に立っていたのは、マテオだった。あろうことか彼自身も歯ブラシを咥えている。二人の視線が正面からぶつかった。歯ブラシを咥えたまま睨むルキフェル。それを見たマテオはぴたりと動きを止めた。目を見開いたまま、完全に固まっている。だらしない着こなしの美青年が、自分よりさらにだらしない姿の男を見て言葉を失っていた。白い麻のシャツはろくに留められておらず、髪はまとめたとはいえ寝起きの癖が残り、しかも歯ブラシを咥えたまま立っている。
……最悪だ。
ルキフェルの脳内で、はっきりとその二文字が鳴った。よりによって、この姿を一番、見られたくない男に。マテオの目がルキフェルの顔から歯ブラシへ、そして無言で彼の胸元へと移動する。ルキフェルは何も言えなかった。言い訳も怒鳴り声も喉の奥で凍りついた。沈黙。歯ブラシと歯ブラシが、間抜けに向かい合う時間。やがてマテオがゆっくりと一歩下がって扉を閉めかける。
「失礼しましたー」
「待て待て待て待て待て待て待て待て!!」
歯ブラシを咥えたままルキフェルが叫び、扉に突進した。閉まりかけた扉に手を突っ込み、全力で押し返す。
「待て! それはないだろ!? 何か言え! 一言でいい! せめて『気持ち悪い』とか言ってくれ!! ノーコメントが一番キツいんだよ!!」
ルキフェルの顔は真っ赤。歯ブラシは口から外れない。マテオも負けじと押し返す。
「おい、離せ!! 扉壊れるだろ!! 何やってんだ!! 見なかったことにする優しさってもんがあるだろ!!」
「それが一番つらいんだって言ってるんだよ!!」
歯ブラシ片手のまま、扉を挟んで押しては引くの攻防。ぎいと軋む木の音が甲板に響く。ハンドログを広げ、木材とロープを手際よく整えていたニールがちらりと見上げた。扉の前で揉み合う二人。半裸同然の傷男。歯ブラシを振り回す美青年。ニールは一瞬だけ動きを止め、それから何も言わずに海へ目を向けた。
「……朝から元気だな」
ニールは小さく呟き、結び目の数を数える作業に戻る。ハンドログは海へと流れていく。船の速さを測るための道具は今日も正確だが、この船の一日はどうやら騒がしくなるらしい。
「……それで? 何の用だ」
ルキフェルは椅子に腰を下ろし、歯ブラシを口に咥えたまま見上げるようにマテオを見た。問いかけはしたが、特に急かすつもりもない。歯磨きは歯磨きで、淡々と続ける。ごし、ごし。その音に対して、マテオは一切の反応を示さなかった。というより、視線が完全に別のところに行っている。机の上に置かれた木製のコップ。そこに入った水。そこへ、マテオは真剣な顔で塩を少量つまみ、コップの中に落とした。軽く揺らし、溶け具合を確かめる姿は、料理の下準備というより完全に実験だった。
——何を試してるんだ、こいつ。
料理人としての探究心なのか、単なる思いつきか。判断に困るところだが、少なくとも「人の歯磨き姿を目撃した直後の行動」としてはだいぶおかしい。マテオはコップを持ち上げ、少しだけ口に含んで歯を磨くようにくちゅと軽く動かしながら、何かを考えるように天井を見た。
「……歯を塩でこすったら、どうなるんだろな」
「知らん」
ルキフェルは即答した。歯ブラシを動かす手は止めない。マテオは気にした様子もなく、塩水を口に含んだままルキフェルの方をちらりと見る。
「なあ、ちょっとさ。最近、身体が凝ってて」
マテオの言い方に、ルキフェルは歯磨きの動きを一瞬だけ止めた。察しはついた。義手、無理な使い方、包丁、鍋、船の揺れ。全部が積み重なって、そろそろ限界が来る頃だ。
「……それ終わったら体、見てくんね?」
マテオは言いながら、何気ない風を装って、もう一度塩水を口に含もうとした。ルキフェルは歯ブラシを口から外し、息を吐く。
「……ちょっと待ってろ」
ルキフェルは再び歯を磨き始めた。その返事に、マテオは安心したように頷いた拍子に塩水を誤って飲み込み、思い切り顔を歪めた。
「……っ、しょっぱ!」
マテオは喉を押さえ、咳き込みながらルキフェルを涙目で睨んでくる。
「お前……! 濃度……!」
「自業自得だ」
ルキフェルは歯磨きを続けながら言った。ごし、ごし。船長室に響くのは歯を磨く音と、塩に敗北した料理人の呻き声だけ。やがてルキフェルが歯磨きを終えると、マテオは何も言わずにシャツを脱ぎ、椅子に腰を下ろした。背中を向けたマテオの姿を、ルキフェルは一瞬だけ見てから淡々と手を伸ばす。まず肩。次に首筋。それから、義手と繋がる側の腕。指先で筋の張りをなぞり、押し、離し、また押す。フランソワとリュウから叩き込まれた人体の構造が、頭の奥で自然と呼び起こされた。骨の位置、筋肉の走り方、無理がかかりやすい箇所。同時に、マテオの呼吸と微かな反応も見逃さない。
「……そこ」
マテオが低く呟いて、ルキフェルは少しだけ力を込めるとマテオの肩がわずかに跳ねる。どうやら当たりらしい。
「っ……あー、そこだな」
ルキフェルは無言のまま指の角度を変え、円を描くように揉み込んでいく。逃げ場を塞ぐように、決して乱暴にはならない。しばらくして、マテオがぽつりと言った。
「……やっぱさ、お前じゃなきゃダメみたいだ」
ルキフェルは手を止めずに鼻で息をつく。
「告白か」
「ちげーよ、馬鹿」
即座に返ってきたマテオの声は、いつもより少し気の抜けたものだった。
「お前が引き篭ってた間さ、ジャスパーに肩揉んでもらったんだけど……あいつ、力加減下手すぎて。肩、もげるかと思った」
「だろうな」
ルキフェルが苦笑混じりに返すと、マテオが小さく笑った。
「マジで。善意なのは分かるんだけどさ。善意で骨砕かれるかと思った」
ルキフェルは親指の位置をずらし、別のポイントを押す。
「ニールは? コリンだって、非力じゃないだろ」
「うーん……」
マテオは少し考えるように唸ってから首を傾けた。
「なんか物足りねえんだよな。二人とも悪くはないんだけどさ。こう……お前みたいに、ピンポイントで来ないっていうか。ツボ分かってる感じじゃねえんだよ」
ルキフェルの指がまた一段深く入る。
「単に長く触ってただけだ」
「それを分かってるって言うんだろ」
マテオはそう言って肩の力を抜いた。呼吸がさっきよりもずっと楽そうになっている。ルキフェルは黙って施術を続けたが、指先がふと止まった。マテオの背に残る、まだ薄く色の抜けきらない青痣。甲板での殴り合い。言葉より先に拳が出て、怒りよりも衝動が勝った日。あの時、確かに自分の手でつけた痕だった。ルキフェルの胸の奥がじくりと痛む。思えばこの船にいる者は皆、衣服の下に似たような痕を隠している。打撲。擦過傷。互いに殴り、殴られ、笑ってやり過ごした証。海賊という言葉は違うな、とルキフェルは思う。掟も旗もない。名乗るものも、守るべきものも定まっていない。ただ海を彷徨っているだけ。行き先も定まらないまま、生き延びるために拳を振るう放浪者たち。自分もその一人だ。気づけば、ルキフェルの手は完全に止まっていた。
「……終わり?」
マテオが振り返る。どこか気の抜けた声だった。
「……いや、まだだ」
ルキフェルは答え、もう一度マテオの肩に手を置く。
「少し……考え事をしていただけ」
ルキフェルは指先に再び力を込めた。先ほど見つけたトリガーポイントを、今度は逃さない。マテオが息を吐いた。その反応を確かめながら、ルキフェルは黙って施術を続けた。せめて、自分がつけた痕の痛みくらいは和らげてやりたかった。やがて施術が終わり、マテオが小さく息を吐いてから椅子の背に掛けていたシャツへ手を伸ばした。ルキフェルはもう一度だけ彼の身体に視線を走らせる。細身だが、弱いわけではない。肩から腕にかけての筋肉は無駄がなく、締まりがいい。必要な分だけを削ぎ落としたような、軽さを優先した造り。胸板も厚すぎず、腹部にははっきりとした筋が浮いている。鍛え上げたというより、動くために仕上げられた身体だ。
——だからこそ、だな。
ルキフェルは義手の重さを思い浮かべた。金属の質量は静止しているだけでも負荷になる。筋力で無理やり支える造りではない分、肩と首に歪みが溜まりやすい。長時間使えば、今日みたいに張りが出るのも無理はない。
「……やっぱり、すぐ負担が来るな」
マテオは身体の使い方が上手い分、無理を無理だと自覚する前に溜め込むタイプだ。ルキフェルの脳裏にふと別のことが頭を過ぎる。
——それにしても。相変わらず、顔は綺麗だな。
思考は淡々としていた。評価でも、感情でもない。ただの事実確認。マテオの色白の肌に、朝の光が差し込んでいる。その光の下で、半裸の身体に刻まれた傷跡が浮かび上がっていた。古いもの、新しいもの。刃物の痕、打撲の痕。いくつかは薄れかけ、いくつかはまだはっきり残っている。
——ずいぶん、くぐってきた。
武人として見れば、これもまた一つの履歴に過ぎない。マテオがシャツを羽織る気配を感じながら、ルキフェルは視線を外して窓の方へ顔を向ける。外はやけに穏やかだった。雲ひとつない空。陽光を弾く海面。風も弱く、波は低い。船がきしむ音さえ、今日はどこか遠い。
——天気、いいな。
ルキフェルの胸の奥でそんな感想が浮かんだ瞬間、少しだけ間が空いた。
——俺は、もうこの光の下で過ごしていい人間なのだろうか。
問いは形にならず、そのまま溶けていく。答えを出すにはまだ早いが、目を背けるほどでもないところまで思考が戻ってきていることだけは、はっきり分かる。ルキフェルは窓の外の海を見たまま息を吐いた。すると、窓の外を見ていた視界の端に気配が重なる。
「なあ、ルカ」
ルキフェルの背後から声がした。振り返らなくても分かる。着替えを終えたマテオがいつの間にか隣に立っていた。肩が触れるほど近い距離で同じ方向、海を見ている。
「あの話……びっくりしたぜ」
マテオの声は軽いが、探るような慎重さが混じっている。
「何をだ」
ルキフェルは視線を動かさないまま答えた。
「お前が好きだった女の話」
ルキフェルの呼吸が一瞬詰まる。自覚するより早く喉がきしんだ。
「……急に何のことだ」
「声ガッサガサじゃん」
即座に返ってきたマテオのツッコミに、ルキフェルは僅かに眉を寄せる。誤魔化しきれなかったらしい。
「もう何年も前に終わった話だ。今さら蒸し返したくない」
そう言ったルキフェルの声は低く、抑えられていた。マテオは少し首を傾げる。
「そうかな。それ、ほんとに終わってるのか。まあ人によるけどさ……大抵のやつは、次の相手に乗り換えるんだよ。そんで、記憶を上書きする。忘れる奴もいる」
ルキフェルはようやく横目でマテオを見た。
「それで、何が言いたい?」
ルキフェルの問いかけに、マテオは笑った。
「やけに食いつきがいいな」
マテオはからかうようでいて、目は真剣だった。
「あのさ……残酷なこと言わせてもらうけど。普通、何年も前に終わらせた関係の相手が敵になってたら、斬るだろ。怒りで。余計にな」
ルキフェルは何も言わない。
「もちろん、女を人質に取るのは最低だ。……それなのに」
マテオは続けた。
「それなのに、お前は『今度こそ守る』とか抜かしやがって。本気で」
ルキフェルの指が無意識に窓枠を掴む。マテオの声が少しだけ低くなる。
「だからこそだよ。オレが……オレたちが、全力で止めたかったのは。その想いを……間違った方向に向かわせたくなかったから」
沈黙が落ちる。やがてマテオは困ったように笑い、ルキフェルの肩に軽く手を置いて踵を返す。
「……素直になれ。話したくなったら、聞かせてほしいな。彼女との思い出。ああ、あとさ。昼飯か夕食……どっちかでいいから顔出せよ」
扉が閉まる音がやけに静かに響いた。一人になった船長室で、ルキフェルは窓の外を見たまま、ぽつりと呟く。
「……お人好しだな。でも、甘いんだよ。スザンヌは……ただの女じゃない。それを全部話すには……まだ時間がかかる」
呟いた声は誰にも届かないまま、船長室に溶けていった。海は穏やかだったが、その青の奥にあるものを彼は知っている。




