第一章③ 五人組海賊
その夜、本格的な航海の始まりを迎えたいというコリンの提案(という名の、ほぼわがまま)から始まった、全員での夕食が開かれた。ルキフェルは「俺はいい」と一度は断ったが、無言で睨みを利かせてくるコリンに根負けし、結局同席する羽目になった。コリンがソフィーを呼びに行っている間、ルキフェルは船尾側に設えられた食堂をぐるりと見渡す。どうやら元は提督用の食堂だったらしく、空間には妙に余裕がある。床は白黒のタイル張りに見えた。
「……いや、違うな」
よく確かめると石でも陶板でもなく、帆布を巧妙に敷き詰め、あたかもタイルであるかのように見せかけただけのもの。踏みしめると、わずかに柔らかい感触が返ってくる。小回りが利く造りのわりに、装飾はやけに贅沢だ。だがその贅沢も徹底して見せかけの範疇に収まっている。なるほど、無駄に重くせず安っぽくもならない。この船を造った連中の性格が少しだけ透けて見えた気がした。
マテオが卓上に皿を並べ、向かいではジャスパーが手慣れた動きでジョッキに飲み物を注いでいる。彼らの様子を横目に、ルキフェルは特に理由もなく目についた椅子に腰を下ろし、しばらく呆然としていた。航海が始まった、という実感が遅れて胸に落ちてきたせいかもしれない。不意に目の前にジョッキが置かれ、ルキフェルが顔を上げるとジャスパーが何でもない顔をして立っていた。
「……あんまり飲みすぎるなよ」
自分でも理由のよく分からない忠告をルキフェルが口にすると、ジャスパーは片眉を上げてにやりと笑う。
「安心しな。おれはこれしか呑まねーから」
そう言って、ジャスパーはわざとらしく自分のジョッキを掲げてみせる。中身はどう見ても真水だった。
「……は?」
ルキフェルが思わず眉をひそめると、ジャスパーは肩をすくめる。
「だから言ってんだろ。酒は無理なんだって」
「海賊が?」
「海賊だから、だ」
ジャスパーは鼻先をひくりと鳴らし、周囲に漂う酒の匂いを嫌そうに追い払う仕草をした。
「強ぇ酒は匂いがキツすぎる。頭が割れるし、腹もやられる。嗅覚が良すぎるのも、考えもんだぜ」
それは冗談めかした口調だったが、言っている内容は致命的だった。五感が鋭すぎるせいで酒が飲めない。海賊としては、あまりにも不向きな弱点。
「……ほんと、難儀な体だな」
「だろ? その代わり、腐った食い物と火薬の劣化には誰より早く気づける」
得意げに言うジャスパーを見て、ルキフェルは小さく鼻で笑った。欠点を欠点のままにしない。そういう生き方を、こいつは最初から選んでいる。
「ま、酔って役立たずになるよりはマシだろ」
「それはそうだ。というか、あの鍋は積んであるのかよ」
「ただの鍋じゃねえ。ニール監修、コリン特製の『浄水器』って言え」
「コリンが鍋に酒注いで下から火つけてるだけだろ」
二人のやり取りを聞きながら、マテオが何も言わずに皿を追加していく。その時、ニールが食堂に入ってきた。両腕に抱えているのは大きな籠。中身はパンだった。
「……ああ、なるほど」
カビが生える前に食い尽くす算段だな、とルキフェルは即座に理解する。ニールはマテオに軽く声をかけ確認を取ると、マテオは食堂に元々備え付けられていたワゴンの上に置いておけ、と指示した。ひとまず、パンの入った籠はスープ鍋の脇に据えられる。その光景を眺めているうちに、ルキフェルの脳裏にふと昨日の出来事がよぎった。
——船長室、暇つぶしのつもりで目を通した本棚。そこには、東の国々に関する書籍がやけに多く並んでいた。古い年代のものから、比較的新しい出版物まで偏りなく揃っている。
「……この船、東に向かう予定だったのか」
ルキフェルが思わず零した独り言に、近くにいたコリンが顔を上げた。
「東?」
返事をする代わりに、ルキフェルは机の引き出しを開けた。中から出てきたのは、何度も開かれた形跡のある一枚の地図。折り目のついた、東方一帯を描いたものだった。その中央よりやや奥、内陸側に赤い印がひとつ付けられている。東側の知識はないが、少なくとも港町ではないことだけは分かる位置だった。
「サン・マロから東洋へ……何しに行く予定だったんだろうな」
ルキフェルが呟くと、コリンが肩をすくめて笑った。
「密輸船だったりして」
「やめろ。割と冗談に聞こえなくなるから」
コリンは「冗談だって」と言いながらも、それ以上は踏み込まなかった。地図に残された赤い印は答えをくれないまま、そこに在り続けている。
——そして今、目の前ではパンが並び、スープが湯気を立て、誰もが当たり前のように夕食の準備をしている。
「お、やっときたか」
ジャスパーがジョッキを傾けながら声をかけた。扉の向こうから、コリンとソフィーが食堂に入ってくる。ソフィーは真っ先に、ジャスパーの手元を見て目を丸くした。
「……まさか、真水?」
「ああ、そうだけど?」
こともなげに返してから、ジャスパーは顎でコリンを示す。
「うちにはとびきり器用な奴がいるからな」
それから、ジャスパーは思い出したように続けた。
「そういや腕は大丈夫か? 万全になったら、あの仕掛けを組み立てておくれ」
コリンは一瞬きょとんとした顔をして、それから苦笑した。
——ああ、あれね。
嵐の中でやられた、マストの帆の自動上げ下げ機。応急処置は済ませたが、ちゃんと直すなら材料も時間も要る。
「全く……心配してくれたと思ったら、物作りの催促ですかい」
ぼやきながら、コリンはルキフェルの隣の椅子に腰を下ろした。少し遅れて、ソフィーもコリンの隣に座る。
「はいよ。本格的な航海の始まりを記念して、今日は豪華だ」
マテオが声をかけながら、次々に料理を配っていく。豚肉の串焼き。野菜をふんだんに使った、湯気の立つスープ。パンは一つの籠にまとめて、卓の中央へ。すぐそばにはバターとチーズも置かれている。好きに取れ、ということらしい。ルキフェルは目の前に置かれた皿を見つめながら、ぼんやりとスープを口に運んだ。味は悪くない。むしろ、かなりいい。
「海軍でも、ここまで豪華な飯は出ねえだろうな」
そんな声が聞こえた気がしたが、誰のものだったかは覚えていない。自分たちは食前の祈りなんてしない、またいつものように勝手に会話が始まっていた。笑い声。匙の触れ合う音。ジョッキが卓に置かれる鈍い音。コリンとマテオが、何やら言い合いを始めている。
「義手で平然と剣を受け止めるの、やめた方がいいよ」
「傷ぐらい気にするな。壊れてもいない」
どうやら、また義手の話らしい。相変わらずだな。ルキフェルは特に興味も示さず、もう一口パンをちぎって口に運んだ。言い争いの内容までは頭に入ってこない。ルキフェルはチーズを手に取り、バターナイフを当てた。硬い。刃が表面を滑るだけで、まるで通らない。ルキフェルは舌打ちしかけて顔を上げた。そのまま言葉もなくコリンに目配せする。
「ああ、はいはい」
まだ話の途中だったコリンはすぐに彼の意図を察し、ソフィーの方を見る。
「今から見ること、内緒にしてね」
意味が分からずソフィーが首を傾げると、パチンという乾いた音が飛んだ。コリンが鳴らした指先に小さな火花が散り、人差し指の先に火が灯る。
「……あだ」
ほとんど同時にマテオとジャスパーが声を漏らした。驚きというより、反射に近い。ソフィーは目を見開いたまま、何度も瞬きを繰り返している。幻覚を疑っているらしいが、その疑念を打ち消したのはニールの低い声だった。
「……あっさり見せるなんて、どういうつもり?」
彼の視線はコリンではなく、ルキフェルに向けられている。
——あ。……やべ。
ルキフェルは自分が何をやらかしたのか、ようやく気づいた。外部の人間の前で、コリンの“それ”をあまりにも無意識に引き出してしまった。マテオとジャスパーの視線もじわじわと突き刺さってくる。責めるというより、「何してんだお前」という類の鋭さ。一方で、当のコリンは何食わぬ顔で指先の火をチーズの表面に近づけている。炎は穏やかに揺れ、チーズがゆっくりと柔らかくなっていく。心の中で、ルキフェルは小さく反論した。
——いや。断りもなく、あっさり見せた炎の使い手も悪いだろ。
完全に責任転嫁だったが、今さら取り消せるわけもない。やがて、コリンはルキフェルの視線の意味を汲み取ったのか、「はいはい」とでも言いたげに指先の火をふうっと吹き消した。
「今の……何なの?」
ようやく声を絞り出したソフィーが、しどろもどろに尋ねる。ルキフェルは答えない代わりに、柔らかくなったチーズの表面をナイフで削り取り、自分のパンの上にトロリと垂らした。そのまま何事もなかったかのように一口かじる。
……うまい。
味だけはやけに現実的だった。その後、ルキフェルは卓上のやり取りを半ば遠くに感じながら黙々と食事を続けていた。コリンが何か説明している。火がどうとか力がどうとか。ジャスパーが笑って、マテオがからかって、ソフィーが首を傾げている。頭のどこかで理解はしているが、言葉は胸まで降りてこない。音として耳には入っているのに、意味を結ぶ前に霧散していく。スプーンを口に運ぶ。噛む。飲み込む。味はさっきよりもはっきり分かる。温かい。塩気がちょうどいい。パンも、柔らかくなったチーズも悪くない。てか、うまいな。コリンが「魔術」という言葉を使った気がする。ソフィーが驚くでもなく、興味を向けているのも視界の端で分かる。だが、ルキフェルの意識は卓上ではなく、少しずつ内側へ沈んでいった。ここにいる。食っている。仲間が当たり前のように話している。それ以上のことを、今は受け取る余裕がなかった。皿が空になる。気づけばパン籠にも、串にも手を伸ばしていない。無意識に食べ切っていたらしい、ルキフェルは椅子を引いて立ち上がった。
「……船長室にいる。何かあればノックしてくれ」
ルキフェルの背後で、マテオが何か言いかけた気配がした。
「おう、あと料理の感想があれば……」
だが、彼の声は途中で途切れる。ルキフェルは聞いていなかった。正確には聞こえてはいたが、言葉として認識する前にもう歩き出していた。食堂を出て、階段に向かう。木の段を一段ずつ踏みしめながら上へ。背中に向けられた視線や気配や、感情の揺れには気づかないふりをした。……いや。気づいていなかったのかもしれない。ルキフェルが去って扉が閉まった後、食堂に微妙な沈黙が落ちる。マテオは空になったルキフェルの皿を見つめていた。きれいに食べ切られている。残し物はない。
——聞こえなかった、よな。
そう理解して、マテオは唇をへの字に曲げる。
「……別に、感想なんてどうでもいいけどさ」
誰に言うでもなく、ぼそりと呟いた。いつもなら他人の反応なんて気にもしない。料理の出来がどうだろうと、腹に入ればそれでいい。だが、今日はずっと黙っていた親友が気になっていた。ジャスパーはそんなマテオを横目で見て、何も言わずに水を飲む。ニールは空気を読んでか読まずにか、ソフィーに何か話しかけている。
「……ふん」
マテオはそっぽを向き、乱暴に自分の皿を片付けた。
——無視された、ってわけじゃねぇけど。
そう思いながらも、どこか納得がいかない。
「……どうせ、うまいって思ってたんだろ」
完全に独り言だった。
一方、ルキフェルは船長室に戻るなりベッドに身を投げ出した。靴も脱がない。どうせすぐに眠る。甲板でみっともなく泣いたあの日から、まだ数日しか経っていない。だから余計なことを考えないために、彼は眠ることを選んでいた。昼過ぎまで眠り、起きても船長室から出ない。外の空気に触れることもなく、誰とも顔を合わせない。食事の時間だけ、必要最低限の動作をしてまた戻る。
生きているというよりは、止まっているに近い生活だった。




