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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】5・6巻「胎動編」  作者: セキユズル
第一章「……裏切られる気持ちってのはな。俺たちにも、よく分かるからな」
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第一章② 五人組海賊

 三月二十一日。


 ルキフェルたちを乗せた海賊船はすでにトルチュ島へ進路を向けていた。雲の切れ間から射す陽は穏やかで海面は光を返しているが、その穏やかさは船内に満ちる空気とはどこか噛み合っていない。


 ルキフェルは机に広げた海図を見下ろし、息を吐いた。心はまだ重たいままだ。フランソワを失った悲しみは形を変えて沈殿したまま消えてはいない。それでも、立ち止まることは許されなかった。向き合わなければならない現実がある。机を囲むように仲間たちが集まっていた。

 マテオは壁に背を預け、腕を組んだまま欠伸を噛み殺している。眠気というより、張り詰めた時間がようやく緩んだ反動だろう。

 コリンは椅子に跨るように座り、背もたれの上で組んだ腕に顔を埋めている。視線は伏せたままだが、耳はしっかりとこちらを向いていた。

 ニールはルキフェルの向かい側に立ち、同じ海図を見下ろしている。彼の顔には、航海士としての冷静さと拭いきれない疲労が同居していた。誰一人として、立ち直ったわけではない。失ったものの大きさを全員がまだ抱えたまま、それでもここにいる。船を動かし、次の目的地を定めて前へ進もうとしている。

 船長室の扉が軋む音を立てて開いた。マテオとニール、コリンが同時にそちらへ顔を向けるが、ルキフェルだけは振り返らなかった。机に広げた海図から視線を動かさない。足音が二つ分、室内に入ってくる。

 一人は、ジャスパー。もう一人は亜麻色の髪を後ろで束ねた海軍医、ソフィー・ルノアール。今日、彼女をここへ呼んだのはルキフェル自身だった。逃げないと決めた。ちゃんと向き合うと仲間にも伝えた。……だが。


 ——気まずい。


 ルキフェルは思わず顔を顰めた。あの嵐の日の出来事が否応なく蘇る。自分の判断で仲間を巻き込み、自分の怒りで剣を振るい、海軍を蹴散らし、初恋の相手——スザンヌを、恐怖の只中に突き落とした。理性は叫ぶ。あれは異常だった。自分でも分かっているが、感情はもっと厄介だった。憎悪に身を委ね、正論を突きつけられても耳を塞ぎ、ソフィーの言葉を信じかけて突き放した。しかも……その裏で彼女が知らないところで自分は考えていた。

 ソフィーを海軍に送り返し、マクシミリアン・ブーケ隊を丸ごと消す。

 それが「最善」だと本気で思っていた。救うために、殺す。守るために、奪う。

 今になって振り返れば歪みきった理屈だが、当時の自分はそれを「光」だと錯覚していた。どう向き合えばいい。何を言えばいい。

 ルキフェルは唇を噛み、ようやく机から手を離した。視線を上げる勇気はまだない。沈黙が船長室に落ちる。それは責めるようでも、急かすようでもなく重かった。ジャスパーが一歩、前に出る気配がしたが、何も言わない。今日は口出しする役じゃないと分かっているのだろう。ソフィーの気配が少し近づく。その距離の短さだけで、ルキフェルの胸がざわつく。怒りでも、恐怖でもない。逃げ場のない居心地の悪さ。


 ……向き合うって、こんなにしんどかったか。


 剣を握る方がずっと簡単だった。敵がいるなら斬ればいい。答えはいつも一つだったが、ここに敵はいない。いるのは間違えた自分と傷つけた相手だけ。ルキフェルはゆっくりと息を吸った。逃げないと決めた以上、目を逸らすわけにはいかない。そう思って、ようやく顔を上げる。

 一方、ジャスパーは二人を交互に見ていた。ルキフェルは迷っている。机の前に立ったまま、背中越しにも分かるほど言葉を選びあぐねている。ソフィーも同じだった。一歩、足を踏み入れたはいいものの、次に何をすべきか決めきれずに立ち止まっている。声をかけるべきか、それとも待つべきか。自分から近づくのが正しいのかどうか。


 ……仕方ないな。


 ジャスパーは息を吐き、ルキフェルの背中に向かって声をかけた。


「ルキフェル。言われた通り、彼女を連れてきたよ」


 ルキフェルの肩がわずかに強張る。沈黙のあと、彼はようやく意を決したように、ゆっくりと振り向いた。翡翠の瞳がソフィーを捉える瞬間、二人の間にひやりとした空気が落ちる。距離を感じさせる冷えた沈黙。互いに何を言えばいいのか分からず、ただ視線だけが絡む。ジャスパーはそんな空気を壊すでもなく、ソフィーのすぐ耳元に顔を寄せて、ひっそりと囁いた。


「数日前、みんなでコテンパンにしたから」


 一瞬、ソフィーが目を瞬かせる。


「今は、大人しくしてるよ」


 ……わざとだろ。


 ジャスパーの囁きは距離のわりに妙にはっきりとルキフェルの耳にも届いた。胸の奥で舌打ちする。


 ——こいつ……俺に聞かせるつもりで言いやがった。


 ルキフェルは何も言わないが、視線だけは逸らさず、ソフィーを見据えていた。空気はまだ冷たいまま。


「あなた、ルキフェルって名前だったわね」


 ソフィーの凜とした声が船長室に落ちた。


「不思議な響きだろ?」


 即座に反応したのはジャスパーだった。肩をすくめ、いつもの軽さで笑う。


「ルキフェル。ニール先生によれば、あまり縁起の良い名前じゃないらしいけど」


 ルキフェルの背後に控えていたニールがくすりと笑った、ような気がした。ルキフェルは気に留めないふりをして口を開く。


「……俺のことはいい」


 ソフィーの目がわずかに見開かれる。ルキフェルは視線を逸らさぬまま続けた。


「それより、仲間の治療……助かった」


 ようやく言うべき最初の言葉だった。部屋の隅、椅子に腰かけていたコリンが頷く。それでいいと言いたげな仕草。ソフィーの表情がはっきりと和らぐ。安堵が、息となって漏れたのが分かった。……が、ルキフェルはそこで止まれなかった。


「だが、海軍の人間は生かしてはおけない。マクシミリアンの命は奪えなかったが……お前には、せめて死んでもらおう」


 沈黙。ソフィーの顔から血の気が引くそれと同時にジャスパー、マテオ、コリンの視線が一斉に鋭くなった。……そして、背後から突き刺さるような視線もはっきりと感じる。ルキフェルは遅れて自覚した。


 ——あ。言い方が最悪だ。


 脅しのつもりだった。警戒心と意思表示のつもりが、完全に失敗している。このあと何が起きるか分かっている。たぶん、いや確実に粛清される。ルキフェルはぼんやりと考えながら仲間たちの気配が一斉に動くのを感じ取っていた。


「なあ、ルカ」



 壁にもたれたまま、マテオがだるそうに声を上げた。


「その女、殺し甲斐がないってお前にも分かるだろ?」

「……だが、こいつは海軍の人間だ」


 それでも、ルキフェルは引かなかった。引けなかったの方が正しい。理屈よりも先に、どうしようもない意地が喉元までせり上がってくる。親友相手に張り合っているつもりなのだろうが、傍から見ればただの悪あがきだった。


「ルカ。あの海軍野郎は『あの女に価値はない』って遠回しに言ってたけどな。オレは違うと思う」


 マテオは視線を逸らさない。


「殺す価値はないが、生かしておく価値はある。十分にな」


 マテオの言葉が容赦なく胸に突き刺さる。正論だ。否定のしようがない。だからこそ、痛い。ルキフェルは息を吐いた。


「……それも、そうだな」


 渋々認めた瞬間、背後から刺すような視線が再度突き刺さった。ニールだ。無言だが、殺気が隠しきれていない。今にも背中を短剣でも突き立ててきそうな勢いだった。


 ——ああ、完全に怒ってるな。


 ルキフェルは何事もなかったかのように向き直り、ソフィーを見た。


「名前は?」


 唐突な問いに、ソフィーは一瞬だけ言葉を失うが、逃げなかった。彼女はルキフェルの翡翠色の瞳を正面から見据えて答える。


「……ソフィーよ」

「ソフィー……」


 名を反芻するように、ルキフェルは呟いた。


「そういえば、海軍の連中は出自をきっちり覚えているんだったな」


 皮肉とも羨望ともつかない声音。ルキフェルは目を細めた。記憶がある。帰る場所がある。彼の胸の奥で、ざらりとした感情が動いた。自分にはないものだ。名も、家も、過去も、どこかへ帰るという感覚も。それにしても、ソフィー。不思議な響きだった。懐かしい気がするが、なぜそう思うのかは分からない。頭の奥を探っても何も浮かばなかった。


 ルキフェル——ラウルは、かつて親友と呼んでいた幼馴染のことさえ完全に失っている。


 名に宿る記憶も、声も、顔も。残っているのは、胸に残る違和感だけだった。ルキフェルはソフィーに問いを投げかけた。


「さて。お前はこれからどうしたい? あの様子じゃ、海軍には戻れそうにないが」

「そうね……困ったものだわ」


 ソフィーは視線を落とし、指先を軽く組んだ。迷いと諦めが混じった仕草を見て、ルキフェルは一瞬だけ言葉を失った。ようやく理解する。彼女もまた捨てられたのだ。信じていた場所に、戻れなくなった人間の顔をしている。彼の思考を遮るように、軽やかな声が左から差し込んできた。


「——僕から提案があるんだけど」


 割って入ってきたのは、さっきまで無言で殺気を飛ばしていたはずのニールだった。彼は懐から一枚の紙を取り出し、ソフィーに差し出す。ルキフェルの視線が紙面に落ちる。


「……な、それ、契約書か?」


 ルキフェルの眉が自然とひそまった。


「『契約期間は一週間、もしくはそれ以上』。今は停戦中ってことで、僕たちは敵対関係じゃない。もちろん、ソフィーが嫌なら破ってくれて構わないよ」


 ニールは穏やかな口調で続ける。


「それに、ここには六人しかいない。規律なんて大層なものは存在しないしね。サインは一種の保険さ。万一、背後から刺されるようなことがないように。——あの男、割と情緒不安定だから」


 ……は?


 ルキフェルの内心がぴきりと音を立てた。


 ——誰のことだ。いや、分かってる。分かってるけど情緒不安定ってなんだ。この間、全員で殴った張本人が言う台詞か、それは。しかも“保険”って何だ。“契約”って何だ。

 俺、今ここで完全に危険人物扱いされてないか? そもそも、背後から刺すとか言うな。刺される側の気持ち考えろ。お前が一番、怖いんだよ。


 ルキフェルは表情こそ崩さないが、こめかみの奥がじわじわと痛む。たいして、ニールの目は笑っていなかった。その事実がさらに腹立たしい。


 ——この男……本気で安全管理してるだけなのに、言い方が最悪だ。


 ルキフェルは深く息を吐いた。ここで噛みつけば話は確実に拗れる。


「……随分と、用意がいいな」


 ニールは肩をすくめた。


「万一に備えるのは、航海士の性分でね」


 ——嘘つけ。お前、絶対“万一”が俺だと思ってるだろ。


 ルキフェルはニールから視線を逸らし、ソフィーの方を見た。彼女は契約書を手に取り、困ったように眉を寄せていた。怖がっているが、それでも逃げない。彼女の姿に、ルキフェルの胸の奥がちくりと痛んだ。


「……くそ」


 ——守るって決めたくせに最初に突きつけたのが“殺す”とか何やってんだ、俺は。


 ルキフェルは腕を組み、壁の方へ視線を流す。この場で一番不安定なのが誰かなんて、分かりきっている。分かっているからこそ。これ以上、余計なことは言えなかった。内心では、ニールへの文句と自己嫌悪が渦を巻きながら。ソフィーが息を吐いたのが分かった。ためらい。逡巡というより、選択の重さを測るための間に過ぎない。次の瞬間、彼女はペンを取った。


 ——は?


 ルキフェルの思考が一瞬、間抜けに止まる。


 ——本気か。いや、待て。状況を理解しているのか。契約書だぞ。海賊だぞ。戻れない線を越えるやつだぞ、それ。


 ルキフェルは反射的に手を伸ばし、ソフィーの手首を押さえた。船長室の空気がぴんと張り詰める。ニールが何か言いかけた気配もあったが、ルキフェルはソフィーの顔を見た。彼女と視線がかち合う。ブルーグレーの瞳を覗いた時、分かってしまった。その目に宿るのは覚悟だ。


 ——この女、自分で選んでいる。生き延びるためでも保身のためでもなく、ここに立つことを選んでいる。


 ルキフェルは言葉が出ずに固まっていると、ソフィーがきっぱりとルキフェルの手を振り払った。ルキフェルの内心で思わず悪態が漏れる。


 ——なんだこいつ。意外と強気じゃねえか。


 ソフィーは淡々と契約書にペンを走らせた。文字が紙に刻まれていく音がやけに大きく聞こえた。生きる。選ぶ。ここに残る。すべてを自分で引き受ける顔だった。


 ……スザンヌとは、大違いだな。


 ルキフェルの脳裏に柔らかな横顔が浮かぶ。優しくて穏やかで、折れない芯を持った女。守りたいと願うたびに同時に壊してしまいそうになる存在。


 ——最悪だな、俺。今ここで別の女を見ながら、あいつを思い出すなんて。


 ソフィーが最後の一画を書き終え、ペンを置いた。息を吐いた横顔は前を向いている。この瞬間、彼女は軍医ではなくなった。そして同時に、ルキフェルは理解してしまった。この女は簡単には折れない。救われる側でも、守られるだけの存在でもない。面倒なことになったが、その予感を否定する気は不思議となかった。その時、契約書がルキフェルの目の前でひらりと揺れた。


「契約成立。これは僕が預かっておくよ」


 ニールの声は軽かった。軽すぎるほどに。ルキフェルのこめかみがじわりと熱を持つ。


 ——殴りてえ。


 衝動はあったが、喉の奥で言葉にならずに詰まる。何を言えばいい。何を言えば、この場は“正しい”形になる。怒鳴れば、場が壊れる。黙れば、すべてを認めたことになる。どちらも違うが、今の自分には第三の選択肢が見つからなかった。拳を握ると爪が食い込み、鈍い痛みが走る。


 ——くそ。


「ニール」


 ジャスパーの声が割って入る。ニールの肩に彼の手が置かれた。制するというより、これ以上動くなという合図だ


「ルキフェルがすべてを受け入れるには、もう少し時間が必要みたいだ」


 穏やかな口調が、ジャスパーの内側は明らかに舌打ちしている。


 ——あーもう。おれ調停役すんの、めんどくさいんだけど。


 そんな本音が透けて見える。ジャスパーは続けた。


「行き先は決まってるんだろ? だったら、そろそろ舵を取るよ。手伝ってくれ」


 それだけ言うと、彼は踵を返して船長室の扉に向かって、さっさと歩き出す。先に出る。場を締める役目は果たした、と言わんばかりに。ニールは一瞬だけ、ルキフェルを見た。彼の視線には、どこか満足げな色がある。


 ——これでいい。これで、ルキフェルも大人しくなる。


「……はいはい」


 ニールは肩をすくめ、契約書を懐にしまうとジャスパーの後を追うように船長室を出て行った。扉が閉まり、残されたのは重い沈黙だけ。ルキフェルはゆっくりと息を吐いた。怒鳴らなかった。剣も抜かなかった。何一つ、取り返せなかった。それが正しいと分かっているからこそ、胸の奥に残るのは言いようのない悔しさだった。受け入れるには時間が要る。それを一番分かっているのは、他でもない自分自身だった。



 甲板に出た瞬間、潮風が容赦なく吹きつけてきた。ニールがやけに晴れやかな声で息を吐く。


「……ふう。これで一件落着、かな」


 ジャスパーは答えなかった。目の前の舵輪へ歩きながら無言でロープを払いのける。ニールは続ける。


「正直さ。彼、危なすぎるよ。情緒が。契約で縛っとかないと、また暴走するに決まってる」


 ジャスパーはちらりとも振り返らない。ニールは肩をすくめた。


「結果的にさ、僕が場を収めた形になったわけだし。ソフィーも守れたし、船も回る。悪くない判断だと思うけど?」


 ジャスパーはようやく足を止めた。


「なあ、ニール」

「なに?」

「お前さ」


 ジャスパーがゆっくり振り返る。目は笑っていない。声も穏やかだが、明らかに温度が下がっている。


「自分が正しいと思ってる時、ほんとに周り見えなくなるよな」


 ニールが一瞬、言葉を失う。


「……それ、どういう意味?」

「そのまんま」


 ジャスパーは舵輪に手をかけながら言った。


「確かに契約は必要だった。お前の判断も、間違ってない。でもな、これで大人しくなるだろって顔で人を見下ろすのは、お前の悪い癖だ」


 ニールの眉がぴくりと動いた。


「……見下ろしてなんか」

「してるよ。無自覚なのが一番タチ悪い」


 甲板にぎしと木の軋む音が落ちる。ニールは反論した。


「でもさ、ジャスパー。あのままじゃ、彼は自分も他人も壊してた」

「だからって、正論で殴っていい理由にはならねえ」


 風が帆を鳴らす。ニールは視線を逸らして息を吐いた。


「……君は、甘いよ」

「知ってる」


 ジャスパーはあっさり言った。


「だから、おれがいる」

「……どういうこと?」


 ジャスパーはふっと口角を上げたが、その笑みはどこか危うい。


「お前が正しいことをやる時、おれはやりすぎた分を引き受ける役。あとでな。調子乗ってる航海士は、ちゃんとシメる」

「……は?」


 ニールが言い返す前に、ジャスパーはもう舵輪に向き直っていた。残されたニールはしばらく立ち尽くす。胸の奥にわずかな違和感。勝ったつもりでいた。場を収めたつもりでいた。ニールは呟く。


「……なんでだろ。全然、スッキリしない」

風だけが答えの代わりに吹き抜けていった。甲板の奥。舵輪の影から少し外れた、風の通り道。ニールがまだ考え込んでいる背中に、不意にぐいと腕が回された。


「っ——」


 ニールが声を上げる前に、首元を軽く引き寄せられる。締めるほどじゃない。


「……ちょっと」


 ニールが低く抗議しかけた瞬間、ごつんと鈍い音がして額と額が正面衝突した。


「っ……!!」


 ニールの視界が一瞬、白く弾ける。星が散る感覚。膝が抜けそうになる。


「な、なにす……!」


 ニールが言い終わる前に、今度は後頭部を軽く押さえられ、甲板の手すりにこつんと打ちつけられた。力は抑えられているが、逃げ場のない角度。


「痛ぇだろ」


 ジャスパーの声は妙に落ち着いていた。


「……っ、当たり前だろ……!」

「よかった。お前、さっきまで“何も感じてなかった顔”してたからさ」

「……なに、それ」

「ルキフェルの前での、お前の顔」


 ジャスパーはゆっくりと言葉を落とす。


「正しいことした人間の顔だった」


 ニールの喉がきゅっと鳴った。


「……正しかっただろ」

「正しいよ。でもな、正しいって理由で人の心を踏んでいいわけじゃねえ」


 手すりに押さえていたジャスパーの手が少しだけ強まる。ニールは視線を逸らしたまま歯を噛みしめる。


「……じゃあ、どうすればよかったの。放っとけって言うの?」

「違う」


 ジャスパーは腕を離したが、距離は取らない。


「お前は止める役でいい。でもな、分かった気になるな」


 ニールが顔を上げる。ジャスパーと目が合った。


「ルキフェルは今、正論を理解できる状態じゃねえ。理解する前に、生き延びる段階なんだよ、あいつは」


 ニールの胸がちくりと痛んだ。


「……僕は、場を収めたつもりだった」

「だろうな」


 ジャスパーはふっと息を吐く。


「だから殴った」

「理由それ!?」

「それ。お前は頭がいい。だからこそ、自分が間違う可能性を忘れる」


 ニールは黙り込んだ。額がじんと痛む。後頭部も少し。それ以上に胸の奥がざわついていた。


「……ごめん」


 ジャスパーは一瞬驚いた顔をしたあと肩をすくめる。


「素直じゃん。珍し」

「……調子に乗ってた」

「うん。だから、これでチャラな」

「チャラ!?」

「次やったら、もっと痛い」


 ジャスパーはにこりと笑い、ニールは苦笑した。


「……君ってさ」

「ん?」

「本当に、船長向いてないよ」

「知ってる」


 ジャスパーは舵輪に手をかけながら言う。


「だから、おれは横に立つだけ」


 船長室の扉の気配を、ジャスパーはちらりと見る。


「……あいつが戻ってくるまでな」


 ニールは額を押さえながら頷く。風が少しだけ柔らかく吹いた。



 船長室には微妙な静けさが落ちていた。ジャスパーとニールが出て行ったあと、まるで空気だけが取り残されたみたいに誰も口を開かない。気まずい。沈黙に耐えきれなかったのか、コリンが咳払いを一つして無理やり明るい声を作った。


「そ、そういえばさ。ソフィーって、カスティーリャ語も話せるんだったよね?」


 唐突すぎる話題転換だったが、責める者はいない。むしろ助かった、という空気すらある。ソフィーは一瞬きょとんとしたあと、少し肩の力を抜いたように微笑んだ。


「ええ。フランス語とカスティーリャ語、それから英語も」


 彼女は自然な流れでカスティーリャ語に切り替えて言った。言葉の切り替えに、迷いも引っかかりもない。滑らかで柔らかい発音に場が凍った。


「……は?」


 最初に声を漏らしたのはマテオだった。間抜けなほど素直な反応だ。コリンは目を丸くして、ソフィーを見上げる。


「……三か国語?」

「正確には、読み書きまで含めるともう少しだけど」


 さらっと付け足されたソフィーの一言に、今度はコリンが言葉を失った。


「……やっぱり、貴族の世界ってすごい……」


 純粋な感心が滲む呟きだった。ルキフェルは何も言わずにソフィーを見ていた。胸の奥で、小さく何かが引っかかる。自分が分かるのは、フランス語とカスティーリャ語だけだ。なぜか知っていたから。文法も、綴りも、正しいかどうかなんて気にしたことはない。上には、上がいる。不意にそんな考えが浮かんだ。


 ……今さら勉強しても、追いつけねえな。


 海で生きるために身につけたものと、机の上で積み上げてきたもの。その差を突きつけられた気がして、ルキフェルは視線を逸らした。マテオが壁にもたれたまま、わざとらしく天井を仰ぐ。


「……なあ。この船にいる奴ら、なんでみんな頭良いんだよ。オレだけじゃね?勢いとノリで生きてんの」

「マテオ、それはそれで才能だと思うけど」


 コリンがフォローするように言うが、本人は納得していない。


「才能じゃねぇよ。劣等感だよ」


 ぼそっと吐き捨てるように言って、マテオは腕を組んだ。ソフィーはそんな三人の様子を見回して、少し困ったように微笑む。


「……必要だっただけよ」


 生きるために学んできた人間の声音だった。ルキフェルは彼女の横顔を見ながら、心の中で息を吐いた。


 ——やっぱ、育ちってやつは簡単には埋まらねぇな。


 それでも彼女はここに立っている。この船長室に、この船に。ソフィーの声は落ち着いていた。観察する者の目だ、とルキフェルは思う。医者のそれでもあり、軍人のそれでもある。


「……あなたのお友達、カスティーリャ語が母語みたいに見せてるけど、本当はフランス語も流暢よね? あのカタコト、演技でしょ」


 ——やめろ。


 ルキフェルは内心で即座に舌打ちする。よりにもよって、そこを突くか。


「そうなんだって。相手を混乱させるために、わざと下手に喋ったらしい。意味あるのか分かんないけど、変わってるよね」


 コリンが肩をすくめる。軽い調子。悪気はない。だから余計に腹が立つ。


 あの日。わざと整えなかった発音。距離を取るための抑揚。獣と人間の線引き。全部、必要だった。それでも、今この場で掘り返されると胸の奥がむず痒くなる。


 ——昨日だ。昨日、無理やり俺の口を割らせたくせに。どんなことをして、どんな顔をして何を考えていたのか、全部。


「コリン、ずいぶん調子を取り戻したみたいだな?」


 だから、こう言うしかなかった。皮肉にもならない、ただの逃げ。弟分には手を出せない。昔からそうだ。ソフィーが周囲を見回す。


「みんなカスティーリャ語で話すの? フランス語の人はいないのかしら」


 ルキフェルはほとんど反射で口を開いていた。


「このだらしない男以外は、ほとんどバイリンガルだ」


 滑らかなフランス語。久しぶりにわざと整えた発音。


 ——俺だって、やれる時はやる。


 どうしようもない意地だった。


「おい、やめろ。オレが分かんねぇの、知ってて喋ってんだろ」


 すぐにマテオの声が飛ぶ。低く抑えた怒り。分かっていて、やった。ルキフェルはほんのわずか口角を上げた。自覚のある悪戯心。彼の笑みを見て、マテオのこめかみがぴくりと動く。


 ——テメエ、後で覚えてろ。


 視線だけで殴り合えるほど、二人は長い。火花が散る間に、コリンが割って入った。


「ってわけで、基本はカスティーリャ語でよろしく」


 コリンはくすくすと笑いながら、ソフィーの方を向いていた。表向きは軽い


 ——大人たち、めんどくさ。


 ルキフェルはコリンの横顔を見て、息を吐いた。場を回しているのは、いつだって一番若いこいつだ。言葉はただの言葉。使い方次第で、刃にも盾にもなる。そして、今日もまた自分は余計なところで、要らない誇示をして、黒歴史がまた一つ増えた気がした。マテオと視線をぶつけ合ったまま、ルキフェルは内心で舌打ちする。


 ——くだらない。


 今さら意地を張る場面でもないと分かっているのに、引く理由も見つからない。負けず嫌いが、余計なところで顔を出す。その時、視線を感じた。刺すようなものではないが、逃がさない目。ルキフェルはゆっくりと顔を向けた。ソフィーがじっとこちらを見ている。


 ……なんだ。何を量ってる?


 一瞬、ルキフェルの中で警戒が先に立つ。この女は敵だ。少なくとも立場上は。 それなのに、ソフィーの視線には責めも恐怖もない。ソフィーはひと呼吸置いた。その仕草が妙に慎重で、ルキフェルは嫌な予感を覚える。


「あの時の声……やっぱりあなた、だったのね?」


 ルキフェルの胸の奥がわずかに軋んだ。あの時の嵐。舵が利かず、船体が悲鳴を上げる中で、自分の視界の端に掴まる細い指。落ちると直感した瞬間、叫びは考えるより先に出ていた。……あれは、英雄気取りでも正義感でもない。ただ、必死だっただけだ。今思えば、あの場は誰もが狂っていた。海賊も、海軍も。そして、何より海軍の甲板で身内同士が疑い合っていた光景。あれが一番堪えた。


「どうして私を助けたの?」


 ソフィーの問いに、ルキフェルはすぐ答えられなかった。理由なんて、後付けでしかないと分かっているからだ。助けた、叫んだ。それだけのこと。だが、それをそのまま口にするほど、彼は正直でも無神経でもなかった。


「……裏切られる気持ちってのはな。俺たちにも、よく分かるからな」


 ルキフェルが視線を落としたのは、ソフィーから逃げたからではない。その言葉に、余計なものがついてきてしまうのを分かっていたからだ。


 三年前。私掠免状を剥奪された日。昨日まで必要だった存在が、一夜厄介者に変わった瞬間。理由はいつだって立派だった。国家。秩序。正義。だが、切り捨てられる側にとっては同じだ。


 ルキフェルの隣で、マテオが何も言わずに頷く気配がする。反対側で、コリンも首を縦に振っていた。あの日のことを、忘れている者などいない。ソフィーはそれ以上、探る様子を見せなかった。「そう」とだけ呟くと、ほんの少し口角を上げる。


「……ありがとう」


 その言葉が予期せず落ちてきた。ルキフェルは一瞬、呼吸を忘れた。


 ——ありがとう? そんな言葉を向けられる想定はどこにもなかった。感謝されるようなことをした覚えはない。必死だっただけだ。失うのが嫌で、声が出ただけだ。


 目を見開いたまま、何も言えずにいるルキフェルの横で、コリンが首を傾げる。


「何があったの?」


 ——おい、やめろ。


 ルキフェルは内心で舌打ちしたが、ソフィーは少しも躊躇わなかった。


「気絶する前にね、船から落ちそうになったの。嵐の中で、足を滑らせて……船の縁に掴まったまま、宙ぶらりんになってた。その時、声が聞こえたの。飛び移れって」


 ルキフェルの喉がひくりと鳴った。


「振り返ったら、海賊船の索具が見えた。……距離は、飛べば届くって分かったから」


 ソフィーは少しだけ目を伏せる。


「迷う暇もなかったわ。あの声がなかったら……私は、終わってたと思う。だから、助けてくれてありがとう」


 コリンが軽く声を上げた。


「へえ」


 その調子はいつも通りだったが、目は少しだけ見開かれている。感心したような、どこか誇らしげな色。ルキフェルの頭は真っ白だった。


 ——黒歴史、じゃなかったのか。あの叫びは。無様で、感情に任せた失敗だと思っていた。なのに、それが誰かの生死を分けた。


ルキフェルの胸の奥がじんわりと熱を持つ。黙って聞いていたマテオは、別のことを考えていた。あの時、ソフィーは甲板に倒れていた。呼吸が止まりかけていた。ただの転倒や気絶では、ああはならない。強い恐怖。極限の緊張。それに加えて、何か言葉にできない出来事。彼女のブルーグレーの瞳を、マテオはちらりと見ると揺れていた。波立つ水面のように、不安定に。聞かない方がいいなと直感的に思った。無理に掘り返せば、きっと壊れる。マテオは何も言わず、少しだけ視線を逸らした。

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