第一章① マクシム隊
*偉人の言葉
汝自身を知れ。
——ソクラテス(Socrates)
三月九日に発生した嵐。それから数日が経った今も、マクシミリアン隊は宿舎で悶々としていた。
五人の海賊と交戦し、取り逃がしただけでも十分に痛手だというのに、軍医ソフィー・ルノアールは行方不明のまま生死不明。勝利とも敗北とも言い切れない報告が部隊の空気を重く沈ませている。副官リラから提出された報告書は必要最低限の事実だけが淡々と綴られていた。荒天、視界不良、船体の損傷、敵影の消失。感情の入り込む余地を極力削ぎ落とした文面が却って戦闘の激しさを際立たせている。上級士官たちは書類を読み終え、しばし沈黙した。
「……ずいぶん荒れているな」
誰かがそう漏らしたあと、参謀部の一角から乾いた声が投げられた。
「それにしても、軍医を立て続けに失っている部隊というのは、さすがに珍しい」
ブレスト参謀部長だった。冗談めかした口調ではあったが、視線は鋭い。
「前任の軍医、マルセロ・ロペス少尉はブーケ隊長の判断で処罰された、と報告されている。そして今回は、ソフィー・ルノアール少尉が行方不明……この部隊、軍医に恨みでもあるのかね?」
数人が小さく笑ったが、その笑いを真に受けた者はいなかった。
「……冗談に聞こえませんね」
「市民からは英雄扱いされていますが、内部事情を見る限り、判断は慎重になるべきでしょう」
真面目な上級士官たちが声を潜めて言葉を交わす。
「指揮官は若く、戦果は派手だが周囲の消耗が激しすぎる」
「現場の判断が独断専行に近いという指摘もあります」
疑念は広がっていき、噂は参謀部の外へ滲み出し、末端の士官や補給部、医務局にまで届くようになる。
「マクシミリアン隊は、やはり危ないのではないか」
「市民が持ち上げすぎているだけでは」
そんな囁きが廊下や食堂の片隅で交わされ始めていく。その渦中にありながら、当のマクシム本人は殆ど姿を見せていなかった。理由は単純、彼はルキフェルに負わされた大怪我の治療に専念するため医務局に通い詰めている。包帯に覆われた身体、深く抉られた傷は一進一退を繰り返し、回復には時間がかかっていた。剣を振るうどころか長く立っていることすら難しい日もある。それでも、マクシムは弱音を吐かなかった。医師の指示に従い、黙々と治療を受け、リハビリに耐え、誰にも愚痴を漏らさず、ただ前を見ていた。が、彼の不在は部隊にとって想像以上に大きかった。指揮官不在、軍医不在。そして、説明のつかない疑念だけが内側で膨らんでいく。
「うん、無理ですね」
医師は日誌から視線も上げず、淡々とペンを走らせながら言った。マクシムは天井を見つめたまま息を吐いた。知ってた。分かってた。全身に巻かれた包帯が少し動くだけで主張してくる。胸、腹、肋、太腿、脛、腕、切り傷、打撲、刺突の痕。深浅の違う痛みが身体中でズレて重なっていた。左肩は固定具に押さえつけられ、脱臼したまま戻っていない。
「前線復帰は最低でも——」
医師の説明は途中からほとんど耳に入らなかった。「数週間」「経過観察」「再脱臼の危険」。聞き慣れた単語が右から左へ通り過ぎていく。マクシムは歯を食いしばった。
——早く戻らないと。
焦りが痛みとは別の熱を生む。部隊は今、宙に浮いている。戦果はあるが、空気は悪い。指揮官がいないというだけで現場は不安定になる。
「無理をすれば、腕が上がらなくなりますよ。剣を握るどころか、日常動作にも支障が出ます」
医師はようやく顔を上げ、マクシムを見た。マクシムは左肩に走る鈍い痛みを無視するように首を動かすと包帯の内側で筋肉が悲鳴を上げる。
「……それでも、行かないわけにはいかないんです」
自分でも焦りが滲んでいるのが分かる。医師はため息をついた。
「あなたは戦場に戻ることしか考えていないですが、身体は正直です。これは精神論でどうにかなる状態じゃない。今、あなたが無理をして前に出れば、次に剣を振るとき仲間を守れなくなる」
その言葉が胸に刺さった。マクシムはしばらく何も言えなかった。痛みで動かない身体。動かせば悪化することは誰よりも理解しているルキフェルの剣。あの一撃一撃の重さを、身体が覚えている。怒りに任せた刃だが、理性を失ったわけではない。狙いは正確で容赦がなかった。
「……あの男は、また現れる」
ぽつりと漏れたマクシムの言葉に、医師は何も返さなかった。
「その時、僕がここに寝かされていたら、部隊はどうなる」
包帯の下でマクシムの拳がわずかに震える。医師は言った。
「……治療は続けます、復帰の判断はこちらがします」
拒否の余地はない。マクシムは天井に視線を戻した。白い天井。比較的、清潔な医務局。戦場とはあまりにも遠い。
「……了解しました」
脱臼した左肩を庇いながら、マクシムは医務局を後にした。固定具が擦れるたびに鈍い痛みが走るが、痛みよりも胸の奥に溜まったものの方がずっと重かった。向かう先はブレスト城。参謀部からの呼び出し。内容の見当はついている。マクシムは執務室の扉前で一度だけ足を止めて姿勢を正し、深呼吸してノックした。
「失礼します。マクシミリアン・ブーケ、参りました」
室内は静まり返っていた。重厚な机に壁一面の地図、そして書類の山。参謀部長は椅子に深く腰掛けたままマクシムを一瞥する。
「……座れ」
マクシムは椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばすが、肩が悲鳴を上げる。表情には出さない。参謀部長は手元の書類を一枚めくった。
「まず、報告からだ。軍医ソフィー・ルノアール少尉について、正式に行方不明・生死不明者として処理する」
マクシムは瞬き一つせず、聞いていた。胸の奥がきしりと音を立てる。
「生死は不明。発見の見込みも立っていない。よって、現時点では捜索は打ち切り。書類上も、そう扱う」
不明者の響きがやけに冷たい。生きているとも、死んでいるとも言わない。いないという事実だけが、切り取られる。参謀部長は続けた。
「次に、パリ参謀本部からの内示だ。正式命令は後日届くが、本日付でマクシミリアン・ブーケ隊は事実上の活動停止。謹慎扱いとする」
マクシムの喉がわずかに鳴った。
「理由は明白だ。海賊との交戦における失態。目標の取り逃し。そして、軍医の連続喪失。これ以上、現場に出すわけにはいかん」
マクシムはゆっくりと息を吐いた。ソフィーを前線に置いたのも。交戦を選んだのも。撤退を決断できなかったのも。全部、自分だ。
「……了解しました」
参謀部長がじっとマクシムを見つめる。
「異議はないか」
一瞬だけ、マクシムの胸の奥で何かが暴れた。罪悪感、苛立ち、無力感。あの嵐の日に何も掴めなかった感触だが、マクシムは首を横に振る。
「ありません。処分、受け入れます」
参謀部長は頷いた。
「よろしい。下がれ」
マクシムは椅子から立ち上がった。肩がまた痛むが、歩みは止めない。
「失礼します」
マクシムが扉を開ける直前、背後から声が飛んだ。
「ブーケ」
マクシムは振り返る。
「今は、耐えろ。それがお前の役目だ」
マクシムは、一礼だけして部屋を出た。廊下は静かだった。石床に響く靴音が、やけに大きい。耐える。戦うよりもずっと難しい。マクシムは拳を握りしめた。
ブレスト城を出たマクシムは、キール通りに面した宿舎へ戻る道を歩いていた。部下たちにどう告げるか、どんな顔で伝えればいいのか。考えれば考えるほど足取りが重くなる。このまま真っ直ぐ宿舎に戻る気にはなれず、マクシムは進路を変えた。
ブレスト港。潮風でも浴びて頭を冷やしたい。港は相変わらず賑やかだった。船乗りたちの笑い声。樽を転がす音。酒と潮と油が混じった匂い。生きている人間の気配が、そこかしこに満ちている。その中で、マクシムは埠頭の影に立ち尽くしていた。背中を木杭にもたせ、海を見つめる。波は何事もなかったかのように岸を打っていた。
——おれは、生き残った。
マクシムの胸の奥で異物のように引っかかっていた時、彼の背後でわずかな衣擦れの音。だが、足音はない。気配だけがすっと距離を詰めてくる。マクシムが振り返るより先に声がかかった。
「あの……」
マクシムは思わず肩が跳ねる。即座に振り返ると、そこに立っていたのはダミアンだった。一瞬、誰だかわからなかった。あの煤けた外套も、みすぼらしい身なりもない。代わりに身につけているのは、東洋風の衣装。布は簡素だが清潔で、色合いも港の商人たちに自然に溶け込んでいる。髪も整えられ、まるで本物の東洋商人のようだった。
「……ああ、あなたでしたか」
マクシムは安堵したように息を吐いて苦笑する。
「またお会いできましたね。この通り、ボロボロですが」
そう言って、マクシムは自分の包帯だらけの身体を軽く示した。ダミアンは一歩近づき、マクシムをまじまじと見た。
「……よかったです。生き残ってくれて」
マクシムは言葉を返せず視線を海へ戻した。
「……生き残った、か」
——果たして、それは“よかった”ことなのか。おれが、ここに立っていていいのか。
港の喧騒は変わらない。人々は笑い、働き、酒を飲む。世界は何事もなかったように回り続けている。その中でマクシムだけが、取り残されたように立っていた。生き残った者の重さを、まだどう抱えればいいのか分からないまま。マクシムは隣に立つダミアンを横目で見る。
「……情報収集ですか。あなた方は、相変わらず忙しそうですね」
ダミアンは一瞬きょとんとした顔をする。その反応を見て、マクシムは息を吐いた。
「まあ、いいでしょう。今から言うこと……あなたのお仲間に、伝えてもらえませんか? 僕たち、謹慎処分を受けました」
ダミアンの呼吸がわずかに乱れた。
「……謹慎、ですか」
マクシムは咎めることもせず、思い出したように言葉を足す。
「あなたは、品物とか持っていないんですか?」
ダミアンの肩が僅かに強張った。
「す、すみません。あなたの様子を……見るように言われていて……」
咄嗟の嘘だが、完全な虚構でもない。マクシムは一度だけダミアンを見て、それ以上踏み込まなかった。
「僕の、ですか。……まあ、いいでしょう。僕はしばらく医務局通いですよ。腕が上がらないんです」
ダミアンは言葉を失い、視線を落とした。それから、二人は並んで埠頭を眺めていた。会話は続くが、長くはない。ダミアンが口にするのは街の様子だった。港に集まる人々の噂話。マクシミリアン隊の働きを讃える声。
「英雄だ」「命を守ってくれた」「感謝している」
マクシムは聞くたびに笑う。
「そうですか。……それは、よかった」
笑みはどこか薄い。胸の奥で、の感情が渦を巻いていた。払った代償を、彼らは知らない。知らないからこそ笑える。マクシムは波の音を聞きながら、心の奥で思った。これは、報われた結果なのだろうか。それとも、ただの帳尻合わせか。二人はしばらく同じ海を眺めていた。ダミアンは空を仰義、雲の流れと周囲を行き交う人々の気配を一度だけ確かめる。
「……それじゃあ。ボクは、ここで失礼します」
マクシムは振り返らずに答えた。
「ええ。くれぐれもお仲間に、よろしくお伝えください」
ダミアンは一瞬、言葉に詰まったように見えたが、頷いた。
「……わかりました」
それだけ言うと、ダミアンは足音も立てずに人波の中へ溶けていく。まるで最初から、そこにいなかったかのように。マクシムは思わず彼の背中を目で追った。
「……まあ。ああいうタイプも、いるか」
マクシムが歩き出そうとした時、不意に彼の背後から声がかかる。
「隊長?」
マクシムが振り返ると、そこに立っていたのはジョルジュだった。作業着の袖はところどころ擦り切れ、手には薄汚れた布袋。マクシムは眉を下げる。
——今日も、だな。
「……ジョルジュ。また港ですか」
「ええ、ちょっとだけ」
ジョルジュは屈託なく笑う。
「造船所で手が足りないって言われて。整備の手伝いを少し」
何度注意してもこの調子だ。そして決まって、ジョルジュはこう続く。
「大丈夫ですよー。貰った分は、すぐ孤児院に行くので」
マクシムは何も言わなかった。ジョルジュはふと先ほどまでマクシムの隣にいた“商人”の去った方角を見やる。
「今の人は……誰ですか?」
彼の問いに、マクシムは脱臼した肩を庇いながら苦笑を浮かべた。
「上流階級にも出入りする、有名な商人ですよ」
「へえ」
ジョルジュは感心したように頷く。
「あの格好、東洋人ですよね。トゥーロンではあまり見なかったなあ」
「そうですね」
マクシムは曖昧に答えた。それ以上話を広げる気はなかった。代わりに息を整えて言う。
「さあ、行きましょうか。皆さんにお話があるんです」
ジョルジュは彼の声音から何かを察したのか、表情を引き締めた。
「はい」
港を離れ、宿舎のある方へ歩き出すマクシムの半歩後ろ。ジョルジュはいつでも支えられる距離を保ってついて行く。賑やかな港の喧騒は、彼らの背後に遠ざかっていった。
食堂に集められた全員の前で、マクシムは簡潔に告げた。謹慎処分。そして、ソフィーは正式に行方不明・生死不明者として扱われる。声は落ち着いていた。感情を挟む余地を、最初から切り落としたような報告だった。誰も反論も質問もしなかった。椅子が引かれる音。床を踏む靴音。それぞれが重さを抱えて、ばらばらに食堂を出ていく。スザンヌも無言のまま立ち上がった。
スザンヌが自室の扉を閉めた瞬間、膝が少しだけ緩んだ。だが座り込むほどではない。それができない自分を、彼女自身がよく分かっている。制服を脱ぐ気にもなれず、ベッドの端に腰を下ろした。彼女の視線は壁に固定されたまま、どこも見ていない。
——嵐の日。
思い出そうとしているわけじゃない。勝手に浮かんでくる。風。甲板。怒号。刃の音。そして、あの声と瞳。気づいた瞬間の感覚を、彼女は正確に覚えている。喜びでも、安堵でもなかった。次に来た認識がすべて壊す。この人は、人を殺していた。躊躇なく復讐者として、自分たちにも刃を向けていた。
「違う」
何度も否定が走る。彼女が知っているノワールは声が澄んでいて、人を威圧するより距離を測る人で、力を振り回さず守るためにいた存在だった。海賊かどうかなんて、問題じゃない。傷だらけの顔も、問題じゃなかった。
「怒りに呑まれてる」
その事実だけが、どうしても受け入れられなかった。好きだった人が変わってしまった。いや、自分の知らない側面をはっきりと見てしまった。胸の奥がじわじわと痛む。泣きたいのに涙は出ない。
「もし、あの時、私が気絶しなければ」
止められたかもしれない。声をかけられたかもしれない。ソフィーのように、立って向き合えたかもしれない。現実にはできなかった。彼女は目を伏せ、手を握りしめる。
「……私は、何を信じていたんだろう」
ノワールという存在。優しかった声。守られていた記憶。嘘じゃなかった。でも、全部でもなかった。理解してしまったからこそ、もう単純に戻れない。スザンヌは背中を丸めたまま静かに息を吐いた。
「……今は、考える時間が必要」
答えは出ない。一つ確かなのは、彼女はもう「何も知らないままの恋」には戻れない、ということだった。軍服が目に入る。きちんと整えられた襟。磨かれた金具。
——海軍。「海賊撲滅」、何度も聞いた言葉。
否定する気はない。守るための力が必要だということも分かっているが、法と正義だけでは救えない瞬間がある。それを彼は一人で背負っていた。理解してしまったことが、何よりも苦しかった。反論もしない。賛同もしない。胸の奥で何かが軋んでいる。壊れるほどではないが、このままではいつか音を立てて崩れる。
「……しばらく、一人になりたい」
スザンヌは立ち上がり、自室を出てマクシムの執務室へ向かう。マクシムの前で必要以上のことは言わなかった。
「療養のため、実家に戻る許可をいただけますか」
許可はすぐに下りた。理由は聞かれず、止められることもない。スザンヌは自室に戻り、荷物をまとめた。持っていくものは少ない。私物だけ、軍服は畳んで残した。スザンヌは扉の前で、一瞬だけ立ち止まる。振り返りそうになって、やめた。今は戻る場所を考えるべきじゃない。
スザンヌが宿舎を出て行ったのを皮切りに、貴族出身の隊員たちもぽつぽつと実家へ戻り始めた。誰かが荷をまとめ、誰かが別れの挨拶をして、誰かが黙って姿を消す。嵐のあとに残ったのは、沈黙と行き場を失った空気だけだった。
その中でひとり——ロザリーは自室で立ち尽くしていた。開きかけの鞄。詰めかけの衣服。整えられた軍服だけが、きちんと畳まれて机の上に残っている。
「……帰りたくない」
ロザリーは鞄の中身を見下ろしながら動けずにいた。荷造りが終わらないのではない。終わらせたくないのでもない。自分がどこへ戻るべきなのか分からなかった。
「軍人としての使命感は、あるわよ。でも今は……やることがない。航海士の仕事は消えたし、部隊は謹慎。海にも出られない。居続ける理由がない」
ロザリー・クレマン。三十五歳。妖艶だの余裕があるだの、貴族社会では好き勝手に評されてきた女。彼女にとって、実家は帰る場所ではない。役割を失えば、ただの余り物になる場所だった。だからこそ、彼女はマクシミリアン隊にいた。航海士として働き、責任を果たし、役目の中に自分の居場所を作ってきた。海の上では年齢も、性別も、噂話も関係なかった。それが、今はない。サミュエルとメリッサは揃って実家へ戻るらしい。戻る場所があるのは悪いことじゃない。ペネロペはあっさり言った。
「あたし、孤児院に帰るわ」
ロザリーはその潔さに言葉を失った。気づけば、宿舎に残る理由も人も、ほとんど消えていた。
「……ぼっちじゃない」
ロザリーは鞄の縁に指をかけたまま深く息を吐いた。さて、どうしたものか。彼女はまだ閉じきらない鞄を前に動けずにいたが、やがて自嘲気味に呟きながら鞄を閉じる。
「療養……そう、これは療養」
重たい足取りで、彼女はマクシムの執務室へ向かう。ノックをすると返ってきたのはリラの声だった。ロザリーが中に入ると、室内にはリラ一人。マクシムの姿はない。今日も医務局だろう。
「……実家に帰る」
ロザリーが告げると、リラは書類から目を離さずに答えた。
「そう。道中、気をつけて」
引き留める気配も詮索もない。ロザリーは半笑いでふと問いかけた。
「あなたは……ここを離れられないの?」
「当然です。隊長のこともありますし……実家への報告は、ダヴィットが引き受けましたから」
珍しく年下の軍人らしい返答に、ロザリーは一瞬だけ言葉を失うが、血の繋がらない弟の名を出すリラを見て、「ふうん」とだけ返した。
「じゃあ……謹慎が解けたら、すぐ知らせてね。蜻蛉返りするわ」
軽口めいた言葉を残し、ロザリーは執務室を後にする。そのまま宿舎を出て、外門の前で一度だけ足を止めて振り返り、建物を眺める。ここで過ごした時間が脳裏をかすめる。
「……はあ、のんびり帰りますか」
呟きながら彼女は伸びをした。馬車を探すのも億劫で、あえて徒歩で歩き出す。長い道を、ひとりで。
……三月十八日のことである。




