第三章② 東洋情報屋組織リー・ウェン
一方、サン・マロでは別の歯車が回り始めていた。
港の喧騒から少し離れた、古い倉庫街の一角。昼でも薄暗い建物の奥に、東洋情報屋組織の隠れ家がある。分厚い扉の向こう、簡素な机を囲んで五人の商人が腰を下ろしていた。香の匂いがわずかに漂い、外界の潮風とは切り離されて閉じた空間。その中心に座る女がゆっくりと口を開く。
サン・マロのリー・ウェン——ワン・ユーリン。年の頃は三十代半ば。整えられた黒髪に、落ち着いた物腰。一見どこにでもいる薬種商か学者のようだが、眼差しは鋭く港全体を見通している。
「君たちの情報を頼りに、この港の動きをしばらく観測していた」
ワンは指先で机を軽く叩きながら続ける。
「港湾関係者にも聞き込みをしてな。荷役人夫、造船所の職工、夜番の水兵……表に出ない話ほど役に立つ」
そう言って、彼女は脇に置いてあった筒から羊皮紙を取り出した。一枚、また一枚。机を回るように他の四人へと配られていく。
「それが、ここに書かれた証言書だ」
羊皮紙を受け取った四人はそれぞれ無言で目を落とす。記されているのは、断片的な証言。日時、船名、曖昧な目撃情報、そして一致しないはずの共通点。その中の一人、細身でどこか飄々とした雰囲気の男がふっと口元を歪めた。ヤン・ジュンジャーだ。
「……随分ときな臭いですね。海軍の動きが鈍い一方で、正体不明の船が増えてる。しかも、どれも正規の航路を微妙に外してるとは」
ワンは羊皮紙から顔を上げると、ヤンの方へ視線を向けた。
「たしか、ヤンが言っていたな。サン・マロの汚職士官どもの騒ぎ。その裏で、不審な荷が紛れ込んでいたかもしれない、と」
ヤンは軽く肩をすくめる。
「ええ。推測じゃありません。物的証拠もありますよ」
そう言って彼は懐に手を入れ、一束の書類を取り出した。何度も写された痕跡のある紙。角は擦り切れ、インクも少し薄い。ワンたちが視線を落とすより先に、ヤンが説明を続ける。
「これはイヴォン・ローラン殿が書き記した、サン・マロ汚職士官の調査記録。その写しの、さらに写しです」
イヴォンの名に場の空気がわずかに動いたが、ヤンは続ける。
「書いた本人は元海軍員。今は表舞台から身を引いていますが……情報の裏は取れているし、我々の協力者でもある。……まあ、本人を探し当てるのにだいぶ苦労しましたね」
書類が机の上に置かれ、ワンが指先で一枚めくる。細かい文字。日付、船名、士官名、そして暗号めいた記号。ヤンはその一部を指差した。
「ここにある“M”の表記。もし、これが“夢蛇”を指しているなら、我々の手で必ず押収しなければならない」
別の商人が息を吐いた。
「……夢蛇、か」
ヤンは書類をぱらぱらとめくりながら続ける。
「ええ。東洋の密林部族が精霊儀式に使っていた幻覚剤。本来は外に出るものじゃないですが、密貿易を経てごく少量がフランスの裏市場に流れている。しかも最近、上流の一部で妙に評判になっている香があるでしょう?」
ワンの指が止まる。
「……その正体が、夢蛇だと?」
「また厄介なものが流れついたな」
別のリー・ウェンがぼそりと呟いた。彼の隣で、年若い青年が不安そうに口を開く。スザンヌの家にも出入りしている、内陸担当のリー・ウェン——チャン・ジンテンだ。
「でも、どうしてフランスに……?」
チャンの声は弱々しく、どこか現実感が追いついていない。ワンはゆっくりと息を吐いた。
「……全貌はまだ分からん」
彼女は書類をまとめて机に置き直した。
「香の正体も確定していない。噂だけで動くのは愚策。とにかく、実物を押収しなければ話にならない」
サン・マロの港。汚職、密貿易、幻覚剤。チャンが恐る恐る口を開いた。
「それじゃ……まさか夢蛇を探すために、僕たちを呼び寄せたんですか?」
一瞬、部屋の空気が止まる。ワンは否定もしなければ、回りくどくも言わず頷いた。
「その通り。まあ、安心したまえ。闇雲に探させる気はない。場所の見当は、すでについている」
そう言って、彼女は背後の壁に歩み寄った。掛けられていたのは、サン・マロ全体を描いた大きな地図だ。港湾、旧市街、城塞、そして海へと続く入り江まで細かく書き込まれている。ワンは指先で地図の中央を叩き、そこから南へと線をなぞった。
「ここから下方へ向かった先、入江が二重になった岩場がある」
ワンの指が止まる。港の喧騒から外れた、地図の端に近い場所だ。
「証言書を精査する限り、取引はこの街の中では行われていない。もし夢蛇の受け渡しが公の目に触れない場所で行われているのなら……考えられるのは、ここしかない」
重たい沈黙が落ちる。ヤンが息を吐き、確認するように言った。
「では……我々でその場所に向かうと?」
「そうだ」
ワンは頷き、淡々と続ける。
「すでにポーランにしばらく見張らせている。ここ一ヶ月、確かに荷は入ってきているが、引き取る相手が現れないらしい。在庫を抱えたまま、様子を見ている可能性が高い。つまり——」
ワンは地図から手を離し、四人を見渡した。
「動くなら今しかない」
夢蛇が本当にそこにあるなら、時間が経つほど事態は悪化する。サン・マロの港の外。人知れず、二重の入江に隠された取引場所。
その夜、リー・ウェンたちは組織総出で動いた。月は雲に隠れ、街道は闇に沈んでいる。数台の馬車が隊列を組み、音を抑えて進んでいく中、ヤンだけは黒い馬を駆り、先行していた。時間がなかった。躊躇している余裕も慎重さを美徳にしている場合でもない。半日かけて陸路を進み、夜半過ぎ。例の入江を見下ろす高台に辿り着いた時、ヤンはすぐに人影を見つけた。
「あ、お疲れ様でーす」
間の抜けた声が返ってくる。見張り役のポーランだった。岩陰に腰を下ろし、乾いたパンをかじっている。
「様子はどうですか?」
馬を降りながらヤンが訊ねると、ポーランはあくびを噛み殺して答えた。
「たぶん休憩っぽいですね。交代も雑ですし……警戒心、だいぶ薄いですよ。見張り小屋の扉も開いたままです」
そう言って、ポーランは入江の奥を顎で示す。ヤンは目を細め、闇の向こうを覗いた。焚き火の名残の赤が遠くで揺れている。
「……なるほど。それなら先に行きましょうか」
「え?」
ポーランが間抜けな声を出す。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。まだ他のみなさん来てませんし——」
「だからこそ、です」
ヤンはあっさりと言った。危険を理解していないわけじゃない。優先順位が違うだけ。
「今なら中を見られる。夢蛇かどうか、匂いと保管の仕方で大体わかります」
「……調査というより、好奇心っすよね?」
ポーランが半ば呆れたように言うと、ヤンは笑った。
「否定しません」
彼の悪い癖であり、リー・ウェンの中で「突飛なやつ」と呼ばれる所以だった。
「こういう時に一番早く真実に触れるのは、好奇心が勝つ人間です」
そう言い残し、ヤンは迷いなく高台を下り始めた。ポーランは一瞬だけ逡巡し、結局ため息をついて後を追う。
「……ほんと、無茶しますよね」
「慣れてください」
低く囁くような声が夜に溶けていく。こうして二人は仲間と合流する前に、ひそやかに入江へと踏み込んでいった。入江に足を踏み入れた途端、焚き火のそばにいた船乗りたちが一斉にこちらを見た。視線は鋭いが、殺気というほどではない。仕事中に見知らぬ人間が来た、という程度の警戒だ。
「何だ?」
問いかけてきた男に、ヤンは歩みを止めず答えた。
「荷物を引き取りに来ました」
男は顔を見合わせただけで、すぐに肩をすくめる。
「ああ、あれか。聞いてるぜ。詳しい話は知らねぇけどな」
彼らは運び屋だ。積まれた箱の中身について説明を受ける立場にない。どこから来て、どこへ行くか、それだけ分かっていれば仕事は成立する。
「倉庫だ。入江の奥、岩陰の小屋にまとめてある」
「助かります」
ヤンは軽く礼を言い、ポーランと視線を交わす。
「……あっさりですね」
「裏社会の常です。上は秘密主義、下は無関心」
ポーランの小言にヤンは淡々と返した。二人は教えられた通り、入江の一角にある小屋へ向かった。潮風を遮るように建てられた粗末な倉庫。扉は鍵もかかっていない。中に入ると鼻を突くような、香とも薬草ともつかない匂いが漂っていた。
「……来てますね」
ヤンの声が低くなる。倉庫の中には同じ大きさの木箱がいくつも積まれていた。二人はその中から一つを選び、釘を抜き、板を剥がす。きし、と乾いた音と共に箱を開けると、空気が変わった中に詰められていたのは、乾燥した赤褐色の蔓草だ。絡み合うように束ねられ、ところどころに暗紫色の根塊を持つ樹皮が混じっている。樹皮は厚く、内側に鈍い光沢を帯びていた。
「夢蛇の蔓……天眼樹の皮」
ヤンが呟く。蔓と樹皮の隙間には黒く艶のある樹皮片、黒桂が砕かれた状態で散らされている。さらに奥には乾いた茸が慎重に包まれていた灰色がかった傘、細く裂けた縁。触れずとも分かる、湿り気を帯びた匂い。
「雨声茸……」
ポーランが思わず声を落とす。箱の底まで、びっしりと材料が敷き詰められていた。加工前。まだ薬になる前の姿だ。
「これは……間違いないですね。夢蛇です」
ヤンは箱の中を見つめたまま言った。乾燥した蔓と樹皮が放つ甘く、苦く、どこか冷たい匂い。吸い込んだだけで、視界の端がわずかに揺らぐような錯覚を覚える。
「……こんなのが街に流れたら、ただじゃ済みませんよ」
ポーランが喉を鳴らす。
「ええ。だからこそ、ここにある」
ヤンは板を元に戻し、箱を閉じた。
「取引が始まる前に、押さえなければ」
倉庫の外では波が岩を叩いていた。仲間が到着したのは間もなくのこと。入江へ続く小道に馬車の影が連なり、波音に紛れて人の気配が増えていく。ヤンとポーランは彼らに要点だけを伝えた。
「夢蛇は本当に入ってきています」
「量も少なくない。加工前の状態で、倉庫に保管されていました」
空気が変わる。誰も声を荒げないが、誰一人として迷いもしなかった。船乗りたちは即座に拘束。抵抗はほとんどなかった。彼ら自身、運んでいた荷の正体を知らされていなかったのだろう。事情聴取は淡々と進み、同じ証言が繰り返された。
「しばらく、次の積荷は来ない」
「俺たちは言われた通りに運んだだけだ」
それが嘘であろうが本当であろうが、重要ではなかった。問題は、すでに入ってきてしまったこと。倉庫に積まれた木箱を前に、リー・ウェンたちは短い協議を行った。結論は早い。
「押収する」
「市場には出させない」
「誰かの手に渡るくらいなら、我々の管理下に置く」
それは善でも正義でもない、最悪を避けるための選択だった。知識のある者が抱え込む。流通を断ち、存在を隠し、芽のうちに隔離する。災いを消すのではなく、封じるという判断。仲間たちは黙々と動き始めた。木箱を運び出し、印を付け、数を確認する。夜の入江に規律だった動きだけが流れていく。その光景を一歩引いた位置から眺めながら、ポーランは息を吐いた。
「間に合った、と思っていいんでしょうか」
ヤンは肩をすくめた。
「少なくとも、ばら撒かれる前ではありますね」
ワンは遠く暗い海を一度だけ見やり、背を向けた。
「後は任せる。我々はサン・マロへ戻ろう」
全てを仲間たちに託す判断だった。ここから先は組織としての仕事になる。三人は入江を後にした。彼らの背後では、夢蛇を積んだ木箱が次々と運び出されていく。一度は世界に流れかけた毒が、辛うじて留められていた。
それが正しかったのかどうか、答えを出すのはまだずっと先の話だった。




