第三章③ 五人組海賊
雨の音がしている。冷たい。甲板が濡れていて足裏が滑る感触がある。小さな身体には雨も風も強すぎた。——剣の音。金属が空を切る、乾いた音が一定の間隔で響いている。それを見上げた先に、背の高い影があった。長い髪が雨に濡れて顔に張りついている。誰なのか、最初は分からない。だが、その剣の振り方を見た瞬間、胸がざわついた。ああ、フランソワだ。声をかけようとした気がするが、喉が動かない。剣が止まる。雨音だけが残る。影がこちらを向かないまま低く言った。
——来るな。
それが命令だったのか拒絶だったのか、その時は分からなかった。近づいた。濡れた服に触れた感触だけがやけに鮮明だ。顔を見ようとして顎を掴んだ気がした。実際に触れたのか、そうしたかっただけなのかは曖昧だった。見てほしい、見ないでほしい。どちらも本心だった。胸が苦しくて、何かを訴えようとして、言葉にならない。ただ、ひとつだけ。いなくならないでほしいという願いだけが、雨音に混じって辛うじて残っている。フランソワの声がした。近いのか遠いのか、分からない。
——その顔は、人に見せない方がいい。
冷たい声じゃなかった。だが、優しいとも言えなかった。続きがあった気がする。「それでもいい」とか、「鍛えてやる」とか。何か守る約束のような言葉。だが、夢の中ではもう崩れている。残ったのは最初の一言だけ。それが守るための忠告だったのか。閉じ込めるための線引きだったのか。今になっても、分からない。雨の音が遠のき、甲板の感触がゆっくり消えていく。若かった。自分の苛立ちをどう処理していいのかも分からず、誰かに縋ることしかできなかった。あの時、彼が島を出ると知った瞬間、理性も誇りも全部投げ捨てて叫んだ。
——行かないでくれ。
声はみっともないほど掠れていた。必死で惨めで、聞くに堪えない。夢の中でさえ、その時の自分は目を背けたくなるほど幼くて情けなくて、どこかに隠れてしまいたくなる。それでも、あれは本心だった。縋ることしかできなかった。置いていかれるのが怖かった。その声に追い立てられるように、意識が一気に浮上する。
目を開けると船室はまだ薄暗く、外では雨が降っていた。夢の細部は、もう思い出せない。誰がどんな顔をしていたのかも曖昧だ。それでも、胸の奥に残った感触だけは消えなかった。喉の奥に残る、あの掠れた声。恥ずかしさと恐怖と、どうしようもない依存が混じった重さ。ルキフェルはぼんやりと船窓に目を向けた。雨粒がガラスを叩き、そのまま滑り落ちていく。なぜだろう。雨の日は、決まって昔のことを連れてくる。濡れた髪。湿った空気。そして、あの人の困ったような笑い声。思考がまとまりきらないまま、ルキフェルは部屋を出た。甲板に出ると、ジャスパーがしゃがみこんでいる。シャツもズボンもびしょ濡れで、雨に打たれたまま肩を落としていた。
「スコールにやられたか」
ルキフェルが声をかけると、ジャスパーは気怠そうに顔を上げた。
「……あんなに晴れてたのに、さ」
ルキフェルは濡れ鼠な彼に口元を緩めるが、同時に思う。鋭敏な感覚を持つジャスパーですら天候の変化を読み切れなかった。この世界はいつだって気まぐれだ。誰も完全には抗えない。だから、あの時に自分が縋ったのも、きっと間違いじゃなかったのだ。そう思わなければ、今の自分はここに立っていられない。雨脚はようやく弱まり、空の色がわずかに薄くなり始めていた。甲板に残った水たまりが鈍い光を反射している。船底から足音がして、コリンとニールが姿を現した。濡れた甲板と同じようなジャスパーを見て、ニールが軽い調子で言う。
「あらまー、びしょ濡れになっちゃって。朝から水浴びとは元気だこと」
「お前ら、帆を畳むのを手伝え」
ジャスパーが投げやりに言うと二人は顔を見合わせて肩をすくめ、マストへ向かった。ルキフェルも無言で彼らの後に続く。シュラウドを渡り、帆へ手を伸ばす。水を吸った布は重く、足場は滑りやすいが、風の匂いと雨の冷たさが胸の奥に溜まったものを少しだけ外へ押し流してくれる気がした。考えるな。今は、手を動かせ。四人で帆を畳み終えた頃、空にはまだ薄い雲が残っていた。ジャスパーがシャツの裾を絞ると、溜まった水がざばりと甲板に落ちる。その音の余韻を切ったのはニールだった。
「そういえばさ、最近ルキフェルの顔、あまり見てなかった気がするな」
ルキフェルは濡れた髪を絞る手を止め、コリンが続ける。
「ずっと部屋にこもってたよね? ……なんかあったの?」
ルキフェルは答える前に雨の向こうを見た。薄い雲の向こうに、まだ空がある。見えないだけで消えてはいない。
「いや、悩みってほどでもない。ちょっと、昔のことを思い出してただけだ」
「昔のこと?」
コリンの問いにルキフェルは頷く。
「フランソワが聞かせてくれた話がある。今日みたいな雨の日だった」
言葉にした瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。それでも、止めなかった・雨音がぽつぽつと甲板を叩く単調な音に背中を押されるように、ルキフェルは語り出す。
「……東の国に、こんな話があるらしい。空の一番高いところに住む神には、娘がいた。彼女は織物を織るのが仕事だったんだ」
ルキフェルは記憶をなぞりながら続ける。
「ある日、神はその娘に婿をとらせた。けれど二人は恋に溺れて、仕事をすっかり怠けるようになった。怒った神は、二人を天の川の両岸に引き離してしまった」
「えー、自分でくっつけといて引き離すとか、神さまってワガママだな〜」
コリンが素直に言い、ニールも肩をすくめた。
「ね。遊びすぎた二人も悪いけど、そんな仕打ちって」
二人の声を聞きながら、ルキフェルは息を吐いた。
「……けどさ。二人は離れ離れになってから、悲しみのあまり泣き続けたらしい。見かねた神は年に一度だけ、二人が会える日を与えたそうだ」
「へえ……ロマンチックじゃん」
ジャスパーが濡れた髪をかき上げながら言う。
「その年に一度って、いつ?」
「さあな。詳しい日は忘れた。けど、雨の多い時期だった」
ルキフェルのが空を仰ぎ、ジャスパーが首を傾げる。
「でもさ、雨が降ってたら会えなくね?」
彼の言葉にルキフェルは口元を緩めて甲板に視線を落とした。笑みというより、記憶に触れた時の癖だ。
——あの時、俺も同じことを言った。
「あいつは言ってた。『天の川は雲より上にある』って。地上では雨が降ってても、雲の向こうでは二人はちゃんと再会してる。嬉しすぎて、思わず涙を流してる。だから、雨はふたりの涙——“再会の雨”なんだとさ」
ルキフェルの言葉が雨音に溶けた。再会。その響きが彼の胸の奥を叩いた。
——スザンヌ。
雲の向こうではなく、嵐のただ中で刃を向け合った直後。濡れた銀の髪。雨を含んだ睫毛の向こうで揺れる、海の浅瀬のような瞳。忘れるはずがなかった。忘れたことなど一度もなかった。嵐が止んだ刹那に、すべてが戻ってきた。名前も。過去も。自分が必死に消したはずの「顔」も。見られた事実がゆっくりと心臓を締めつける。隠してきた理由も守ろうとした選択も、すべて意味を失った。守るために消えた。遠ざけるために突き放した。それなのに、彼女は戦場にいた。自分の敵として。
——再会、か。
雲の向こうで微笑む二人と、嵐の中で言葉を失った自分たち。同じ言葉で呼べるはずがない。ルキフェルは無意識に空を仰いだ。雲の向こうで、あの二人はちゃんと再会できているのだろうか。答えは浮かばない。止んだはずの嵐が胸の中で再び吹き荒れる。ルキフェルが言い終えたあと、少しばかり沈黙が落ちていた。雨が甲板を叩く音だけが等間隔で続く。
「……素敵な話だね」
最初にそう言ったのは、ニールだった。
「詩的だなぁ。まあ、ルキフェルには似合わないけど」
コリンが続け、ジャスパーが笑いを含んだ声で畳みかける。
「んー、なんだろ。朴念仁のルキフェルくんが“涙の雨”とか言ってると、妙にこそばゆいねえ」
三人がくすくすと笑い、ルキフェルはむすっと顔を顰めた。
「お前ら、さっきから俺を弄ってるだろ」
「えー? 気のせいだって」
コリンが惚けたように返した。ジャスパーが調子に乗り、ニールがサラッと追い打ちをかける。
「ただの感想だよー」
「一番ひどいの、ジャスパーじゃない?」
「よし、後でしばく」
ルキフェルがぼそりと呟くと、ジャスパーは口笛で誤魔化した。その時、甲板の下からソフィーの声が響く。
「おーい、ご飯できたよー!」
「お、朝飯だって」
ジャスパーの表情が一気に明るくなり、ニールが軽く忠告する。
「ジャスパー、着替えてきなって。風邪ひくぞー」
「へいへい、わかってらあ!」
ニールとコリンは階段を下りていき、少し遅れてジャスパーが振り返る。
「ルキフェルも来るよな?」
「ああ、いただこう」
ルキフェルが答えると、ジャスパーは満足そうに走り去った。
……しばくのは、やめておくか。
ジャスパーの背中を見送り、ルキフェルはふと空を見上げる。雨はまだ細く降り続いている。雲の向こうで、あの二人は再び出会えているのだろうか。そんな考えが胸をよぎる。
——会えたとして、何を話す?
答えは出ない。ただ一つだけ、確かなことがある。
「……フランソワ。お前の最後の姿を、見ておきたかった」
濡れた前髪をかき上げ、ルキフェルは歩き出した。
トルチュ島はもうすぐそこまで来ている……はずだった。
海を彷徨う放浪者たち。そろそろ、トルチュ島が見えてもおかしくない。距離も、日数も、計算上はとうに越えているが、船は進んでいなかった。風がない。それも、ただの凪ではない。帆が膨らむ気配すらない、海面が鏡のように静まり返った無風状態。船体はゆっくりと揺れているのに、前へ進む意思だけが奪われたような感覚だった。ルキフェルのもとには日に一度、必ず誰かが報告に来る。
四月七日。
「ルキフェル……無風になっちゃった」
ニールは机の前で肩を落としていた。
「僕、仕事ないよ」
ルキフェルは頷くだけで、特に指示は出さなかった。
「分かった。様子を見ろ」
それ以上、言うことはない。
四月八日。
「ルキフェル」
今度はジャスパーだった。風の匂いを探るように窓の向こうを眺めている。
「風が吹かない。これ……しばらく続くかもな。冗談って言いたいけど……これは勘でわかる」
ルキフェルはジャスパーの隣で海を見ていた。
「そうか」
ジャスパーもそれ以上は何も言わなかった。
四月九日。
「ルカ」
マテオは腕を組み、船内の報告を終えてから少しだけ間を置いた。
「今日も吹かねえや。とりあえず、帆は畳んでる。……なあ、たまには外に出ないか? いや、悪い。冗談だよ」
ルキフェルは返事をしなかった。マテオも無理に続けなかった。
四月十日。
「なあああああ暇だよおおおおおお!!」
船長室の床に転がる影。
「おれの仕事ないんだけどおおおおお!!」
ジャスパーがのたうち回っていた。足をばたつかせ、意味もなく床を叩き、完全に持て余した獣のようだ。その光景を見下ろしながら、ルキフェルは小さく呟く。
「……面倒くせえな」
呆れとも諦めともつかない声音だが、内心では別のことを考えていた。無風状態。起こり得ることではある。航海に出る前から可能性としては計算に入れていた。
「それでも厄介なやつ」
風がないということは進めないということ。同時に、立ち止まるしかない時間が生まれるということでもある。何も起こらない。何も進まない。だからこそ、考えてしまう。ここがトルチュ島へ向かう海のど真ん中だということを。そして、自分たちが行き先を持たない放浪者であるという事実を。静まり返った海の上で、船はただ待たされていた。




