第三章④ スザンヌ
一方、フランス本土。あの嵐の日から、すでに一ヶ月が過ぎていた。
庭園を彷徨っていたスザンヌは噴水の縁に腰を下ろしていた。白い石の縁は陽光を受けてわずかに温かい。噴き上がる水が弧を描き、きらめきながら落ちていく。その規則正しい音を聞いていれば、心も同じように整うはずだった。スザンヌは目を閉じる。追い払おうとした記憶は、まるで水面に落ちた影のように何度でも浮かび上がる。低く唸るような声。怒りに染まった気配。刃を向けられた瞬間の空気。
「……違う」
スザンヌは小さく首を振る。思い出してしまうのは、そこではなかった。一瞬だけ怒りの奥から覗いた、澄んだ響きの声。翡翠色の瞳がこちらを見た瞬間。
——ああ、この人だ。
そう理解してしまった、自分自身の感覚。
「でも、あの人は——」
そこから先を考えようとすると胸の奥が締めつけられる。怖かったのではない。裏切られたのでもない。あの人がそこまで追い詰められていたこと。それを受け止めきれなかった。気づけば、スザンヌの指先が噴水の縁を強く掴んでいた。白い石に爪の感触だけがやけに生々しい。自分は何をしていた。答えは分かっている、何もしていない。気を失った。彼の前に立っていたのはソフィーだった。刃を前にして、言葉で彼を引き留めていたのも彼女だった。
——私は、倒れた。
その事実が時間を置いてから、じわじわと効いてくる。痛みの正体は恋ではなかった。自分はあの場に立つ人間ではなかったのではないか。彼の隣に立つ資格がなかったのではないか。そんな考えが広がっていく中で、彼女の胸の奥で別の疑問がまたひとつ疼き始める。自分が気絶したあと、誰がどうやって自分を救ったのか。その答えはまだ誰からも告げられていない。
「——あ、いたいた!」
弾んだ声が唐突に響いた。スザンヌが反射的に顔を上げると、ふんわりとした栗色の髪を揺らした少女が噴水のそばに立っている。いつからそこにいたのか、まるで気配を感じなかった。
「リゼーヌ……?」
「こんにちは、スザンヌさん。午後のお茶会にお誘いされてたんだけど、両親が急用で来られなくて。代わりに私が、ね」
屈託のない笑顔。彼女の明るさが今の自分には少し眩しい。リゼーヌ・ボルド。ブルボン家の遠縁にあたる、正真正銘の上流貴族。スザンヌとは幼い頃からの知り合いで、気心の知れた友人だった。
「そう……久しぶりね」
「うん。あのですね、実は私……スザンヌさんと同じ部隊に配属されたんです」
「やっぱり、そうなると思ってたわ」
「しかも、航海天文学士として! もうあんまり必要とされない役職だけど、我儘を通してね」
どこか自嘲気味に笑うリゼーヌに、スザンヌは頷いた。必要とされない役職。それでも、ここにいる理由を持とうとする姿が少しだけ胸に刺さる。二人は並んで歩き出した。部隊の近況、謹慎処分、そして触れずにはいられない話題。
「謹慎、長引きそうよ」
「はい……それに、行方不明の軍医さんも」
スザンヌの言葉にリゼーヌの声がわずかに重くなる。
「……スザンヌさん。一ヶ月前の任務、相当厳しかったと聞いています。警備隊が全滅、マクシミリアン隊にも多数の負傷者、そして——」
「ええ。地獄みたいだった。私は途中で気を失って……気づいた時には、病室にいたの」
「今も体調が優れないそうですね」
「もともと体質的に貧血気味だったの。まさか、任務に支障が出るとは思っていなかったけど」
頭を少し打っただけ。そう説明はしたが、自分の中では分かっている。倒れたのは身体だけじゃない。ブルボン家の屋敷は相変わらず静謐だった。庭園に面した回廊には午後の陽光が柔らかく差し込み、噴水の水音だけが穏やかに響いている。その静けさを破ったのは、正門側から聞こえてきた、ひときわ切迫した声だった。二人はそのまま屋敷の玄関口へと向かうと、使用人たちが何やら言い争っているのが目に入る。彼らの視線の先にいたのは、スザンヌが見慣れた顔。
「……ジョルジュ?」
思いがけない名前が、スザンヌの口から零れ落ちる。
「すみません、突然押しかけて……! 当主様にお目にかかりたいのですが。緊急の用件でして……!」
ジョルジュの言葉に使用人たちは一斉に顔をしかめた。開け放たれた扉の外に立っているのは、彼らが見慣れない青年。軍服ではないが、立ち姿にはどこか規律がある。
「困ります。お引き取りください」
「当主はご多忙です」
「事前の取り次ぎもなく、通すわけには——」
口々に遮られても、ジョルジュは一歩も引かなかった。
「いえ、どうしても今でなければならなくて……! ほんの少しで構いません、当主様に、あっ……!」
ジョルジュが不意に声を上げた。回廊の奥から歩いてきたスザンヌとリゼーヌの姿が、彼の視界に入ったのだ。
「では、スザンヌ・ブルボン嬢とお話を——」
「なりません!」
使用人の声が鋭く遮る。
「失礼にも程があります!」
「お嬢様に近づかないでください!」
数人がかりでジョルジュを門の外へ押し戻そうとする様子に、スザンヌは思わず足を止めた。
「……何事ですか?」
だが、その問いに答えたのは使用人ではなかった。
「なんだ、この騒ぎは!」
低く、よく通る声が響いた。庭園側の扉から姿を現したのは、ブルボン家当主——スザンヌの父、フィルマンだった。彼の登場に場の空気が一瞬で引き締まる。
「私はこの屋敷の当主だ。君は何者だね?」
フィルマンの言葉にジョルジュはピシッと背筋を正した。彼は一瞬の逡巡ののち、迷いのない動作できびきびと敬礼する。
「はっ! 私、フランス海軍第七艦隊所属。マクシミリアン・ブーケ隊、ジョルジュ・アルダーソンと申します。階級は二等兵です!」
使用人たちが思わず息を呑む。その名を知っている者も知らない者もいた。
「ご無礼を承知の上で急ぎの用があり、ここへ参りました」
そう言ってからジョルジュは一度だけ、ちらりとスザンヌの方を見るが、すぐに視線を当主へ戻して続けた。
「あの……東洋の商人について、お伺いしたいことがありまして。この屋敷に出入りしたことのある人物です。ご存知ありませんでしょうか?」
スザンヌは胸の奥がざわめくのを感じていた。東洋の商人、その言葉が今の自分にとって、決して無関係ではないことを直感的に理解してしまったからだ。フィルマンはしばらくジョルジュを見つめ、やがて息を吐いた。
「……話を聞こう」
フィルマンは使用人たちに向けて命じる。
「下がりなさい」
場の主導権は完全に当主の手に戻った。ジョルジュはほっとしたが、気を緩めることなく再び背筋を伸ばすここから先が正念場だ、そう言わんばかりの表情で。
父の書斎は屋敷の中でもひときわ静かな場所だ。重厚な木製の机、壁一面の書棚、長年使い込まれた革張りの椅子。フィルマンにとっては、完全に私的な空間だ。それにもかかわらず今、この部屋には客人がいる。きっかけは、スザンヌの一言だった。
「彼は私の同僚です。それに……友人でもあります」
それだけで父は大きく溜息をつき、肩を落とした。結局のところ、追い返せない性分なのである。
「まったく……」
フィルマンはぶつぶつ言いながら棚から茶葉の缶を取り出し、ポットに湯を注ぐ。
「なぜ勝手に我が家を訪ねてくるんだ! しかも、事前の知らせもなしに!」
ぷんすかと怒っているような口調だが、動作は手慣れていて丁寧だ。ジョルジュは彼の様子を見て、少し居心地悪そうに立ち上がる。
「あ、あの……ボク、やりますよ」
ジョルジュが慌てて手を伸ばしかけた瞬間、フィルマンはピシャリと言い放つ。
「触るな」
ジョルジュの動きが見事なほどに止まった。
「……はい」
彼の素直すぎる返事に、フィルマンはちらりと一瞥をくれただけで何事もなかったかのようにカップへと茶を注いでいく。スザンヌはその光景を少し離れた場所から眺めていた。
——怒ってるけど、追い出す気はないのよね。
スザンヌの口元が思わず緩む。父は昔からこうだ。口では不満を並べ立てるくせに、結局は客をもてなしてしまう。ましてや軍服こそ着ていないが、礼儀正しく頭を下げる若い兵士を、門前払いできるほど冷酷ではない。フィルマンはカップを二つ盆に載せ、机へ運びながらなおも文句を続ける。
「まったく、海軍というのは……どうしてこう、落ち着きのない者ばかりなんだ」
ジョルジュは返事に困ったように背筋を伸ばしたまま黙っている。スザンヌは彼の様子を見て、くすりと息を漏らした。やっぱり、この人たちは似ている。頑固で不器用で、放っておけない。父の背中と緊張でこわばったジョルジュの横顔を見比べながら、スザンヌは胸の奥に温かさが灯るのを感じていた。この書斎に通された時点で、もう彼は「よそ者」ではない。それを一番よく分かっているのは、きっと自分自身なのだろう。フィルマンはカップを机に置き、指を組んだ。
「それで……なぜ、そこまでして探す?」
問われた瞬間、ジョルジュの口が閉じて視線が落ち、喉が小さく動いた。書斎の空気がぴんと張りつめる。スザンヌは思わず背筋を伸ばし、ジョルジュの横顔を見つめていた。言え。ここで黙ったら、きっと終わる。しばらくの沈黙のあと、ジョルジュは深く息を吸い込んだ。
「……人探しの、依頼がしたいんです」
フィルマンの眉がわずかに上がり、スザンヌも目を見開いた。
「行方知れずになった……同僚を探したくて」
ジョルジュは視線を上げ、二人を見た。真っ直ぐで逃げない目だった。
「一ヶ月前に姿を消しました。軍では……生死不明として処理されています。でも、ボクは……」
膝の上に置かれていたジョルジュの拳に、握りしめる力が強まった。
「……まだ、生きてる可能性を捨てきれないんです」
スザンヌの胸がきゅっと締めつけられた。ジョルジュは少しだけ自嘲気味に笑ってから続ける。
「ボクは軍に縛られて、自由に動けません。帰る家も……ありませんし。でも、商人なら……自由に動けるでしょう? 国も、軍も、越えて」
ジョルジュの声に熱がこもり始め、ついに堰を切ったように言葉が溢れた。
「だから、その人に頼みたいんです。ボクの代わりに探してもらいたくて。とにかく……! ボクはまだ同僚が生きてるのか、死んでるのか……それを、ちゃんと確かめたいんです!」
書斎に重い沈黙が落ちた。フィルマンはじっとジョルジュを見つめ、ぽつりと口を開いた。
「……だいぶ無鉄砲だが、そこがいい」
ジョルジュが思わず目を瞬かせる。
「君は真っ直ぐだ。軍にいながら……いや、軍にいるからこそ普通はどこかで歪むものだ」
フィルマンの視線がちらりとスザンヌへ向く。娘のこれまでを知る父親の目だった。
「理不尽に慣れ、命の重さを数字で数え、感情を切り捨てる。そうやって人は“軍人”になる」
フィルマンの目が再びジョルジュを捉える。
「だが、君は違う。仲間の生死をまだ確かめたいと言える。その真っ直ぐさ、気に入った。軍の中でも、ここまで真っ直ぐな人間はそういないだろう」
スザンヌは父の言葉を胸の奥で噛みしめていた。歪まなかった人。歪まなかったからこそ、ここまで来た人。ジョルジュはフィルマンに深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
フィルマンは顎に手をやり、少し考える素振りを見せてから言った。
「さて、そのリー・ウェンなんだが……つい昨日、うちに訪ねてきたよ。長居はせず、すぐに出て行ったがね。なんでもサン・マロに急ぎの用事があるとか」
その瞬間、ジョルジュが勢いよく立ち上がり、思わず声が裏返る。
「えっ、昨日!? じゃ、じゃあニアミス、でしたか……」
そう言った途端、ジョルジュは力が抜けたように膝が折れ、ふらりと椅子に戻った。スザンヌは思わず彼に手を伸ばしかける。サン・マロ。その地名を聞いた瞬間、彼女の胸の奥がわずかに騒つい。
——昨日? あれ、昨日……来たかしら。
スザンヌは必死に記憶を辿ろうとしたが、何も引っかからず内心で軽く頭を抱えた。自分でも呆れるほど記憶が抜け落ちている。
——私、こんなにぼんやりしてた……?
椅子にもたれて項垂れるジョルジュを見て、フィルマンは苦笑した。
「まあまあ、そう慌てるな。サン・マロなら、まだ間に合う」
その時、控えめなノックとともに扉が開く。父お抱えの執事が銀の盆に菓子を載せて入ってきた。
「失礼いたします」
焼き菓子の香りが書斎に広がった。それを見て、フィルマンは軽く手を叩く。
「さて。せっかくだ、お菓子でも食べようか。ジョルジュ君も少し落ち着きなさい。馬車はこちらで手配しておく」
「え……そ、そんな……いいんですか?」
思わず問い返すジョルジュに、フィルマンは鼻で笑った。
「夜通し、ここまで来たんだろう。その目の下を見れば、わかる。……まともに寝ていない顔だ」
ジョルジュはぎくりと肩を揺らした。
「休みなさい。今はそれが先だ。ちゃんと体を休めてからサン・マロへ向かえ。焦って倒れたら元も子もない」
フィルマンの言葉にジョルジュはしばらく言葉を失い、それから深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
ジョルジュの声は少し震えていた。スザンヌは二人のやり取りを見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。父は相変わらずだ。怒鳴れない。追い返せない。結局、放っておけない。そして、助けられる側が軍人であろうと、身分の低い若者であろうと関係ない。
……お父様らしい。
同時にスザンヌの心のどこかで小さな引っかかりが残った。リー・ウェン。サン・マロ。そして、「つい昨日」という言葉。記憶が抜け落ちていることが只の不調なのか。それとも、まだ自分が触れられていない何かがあるのか。




