第四章① ルキフェル
四月十二日の朝、海上。
船長室の扉が控えめにノックもなく開く。入ってきたのはコリンだった。どうやら、昨夜の見張り番は彼の担当だったらしい。ルキフェルは珍しくもう起きていた。雨の日、フランソワとの思い出を七夕の話として仲間に語って以来、少しずつだが生活のリズムを立て直そうとしている。ルキフェルは鏡の前に立ち、目を細めながら髪を掻き上げた。指先で流れを整え、癖のある前髪をきっちりとオールバックにまとめていく。彼の横で、コリンが気楽な調子で言った。
「風はねー、ちょっと吹いてるんだけど。進むほどじゃないよ」
「……だろうな」
無風が続いて五日目。わずかな風が立っても船体を押すほどの力はない。帆を張る意味もない程度の、気休めみたいな空気の揺れだ。コリンは少し声の調子を変える。
「それとね、東の方向に船があるんだ。あれ、たぶん貿易船だよ。この船より一回り大きくて帆も多い」
その瞬間、ルキフェルの手が止まった。
「……え?」
彼の口から思わず声が漏れ、初めてコリンの方を見下ろす。鏡越しではなく、真正面から。コリンはその反応を待っていたかのようにニヤリと笑った。
「たぶん、あの船も無風で足止め食らってると思う。波に乗られるまま、ぼくたちのところまで流されたのか……それとも、ぼくたちが流されたのか」
コリンは肩をすくめた。
「まあ、気づいたらお互いの距離が縮んでたってやつだね」
コリンの含みのある言い方に、ルキフェルは内心で舌打ちした。
——こいつ、俺のこと弄ってやがる。
昔、好きな女がいただけで。それだけの理由で、こういう言い回しを選ぶあたり確信犯だ。表情には出さないが、彼の胸の奥では小さな苛立ちが芽を出していた。コリンが部屋を出ていくと船長室には軋む船体の音と遠くで帆がかすかに鳴る気配だけが残る。ルキフェルは息をひとつ吐き、目覚めの良い頭をフル回転させた。
——ああ、この感じ。久しぶりだな。
クォーターマスターとして甲板に立ち、部下から半ば疎まれながらも指揮を執っていた頃の感覚に近い。理不尽と現実を同時に相手にし、最悪の中から最善を探すあの感覚。さて、どうする。風は弱い。この人数で船を動かし続けるのも、そろそろ限界だ。東に見えた貿易船。あれは使えるかもしれないが、どうアプローチする。漂流者として救助を求めるのが一番穏便だろうが、その船がヨーロッパへ向かっていた場合、この旅はそこで終わる。必要なのは、こちらの方が強いと示すこと。問題は人数だ。少人数で、しかも武装の不確かな相手を威圧するのは難しい。貿易商だとしても丸腰とは限らない。最悪、相手が海賊だったら目も当てられない。ならば、嘘でもいい。こちらが「格上」だと錯覚させる必要がある。そこまで考えたところで思考の歯車がカチリと噛み合い、ルキフェルは前髪を弄る手を止めた。
「……待てよ。——旗の偽装だ」
ルキフェルが呟いた瞬間、彼の頭の中で案が形を持った。嘘の海賊旗。ただの無名の旗では駄目だ。見た瞬間に“厄介だ”と悟らせる、名のある旗。だが、その案は同時に強烈な違和感を伴っていた。旗を偽装するということは、海賊団の名を騙るということ。それ自体がリスクの塊だ。成功すれば、船は簡単に手に入るが、この先のトルチュ島に着いた途端、もっと面倒な問題が待っている。
トルチュ島の滞在ルール。
「旗さえ出さなければ、敵味方関係なく滞在可」
一見緩い掟だ。裏を返せば旗とは身元証明であり、戦場での名乗りだ。旗を偽装する行為は白旗を掲げながら奇襲を仕掛けるのと同義。しかも、島の管理人は「争いを持ち込むな」を絶対原則としている。旗偽装は島の秩序の根幹を揺るがす重大違反だ。もし誰かがそれを告げ口すれば、中立違反・同業者への背信・伝統の冒涜・滞在権の剥奪、最悪は私刑・取引拒否、制裁は多方面に及ぶ。特に厄介なのは旗を誇りの象徴とする連中だ。故人の旗を神聖視する、迷信深い船乗りも少なくない。なにより。もし巻き添えで仲間が酷い目に遭わされたら。そこまで考えた瞬間、ルキフェルは執務机に肘をつき、両手で頭を抱えるも耐えきれず、机に突っ伏す。
「……くそ」
強くなる方法は知っている。汚れる覚悟もある。それでも、仲間を差し出すような賭けだけは選びたくなかった。ルキファルは机に突っ伏したまま顔だけを横に向け、かすれた声で吐き捨てた。
「……ルールって、めんどくさ」
自分でも可笑しいと思う。かつてクォーターマスターとして雇用契約や船上規律を整え、掟を管理してきた張本人の言葉とは思えないが、既にその役目は負っていない。だからこそ、こうして口に出せる。ルキフェルの胸の奥に鈍い痛みが広がった。亡きフランソワ。そして、とうに引退したアラン。二人の顔が嫌でも浮かぶ。
「……あの二人だったら、どう切り抜けたんだろう」
ルキフェルの口から乾いた笑いが漏れた。
「ってか……海賊って、略奪成功のためにはほんとルールにうるさい連中だったな。……特にフランソワ海賊団」
皮肉とも自嘲ともつかない言葉だった。書類とインク。机に向き合っていた日々が脳裏をよぎる。分前の配分、役割の明文化、罰則、契約条項。文字、文字、文字に溺れるような日々。
「契約、契約って……ほんと、文字の海だろ」
ルキフェルは机に顔をつけたまま、ぼそりと続ける。
「よく向き合えたな、俺。今の生活の方がずっと自由だ。何もなくて、役割もなくて、好きに過ごせる。ルールなんて皆無だ。契約もない。今の俺たちは……ただの犬。海を彷徨う野良犬どもってわけだ」
——その言葉をきっかけに、記憶が引きずり出される。契約。ソフィーが契約書にサインしたあの日。インクの匂い。紙を押さえる細い指。ニールの声がはっきりと蘇る。
「ここには六人しかいないから規律なんてものは存在しない。サインは一種の保険さ」
あの妙に余裕のある笑顔。正直、ぶん殴りたかった。さらに、別の声。扉の向こうから聞こえてきた、マテオの低い声。
「ああ、うちは六人しかいねえし、統率も取れてる。だから掟なんて形式的なもんは必要としてない。安心しな」
誰に向けた言葉だったのかは知らないが、その二つの言葉はなぜか強く頭に残っていた。今なら分かる。ただでさえ役目を剥がされた心に、「必要ない」という言葉が容赦なく抉り込んできたものだ。そこまで考えた時、ルキフェルはふと顔を上げ、机に顎を乗せたまま静止した。
「……そうだ」
旗偽装のリスク。管理人のルール。あれは、あくまで海賊団が旗を偽装した場合“の話だ。
では、どこからが海賊だ? そもそも海賊の定義とは何だ。
ルキフェルの口元がゆっくりと吊り上がる。
「……契約だ」
確信が背筋を走る。海賊とは単なる悪党ではない。掟を交わし、旗の下で航海し、分前を公平に分け合う契約集団。仲間同士の契約。投票制。役割分担と報酬、罰則の明文化。旗を掲げ、責任を負って行動する。自らの行為に名乗りと帰属意識、そしてリスクを背負う。それが海賊だ。では、今の自分たちは? ソフィーとニールの契約を除けば明示的な掟は存在しない。旗は掲げていない。フランソワの死と共に掟は消失した。形式上、自分たちは海賊ではない。トルチュ島の秩序においては無所属の不審船員。——海の上の野良犬。ルキフェルは顔を完全に上げた。
「……これは、いける」
万が一、旗偽装が露見しても管理人がここまで形式を突いてくる可能性は低い。あとは実行するかどうか。そして、それには仲間の力が要る。ルキフェルは椅子を引いて立ち上がった。
「よし、話し合い」
その瞬間、ぐぅと情けない音が腹から鳴った。ルキフェルはしばし静止したのち、苦々しく笑った。
「……飯を食って、風の様子を見てから」
そう呟いて、ルキフェルは船長室を後にした。
昼食のあと、船長室に集まった顔ぶれをルキフェルは一人ずつ確かめるように見ていた。六人。いや、正確には五人と自分。無風、それは予測できた事態だったが、予測できたからといって楽になるわけじゃない。海は静かだ。嵐のあとのような、澄み切った空。帆は垂れ、索具は鳴らず、船はただ水に浮かんでいるだけ。
「……もう五日か」
ジャスパーの焦りを隠そうともしない声。だが、あいつはそれでいい。そうやって喋っていないと逆に壊れる。水と食料。マテオの報告を聞きながら、ルキフェルは頭の中で残量を弾く。ぎりぎりだ。判断を先延ばしにできる状況じゃない。それと整備が完璧であることは分かっている、コリンがそれを崩すはずがない。つまり詰んでいるのは船じゃなく、選択肢だ。東にいる船。コリンの報告は正確だった。一回り大きい、帆も多い。無風でも、あちらの方が有利だ。
……正面から奪う? 論外。この人数であの船を制圧するには犠牲が出る。
だから、ルキフェルの中で答えはもう出ていた。
「正面からは勝てない」
ルキフェルが声に出した瞬間、空気が張りつめるのを感じた。当然だ。ここにいる全員が次の言葉を予測している。
「なら、“味方のふり”をする」
沈黙。この沈黙は拒絶じゃない。考えている音だ。マテオが「偽装か」と言ったとき、ルキフェルは内心で頷いた。そうだ。旗を偽る。名を借りる。だからこそ、重い。コリンの言葉は正しかった。二重の罪。奪う罪と名を汚す罪。ニールの言葉も間違っていない。生き延びるために汚れる瞬間はあるが、決める責任はここにいる誰のものでもない。自分のものだ。だから、ニールは一枚の紙を机に置いた。黒地に白い髑髏。三本の剣。羽根のような装飾。
——エドガー・ロジャース。
この名を出した瞬間、ルキフェルの胸の奥で何かが軋んだ。あいつは誇りを重んじる男だった。少なくとも、噂では。
「……エドガーは、この海域で古株だ」
だから使える、とは言わなかった。名を借りるという行為がどれほど多くのものを踏みにじるか。それを口にしたら誰も賛成できなくなる。その時、マテオが呟いた。
「マジかよ……あの人の名を騙るのか?」
騙る。裏切る。でも、仲間を死なせない。どれを選ぶかはもう分かっている。ルキフェルは胸の奥に古い砂を噛んだような感触が広がったまま口を開いた。
「……あいつは今も昔も、“力こそ正義”って考えだ。支配のためなら、仲間すら使い潰す」
そういう男を知っている。そして、そういう男の旗の下で死んでいった連中も。マテオの声が続く。
「あの頃のエドガーを知る連中からすりゃ、簡単に名を借りていい相手じゃねえな」
苦い、誰もが同じところを踏んでいる。ジャスパーが口を開いたとき、ルキフェルは内心で息を詰めた。
「なあ……それ、本当にやるのか?」
ジャスパーの声に迷いが混じるのは珍しい。ジャスパーが目を剥く。
「そんな奴の“半身の証”を、おれたちが勝手に使ったら……それ、バレたらどうなるかわかってるよな? おれたち全員、エドガーに狩られるって話だぞ?」
当然の帰結だ。だからこそ、ここまで黙ってきた。ルキフェルが口を閉ざしている時、マテオが肩をすくめた。
「そんときゃ、演技が足りねえってことだろ?」
一瞬、空気が緩む。その“間”にルキフェルは救われた気がした。……助かる。冗談を言ってくれるやつがいる。それだけで船はまだ沈んでいない。
「エドガーの船員ども、どんな奴らか覚えているか?」
マテオの言葉に全員の視線が集まる。ソフィーだけがわずかに首を傾げた。
「あいつらな……妙に芝居がかってる。口調も態度も、“俺たちは恐れられて当然”って前提で生きてる連中だ」
ルキフェルは内心で唸った。そうだ、虚勢を鎧にして生きている。
「……真似できる、と?」
ニールの問いにマテオは頷いた。
「完璧じゃなくていい。それっぽく振る舞えりゃ、連中は信じる」
——なら、こういう時くらい自分も役に立たねば。
ルキフェルは少しだけ声を落として口を開いた。
「いざとなったら——俺も出よう。この顔を見て、従わなかったやつはいない」
……沈黙。ルキフェルは思わず顔を顰めた。
……あれ?
冗談のつもりだった。場を和ませる、いつもの……とは言えないが、自分なりの軽口だった。だが、返ってきたのは微妙な沈黙。笑いも呆れも、突っ込みもない。
……内容、黒すぎたか?
ルキフェルの胸の奥がサーッと冷えていく。
——やっぱり俺、この立ち回り向いてない……?
ニールが紙と鉛筆を取り出す音で一気に現実に引き戻された。
「……じゃあ、旗は僕が下絵を描くよ。布地は、この古い帆を切り出せば質感も近い。細部の汚れや日焼けも再現すれば、ぱっと見は本物に見えるはずだ」
「針仕事は私に任せて」
「あ、ぼくも手伝うよ!」
ソフィーの声が即座に飛び、コリンの声も重なる。その速さにルキフェルは一瞬、目を奪われた。
「……おい。ソフィー、本気か?」
マテオの問いに彼女は視線を逸らさない。ニールが小さく笑った。
「大丈夫だよ。彼女、本気の目をしてる」
——全部、背負わせちまったな。
そう思った瞬間、ルキフェルの胸の奥がきしんだ。仲間たちはそれぞれ持ち場へ散っていく。船長室に残ったのは自分と机と海図だけ。しばらくして、ルキフェルはようやく息を吐く。
「……あ。俺たち、海賊ですらないってこと言い忘れた。まあいっか」
ルキフェルは窓の外に目を向けた。相変わらず静かに広がる青の景色だ。
「ほんと、船長って役は向いてねえな」
それでも立ち上がる。それでも決める。この船をここで止めないために。
それから偽旗製作は直ちに行われた。ソフィーとコリンが旗を完成させた時、潮風がわずかに揺れた。ルキフェルは甲板の端、索具の影に身を置きながら仲間たちの動きを見守っていた。帆柱の下でソフィーとコリンが息を合わせ、黒い布を引き上げていく。ニールは結び目を確かめ、ジャスパーは風向きを読んで声を飛ばす。マテオは何も言わず全体を見渡していた。
——よく動く。
それが最初に浮かんだ感想だった。無風に閉じ込められた数日間、苛立ちや焦りがなかったわけじゃない。それでも、誰一人として手を止めなかった。この船は生きている。次の瞬間、突風が帆を叩いた。乾いた音が空を裂き、畳まれていた帆が一気に膨らむ。無風に閉ざされた日々に耐えてきた彼らにとって、その一陣はまさに救いだった。
「——来た!」
コリンの声が弾む。ソフィーは何も言わず頷いた。二人で仕上げた偽の海賊旗。黒地に白い髑髏と三本の剣。刺繍糸が陽を反射しながら掲げられていく。ルキフェルはその様子を少し離れた場所から見上げていた。今が勝負のとき。旗が完全に風を孕んだ瞬間、彼は低く呟く。
「……この旗には、意味がある」
誰に向けた言葉でもない。ただ自分自身に言い聞かせるような声だった。翻る黒旗を見つめた途端、ルキフェルの脳裏に別の声が重なる。
——黒は降伏を促す色だ。「ここで抵抗すれば命はない」ってな。
フランソワの落ち着いた声。黒地に浮かぶ、白。
——だが、真ん中の髑髏と三本の剣がそれを否定する。この旗は“エドガー海賊団”そのものだ。黒地は「降伏すれば命は助ける」という暗黙の合図だが、中央の髑髏と三本の剣は「死と暴力による支配」を示す。
記憶の中で、フランソワは指で空をなぞっていた。
——三本の剣はな。「他者を斬る剣」「自らを守る剣」、そして「支配の剣」だ。死と支配の象徴さ。エドガーは冷酷でな……あいつの夢は、海上統治だ。
記憶が途切れ、ルキフェルは無意識に背筋を伸ばしていた。
「あいつの思想、そのものだな」
それは今の彼自身の声だった。ルキフェルが望遠鏡を覗き込んだ先には、やや大きく性能も勝る貿易船。風を掴んだこの船は黒い旗をはためかせながら、ゆっくりと距離を詰めていく。胸の奥に幾つもの顔が浮かんだ。フランソワ、ベルナルド。そして——彼女。海軍にいると知った時の衝撃。敵として刃を向け合った現実。もう戻らない時間。もう隣に立てない場所。それでも、生きている。その事実だけでルキフェルは胸を締め付けるほど嬉しかった。再会は最悪だった。怒りも悲しみも後悔も、全部本物だった。それでも強く生きていると分かった瞬間、胸が痛むのに、どこかで安堵している自分がいた。責める資格なんてない。彼女が自分の意志で選んだ道なら尊重したい。今思えば、生きていてくれるだけで十分だったのかもしれない。ルキフェルは低く続ける。
「……三本目の剣。俺は、失われた誰かのために振るいたいもんだ」
宣言でも誓いでもない。誰かに理解されなくてもいい。自分が選び取った“在り方”だった。黒旗は風を裂き、堂々と空に翻る。その下で船は前へ進んで行った。ニールが然りげ無く指を折って合図すると、マテオとジャスパーが近づく。
「いい? ここからは芝居だ。僕らの船は、エドガー海賊団の八隻ある船団のうちの一隻。——北東第三船団所属って設定でいこう」
マテオが眉を上げる。
「第三?」
「うん。あくまで偵察部隊。正面衝突は避けるけど、縄張りの様子を探る役目ってことにする」
ニールはさらりと言葉を続けた。
「今まで北東を担当してたのは第五船団だったよね。……ほら、斧のマルクのところ」
ジャスパーが即座に頷く。
「覚えてるよ。フランソワ船長の飲み仲間だろ。去年の春、沈んだって噂の」
マテオが低く唸る。
「沈んだって“噂”な。船が見つかっただけで、本人が死んだかどうかは分からない。……あれ、結局どうなったんだ?」
ニールは迷いなく頷いた。
「壊滅で確定。だから……南方で第五船団が消えたあと、空いた縄張りを第三が引き継いだ。この設定でいこう」
ジャスパーが顔を顰める。
「……ずいぶん都合のいい設定だな」
「そうだよ?」
ニールは爽やかに笑った。
「相手が知ってる不穏な噂に、こちらから『もっともらしい後日談』を被せる。疑わせないためには一番楽なやり方だ」
「さすが腹黒航海士」
——ゴッ!
ジャスパーがぼやいた瞬間、鈍い音と共にニールの拳がジャスパーの鳩尾に叩き込まれた。
「っぐ……!」
ジャスパーはその場で前のめりに崩れ、甲板に倒れ伏す。
「口が悪いのは役に合わないから直しておいてね」
ニールはニコニコしながらマテオに目を向けた。
「それじゃ、頼んだよ。最初に話すのは君だ。声と態度、派手すぎず、弱すぎず」
マテオは引き攣った笑みを浮かべる。
「……了解。ほんと、お前が一番海賊向いてるよな」
「失礼だなぁ」
ニールは肩をすくめ、相変わらずの笑顔で答えた。
「僕はただの航海士だよ。嘘を整えるのが得意なだけさ」
ニールは倒れたままのジャスパーを一瞥し、付け足す。
「ほら、立て。芝居はもう始まってる」
やがて、海賊船は貿易船と接触した。縄梯子を登っていく仲間たちの背中を、ルキフェルは黙って見送った。マテオが縄梯子に足をかける寸前、振り返ってルキフェルをじっと見つめる。
「お前はここにいろ」
ルキフェルは一瞬だけ眉を寄せたが、何も言わずに頷いた。分かってる。ここで自分が出るのは最終手段だ。甲板に残ったのはルキフェル一人。黒旗を掲げた自分たちの船と、並びあうように浮かぶ貿易船。距離は近いが、まだ手は届かない。風が吹き、帆が鳴り、声が届いてきた。荒っぽい男の声、マテオだ。
「オレたちは、エドガー・ロジャースさまの部下だ」
……よし。入りは悪くない。
続いて、低く警戒する声。相手の船長だろう。やり取りは順調に聞こえた。少なくとも、最初のうちは。縄が軋む音。誰かが一歩踏み出す気配。甲板を踏み鳴らす靴音が増えていく。
「小粒だな」
「精鋭だ」
「北東第三船団」
単語だけが風に乗って断片的に届く。
……ニールの仕込みだ。うまく回っているはず。
だが、突如として声の調子が変わった。笑いが消え、語気が荒くなり、怒鳴り声が混じる。
「——だった“はず”だな」
ジャスパーの声。わざとらしい間。その直後、ざわめきが一段強くなる。嫌な予感がルキフェルの背中を撫でた。
「……あの話か」
相手側の船員の声。低く疑念を含んだ響き。ここからだ。一番、危ない。ルキフェルは無意識に手すりに指をかけていた。さらに声が重なる。若い声が甲高く跳ねる。
「北東第三だと? 聞いたこともねぇぞ!」
……来た。
一瞬の沈黙。それからジャスパーの鼻で笑う声。
「だった“はず”だな」
空気が変わる。それは声のトーンだけじゃない、甲板の重心が動く音だ。人が前に出る。疑いが形になる瞬間、ニールの声がはっきりと届いた。
「——三〇七。北東第三船団、巡察斥候部隊。隊番号は三〇七。前任地はエドガー本隊の西岸警備。……必要でしたら、交信用の合図旗を掲げましょうか?」
……助かったか?
一瞬ルキフェルは思ったが、船の上でどよめきが走る。疑念が消えたわけじゃない。むしろ深まった。
「馬鹿な……それなら、あの旗は本物のはずだ」
「いや、待て。人数が足りねぇだろ。こんな小舟一隻で、船団行動なわけが——」
誰かが呟く。別の誰かが反論する。そして、怒号。マテオの声が明確に荒れていた。
「はぁ? 見りゃわかるだろうが! 偵察だっつってんだよ、軽装で当然だろ! 旗が見えねぇのかよ!」
「旗、旗って……そんなもん、描いたって可能性は——」
「おう、言ってみろよ。贋作扱いか? このオレが、エドガーの許可なくあの旗掲げる度胸あると思ってんのか?」
「そっちこそ、なに胡散臭ぇ口ぶりしてやがる! 旗だけで納得しろって方が無理だろ!」
怒号がぶつかり、ルキフェルは思わず舌打ちした。
——おい。やめろ、短気は損気だぞ。ジャスパー、止めてくれ。
「……よし、じゃあ腕章を見せろ」
今度はジャスパーの声だ。音色は低いが、抑えきれていない苛立ちが滲んでいる。
「見せたところで、本物だって保証は——」
「うるせぇっつってんだろうが!」
マテオが怒鳴りつける。
「お前らただの貿易商だろ?! 大人しく従っとけよ!」
「は? あんたらこそ偽名で旗立ててんじゃねぇのか!?」
船員も負けじと叫ぶ。
「急にキレ出して、別の意味で怖ぇんだけど?!」
幾つもの靴音が激しく鳴る。甲板を蹴る音。誰かが誰かに詰め寄った気配。
「離せ!」
「誰が離すか!」
掴み合いが始まったらしい。ああ、これはもう芝居どころじゃない。怒りが本物になっている。マテオが素でキレている。最悪だ。次に聞こえたのは必死な声、ジャスパーだった。
「マテオ! 今ここで暴れんな!」
遅い。完全に遅い。ルキフェルは歯噛みした。
……だから言っただろ。お前ら、熱くなりすぎるなって。
次に聞こえたのはニールの声、あまりにも落ち着いた異様な声音。
「……ねえ、コリン」
——嫌な予感しかしない。
「銃声を一発、聞かせるのとマテオを一発ぶん殴るのと……どっちをやれば、みんな僕の話を聞いてくれると思う?」
ルキフェルは思わず頭を抱え、天を見上げて深く息を吸った。
「……なにやってんだ」
このままじゃ血が出る。銃声が鳴る。最悪、殺し合いになる。それだけは避けなきゃならない。ルキフェルは手すりを掴んだまま決めた。
「もういい、俺が出る」
彼は一歩踏み出し、縄梯子に手をかけた。掌にざらついた感触。昔と同じ。何度も登ってきた、あの感触。心のどこかで苦く思った。
——やっぱり、俺はこういう役回りから逃げられないらしい。
ルキフェルは歯を食いしばり、縄梯子を登り始めた。怒号と足音が渦を巻いている。貿易船の甲板は、すでに話し合いの段階を越えていた。掴み合い、怒鳴り合い、誰かが誰かの胸倉を掴む気配。一歩間違えれば銃声が鳴る。それがルキフェルには手に取るように分かった。彼は縄梯子を登り切った瞬間、甲板の空気が肌に刺さった。熱と怒りと恐怖が混ざり合った匂い。演技なんて、やったことがない。芝居も威圧も本来は得意じゃない。それでも、ここで引けば仲間が危ない。ルキフェルは一歩踏み出し、思考を切り替えた。
「……自分にとって、怖い人間は誰だ」
一瞬で答えが出る。アラン・クロード。怒鳴らない。声を荒げない。感情を表に出さない。なのに、誰も逆らえなかった男。船員たちは冗談半分に言っていた。
「アランさんが動くと海が静まる」
フランソワでさえ酒の席でこう言った。
「怒ってる時はな、あの人は海より静かな声になる。現役の時はクロード副長とか、影の羅針盤とか呼ばれていた」
七歳の頃の記憶。恐怖と憧れが同時に胸を締めつけた背中。十四歳の頃の記憶。言葉は少なく、“継がれた”理解。
——そうだ。アランみたいにやればいい。
ルキフェルは息を整え、声を落とした。
「……おい」
怒鳴り声じゃない。命令でもない。低く掠れた一言だけで、甲板の音が削がれた。誰かが息を呑む誰かが振り向き、たくさんの視線が一斉に集まった瞬間、ルキフェルは理解した。自分の顔が武器になっている。無数の傷。斜めに走る、巨大な裂傷。人の顔をした戦場。貿易船の乗組員たちが言葉を失っていた。彼らの視線が痛いほど刺さるが、退けない。ルキフェルは甲板を一瞥し、淡々と続けた。
「なにを揉めてやがる」
感情を削ぎ落とした、命令の形。ルキフェルはさらに一歩、踏み出す。
「降伏しろ。黒い旗は、命乞いの証だ」
空気が反転した。怒りが霧散し、疑念が恐怖に塗り替えられる。貿易船の船長が声を裏返した。
「た、戦う気はありません! 貨物も! 命も! すべて差し出します! 私たちは今この瞬間より、あなた方に従います!」
あまりにも即座な降伏。剣は抜かれず、銃も撃たれない。誰一人として抗おうとしなかった。ルキフェルは内心で苦笑する。
……あっけないな。
仲間たちの気配が彼の背後で緩む。緊張が解けた音がはっきりと分かり、ジャスパーの小さな呟きが聞こえた。
「……やっぱ、あのツラは武器だな」
それを聞き流しながら、ルキフェルはふと旗を見上げた。黒い布。借り物の紋章。嘘で塗り固めた象徴。風がまだ吹いている。その旗を見上げたまま誰にも聞こえない声で呟いた。
「……あんた、いつもこんな気分だったのか」
アランの顔が脳裏に浮かぶ。威圧の向こう側で静かに海を見ていた男。ルキフェルはほんの一瞬だけ目を伏せた。嘘を孕んだ風が船を前へ運んでいる。
いつ裏切るかは分からないが、今だけはこの嘘が仲間を生かした。




