第四章② 東洋情報屋組織リー・ウェン
東洋の情報屋たちがサン・マロに戻った頃、街はちょうど夜明けを迎えていた。港の方角から薄い光が差し込み、石畳の隙間に溜まった夜の湿り気がゆっくりと乾き始めている。ワン、ヤン、ポーラン、そして残る三人のリー・ウェン。どの顔にも同じ疲労が浮かんでいた。徹夜に近い行動、緊張の張り詰めた判断の連続の反動が、今になってじわじわと身体に出てきている。隠れ家の裏口に辿り着いたところでワンが足を止めた。
「ポーラン」
名を呼ばれた青年は条件反射のように背筋を伸ばすが、その姿勢もどこか甘い。
「君はここで見張っていなさい」
「はーい。でも、その前に着替えてきていいっすか? さすがにこの格好じゃ港のゴミ箱みたいなんで」
夜露と埃、入江の湿った土の匂いが染みついた衣服を指して、ポーランはへらっと笑う。ワンは睨みつけるでもなく、ため息をつくでもなく一言放った。
「早く戻ってきなさい」
「了解でーす」
軽い調子でそう言うと、ポーランは欠伸を噛み殺しながら踵を返して隠れ部屋へ続く通路を歩き出す。石壁に囲まれた細い通路は外よりもひんやりとしている、夜がまだ残っている場所だ。ポーランは歩きながら首をぐるりと回す。
「いやー……さすがに今回は眠いっすね」
誰に言うでもなく呟きながら壁際に掛けられたランタンの光を横目で眺める。足取りは緩いが、隠れ家へ向かう動きには一切の迷いがない。気が抜けているようで、仕事は忘れていない。それがポーランという男だった。
一方、ワンとヤン、残りのリー・ウェンたちは無言のまま隠れ家の奥へと入っていく。扉が閉まる音が夜明けの街に小さく響いた。外では朝が始まり、内側では次の段取りが組み上がっていく。夢蛇は押さえたが、それで終わりではない。サン・マロの一日は何事もなかったかのように動き出していた。
やがて服を着替え終え、隠れ部屋を出たポーランは、玄関口でぴたりと足を止めた。知らない顔だ。朝の光を背に真っ直ぐ立っている青年。背筋が伸び、軍人特有の癖が抜けきっていない立ち姿。眠そうな様子もなく、やけにシャキッとしている。ポーランの中で警戒心が一気に立ち上がった。
「……なんか用すか?」
青年——ジョルジュは一瞬だけ戸惑ったように目を瞬かせ、それから懐に手を入れた。取り出したのは少し角のよれた封筒。夜通し書いたのだろう、丁寧だが切迫感のある筆致が透けて見える。
「きみ、東洋人だよね。これを……リー・ウェンという人物に渡したい」
ポーランは眉をわずかに動かすが、すぐには何も言わない。ジョルジュは続けた。
「リー・ウェンさんのことを教えてくれたのはブルボン家。それから、ここを教えてくれたのは……さっき通りで話しかけてきた眼帯の人」
ポーランは一瞬で察した。眼帯の男といえば、この街ではアランしかいない。これはポーランの頭の中で今しがた勝手に創り上げた物語だが、サン・マロに着いたばかりで街を彷徨く明らかに場違いな青年を見抜いたアランが声をかけると、青年は「リー・ウェンを知らないか」と驚くほどあっさり打ち明けたのだろう。
……まあ、アランさんなら教えるわな。あの眼帯男、癖は強いが人を見る目はある。
ポーランはジョルジュの手の中にある封筒に視線を落とし、それからジョルジュを改めて見た。敵意はない。嘘をついている様子もない。どちらかというと不器用なほど正直だ。
「……あ、じゃあ届けてきますね。自分、運び屋なんで」
ジョルジュは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに納得したように頷く。
「そうなの? じゃあ任せたよ」
ジョルジュは疑いもせず素直に封筒を差し出し、ポーランはそれを受け取りながら苦笑した。
——いや信用良すぎでしょ……ま、悪い気はしないけど。
「ちょっと部屋の中で待っててください。すぐ戻りますんで」
ポーランはジョルジュに踵を返し、ほとんど駆け足で倉庫街へ向かう。
——せっかく着替えたのに、また汗かくじゃん。
内心でぼやきながらも足は止まらない。これはただの手紙じゃない。持ってくる相手が、あまりにも“真っ直ぐ”すぎた。
一方、五人のリー・ウェンは例の会議室に集まっていた。夜明けの気配が窓の外に滲み始めているが、部屋の中はまだ薄暗い。リー・ウェンの一人が手帳をぱらぱらとめくりながら思い出したように口を開く。
「そういえば……聞きました? トゥーロンにいる連中が共有してきたやつ」
ワンが顎に手を当てる。
「ああ。カラスが運んできた情報にあったな。フランソワ海賊団の残党がトゥーロンの海軍地方司令部を襲撃した件。……そのまま処刑に直行した」
最初に話を振ったリー・ウェンがゆっくりと頷いた。
「そう、それだ。さすが、コルヴァンのところのカラス。伝説の名は伊達じゃない。で、その残党たちだが……」
彼は言葉を選ぶように一度視線を手帳に落とした。
「トゥーロン担当のリー・ウェンが、興味本位で牢獄まで行ったそうだ」
誰かが眉をひそめ、ヤンが短く問う。
「理由は?」
「フランソワを殺された復讐だと。尋問で相当衰弱していたらしい。数時間も話せる状態じゃなかったそうだ。それでも、どうしてそこまでして復讐に向かったのか、トゥーロン担当のやつは聞きたかったらしい。……で、返ってきた返事がこれだ。『わかっていた。無謀だと。でも、あの人がいなくなって、俺たちにはもう海も居場所もなかった。ならせめて、剣を持って死にたかった』」
その瞬間、部屋の中から音が消えた。聞こえるのは鉛筆が紙を走る微かな音だけ。五人はそれぞれ無言で手帳を開き、言葉を写し取っていく。しばらくして、読み上げたリー・ウェンが続けた。
「その後、こうも言っていたそう。『処刑を待つより、戦って死にたかった』と。最初から、どこかへ戻る気なんてなかったらしい。捕まったことを恥じていたともな」
その言葉を最後に語りは終わった。ヤンは鉛筆を走らせる手を止めるとパタンと手帳を閉じた。どうやら、すべて書き終えたらしい。相変わらずだった。他の誰よりも早く、必要なことだけを正確に書き留める。ヤンは顔を上げずに、ぽつりと呟いた。
「……海を失った人間はこうなる」
部屋の外で朝の風がそっと通り過ぎた時、年若いリー・ウェンが恐る恐る手帳から顔を上げた。
「あのぉ……」
チャン・ジンテンだ。まだ指先が紙の端を掴んだまま視線だけを上げている。
「これも自分のことのように話さなきゃ、いけないんですか……?」
彼の問いに空気が一段冷えた。ワンは間を置かずに言い切る。
「当然よ。『自分がさも手に入れたかのように語れ』。それがリー・ウェンの内部規則。私たちは単独の商人に“見せかける”存在。組織として存在していると悟らせないためのルールよ。情報の出所は曖昧でなければならない。誰が、どこで、どう手に入れたか。それが繋がった瞬間、組織は終わる。私たちは情報の媒介でしかないの。人格を持ってはいけない」
ワンの言葉にチャンは小さく肩を震わせ、弱々しく声を上げる。
「でも、正直……厳しいんじゃないかと思うんですよ」
場の空気がざわりとするが、彼は言葉を探すように視線を泳がせて続ける。
「だって……お得意先の貴族がいるんですけど、そこのお嬢さんが僕の顔をじっと見て『やっぱり、違う』って……はっきり言ってきたんです」
誰かが小さく舌打ちし、チャンは早口になる。
「意味が分からなくて、『どういう意味ですか?』って聞いたら……『自分が所属してる部隊にも、時々リー・ウェンさんが訪ねてくる。でも、その人は年上でしたね』って……それで慌てちゃって……手配してた漢方の中に催眠薬の粉、入れちゃいました……」
沈黙。次の瞬間、複数の声が一斉に飛ぶ。
「はぁ!?」
「馬鹿かお前!」
「何を言ってる!」
チャンは完全に縮こまりながら追い打ちをかけた。
「すみません、気づいた時には自作品に手が伸びて……事故なんです——」
「お前ッ!!」
「正気か!?」
「それは“事故”じゃ済まない!」
怒号が飛び交う中、ワンは眉一つ動かさなかった。
「チャン。感情で動いたわね。それは商人じゃない、加害者よ。それと、今後しばらくは薬草錬成と錬金術ごっこは禁止」
チャンは何も言い返せず俯いた。手が出たことより、趣味を禁止されたことの方を堪えている。本来の業務を投げ打ってまで研究にのめり込んでしまう、彼の好奇心と実験癖は組織としても困惑している案件だった。実害が出てしまっては禁止令を出すしかあるまい、とワンはため息を吐いた。その一方で、ヤンは心の中で納得していた。
——ああ。それ、わたしだ。年上でマクシム隊に顔を出して、リー・ウェンとして認識されていた存在。
ヤンは鉛筆を持ち直し、次のページを開く。組織の中で最も目立たず、最も多くの痕跡を残しているのが誰か。それを理解しているのは、この部屋で彼一人だ。
その後、リー・ウェンたちは机を囲んだまま黙々と情報を交換し合った。マルセイユ港で目撃された艦隊の配置。通常なら補給船で終わるはずの航路に、なぜか戦列艦が混じっていたという話。次いで、王党派の集会が極秘裏に行われたという噂。場所も日時も曖昧だが、共通しているのは「命令が多すぎる」という点だった。どの情報も出所は同じ。伝説の情報屋、コルヴァン。全員が一度は手帳に目を落とし、ペンを走らせる。紙を擦る音だけがしばらく室内を満たし、やがてワンが手を止めると天井を仰いだ。
「……なんだろう。なんか、不安定なんだよね」
ヤンがすぐ応じた。
「同感です。内部が騒ついている。戦の気配……でしょうか。なんにせよ、見過ごせませんね」
彼の言葉にチャンが恐る恐る顔を上げる。
「で、でも……何と戦うんですか?」
別のリー・ウェンが手帳を閉じながら肩をすくめる。
「どうせ旧ブルボン派だろう。これを見る限り、王都からの命令が不自然に多い。表に出てないってことは……現王朝とまた水面下でバチバチやってる」
ワンはゆっくりと視線を巡らせ、ヤンとチャンを交互に見た。
「ヤン。君はブレスト、あの辺りの沿岸担当だったね」
「ええ」
「それから、チャン。君は内陸の貴族連中……ブルボン家もお得意先だったはず」
チャンは少し背筋を伸ばし、頷いた。薬を盛った令嬢が居る家の名前を聞いた途端、部屋がこれまで寒く感じた。
「はい。ただし、いわゆる直系ではありません。昔の弟君の家系、次男坊の家です。当主はフィルマンさん、という方で」
その名前に数人が頭の中で家系図を思い浮かべる気配があった。チャンは少し考えてから続ける。
「政治的立場は現王党側ですね。だから他のブルボン一族とは微妙に距離を取っている……というか。フィルマンさん曰く、『まあ一族同士は仲良くやってる』そうです。もう長い間、王座についていないから皆好き勝手やってる、と。直系のところの長男も、かなり自由人気質らしいです」
ややこしそうに語るチャンの言葉に、誰かが小さく息を吐いた。血縁は複雑に絡み合い、立場はその都度変わる。だからこそ、表向きの派閥ほど信用ならない。ワンは指先で机を軽く叩き、まとめるように言った。
「つまり、動いているのは派閥じゃない。人だ。感情と利害で勝手に動いてる」
「ええ。そういう時が一番厄介ですね」
ヤンが同意するように頷いた。戦の名目は後からついてくるが、その前に必ず騒めきが起きる。リー・ウェンたちは互いの手帳に視線を落としながら不穏さを共有していた。まだ形はないが、何かが動き始めている予感だけが重く室内に漂っていた時、勢いよく扉が開かれた。
——バンッ!
「失礼しまーす! リー・ウェンいますか!」
場違いなくらい元気な声とともに現れたのは、ポーランだった。部屋にいた五人のリー・ウェンが一斉に顔を上げる。いる。いるが、そういう意味ではない。誰もが同じことを思い、同じような微妙な顔を浮かべた刹那、ポーランは空気など一切読まず封筒を高く掲げた。
「お手紙です! たぶん、依頼ですぅ。若い男の人でした!」
そう言って、ポーランは机の上に封筒をぽんと置いた。五人の視線が同時に封筒へ落ち、互いの顔を見合わせる。
——誰がやる?
——いや、今回は無理。
——目、合わせるな。
無言の押し付け合いが発生する中、サン・マロ担当のワンが小さく息を吐いて封を切った。
「……読むわよ」
ワンは紙を広げ、淡々と読み上げる。
「依頼内容は人探し。それも『ある軍医の消息を探ってほしい』とのこと。宛名は……フランス海軍第七艦艇部隊、マクシミリアン・ブーケ隊所属、ジョルジュ・アルダーソン」
ざわりと小さく動揺が走り、紙を畳みながらワンは周囲を見渡す。
「……二人きりで会いたいそうよ。さて、誰が行く?」
全員の顔に、「自分は行かない」という強い意思がはっきりと浮かんでいる。その沈黙を破ったのは、別のリー・ウェンだった。
「マクシミリアン・ブーケ隊って……あの、大海賊フランソワを討った部隊だよな」
「ああ。新聞にもでかでかと載ってた。民衆から見てもビッグニュース。……あれから、もう一ヶ月か」
チャンが不安げに口を挟む。
「その部隊員さんが……どうして、サン・マロに? それに軍医の消息って……行方不明、ですかね?」
チャンの言葉に、全員が顔を顰めた。
——そんな話、知らない。
——報告でも聞いていない。
不穏な沈黙中、ワンがぽつりと口を開きながらヤンをチラリと見た。
「……ていうかさ。ヤン、ブレスト担当だよね?」
「ええ。先ほどから言ってますが?」
ヤンの穏やかな微笑にワンは眉をひそめる。
「チャンが言ってた“お嬢さん”。『うちの部隊にもリー・ウェンが来る』って言ってたよね。ヤン、もしかして……海軍に出入りしてる?」
「はい、そうですよ」
ヤンがあっさり答えると、部屋に総ツッコミが炸裂した。
「はぁ!?」
「聞いてない!!」
「なんで今さら!!」
「普通そこ伏せる!?」
嵐のような非難をヤンは涼しい顔で受け流す。
「マクシミリアン・ブーケ隊。そこの部隊長であるマクシムさんは、お得意先でね。そうか……皆さんは知らなかったですか。ベテランのリー・ウェンの皆さんに聞けば、『ああ』って納得すると思いますけど」
「説明を放棄するな!!」
再び総ツッコミ。その喧騒をワンが手を叩いて止めた。
「……はいはい。じゃあ決まりね。この案件、ヤンが請け負った方がいい。私は無理。夢蛇の件もある。この街を離れられない」
「こっちも同意だ」
「お得意先に縛られて動けない」
「キャパオーバーです」
次々と責任放棄が飛ぶ。ヤンは一度天井を仰いでから溜息を吐いた。
「仕方ありませんね。では、この案件はわたしが請けます」
ヤンはジョルジュの手紙を懐にしまって立ち上がるとポーランを見た。
「彼は今、どこに?」
「隠し部屋ありますんで。そこで待ってもらってますよー。案内します!」
ポーランは軽く手を振り、さっさと扉へ向かう。ヤンも後に続き、二人は部屋を出て行った。残されたリー・ウェンたちは顔を見合わせ、揃ってデカめの溜息を吐いた。
「……自由すぎだろ」
「ほんとにな」
「胃が痛くなる」
情報屋たちの一日はまだ終わりそうにない。
ポーランに案内されるまま、ヤンは隠し部屋へ足を踏み入れた。通りから隔てられた小さな空間は思いのほか静かだった。外の喧騒が嘘のように、窓の向こうにはサン・マロの街並みが穏やかに広がっている。部屋の中央、椅子に腰掛けていたジョルジュがこちらに気づき、振り返った。好青年だな。それがヤンの第一印象だった。年若く姿勢がよく、視線がまっすぐだ。警戒はしているが敵意はない。
「あなたがアルダーソンさんですか」
ヤンが声をかけると、ジョルジュは少し驚いたように目を瞬かせてすぐに立ち上がった。
「はい。ジョルジュ・アルダーソンです」
「初めまして。お手紙、拝見しました。わたしがリー・ウェンです」
ヤンが名乗ると、ジョルジュの表情がわずかに引き締まった。噂話ではなく、実在の人物と対面した実感が湧いたのだろう。ヤンは軽く会釈し、彼と向かいの椅子に腰を下ろす。
「まず、どうやってわたしの元に辿り着けたかお話ししても?」
「あ……そうですね」
ジョルジュは椅子に座り直し、背筋を伸ばした。
「ボクの所属する部隊って、ちょっと変わってるんです。まあ……ご存知かもしれませんけど。上流階級にも出入りする東洋の商人がいるって話は前から聞いてました。だから、社交界を辿れば会えるんじゃないかって思って」
ヤンは黙って聞いている。
「まず上流貴族出身の同僚の実家を訪ねたんです。ブルボン家なんですけど。そしたら、ビンゴでした。同僚のお父上からリー・ウェンのことを聞いて、助言をもらって……それを頼りに、ここまで来たって感じです」
ジョルジュが話し終えると、彼は真っ直ぐヤンを見た。
「だから……どうしても、あなたに話を聞いてほしかった」
ヤンは息を吐いた。なるほど、道理で辿り着くわけだ。そして同時に思う。この青年は嘘をついていないが、まだ何も知らない。ヤンは穏やかに頷いた。
「分かりました。では、ここからが本題です。人探しの依頼ですが、請け負うかどうかはまだお約束できません。お話だけでも詳しくお聞きして宜しいですか?」
「もちろんです」
「探してる相手はどなたでしょう」
「一ヶ月前、任務中に消息を絶った同僚です。軍医で……ソフィー・ルノアールと言います」
ルノアールの名を聞いた瞬間、ヤンの指が止まったが表情には出さず、すぐに懐から手帳を取り出す。
「ソフィー・ルノアール……」
さらさらと鉛筆を走らせながら、ヤンは頭の中で記憶を辿る。ルノアール姓といえば、代々軍医を輩出する家だったはず。それとマクシミリアン・ブーケ隊。最後に見かけたのは、あの嵐の少し前だったか。ヤンは顔を上げて続きを促すとジョルジュは言葉を紡いでいった。
「軍は彼女を行方不明者として処理しました。でも、どうしても腑に落ちなくて。あの人はまだ生きていると信じています」
ヤンは最後まで書き留めてから顔を上げた。
「行方をくらました時の状況を話していただけますか」
「はい」
ジョルジュは頷き、少し息を整える。
「嵐の日でした。場所は……サン・マロ湾辺りだったと思います。天候が最悪の中で海賊と戦っていました」
「海賊、ですか」
ヤンが小さく呟くと鉛筆の先が再び踊り出す。
「どんな海賊でした?」
「数は少ないです。全部で五人。でも……そのうちの一人が桁違いに強かった。いえ、全員強かったんですけど。ボクなんて全然歯が立ちませんでした。隊長も大怪我をして、それと……」
ジョルジュは少し躊躇いながら続けた。
「上官たちの動きにも怪しい点があって……」
部屋の外では朝の街がゆっくりと動き始めていたが、この小さな空間ではすでに別の潮流が生まれつつあった。ジョルジュは一度、言葉を選ぶように視線を落とす。
「……海賊と戦闘中、嵐が来たんです。ボクも船を動かすのに必死で。正直、周りを細かく見る余裕はなかった。でも……その混乱の中で、同僚が突如として姿を消しました」
「残酷なことをお聞きしますが、海に落ちた可能性は?」
ヤンの口から放たれた言葉にジョルジュの喉が鳴った。
「うっ。まあ、最初はボクも思いました。でも……ボクたちが乗ってた船、挟み撃ちにされてたんです。海賊船と、奇襲された警備隊の哨戒船に」
ヤンの鉛筆を握る手が止まると、ジョルジュは顔を上げた。
「たしかに、波は荒れてました。だから、その隙間から落ちた可能性があるって推測もされました。けど……いなくなった同僚、タフなんです。まあ軍医ってみんなタフですけど。でも彼女の場合、軍医を目指す前は前衛兵志望だったんで。体力も反応、侮れない。これは、ずっと近くで見てきたボクが断言できます。そんな彼女が……簡単に、海に落ちるかなって」
ヤンは小さく息を吐いた。
「望みは薄いかもしれませんね。他に生きているという根拠はあるんですか?」
ジョルジュは即座に答えた。
「ないです! ただ……ボクは、彼女が生きてるかどうか確かめたいだけなんです。無理だって分かってます。でも、諦めきれなくて……」
ヤンは手帳を閉じ、額に指を当てた。
「……よくここまで来れましたね」
半ば呆れ、半ば感心した声だった。すると、ジョルジュは少しだけ間を置いてからぽつりと言う。
「それに……海が言ってるんです」
「……海?」
ヤンが聞き返すと、ジョルジュはゆっくり頷いた。
「はい。あの日は海も空も荒れてたけど……波に関しては、甲板にいる人間を丸ごと呑み込めるほど高くはなかった。もし、あの程度で人がさらわれるなら……ボクたちはとっくに全滅してます。船縁を越えなければ、波に飲まれることはないので」
ヤンの視線がジョルジュを捉え、ジョルジュは一瞬躊躇ったが覚悟を決めたように続ける。
「ボクたちが生き残れたなら……海賊たちも生き残ってるはずです。願わくば、彼女が海賊側のもとで生きていればいいなって……思ってます」
ヤンは言葉を失ったまましばらく動かなかった。海軍の兵士が同僚の生存を願って、海賊の側にいる可能性を口にする。論理ではない、情報でもない。それでも否定しきれない感覚だった。ヤンはゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
ヤンは再び手帳を開いて鉛筆の先を少し持ち上げたまま顔を上げた。
「……海賊たちの特徴、教えていただけますか?」
ジョルジュは待ってましたと言わんばかりに背筋を伸ばす。
「もちろんです! まず一人目は顔に古傷が多い男。こう、頬から顎にかけて斜めの傷が堂々と走ってて、刃物傷が何本もあって……次が赤髪。肩まで伸びてて余裕綽々といった感じでした。それから、美青年。左腕が義手になってます。金髪碧眼の男もいました。体格はいいけど、どこか軽い。最後は小柄な少年。たぶん、まだ若い」
ヤンは無言で頷きながら淡々と書き留めていく。全員男。年齢層も体格もばらばら。やけにカラーバリエーションが豊かだなと思いながら鉛筆を走らせる。
「他に分かることはありますか? たとえば……彼らが乗っていた船について」
ヤンの言葉に、ジョルジュの表情がぱっと明るくなって身を乗り出す。
「それでしたら、話せますよ! ボク、船と天気は専門なんで。得意分野です」
ヤンは内心で助かると呟いた。ジョルジュは迷いなく言う。
「彼らが乗ってたの……あれは小型ガレオン船ですね。軍からは“貿易船”って扱いでしたけど、違います。あれは長期航海用の帆船です。船体は小柄だけど、小回りが利く。最新型でした」
ヤンの鉛筆が少しだけ速くなり、ジョルジュは一息吐いて続ける。
「少人数でも動かせる。というか、少人数で十分な設計です。いい船ですよ。でも……入手経路が分からないんです。普通の商人が持てる代物じゃない。あれは……金を持ってる連中が使う船です」
「……なるほど」
ヤンはふっと息を吐くとジョルジュはさらに言葉を重ねる。
「船内には家畜と食糧がありました。配置も量も明らかに長期航海前提です。何週間……いや、何ヶ月も海に出る想定ですね。これは先輩士官が言ってました」
ヤンは最後の行を書き終え、手帳を閉じると穏やかに微笑んだ。
「長期航海、ね。なるほど、だいたい行き先は読めました」
「えっ? 今ので分かったんですか!?」
「おそらく、トルチュ島でしょう。聞いたことはありませんか?」
「いえ……」
ジョルジュの眉が顰められ、ヤンは少しだけ言葉を選んだ。
「簡単に言えば、世界の掃き溜めです。ですが同時に、独特の都市国家群でもある。海賊による、海賊のための楽園。それがトルチュ島とその周辺、ポートサイド。特にトルチュ島は羽休めにちょうどいい。船を直し、物資を補給し、人目を避けるには最適です」
ヤンは窓の外に視線を投げた後、すぐジョルジュに視線を戻した。
「その海賊たち。もしかして、フランソワの残党ですか?」
ジョルジュは間を置かずに勢いよく頷き、ヤンは小さく笑った。
「やっぱり。であれば、なおさらトルチュ島の可能性は高いです。あそこは、フランソワ海賊団が冬場にバカンスで立ち寄る場所だと以前から推測されていました。定期的なルーティンです。残党が生きているなら、彼らはそこにいる」
ジョルジュは息を呑んだ。点だった情報が線になった瞬間だ。ヤンは立ち上がるなり、迷いなく荷物をまとめ始める。外套を取り、手帳を懐に収め、必要最低限の道具だけを選び取った。その一連の動作はあまりにも手慣れている。
「……あの、どうしたんですか」
戸惑いを隠しきれないジョルジュの声に、ヤンは振り返りもせず答える。
「これからトルチュ島へ向かいます」
「今から!?」
思わず立ち上がるジョルジュに、ヤンは穏やかに笑う。
「ちょうど今日、東洋の商人のキャラバンがこのサン・マロを発って、トルチュ島へ向かう予定なんです。いやあ、幸運だ。あなたの迅速な行動のおかげで、わたしも早く動けます」
荷物を抱えたままヤンは立ち止まり、ジョルジュを振り返った。
「もし……その軍医さんが見つかった際は連れ戻しましょうか?」
ジョルジュは一瞬言葉を失ったが、すぐに小さく首を振る。
「いえ……伝言をお願いしたくて」
「承知しました。お伝えしましょう」
ヤンは即座に手帳を開き、ペンを取る。それからはただ聞いた。口を挟むことも意見を述べることもなく、ジョルジュの言葉を一つひとつ書き留めていく。やがて話し終えるとヤンはペンを止め、手帳を閉じた。
「……では、見つかった暁には、そのように伝えましょう。本当に、いいんですね?」
ジョルジュは深く息を吸い、まっすぐに頷いた。
「はい。ボクは……彼女自身が選ぶなら、その選択を尊重したいんです」
ヤンはわずかに目を細め、柔らかく微笑んだ。
「しかと受け止めました」
ジョルジュは懐から金銭を取り出そうとしたが、ヤンはすぐに手で制した。
「ああ、お代は要りませんよ。わたしは……あなたの真っ直ぐな姿勢を買ったんです」
ジョルジュの胸が強く打たれ、言葉もなく深々と頭を下げると、身支度を終えたヤンは隅に控えていたポーランに視線を向けた。
「しばらく旅に出ます。仲間に伝えてください」
「了解です」
軽く手を挙げて応じるポーランに頷き、ヤンは最後にジョルジュを振り返る。
「では……行ってまいります。また会う時は、ブレストで」
それだけを残し、ヤンは部屋を後にした。港では東洋の商人たちが出発の準備を進めている。見慣れぬ男が近づいてくるのを見て彼らは一瞬警戒したが、ヤンは流れるように金銭を差し出し、短く挨拶を交わした。やがて、船はサン・マロの岸を離れた。甲板に立ちながら、ヤンはサン・マロの街並みを振り返る。
「夢蛇に内部の争い……気になることは山ほどありますが。しばらくは陸の仲間に任せましょう」
ヤンはほんの一瞬だけ表情を消し、口元に薄く笑みを浮かべた。
「なんせ……取引はスピーディーに行うのが商人の鉄則ですから」
その声はもう誰かの想いを預かった男のものではない。船はそのままトルチュ島へと進路を取った。




