第十章④ Montage
数日後、灰色の空の下はブレスト城が重々しくそびえ立っていた。鈍色の壁は街を見下ろすように沈黙している。その城を街中から見上げる男がいた。シルヴェストルは視線だけで合図を送ると一瞬でピエールが動き、影のように人の流れへ溶け込んで姿を消す。その後、ブレスト城内部では厳重な警備の隙間を縫うようにピエールは侵入していった。足音はない、呼吸すら存在を消しているかのようだった。彼は抜け穴を使って石壁の裏を滑るように進み、事前に叩き込まれた経路を寸分違わず辿ると足を止めた。
「……ここか」
応接室の一角、その奥にあるのはベルリオーズの監禁部屋。扉の外に人影はない。ピエールは一度だけ周囲を確認すと踵を返し、近くの空き部屋へ侵入して窓を開けると冷たい風が流れ込んだ。彼は躊躇なく外へ出て石造りの城壁へと足をかけると細い足場を地面のように進み、指先と靴裏だけで支えながら横へ横へと移動すると、やがて目的の窓に辿り着くなりコンとノックした。
室内。
「……っ!?」
室内にいたベルリオーズが跳ね、一瞬で顔色が変わると恐る恐る窓へ近づいてそっと開けた瞬間、目の前にピエールが現れた。金の腕輪が鈍く光る。
「よお」
「お前……!」
ベルリオーズの表情が歪んで吐き捨てるように言うが、ピエールはまるで気にせず淡々と言う。
「あー、安心しろ? 今日は殺しに来たんじゃねえ。頼みがある。エドガーから、フェルナンドって海賊の元に伝言。証拠残したくねえから口伝でな」
ベルリオーズの目がわずかに揺れ、ピエールは彼の反応を見逃さず身を乗り出す。
「内容はこうだ。——近いうちにお前と直接会うだろう。その時、どちらの味方かオレに証明しろ」
ベルリオーズが言葉を失っている隙を縫うように、ピエールは金の腕輪をはめた手を差し出すと小さな道具を彼に握らせる。
「あとこれ、この部屋から抜け出すためのやつだ。持っとけ」
ピエールは拒否の余地もなく押し付けるように渡すと身を引いて窓から離れる。
「じゃあな」
ピエールは再び城壁を伝い、音もなく移動して元の窓へと戻ると中へ滑り込んで扉を閉め、来た道を逆に辿った。影は誰にも見られず、誰にも気づかれずブレスト城を出ていく。
一方、ベルリオーズは託されたピッキング工具で扉をピッキングして体を震わせながら部屋を抜け出すと薄暗い牢獄へ向かった。牢獄内の一角、鉄格子越しに差し込むわずかな光がフェルナンドの疲れ切った表情を照らしていた。
「珍しい客だね」
フェルナンドは軽く笑いながら声をかけたるとベルリオーズは冷ややかな視線で返す。
「話がある」
「話し相手ならボクで十分だろう。君も悪事がバレて居心地悪いんじゃないか?」
フェルナンドは肩をすくめて皮肉交じりに答えた。
「そのうち、余裕なんて言ってられなくなるさ」
ベルリオーズは鼻で笑うと周囲を見渡して低い声で告げた。
「使いの者が来た。パリで何度かやり取りした男が、エドガーからの伝言だと。証拠を残さぬため、口伝でな」
フェルナンドの眉がぴくりと動いた。
「なんだって?」
ベルリオーズは身を乗り出し、フェルナンドの耳元で囁くとフェルナンドの顔色が瞬時に変わった。
「……この局面で、あの男は一体何を考えているのか」
フェルナンドの声に震えが混じり、ベルリオーズは頷いて厳しい口調で言う。
「よく考えろ。決断を誤れば、自分の命取りになる」
ベルリオーズはそう言い残して牢獄を後にし、しばらく廊下を歩いていたが不意に立ち止まって不敵な笑みを浮かべた。
「この地に来て、まだ俺を苦しめるつもりか、エドガーめ」
その後、ベルリオーズは部屋に戻るとピッキング工具を枕の下に隠したのだった。一方、街中ではシルヴェストルは相変わらず城を見上げている。彼の背後に、ピエールが戻ると気配だけで完了を告げた。
「……終わったか」
シルヴェストルが振り向かずに問うとドミニクがシルヴェストルの隣で微笑む。
「いい仕事だね」
「ま、あとは勝手に動いてくれるでしょう」
ピエールは肩をすくめるとシルヴェストルの口元がわずかに歪む。
「ああ、駒は盤上に揃った」
一方、マクシミリアン・ブーケ隊の宿舎の執務室。机の上には書類が積み上がり、マクシムは黙々と羽ペンを走らせている。静かだ、外は風が強いはずなのに音だけが遠い。その時、コンと乾いた音が窓ガラスを叩いてマクシムの手が止まり、顔を上げて窓を見た。
「……?」
マクシムは眉を顰めて椅子から立ち上がると窓に近づき、鍵を外して開けると冷たい空気が流れ込んだ。マクシムが身を乗り出して周囲を見回すと視界の端に影があった。宿舎の外壁に身を寄せる、一人の男に見覚えがある。マクシムは少しだけ表情を緩めた。
「ああ、あなたでしたか。ご無沙汰しています。お元気でしたか? 組織の活動も大変でしょう」
男——ダミアンは一瞬だけ苦笑する。やはり、気づいていないか。相変わらず自分を別の勢力の人間”だ」と思っている。だが、ダミアンの表情はすぐに消えて真剣な眼差しへと切り替わる。
「……お話があります。サン・マロから海賊たちが消えた件は聞きましたか?」
「軍から報告が来ましたよ。まったく、彼らはどこへ行ったんでしょうかね」
マクシムは軽い調子で言うが、その目は鋭い。ダミアンはしばし黙り込んだ。言うべきか、言えば戻れない。ダミアンの胸の奥で何かが軋むが、それでも口を開いた。
「……ここから南へ向かったところです」
「……え?」
マクシムの表情が止まった瞬間、ダミアンはすでに動いて踵を返し、地面を蹴る。
「待ってください!」
ダミアンの背後から声が飛ぶが、彼は塀に足をかけて一息で飛び越えると着地して走る。心臓がうるさい。
「……やった」
初めて教えに背いた。ダラス家に背いた、裏切った。
「……戻れない」
ダミアンの呼吸が乱れるが止まらない。彼はそのまま街中へと消えていく。一方、窓辺のマクシムは唖然としたままダミアンの背を見送っていた。
「……すごい身体能力」
南という言葉がマクシムの脳裏に何度も残る。
「南、か」
その夜の宿舎、部屋の中は薄暗く誰もが重苦しい空気をまとっていた。窓の外では冷たい風が吹き荒れているはずなのに音だけが遠い。マクシムは机の上に広げた地図から目を上げた。彼の思考はすでにサン・マロにはなかった。海賊が消えたなら集う場所があるはず。
「では、頼みました。絶対に見つからないように、慎重に動くんです」
マクシムは視線の先に佇むヤンを見据えると、ヤンは鋭い目で頷いた。
「おまかせを。マクシムさんは特別な得意先ですから。必ず期待に応えましょう」
ヤンは踵を返して部屋を出ると廊下を抜け、宿舎の外へ出るとブレスト港へ向かった。夜気が肌を刺す、夜の海は黒く沈んで灯りが水面に揺れている。
桟橋の一角に一隻の船が静かに待っていた。目立たないが、造りは明らかに良い。ヤンが船に近づくとすでに仲間たちが揃っていた。マルクとイヴォン、ニコラとティエン、そしてワンとポーラン。ヤンは何も言わず、頷くだけで船へと乗り込むと他の者たちも続いた。甲板に足音が響き、縄が外されて帆の準備が進む。その中でニコラがふとティエンに顔を向けた。
「それにしても、よくこんな船用意できたね」
軽い口調だが、ニコラの目は船全体を値踏みしている。ティエンは肩をすくめるだけだった。
「ん? 別に」
ニコラは苦笑して息を吐いた。やっぱ、ブルボン家は超金持ちだ。プライベートで立派な船を何隻持っててもおかしくない。ニコラは視線を海へ向けた。闇の中に航路が伸びている。やがて、船は音もなく動き出すと波を切り裂いて夜の海へ飛び出した。向かう先は南、ランデヴェネック。宿舎に残された者たちは沈黙の中にいた。グウェナエルが低く口を開く。
「戦の知らせを聞くと胸が騒ぐ。だが、なぜかこの空気は……不吉だ」
「僕も同じ気持ちです。何か、悪いことが起きる予感がする」
マクシムが頷くとシャルルは拳を握る。
「このまま黙って見過ごせません。いざとなれば、上層部に対しても声を上げましょう」
一方、小さな港の岸辺では空と海の境界が曖昧になる時間に、ソフィーが冷えた指先を胸元に寄せて海を見つめていた。
「ジョルジュ、風の様子はどう? 海は……?」
ジョルジュは海面に目を凝らしていた。
「海は嘘みたいに静かだ……風はいつも通り、冷たい。……この空気の重さ、感じるかい? 霧が、確実に立ち込めてくる」
ジョルジュの視線は水平線のさらに向こうを射抜いている。
霧、最初はかすかな靄だったが、それは止まらない。ランデヴェネックブレスト、そして、海の上。あらゆる場所で同じものが広がっていく。濃く重く、音を吸い込むように。誰もが霧を見て、誰もが同じことを思う。
——不気味だ。
第八船団の甲板に立つアランは霧を見上げた。長年の経験が言葉より早く反応する。
「……まずいな」
リヴェンジ・クイーン、ジャスパーは海を見て肩を震わせる。
「……嫌な予感がするぜ」
「なぜ?」
ニールが横から問うとジャスパーは霧から視線を逸らさず告げる。
「勘だ」
コリンもマテオも同じように顔を顰めた時、船長室の扉が開いてエドガーが現れる。
「出るぞ」
短い命令にすぐに伝令が走り、港を駆け抜けて叫びが連鎖する。出陣命令に騒めきが爆発に変わり、海賊たちが動き出す。帆が上がり、錨が上がり、怒号と歓声が混ざり合う。そして、掲げられる旗は黒ではない。赤、血の色の海賊旗、戦争の旗。やがて、船団は霧の中へと進み始めてランデヴェネックを離れていく。エドガーはリヴェンジクイーンの甲板に立って消えゆく船団を眺めながら言った。
「第一船団は温存のため海には出ないが、いつでも出れるように準備はしておけ」
ジャスパー、ニール、コリン、マテオはエドガーの背を見つめていた。自分たちが盤面の中に組み込まれている事実にジャスパーが歯を食いしばる。
「……クソが」
ニールは目を伏せ、コリンは拳を握り、マテオは無言で睨みつける。心は一つだった。
——必ず殺す。
最下層、暗い部屋。小さな窓の向こうに霧が見える。ルキフェルは長いこと見つめていたが、やがて掠れた声で呟く。
「止められなかった。……すまない」
海ではない、過去へ向けられていた。フランソワへ。ルキフェルは一瞬だけ目を閉じるとすぐ見開いた。翡翠の瞳がギラリと光る。
「必ずエドガーを殺す。俺たちが……あいつを裁く」
ルキフェルの脳裏に浮かぶのは仲間たち。そして、これから戦火に巻き込まれるスザンヌ。世界が傾いた、霧はさらに濃くなる。海を覆い、空を覆い、すべてを曖昧にしていく。
戦争はもう始まっている。誰もまだ気づいていないだけで。




