第十章⑤ 海賊同盟VSフランス海軍 《第一回、霧中戦》
今朝方のラド・ド・ブレスト。
海は音を失っていた。濃霧がすべてを覆い、船影も水平線も何もかもが白に溶けている。波の音すら遠く曖昧だ。名もなき海賊団たちが霧の中で息を潜めている。そ一隻、エドガー海賊団第二船団の甲板では誰もが前を見ていた。見えないはずの前方を。
「……まだだ」
船長の合図を待ち、砲手たちはすでに持ち場についている。火薬は詰められ、弾は装填されていた。湿気で重くなった空気の中、火縄の火だけが頼りなく揺れている。
「霧、切れるぞ」
見張りが呟くと言葉と同時に白がわずかに裂ける。現れた石壁と塔、ブレスト城だ。距離は十分。逃す理由はない。船長がゆっくりと手を上げると火縄がわずかに揺れる。
「——撃て」
閃光と轟音、一斉に火が走る。砲口から吐き出された炎が霧を裂き、砲弾は白の中へ吸い込まれていった瞬間、遠く石を打つ鈍い衝撃音が遅れて響く。
「……当たった」
その音を合図に霧の中に潜んでいた無数の船が動き出す。別の船団が位置を変え、さらに別の船が砲門を開く。第二射、第三射と砲撃が連鎖し、霧の中で光と音だけが交錯する。この最初の一撃がこの戦争の幕を切り裂いた。
ブレスト城の屋上では厳粛な空気が漂っていた。既に他の司令官と参謀官たちが集結し、凍りついたように霧の向こうを睨んでいる。エリオット、イザベル、ルソー、そしてアルフォンスが足音を立てて屋上に姿を現した。
「火急の要件か! 状況を報告せよ!」
エリオットの鋭い声が天守の石壁に響くと一人の若い司令官が慌てふためきながら口を開く。
「大元帥、霧の中にもかかわらず、敵の砲撃が容赦なく続いております! 南東の防衛線に大きな損害が出ており、兵士たちの士気も動揺しています!」
「奴ら、霧なんてお構いなしで攻めてきやがったか」
「卑怯にもほどがあるわ……霧に隠れての攻撃なんて正々堂々とは程遠い」
ルソーは怒りを押し殺しながら歯を食いしばって吐き捨て、イザベルは冷たい声で囁く。アルフォンスは眉をひそめ、遠く砲撃音が響く中で呟いた。
「ついに来ましたね……かつてない嵐が、我々に降りかかっています」
エリオットは拳を固く握り締め、辺り一面に広がる濃霧の中に潜む敵の影を見据えた。城の石壁が響く砲撃音は死神の足音のように響き渡っている。エリオットは鋭い目つきで前線を睨みつけながら声を強めた。
「前線には、このまま砲撃を続けろと伝えよ。決して弾を惜しむな! 霧に紛れる敵の発火元を見逃すな。的確に狙い撃て!」
周囲の参謀官たちも引き締まった表情で頷いた。白く濃密な霧が全てを覆い隠し、視界はほとんどゼロ。甲板も大砲の砲台も、その向こうも何も見えないが、兵士たちは訓練通り手探りで動く。火薬の匂いと火花、砲撃の轟音が繰り返されて緊張が肌を刺す。
「砲撃、次の目標に合わせて!」
伝令の声はかろうじて霧を越え、兵士たちは互いの息遣いを感じながら動く。大砲の揺れ、火蓋の重み、一発一発が命を賭けた合図だ。
「風向きが変わった。角度を三度修正! 確実に狙え!」
メリッサを中心にマクシミリアン・ブーケ隊もその中に混じり、彼女は険しい表情で砲撃を指示し続ける。身体の芯が震えるほどの轟音が連続する中、誰もが切迫した戦いの渦中にいることを痛感していた。ジョルジュの声が霧の中で響く。
「メリッサさん! 砲撃はいいけど、こんな視界じゃ弾が当たってるかどうかも分かりゃしませんよ!」
メリッサは眉を顰めながらも強い口調で返す。
「黙って! 言ったでしょ、私の指示に従っていればいつか当たるの! グウェナエルさん、早く弾を運んでください!」
「ちっ、なんで俺がこんな役割を……」
グウェナエルは舌打ちをしながら苛立ち混じりに返すが、今は誰もが役目を全うするしかないのだと理解している。メリッサの鋭い声が霧に響き渡った。
「発射用意、よーし……撃てー!」
轟音とともに砲弾が白い霧へと飛び込むと仄かな炎が一瞬灯った。
——ドォォン!
霧の向こうで木々が裂け散って煙が空へ舞い上がり、爆発の轟音が耳を突き、重厚な衝撃が体を揺らす。メリッサは思わず叫んだ。
「やった! 当たったのよ、見た? あの火! あれが命中の証拠よ!」
息をのむ仲間たちの顔に希望の光が差し込むが、ダヴィットは眉を顰めて言う。
「今の距離感、けっこう近くないか?」
マクシムは鋭く目を光らせ、決意を込めて言った。
「敵はもうすぐそこまで迫っています。ですが、これで形勢は変わるかもしれません。油断せず、続けましょう!」
シャルルは苦笑交じりに呟く。
「こうして命のやり取りをするのだ。……外から見たら、まるで愚かな戦いのように映るでしょうな」
硝煙の匂いと焼けた木の焦げる臭いに周囲の部隊から続々と歓声が上がる。
「やった、当たった!」
霧の中で見えない敵に対して初めて手応えを得た瞬間だった。その喧騒の中でスザンヌは額に汗を浮かべて光景を見つめていた。砲撃と怒号、走り回る兵士たちを前に胸の奥で何かがざわつく。
——このままでは、足りない。
スザンヌは視線を横へ流すとリゼーヌと目が合って頷く。
「……鎖弾を探しにいこう」
「ええ」
リゼーヌも即座に頷くとスザンヌは一歩踏み出して振り返る。
「隊長、砲弾をとってきます!」
スザンヌの声に、マクシムが振り向いて彼女を捉えた。戦場の只中、彼女の判断の速さと覚悟を見抜くと力強く頷く。
「……分かりました、お気をつけて!」
マクシムの声を背にスザンヌとリゼーヌは走り出した。霧の中へ、砲煙の向こうへ。爆音が背後で鳴り続け、歓声と怒号が混ざり合う。
「当たったぞ!」
「続けろ!」
二人は速やかに持ち場を離れていく。砲撃の轟音に混じって喜びと士気を高める叫びが波のように押し寄せてきた。彼女たちの耳に届く声は熱を帯びた鉄のように心の奥を燃え立たせる。
——その後、マクシム隊がいた砲撃陣地は直撃を喰らった。
仮設の建物。第三部隊の物資支援用に設けられた簡素な部屋の中で、スザンヌとリゼーヌは積み上げられた弾薬箱をひっくり返すように探っていた。
「鎖弾……鎖弾……どこ……」
スザンヌの指先が焦りで震え、木箱の蓋を外す音がやけに大きく響いた時、外から切迫した声が飛び込んできた。
「第八砲撃陣地が相手の砲撃を直で受けたぞ!」
「状況確認! それと担架の用意を!」
「無理だ! 今、あの辺は海賊の砲撃が激しくて近づけない!」
スザンヌの手が思わず止まり、一言一句が明瞭に耳に刺さる。第八砲撃陣地がどこを指すのか。誰がそこにいるのか理解した瞬間、彼女の思考が途切れた。
「……え……」
スザンヌの口から掠れた声が漏れ、視界が揺れる。手に持っていた弾薬が床に落ちて転がった音さえ遠く感じた。リゼーヌも同様に箱に手をかけたまま顔から血の気が引いている。
「……うそ、でしょ……」
「……行かなきゃ」
スザンヌは声を震わせて一歩踏み出そうとするが、リゼーヌの手が強く彼女の腕を掴んだ。
「だめ! 今、危険だから! 聞いたでしょ!? 近づけないって……!」
「でも——!」
スザンヌが振りほどこうとする力と、リゼーヌの引き留める力がぶつかる。スザンヌの瞳は揺れ、恐怖と焦りと衝動がぐちゃぐちゃに混ざっていた。リゼーヌは切羽詰まった声でなお引き留める。
「行ったら、戻れないかもしれない。ここで動いたら、助けるどころか……自分たちが足手まといになるわ」
「……っ」
スザンヌの足が止まって思わず唇を噛んだ。リゼーヌが宥めるように言う。
「ここで他の部隊、手伝おう。今、できること……それしかないから」
スザンヌは外の音に耳を澄ませる。あの場所で誰かが……いや考えるな、今は。
「……うん」
スザンヌは頷くとしゃがみ込んで再び木箱に手を伸ばすが、指先の震えは止まらなかった。
海戦はなお続く。ブレスト城の屋上ではエリオットを中心に将官たちが地図と報告書を囲み、次なる一手を探っていた。砲声が遠く響き、誰もが一瞬の隙を見せぬよう言葉を交わす中、ルソーが耳を澄まして僅かに眉を動かした。
「……妙だな。砲撃音が、静まってきやがる」
「霧も……薄くなってきました」
イザベルも外の光景を見渡しながら頷く。薄灰色の帳が少しずつ引いて海面が現れ、完全に晴れた時には海賊船は影も形もなかった。
「まさか……亡霊でも相手にしていたのか?」
誰かが小声でつぶやくが、望遠鏡を手にした参謀官が首を振った。
「違います。……見えます、あちらに。船の破片が、あちこちに漂っています」
エリオット息を吐いて低く告げた。
「……退けたようだ。だが油断はするな。すぐに城と陣地の修復にかかれ。それと負傷者の確認も怠るな」
エリオットの声に司令官たちは一斉に階段を駆け下り、それぞれの部署へと散っていった。戦の余韻と火薬の匂いがまだ城内を包み、外では既に破れた旗を降ろし、崩れかけた石垣を補強する兵たちの怒号が響き始めている。担架を抱えた衛生兵が何人も駆け抜け、臨時に設けられた医務室は廊下から続く大広間をそのまま使っていた。窓は板で塞がれ、薄暗い中でランプの明かりだけが揺れている。その光の中、包帯や止血布や手術道具が無造作に並べられ、床は血で黒ずみ、あちこちに破れた軍服が放り出されていた。
「次、こっちだ! 担架を急げ!」
「おい、しっかりしろ、まだ終わっちゃいない!」
怒号と悲鳴が入り交じり、焼けた鉄と血の匂いが鼻を刺す。傷ついた兵たちの呻き声は海戦の余韻がまだ続いているかのようだ。外の喧騒も先ほどまでの狂乱が嘘のようにどこか遠く感じられるが、決して終わりではなかった。嵐が一度息を潜めただけ、そんな不気味な静けさだった。仮説の建物ではスザンヌが扉の前で立ち尽くしていた。
「……行こう」
リゼーヌが呟くとスザンヌは無言で頷き、二人は支援物資部屋を出た。外気が肌を刺す。霧はまだ残っているが、先ほどよりも視界は開けている。その分だけ、現実がはっきりと見えてしまう。壊れた木箱、転がる砲弾、血の跡と担架を運ぶ兵たちの姿。スザンヌの足が一瞬止まりかけるが、鋭い声が飛んできた。
「君たち、無事か!?」
二人が振り向くと大柄な影が駆けてきた。サミュエルだった。彼の額には汗と煤が混じって息も荒いが、それでも瞳だけは二人を真っ直ぐ捉えている。
「大丈夫です!」
リゼーヌが即座に答えるとスザンヌも遅れて頷いた。
「……はい、大丈夫です。でも……私たちの持ち場で砲撃があったって……」
スザンヌの言葉に、サミュエルの表情が強張る。
「……ああ、聞いた。すぐ向かうぞ、確認を取らなければ」
スザンヌとリゼーヌは顔を見合わせ、三人は同時に走り出した。崩れた瓦礫を避け、血の跡を踏み越え、担架を運ぶ兵たちの間を縫うように。空気はまだ重く、火薬と血の匂いが残っているが、止まってはいられない。霧の向こう、あの場所で何が起きているのか。それを確かめるために三人は再び戦場へと足を踏み入れた。
白く閉ざされていた視界がゆっくりと開き、崩れた陣地と焼け焦げた跡が露わになる。砲撃の喧騒は去り、代わりに残ったのは低く響く呻き声と瓦礫をどける鈍い音だった。マクシムは目を開けると数度瞬きをした。重い、頭の奥で鈍い痛みが脈打っている。また瞬きを一つして意識を現実へ引き戻した。
「……どれほど、気を失っていたんだ……」
マクシムは起き上がって視界を巡らせた。リラ、グウェナエル、ジョルジュ、ペネロペ、メリッサ、ロザリー、ダヴィット。みんな、生きている。それぞれ傷を負いながらも立っている。全滅ではない事実だけでマクシムの胸の奥にわずかな余裕が生まれるが、同時に別の思考が浮かび上がる。——シャルルがいいない。
「……妙だな」
マクシムが無意識に呟いた時、足音が近づいてきた。サミュエル、リゼーヌ、スザンヌが駆け込んでくる。
「みんな大丈夫か? 負傷者は!」
サミュエルの声が響き、マクシムは即座に答えようとするが先にサミュエルの報告が入る。
「シャルルが衝撃で頭を打って倒れた。すぐにソフィーのもとに連れて行った」
「……そうですか」
マクシムは頷いた。安堵ではない、確認だ。スザンヌの言葉が続く。
「海賊は撤退しましたが……本当に、このまま防衛に徹するだけでいいのか、疑問が残ります」
彼女の一言にマクシムの視線がわずかに動いた。同じことを考えている。霧と奇襲、短時間の集中砲撃と即時撤退。これは“削り”だ。戦力の確認、配置の露出と対応速度の測定。
……偵察を兼ねた攻撃だろうか。
ジョルジュが何かを言い、グウェナエルが否定する。正しさなど関係ない。マクシムは二人のやり取りを黙って聞いていた。戦争において重要なのは意味だ。何を狙い、何を捨てたのか。敵は勝つために動いている。ならば、こちらも同じように読む必要がある。
「ひとまず、無傷の皆さんはここで待機してください。怪我をした者は、僕と共に医務室へ向かいましょう。シャルルの様子を確認しなければならない」
命令であり、同時に次の思考へ進むための整理だった。マクシムが歩き出すとペネロペ、ダヴィット、ロザリー、メリッサが続く。リゼーヌが足元を見て、何かを拾い上げる。片眼鏡、シャルルのものだ。
「これ、どなたか届けていただけますか?」
彼女の声にマクシムは振り返って視線が彼女の掌に留まる。砕けたレンズ、歪んだフレームを視認するなり手を伸ばす。
「では、僕が預かります」
マクシムはリゼーヌから片眼鏡を受け取ると丁寧に懐へ収めて再び歩き出した。足取りは変わらないが、彼の頭の中ではすでに次の局面が組み上がり始めていた。
敵は引いたが、それは“終わり”ではない。むしろ——。
「……始まりか」
誰にも聞こえないほどの声でマクシムは呟き、石階段の上で一度足を止めると部下の頭上を越えて海霧の向こうを見据えた。
煙ったい薫りが、ラド・ド・ブレストの余波と黒ずんだ木片を撫でていく。
——物語は、第七巻へと続く




