第十章② ジャスパー
一方、陸路を進む馬車の中でも似たような時間が流れていた。車輪の軋む音、一定の揺れ、閉ざされた空間にジャスパーは仰向けに寝転がりながらぼんやりと天井を見上げていた。
「……だる」
やることがない、外にも出られない。窓はあるが、景色を楽しむ余裕などなかった。与えられるのは水とパンだけ、それ以外は何もない。ジャスパーの隣ではエドガーが眠っている。呼吸は穏やかで、まるでただの旅人のようだが、その実態は言うまでもない。ジャスパーは舌打ちした。退屈が何よりも堪える。
「……あの黒いやつ、何なんだよ」
黒衣の連中、得体の知れない連中。あれに囲まれ、あれに運ばれている。状況だけ見れば捕らわれた側だが、不思議と焦りはなかった。
「殺す気はねえな」
根拠はない。ただの勘だが、その勘は外したことがない。だからこそ、この状況はなおさら厄介だった。何もできない、何も動けない、ただ運ばれるだけ。
「……はぁ」
自由が当たり前だった。好きな時に動き、好きな場所に行き、好きなように笑って、好きなように戦う。誰にも縛られず、誰にも止められず。それが自分だと思っていたが、今は違う。選択肢のない状況だけで、ここまで息が詰まるとは思わなかった。
「……マジかよ」
ジャスパーの口から乾いた笑いが漏れ、ある男の顔がふと脳裏をよぎる。
「……ルキフェルも、こんな感じで過ごしてたのかな」
あいつはあの船の中で、ずっと閉じ込められていた。それでも暴れなかった、それでも牙を剥かなかった。
「……すげえな、あいつ」
自分には無理だ。こんな時間を何日も何もせずに耐えるなんて。自分がどれだけ自由に生きてきたか、どれだけ好き勝手に動いてきたか。それに、どれだけ周りが付き合ってくれていたか。馬車の揺れは続き、外の世界は遠く時間だけが流れていく。規則的な振動が体の奥まで染み込んできて瞼が重くなり、ジャスパーは次第に目を閉じた。押し込めていた何かがふと緩み、溢れそうになる。温かい、どこかで触れたことのあるぬくもりだった。
「——ジャスパー。お前は燃え続けろ」
幼い赤髪の少年はベッドの上で身を起こしていた。柔らかな腕に抱きしめられている。
「煙にならず、灰にもならず燃えろ。お前がまた朝を迎えることが、私の願いだよ」
穏やかな声が胸の奥にじんわりと沁みてくる。少年が身じろいで顔を上げると、同じ赤い髪の女性——アルマが見下ろしていた。穏やかな琥珀色の目がどこか遠くを見ている。
「お前は風のように、生きていける。捕らえられずに。縛られずに。誰も気づかなくてもいい。誰かを照らさなくてもいい。自分の中の火だけは、絶対に消すな。それが、“生きる”ってことだから」
そのとき、彼女の指が少年の左耳に触れて冷たい金属が揺れる。
「……重いよね。でも、それはお守り。私はもう一緒にいてやれないから、そのイヤリングが、お前を守ってくれる。覚えていてね。名前、誕生日。それと、これを絶対に外さないこと」
約束だった。何度も何度、言い聞かされた。やがて、アルマはベッドの上で目を閉じたまま何も言わなくなった。少年が声を上げて揺り動かしていると扉が開かれて身なりの良い壮年の男が入ってきた。
「……可哀想に。さあ、おいで」
男に手を引かれ、少年は無理やり引き離された。眠る彼女の周りを他の男たちが囲い始めた。少年の伸ばした手は届かない、声も届かない。そのまま世界が遠ざかっていき、やがて彼女の顔も声も輪郭も少しずつ薄れていったが、温もりだけは、あの腕の感触だけは、あの声で語られた言葉だけはなぜか消えなかった。
——ふと、ジャスパーは目を開けた。天井がある、揺れがある。現実に戻っていた。夢か。……いや、違う。あれは忘れていただけの記憶だ。ジャスパーは手を運んで左耳に触れ、冷たい感触に指先がわずかに震えた。彼の脳裏に揺れる赤い髪がよぎる。
「……母ちゃん」
やがて馬車の軋む音が途切れ、揺れが消えると扉が開かれた。外の光が差し込み、ジャスパーは軽く身を起こしてエドガーの肩を叩いた。
「おい、起きろ」
エドガーが目を細めて身を起こすと二人は馬車を降りた。廃墟が広がっている。かつて教会だったであろう石造りの残骸と崩れた壁、朽ちた柱、風に晒されたままの十字架の影。視線を外へ向ければ海、鈍く光る水面と蛇行した入り江、そこに集う無数の船を美和させる。帆船の群れの中に見覚えのある黒い影があった。
「……あれか」
ジャスパーが呟く。リヴェンジ・クイーン、黒き戦艦。あれがここまで来ている。
「あちらが、ランデヴェネックです」
背後から声に二人が振り返ると先頭を走っていた馬車の扉が開き、ドミニクが降りてきた。ドミニクの傍らには、フードで顔を隠したダミアンが控えていた。
「それで?」
エドガーは続きを促すが、ドミニクは答えなかった。彼の視線がジャスパーに止まってじっと逸れない。ジャスパーもまた眉をひそめた。
「……あ?」
どこかで見たことがある顔、声、あの貼り付いたような笑み。ジャスパーの記憶が引きずり上げられる。風の音、帆の軋みと甲板の感触。数ヶ月前、フランソワが二人を見据えていた。
「……ああ、ダラス家の」
ジャスパーが息を吐いた瞬間、ドミニクの中でも何かが動いた。記憶が勝手に引きずり出される。父の声、怒りと恐怖と歪んだ確信。
「赤髪で、左耳にトルコ石のイヤリングをつけた男を見つけたら、ためらうな。殺せ。あれは災いだ。血が戻れば、我らは滅びる」
あれは命令ではない。呪いだ。ゼフィランサス、すべてを壊した男。父を壊した男の“血”が今、目の前にいる。
……まだ生きていたのか。
ドミニクの心の奥で何かが噛み合って遅れて来る。憎悪だ、理屈ではない、選択でもない。そうなるように刻まれていた感情。ドミニクは微笑んでいたが、ジャスパーから一瞬たりとも逸れない。呪いが再び目を覚ました時、別の足音が廃墟に響いた。乾いた石を踏む音が規則正しく続き、三人の視線が同時にそちらへ向く。現れたのは舞踏会用の仮面で素顔を隠し、黒衣を纏ったシルヴェストルだった。彼の隣にはピエール、二人の背後に控える五つの影。
「……あれが中心か」
ジャスパーが呟くとシルヴェストルが一歩前に出た。ゆったりとした所作だが隙はない。仮面越しの声は穏やかだ
「いつもお世話になっております。……我々、旧ブルボン派の者です」
「それで?」
エドガーが顎を上げるとシルヴェストルは首を傾けた。
「エドガー・ロジャース殿。貴殿にはこれより、ランデヴェネックへの道をお教えします。案内は、そこの導師と私の従者が」
彼の背後の影がわずかに揺れ、シルヴェストルは言い添える。
「……ご安心を。貴殿を殺しはしません。それから、貴殿の部下と少し挨拶をしたいので彼は置いていってください」
シルヴェストルの視線がジャスパーに向き、エドガーがジャスパーをチラリと見て口の端を歪めた。
「……別に構わねえが、こいつは使える男だ。殺したらオレが許さねえぞ」
「もちろん、心得ておりますとも」
シルヴェストルが頷くと指がクイッと動き、ドミニクとピエール、そして黒辰封儀教団の暗殺者たちが音もなくその場を離れていく。エドガーはすれ違いざまジャスパーの耳元で囁いた。
「……あいつら、不気味だな」
エドガーが去っていき、足音が遠ざかると残ったのは二人。廃墟の中、風が吹き抜けて音が消える。シルヴェストルが手を上げて仮面に触れて外すと素顔が露わになった。アイスグレーの視線がまっすぐにジャスパーを射抜く。
「……お前が、ジャスパーか」
ジャスパーは眉をひそめた。……誰だ。記憶を探って引きずり上げるが、見つからない。
「お前、誰だよ」
ジャスパーの中で勘が告げている。目の前の男は“触れてはいけない何か”だと。ジャスパーは無意識に耳へ手をやった。静寂の中でシルヴェストルが口を開く。
「それもそうだろうな」
ジャスパーは眉を顰めるが、視線は逸らさない。
「……名前を言えよ」
「シルヴェストル・ダラス。ダラス家の当主だ」
シルヴェストルはあっさり答え、ジャスパーの中で何かが引っかかる。あのドミニクとピエールの兄であることはわかった。シルヴェストルの脳裏に父の声が蘇る。
——ゼフィランサスの妻子をせっかく捕らえたのに。あの女、碌に利用できないまま病気で弱っていくとは。利用価値があるのは子供だけ。
シルヴェストルの視線がわずかに歪むが、すぐに元に戻った。
「お前が消えて、父は壊れた」
シルヴェストルの中に澱んだ何かが沈み、ジャスパーとの距離を詰めると抑え込まれていたものが滲んで冷淡な声が落ちる。
「なあ、ジャスパー。……俺たちのために、死んではくれないか?」
ジャスパーは息を吐いて肩をすくめるが、アンバーの瞳は笑っていない。
「……意味わかんねえよ。おれが何したって言うんだよ」
シルヴェストルはジャスパーをじっと見つめている。
……断たねばならない。アンバーの瞳、あの色は、あの血はここで終わらせるべきものだ。
二人が至近距離で睨み合うと風が廃墟を吹き抜け、乾いた砂が舞い上がった。時間だけが、やがて砂を踏む複数の足音が近づいてくる。
「おう、戻ったぞ」
エドガーが軽く手を上げ、彼の背後からドミニクとピエール、フードで顔を隠すダミアンと黒衣の集団が姿を現した。ドミニクとピエール、ダミアンはシルヴェストルの素顔に目を見開いた。仮面を外している。シルヴェストルは、何事もなかったかのように仮面を被り直したとエドガーへ向き直った。
「では、我々はここで失礼します。また何かあれば彼らが援助します」
「——待て」
シルヴェストルが踵を返した瞬間、ジャスパーの鋭い声が割り込んで全員の動きが止まる。ジャスパーはエドガーを見据えた。
「エドガー。あいつら、信用しちゃダメだ」
「……は?」
エドガーが困惑の声を漏らすとジャスパーはケタケタと笑ってシルヴェストルとドミニク、ピエールと一人ずつ指し示す。
「こいつらさ、口じゃ“旧ブルボン派”とか言ってるけど、ちゃんと名前がある。——ダラス家だ。得体の知れない、貴族連中」
ドミニクの視線が細くなり、ピエールの拳がわずかに震える。エドガーの中である記憶が弾けた。
十九年前、あの入江で見聞きした貴族の名と同じ、かつて自分を攫った連中の親玉。ジャスパーは続けた。
「数ヶ月前、フランソワのとこにも来たんだよ。仲間を殺された復讐だとか言ってさ。海軍相手に戦争仕掛けようって。その時も協力しようって言ってきた」
エドガーの目が鋭くなり、ジャスパーはさらに畳みかける。
「言っとくけどな。フランソワ船長は断ったぜ?」
エドガーは視線を上げてダラス家と黒衣の連中、そしてジャスパーを見渡すと息を吐いた。
「……なるほど。じゃあ、方針は決まりだ。戦闘も盤面も、オレが直接指揮する。お前らには伝言だけ頼みたい」
ピエールの眉がわずかに動くが、エドガーは海に目を向けて続ける。
「オレの右腕フェルナンドが、もしブレストにいるなら『また会いたい』とだけ伝えてくれ。それが済んだら、ここには来るな。お前たちは拠点をくれた。そこは感謝してる。けどな、もし今後オレの作戦に手を加えようものなら、オレが断じて許さない。——ここから先の海は、オレのものだ」
ピエールが歯を食いしばって怒りを露わにするが、ドミニクが片手で制した。シルヴェストルはエドガーを見つめたあと声音を変えず背を向けた。
「……そうか。それは残念だ。だったら、勝手に滅ぶといい」
シルヴェストルは馬車に向かって歩き、弟たちと黒衣の男たちもどこか急ぐようにその場を離れていく。やがて、馬車の前でピエールが声を落とす。
「兄上……どうして」
「どうせ海賊どもは勝手に滅びる。俺たちが直接手を汚す必要はない。……これより、ブレストへ向かう。まだやるべきことは残っているんだ」
シルヴェストルは振り返らずに馬車に乗り込むと、続いて向かいの席に座るドミニクが囁いた。
「ジャスパー……あいつ、ハッキリとダラス家ってバラしてきましたよ」
「放っておけ。どうせ戦争が始まれば、それどころじゃなくなる」
馬車が動き出し、揺れの中で言葉が沈んでいく。一方、ダミアンだけは自前の馬に乗ったまま振り返った。遠ざかる廃墟、エドガーとジャスパーの背が茂みの中へ消えていく。
「……始まる」
彼の脳裏に浮かぶのはブレストとマクシムの顔。ダミアンの胸の奥にわずかな不安が差し込んだ。




