第十章① ルキフェル
エドガーのいない黒船は夜の海を裂くように進んでいた。沿岸に寄せる波の音と軋む甲板の音だけが暗闇に響く。指揮を執る者の不在は船の空気をわずかに歪ませていた。
「おい、そっち! 手ェ止めてんじゃねえよ!」
甲板に荒い声が飛ぶ。マテオが腕を組み、苛立ちを隠そうともせずエドガーの部下たちを睨みつけていた。
「ロープの処理くらいまともにやれ。そんなもんで海出てんのか?」
返事はないが、動きだけが慌ただしくなる。
「チッ……使えねえな」
吐き捨てるように言ってマテオは踵を返す。彼の背中には苛立ちとどこか居場所のなさが滲んでいた。マテオの様子を甲板の隅から眺めている影が二つ、ニールとコリンだった。
「……すごいね、あれ。フランソワ海賊団の時より荒れてるじゃん」
コリンが苦笑混じりに呟くとニールは肩をすくめた。
「放っておきな。ああでもしないと、落ち着かないんだよ」
二人の視線はマテオだけなく空気の流れを測るように船全体に向けられている。コリンは少しだけ黙ったあとぽつりと聞いた。
「……拠点に着いたら、どうするの?」
ニールは波の音を一度だけ聞くように思案したあと口を開く。
「まず、アーシャとフェリスを探す。ジャスパーとエドガーが来るまでに、連携を作らなくちゃ」
「……やっぱり、やるんだ」
「やるさ」
一方、船の奥の灯りの届かない暗がりに一つの影が横たわっていた。ルキフェルは揺れる床に身を預けて無造作に寝転がり、天井を見上げるでもなくぼんやりと視線を漂わせた。船の揺れが身体をかすかに揺らす。それが妙に退屈だった。
「……飽きてきた」
ルキフェルは片腕を頭の下に入れて目を細める。
「ここを出て——」
暴れる、壊す、叩き潰すという衝動に駆られるが、目を閉じると仲間の顔が脳裏をかすめて身体の奥でうずく衝動を無理やり押し込めた。
「……いや、まだだ」
波の音が遠くで鳴っている。海の上だ、身体よりも先に意識が覚えている感覚だった。ゆらりゆらりと揺れるたびに記憶がほどけていき、次第に彼の意識は過去へと沈んでいった。
——十四の時だった。フランソワが私掠船団を立ち上げると言った。理由は知らないが、ルキフェルは迷わず彼についていった。スペインの小島を離れて海を渡り、辿り着いたのはマルセイユ。港の空気は潮と酒と人の匂いで満ちていた。騒がしいが、妙に心地よかった。私掠免状を手にしたフランソワの横で、ルキフェルは荷を担いだまま口を開く。
「……で? これからどうするの」
「まずは仲間探しだな。酒場にでも行けば、ノリのいい奴がいるだろう」
二人で港の酒場をいくつも回った。笑い声、怒号、酒の匂い。どこも似たようなものだったが、どこか違っていた。そのうち、一際目立つ美丈夫がいた。セドリックは気さくでよく笑い、妙に目がいい。彼はフランソワとすぐに打ち解けて昼間から酒を交わしている。ルキフェルは少し離れた場所で耳だけはしっかりと二人の会話を拾いながら眺めていた。
「君も来なよ」
セドリックが不意に声をかけてきて、ルキフェルは一瞬だけ動きを止める。自分の顔、傷だらけの顔を恐れない大人は少なかった。フランソワとリュウ・ヨシマサくらいのものだが、初対面のセドリックは気にもせず当然のように話しかけてくる。ルキフェルは彼と少しずつ言葉を交わすと警戒は自然と解けていった。理由はわからない、この男は信用してもいいと感じた。やがて、セドリックが言う。
「夜になったら、また来てくれ。話があるんだ」
セドリックとはそこで一度別れた。フランソワとルキフェルは時間を潰しながら夜を待ち、再び酒場へ戻ると待っていたのは昼間とは別人のようなセドリックだった。粗末な服ではない。整えられた装い、どこか貴族を思わせる佇まい。そして、左中指に嵌められた、漆黒の指輪。セドリックは指輪を見せながら名乗る。
「自分こそ、情報屋コルヴァン」
「……ほう?」
フランソワが口元を歪め、ルキフェルは黙ったままセドリックを見ていた。
「俺を仲間に入れてくれないか。実は息子を貴族の家に預けてはいるが、ちゃんと俺の手で養いたくてさ。それに君たちの話を聞いたら海に出たくなった」
セドリックは真っ直ぐにそう言うと目を伏せて笑い、まだ見ぬ海を思い描くように遠くを見た。
「海の上で過ごすって、どんな感じなんだろうな。情報屋が船にいるの、悪くはないだろう?」
酒場のざわめきだけが遠くに聞こえ、フランソワが笑った。
「いいじゃねえか。面白そうだ」
ルキフェルは二人の様子を見ていた。何も言わず、この出会いが何かを変えると、直感していた。その後、セドリックの一言で行き先は決まった。
「サン・マロに行こうか。あそこは歴史的にも私掠船団が集う街だ。仲間集めもやりやすいだろう」
こうして三人はマルセイユを発った。
サン・マロ、初めて足を踏み入れた街は騒がしく、荒く、どこか自由だった。ここでも潮と鉄と酒の匂いが入り混じっている。ルキフェルは思わず肩を強張らせて視線が自然と周囲を探る。誰もが油断なく、どこか危うい。
「……なんだ、ここ」
知らない場所、知らない人間、警戒が身体に染みついている。隣からフランソワの声が飛んできた。
「大丈夫。ここはそういう場所だが……慣れりゃ悪くねえ」
ルキフェルが視線を向けるとフランソワが顎で前を示し、ルキフェルの肩の力がほんの少しだけ抜けた。市場で雑多な人の流れの中を三人は進んでいた時、フランソワの足が止まって視線が一点に固定された瞬間、走り出した。
「アランさん!」
彼の叫び声が騒めきの中に突き刺さり、思わず振り返ったアランが強張った。
「……フランソワ? まさか、お前なの——」
「アランさーん!!」
アランの言葉は最後まで続かず、フランソワが勢いのまま抱きつき、崩れるように膝をついて泣いた。
双星の海戦。あの日、すべてが終わった。ゼフィランサス海賊団は壊滅し、仲間は散り散りになった。だから、フランソワはアランも死んだのだと思っていたが、目の前にいて生きている。アランは怪訝な顔で抱きついて泣き崩れるフランソワを見下ろしていると、ルキフェルが駆けつけた。アランの視線がルキフェルへ移って目を見開いた。
「……ルキフェル」
ルキフェルもまた足を止めていた。目の前の男を見間違えるはずがないが、信じきれない。一瞬の沈黙の後、ルキフェルはふっと口元を緩めた。
「アラン、久しぶりだな」
アランは少年のままの笑顔を見て、目を細めて呟いた。
「背は伸びたが……相変わらず生意気そうだ」
泣き崩れるフランソワ、苦笑するアラン。遠くから見守るセドリック。そして、笑うルキフェル。失われたはずの時間がそこに戻っていた。やがて、フランソワは落ち着きを取り戻し、まだ目元に涙の跡を残したまま懐から私掠免状を取り出してアランへ差し出した。
「……お願いです。ぜひ、アランさんにクォーターマスターをやってもらいたくて」
「断る」
アランは一瞥するもフランソワは何度も何度も言葉を尽くして想いをぶつける。彼の熱はアランを渋々動かした。
「……分かった、一任する」
こうして、フランソワ船団にクォーターマスターが加わった。その後、セドリックが各方面に働きかけたことで仲間は少しずつ増えていく。情報屋の力は見事だった。港、酒場、裏の繋がりから人は自然と集まってきた。そんなある日、アランがルキフェルに声をかけた。
「ルキフェル。今でもクォーターマスターに興味はあるか」
「え、クォーターマスター?」
「試してみる価値はある。……今日から俺の下で“計算”を覚えろ。文句は?」
ルキフェルの目がぱっと輝いた。
「ない! 俺、やる!」
二人の横で見ていたフランソワが頭を抱える。
「マジか、また厄介なのに目ぇつけられたな……」
フランソワの脳裏には過去の面々がよぎっていた。ゼフィランサス、リュウ・ヨシマサ、そしてアラン。アランは羊皮紙を机に広げると指で図をなぞる。
「よし、始めるぞ。船の裏側だ。積荷の管理、航海計算——」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
ルキフェルが手を挙げて少し首を傾げる。
「俺、そもそもクォーターマスターが何する人か、よく分かってないんだけど」
アランは動きを止めてルキフェルを見下ろすと片目の奥に冷静と興味が混ざった。
「ふん……忘れたか。ならいい機会だ、おさらいといこう。クォーターマスターとは、この船の“数字と秩序を司る者”だ。食料、弾薬、積荷、航海計算……船が生きている限り、すべて俺の管理下にある。命も、船も、ここから動く。覚えろ」
ルキフェルは目を丸くして図面へ視線を落とす。
「へぇ……数字と秩序か……なんか……俺でもできる気がする」
「気がする、じゃない。覚えろ。数字を操れる者は、戦場でも生き残れる」
アランが被せるように言うとフランソワが呆れたように腕を組む。
「おいおい……またこのガキ、余計な野心に目覚めちまうぞ……」
ルキフェルはにやりと笑った。
「よーし、じゃあ早速やってみよっかな!」
羊皮紙の上に航海図が広げられ、アランがルキフェルの横に立つと指が滑る。
「まずは積載計算だ。船はただ乗せりゃいいってもんじゃない。重心、バランス……積み方ひとつで安全も速度も変わる。次は食料配分。長期航海では、一日の配給量、個々の必要量を把握する。計算を誤れば、船は内側から腐る。そして、星だ。昼は太陽、夜は星。方角を読む」
「……星って、役に立つんだ」
「自然の法則だ。数字と秩序、そして自然を理解する者が船を制する。戦う力だけが全てじゃない」
ルキフェルは思わず唇を噛んで鉛筆を握る手に力が入ると額に汗が滲んだ。
「……よし、少し分かってきたかも」
「なら次だ。今度はお前がやれ。数字を狂わせれば、船も仲間も危険に晒される。覚悟はいいか?」
「任せて!」
こうして、ルキフェルはアランの下で“計算”を本格的に学び始めた。略奪の日々の中で、剣ではなく数字で船を動かす術を。二人の学びは二年続いた。アランが引退する、その日まで。
——これが私掠船、フランソワ船団旗揚げの経緯、誕生の瞬間である。
ルキフェルの沈みきっていた意識が浮かび上がった。揺れが違う。昨夜までの荒々しい波とは違い、どこか穏やかで規則的な揺れだ。まるで船そのものが息を整えているかのよう。ルキフェルが薄く目を開けると天井の木目の隙間から差し込む光は白く、外が明るいことを告げている。
「……朝か」
どうやら黒船は夜のうちに移動を続けていたらしい。ルキフェルはしばらく何もせずに天井を見つめた。奇妙な感覚だった。これまで自分がこうして過去を辿ることなどあっただろうか。ない、少なくとも覚えている限りでは。ソフィーの言葉、記憶を探すという選択が何かを変えた。
「……まあ、悪くないな」
思い出すという行為がこれほどまでに静かで温かいものだとは思わなかった。だから、ルキフェルはその空白の時間を過去に沈むことで埋めることにした。波に身を委ねるように意識を沈め、ひとつ、またひとつと断片を拾い上げていく。どれほど続いただろうか。時間の感覚は曖昧だった。日数すら数えていない。ある日、不意に外が騒がしくなった。怒号、足音、木材を打ち鳴らすような音。これまでの静寂を破る明確な終わりの気配。ルキフェルは唸りながら身を起こした。
「……着いたか」
この喧騒は目的地に辿り着いた時のそれだ。これほど目立つ船が、よくもここまで気づかれずに来られたものだ。あるいは、気づかれていながら見逃されていたのか。どちらでもいい、今は関係ない。ルキフェルは視線を落として手のひらを見つめ、再び意識を内へと向けた。仲間とのこれまでの出会い、言葉、戦い、笑い、ひとつずつ思い出していく。断片ではなく、繋がりとして。陸から逃げてきて居場所を失い、海に辿り着いた者たち。そして、それでもここに残った者たち。
「……なんでだろうな」
なぜ、自分はあいつらを守りたいと思うのか。なぜ、あいつらのためなら牙を抑えられるのか。ルキフェルは目を閉じて再び思考の海へと身を投げ出す。もっと深く、もっと重く暗闇に潜ると耳の奥で透き通るような柔らかな声が聴こえてきた。
——これは、歌声?
遠くから聴こえている声を、頬を撫でるそよ風が届けてくる。やがて、声でしかなかった音に言葉が輪郭を帯びてきた。
暁の風よ、背を押せ 戻らぬ道へと歩ませよ
切なき影に隠しつつ 胸にひそむは光なり
ゆゑに振り返らず 月と交はせし誓ひ胸に
遠き人を想ひながら 己が未来を歩まむ
——ああ、これか。これ、好きなんだよな。
ほくほくと充足感に包まれ、耳の奥で繰り返される歌声に重ねるように口が動いて喉の奥から自分の音が微かに漏れる。また歌が最後まで続いたあと、ルキフェルは不意に口ずさむのを止めた。時折、この歌を思い出してはほぼ無意識に口や鼻でなぞっている。どこで覚えたかは分からない。いや、思い出せない。ルキフェルは目を開けて溜め息を吐いた。歌の意味も謂れも記憶しているのに発信源だけがわからない。それに、いつも聴こえてくる女声の主も。
「これも、失った記憶と関係あるのか」
突然、ルキフェルの脳裏に暗闇で弧を描いて襲いかかる刃が煌めいて思わず顔と胸を押さえて息も絶え絶えに床をのたうち回ると、扉の向こうから「おい、大丈夫かー?」と声が飛んできた。ルキフェルは指の隙間から床の木目を凝視して荒い息を繰り返していたが、次第に肩の力が抜けて呼吸が平穏を取り戻すと横たわったまま声を漏らした。
「……はっ、くそが」
また邪魔してくる。ルキフェルは仰向けに寝転がって額に手の甲を当てて目を閉じた。身に覚えのない暗闇の記憶が襲うたび、思考がそれ以上追うなと拒絶してくる。以前だったら逃げていたが、今は違う。
「いつか、いつか知りたい」
そのためには、まずここから出る。エドガーを倒す。そのためには策を講じる必要がある。
彼の思考は記憶探しから計算する者の頭脳へと針路を変えていった。




