第九章④ Montage Part2
一方、パリのシルヴェストルの屋敷では玄関の扉が荒々しく開かれていた。ピエールが屋敷の中へ転がり込むように戻ってくると肩で息をしながら廊下を駆け抜け、長兄の執務室の扉を叩きもせず押し開けた。
「戻りましたよ、兄上」
机の向こうで書類に目を落としていたシルヴェストルが顔を上げる。
「……随分と騒がしい帰還だな」
ピエールは壁にもたれ、荒い呼吸を整えながら口を開いた。
「密書のやりとり、見つかりました。あのユルリッシュ・ルソーに」
「……ほう」
「乱入してきましてね。カフェごとひっくり返す勢いでしたよ。おかげでベルリオーズは捕まりました。……たぶん、あいつのスパイ行為もバレたでしょうね」
冷や汗を浮かびながら喋るピエールを前に、シルヴェストルは椅子の背にもたれて舌打ちした。
「……よりによって、国が誇る名将軍ユルリッシュ・ルソーか。厄介な男に見つかったものだ」
「ですが、ご安心を。この通り、エドガーの手紙は回収しましたよ。ほら」
ピエールはヘラヘラと笑って懐に手を入れると一通の封筒を取り出すと机の上へ投げるように置いた。シルヴェストルは封筒を素早く引ったくると中身の羊皮紙を広げ、視線が文字をなぞったあと唸るように呟く。
「……『戦争がしたい』、と書いてある。これを、ベルリオーズは読んだのか?」
ピエールは一瞬きょとんとした。
「へ? ……はい、そうですけど」
ピエールの返事を聞いた瞬間、シルヴェストルの表情が露骨に歪み、普段は氷のように静かな男の顔に珍しくはっきりと感情が浮かぶ。
「……愚か者め。あいつがこれを読んだのなら、今ごろ海軍の連中に詰められて喋っている可能性がある」
シルヴェストルが紙を握り締めるとピエールの笑みがほんの少しだけ引きつった。
「海軍の動きを注視しなければならん」
シルヴェストルは手紙を机に叩きつけるとグシャリと悲鳴が上がった。
翌日、ヴェルサイユ宮殿。王府に一通の極秘通達が届いた。
——海軍総司令部、大元帥エリオット・ド・レオパードがブレスト司令部へ移動し、一時的に指揮系統をブレストに置く。
その報告を受けたシルヴェストルは公務を終えるや否や急ぎ屋敷へ戻った。彼が執務室の扉が開くと既にピエールが立っていた。
「状況が動いた。海軍の総司令部がブレストへ移る」
「ほう……面白い」
ピエールの口元が吊り上がり、シルヴェストルは淡々と続ける。
「お前は当初の計画通り、ブレストへ向かえ。場合によっては二人殺してもらうことになる」
「了解」
ピエールは楽しげに笑うと袖口から覗く金の腕輪が陽光を受けて妖しく光る。ピエールの笑みを見ながら、シルヴェストルは思考を巡らせていた。口封じ、対象は二人。ひとりは捕まった情報屋、ベルリオーズ。もうひとりはエドガーの右腕、フェルナンド。ブレスト司令部に拘束されていることは海軍からの報告で既に把握している。シルヴェストルの頭の中には一つの計画だけが燃えていた。
——すべての証拠を消す。
シルヴェストルが机の上に書類の束を置いた拍子に紙の一部がわずかに滑り落ち、整然と揃っていた束が崩れて数枚が机の端へとずれた。ピエールの視線が自然とそこへ向く。
「……なんですか、これ?」
ピエールが一枚を摘み上げると指名手配書一覧の表紙だった。粗い紙に描かれた似顔絵と簡潔な人物説明、海軍の印が押されている。その見出しにはこう記されていた。五鬼衆、五人組の海賊たち。
「読んでみろ」
シルヴェストルが言うとピエールは肩をすくめてもう一枚を手に取り、一目見て思わず声を漏らした。
「……っ」
赤髪の男、荒々しい笑みを浮かべた似顔絵。名の欄には「ジャスパー」と記されている。ゼフィランサスの息子、世間には知られていない事実だが、ダラス家にとっては紛れもない標的。ピエールの指が紙の端を強く掴んだ。
「……こいつは」
忘れるはずもない顔だった。さらに紙をめくる。そこにはルキフェル、マテオ、コリン、ニールの名前とそれぞれの似顔絵。以前、フランソワと入江で接触した時に共にいた面々だった。本来ならばフランソワと共に海の底に沈んでいてほしかった者たち。ピエールは紙束を机に戻して低く唸った。
「……こいつら、生きていやがる」
シルヴェストルは椅子にもたれて口角を上げた。
「だが、今では国の敵だ。こちらとしては都合がいい。——それと王から許しを頂いて俺も一時休暇を取った」
「……兄上が?」
ピエールは思わず顔を上げた。驚愕を隠さない。普段、シルヴェストルは王の側を離れない。屋敷と王府の間だけを往復する男だった。そんな長兄が自ら動くと言う。シルヴェストルは告げた。
「今回の盤面……俺も間近で見る必要がある」
シルヴェストルは指先で五鬼衆の手配書を軽く叩くと立ち上がって窓の外へ目を向けた。
「それに、海軍と海賊どもの戦争だ。かつてない規模の戦になる」
声は穏やかだったが、冷たい愉悦が潜んでいる。ピエールが口の端を吊り上げるとシルヴェストルが振り返った。
「……眺めてみたくはないか?」
当主は不敵に笑った。その笑みは、穏やかでありながら毒を含んでいる。
サン・マロの入江。リヴェンジ・クイーンの船長室では燭台の揺れる灯りの下、エドガーと四人の男たちが向かい合っていた。海図の上に片手を置いたままエドガーが口を開く。
「じゃあ、当初の予定通りだ。オレは陸路でいく。護衛役にはジャスパー。頼むぞ」
ジャスパーは肩を軽くすくめるだけで応じた。
「他の三人はこの船に残れ。無論、ルキフェルとは接触禁止だ。準備ができ次第、ランデヴェネックへ向かえ。沿岸沿いを進む夜間移動だ。この船、目立つからな」
エドガーが言い終えると背もたれに体を預けた。
「オレは全船団がこの街を離れるのを見届ける」
その時、ニールの軽い声が割り込む。
「あ、じゃあさ。いい宿、知ってるんだけど。旧市街の方に、“ラ・プティット・トゥル”って宿があるんだ。知り合いがやっててさ。フランソワ船長とも仲良くしてた人たちだから信頼できるよ」
「いいじゃねえか。じゃあ、そこに滞在するか」
エドガーが笑みを浮かべ、ニールは頷いた。ニールの顔はいつもと変わらないが、心の中で何度も床に頭を擦り付けていた。
……ごめん。カルロータ、ディッキー。
港が夜に沈む頃、リヴェンジ・クイーンは闇に溶けるように動き出した。目指すはラド・ド・ブレスト、ランデヴェネック。黒い船体が波を裂いて沖へと滑り出していく。一方でエドガーは桟橋に足を止めて木板に短く書きつける。
——ラ・プティット・トゥルにいる。
エドガーは満足げに踵を返した。あれは黒衣の集団に向けたものだった。エドガーとジャスパーは旧市街の石畳の路地を抜け、古びた宿の扉が軋む音を立てて開ける。エドガーはジャスパーに導かれるまま奥へと進み、来賓用の部屋へたどり着いた。バルコニーに出ると港が一望できる。灯りが揺れる水面、出航していく船の影、夜に沈む街の気配にエドガーは何も言わず景色を見渡して低く笑う。
「……いい眺めだ」
完全な夜が訪れた頃、ジャスパーは帽子を深く被って粗末な外套を羽織ると赤髪は影に沈み、石畳を軽やかに抜けてニールから教えられた場所へと辿り着くと、小さな扉の前で指の背で二度、三度と叩いた。軋む音とともに扉が開いて現れたのはポーランだった。
「……誰っすか」
ジャスパーは肩の力を抜いたまま軽く手を上げる。
「おれはニールの仲間だ。あいつに教えられたんだよ。ここに来れば味方がいるってな」
ポーランの目が細くなると扉が少し大きく開かれた。
「……入れ」
隠れ家の一室では簡素な卓の上には地図と荷物が広げられていた。旅支度の最中らしい。ワンの静けさを湛えた目がジャスパーをまっすぐに捉える。ジャスパーは気にする様子もなく口を開いた。
「今、エドガーはこの街にいる。黒船はもう出ていった。おれとあいつだけ陸路で移動してランデヴェネックを目指す」
「ランデヴェネックのことは聞いている。仲間にも共有済みだ」
ジャスパーとワンは手短に確認を終えると、次に投げられたワンの声は重みを帯びていた。
「……君に頼みがある。エドガーの側にいる間、黒衣の集団を見かけたら、その中心人物を覚えてほしい。もし、いたらだが」
ジャスパーは頭をかきながらへらりと笑った。
「えー? おれ、記憶力ゴミなんだけどなあ」
ポーランが顔を顰めてワンの眉がわずかに動いて怒気が立ち上がりかけた直前、ジャスパーから笑みが消えて瞳だけがまっすぐに据わる。
「けど、エドガーをぶっ潰せるなら、あんたらの手も借りる。任せとけ」
ワンはゆっくりと頷くと背後の荷物へと視線を移す。
「……では、ランデヴェネックで会おう。我々もそちらへ向かう」
一方、カルロータの宿。来賓用の部屋の扉が規則正しく叩かれる。
「……入れ」
エドガーの声で扉が開くと現れたのはドミニクだった。
「お迎えにあがりました」
ドミニクは恭しく一礼するが、エドガーは椅子に腰掛けたまま窓の外に視線を向けていた。
「いや、まだここにいる。全船団が街を離れてない」
ドミニクの指がわずかに強く握られる。が表情は崩さない。
「……承知しました。では、準備が整いましたら、街の外へお越しください。我々は、いつでもお待ちしております」
ドミニクが退出して宿の外に出た瞬間、彼の表情が歪んだ。
「……面倒な男だ」
ドミニクは舌打ちをかろうじて飲み込むが、石畳を歩く足取りは速い。夜の街を苛立ちも隠さずに進む。
「予定が狂う……」
黒衣の影が街の闇に溶けていった。
ブレスト。灰色の空の下、軍靴の音が港に響いていた。艦隊はすでに集結して砲列は整い、補給の荷が次々と運び込まれていく。旗が翻った。フランス海軍総司令部、到着。岸壁には整列した兵たち、緊張と高揚が入り混じった空気の中、エリオットはその光景を見渡していた。
「……急げ。時間はない」
短い命令だけで全体が動き出す。防衛線の構築、砲台の配置、哨戒網の再編。すべて迎え撃つために整えられていくが、彼らはまだ知らない。敵がすでに別の場所で動き終えていることを。
その頃、サン・マロ。夜の港は静かすぎた。昼間まであった喧騒は消え、波の音だけがやけに大きく響く。最後の一隻が闇の中へと滑り出すと帆は風を孕み、音もなく沖へ消えていった。岸にはもう誰もいない。残されたのはわずかな足跡と冷えた焚き火の跡だけ。
翌朝、第二部隊の一隊がサン・マロへ到着すると馬を降りた兵が周囲を見渡した。
「……妙だな、影も形もない」
港を見ても船も旗もない。ただの静かな漁村だった。直ちに第二部隊の聞き込みが始まる。
「海賊? ……ええ、確かにいましたよ。昨日までは」
「でも今朝には、もう……」
「どこへ行ったか? ……さあ」
誰もが口を濁す。恐れているのか、それとも本当に知らないのか。そして、街外れの屋台。男は一瞬、戸惑う素振りを見せた。古びた帽子の影に隠れた目は泳ぎ、どこか怯えたような声音で続ける。
「……エドガー海賊団、ですかい。ええ、あいつらは……怖い連中ですよ。ここが根城だったなんて、ほんの表向きでしてね、実はもっと別の──べ、別の……どこかに、本当の本拠地があるって噂です。あっしは知りませんが! そ、それだけは!」
言葉は拙く、まとまりがないが、不自然なほど“それらしい”。調査員は男をじっと見つめて眉を顰めた。
……妙だな。断片的な証言にしては筋が通りすぎているが、否定する材料もない。
「そうか。協力に感謝する。……ではな」
結局、第二部隊は手帳に走り書きすると、男は帽子に手をやった。隊はその場を離れた。足音が遠ざかっていき、通りが静まり返る。男はしばらくその場に立ち尽くして耳を澄ませていたが、やがて完全に気配が消えたのを確認すると息を吐いて帽子を外した。帽子の下から現れたのは、燃えるような赤髪だった。
「……いやー、びびった」
ジャスパーは肩をすくめる。先ほどまでの怯えた様子はもうどこにもない。代わりに残っているのは妙に冷めた目だった。ジャスパーはちらりと調査隊が去った方向へ視線をやると、くつくつと小さく笑って路地へと足を向けて何事もなかったように軽い足取りで歩き出した。ジャスパーはラ・プティット・トゥルに帰還すると二階の来賓室の扉を開け、バルコニーで紅茶を嗜む男の背に向かって憎たらしくも軽やかな声を飛ばした。
「戻りましたよ、船長殿」
椅子がわずかに軋んでエドガーが振り向くと、彼の顔には穏やかな微笑が浮かんでいた。まるで、すべてが予定通りに進んでいるとでも言うように。バルコニーの風がわずかに揺れ、エドガーはカップを置く。
「んじゃ、いくか」
エドガーは軽い調子で言うと立ち上がってジャスパーの脇を通り過ぎて部屋を出ていく。ジャスパーはエドガーの背中を見てから肩をすくめるようにして後を追った。宿の一階、エドガーが玄関扉を開けると朝の空気が流れ込んでくる。ジャスパーは外に出ようとしたが足を止めて振り返った。
「世話になったな」
カルロータとディッキーが頷いたとジャスパーはそれ以上何も言わず外へ出た。街の外れ、まばらな道に二台の馬車が静かに停まっている。誰のものとも知れぬ黒い車体の傍らに立つのは、これまた黒衣の男。男の顔はフードの影に沈み、輪郭すら曖昧だった。男は無言で後方の馬車を指差す。
「あれに乗れ」
命令とも、案内ともつかない響き。エドガーは男を一瞥しただけで特に気にも留めず馬車に乗り込み、ジャスパーは一瞬だけ足を止めて黒衣の男を横目で見た。
……これが、例のやつらか。
ジャスパーの目は相手の中心を探るような鋭さを帯びていたが、すぐにいつもの調子に戻って馬車へと乗り込んだ。二人が乗り込んだのを確認すると黒衣の男は向きを変え、先頭馬車の扉前で一度だけ足を止めて低く告げた。
「準備が整いました、導師」
中にいたドミニクがわずかに顔を上げた。彼の表情には明らか疲労が滲んでいる。
「ああ、頼んだよ」
車輪がゆっくりと回り出した。音は小さいが静寂を切り裂いていく。二台の馬車は連なるようにして森林を進み始めた。どこへ向かうのか、何を運んでいるのか。それを知る者はまだ誰もいない。




