第九章② Montage Part1
夜は驚くほど静かだった。宿舎の灯りが一つずつ落ちていく中、リゼーヌは自室のバルコニーで星図盤を膝に乗せて夜空を見上げていた。冬の星座が東の空からゆっくりと昇ってくる。白虎の星宿、父の書斎で何度も見た星図と同じ配置だが、今夜の彼女の視線は星図盤よりも空に向けられていた。リゼーヌの胸の奥が妙にざわついていると足音が近づき、ソフィーが湯気の立つコーヒーを差し出した。
「持ってきたよ。あったかいうちにどうぞ」
リゼーヌは軽く礼を言って受け取った。二人で夜空を見上げながら、ぽつぽつと言葉を交わす。星の話、東洋の星座、どうして海軍に入ったのか、父の影響と東洋の文化、リゼーヌは学者になりたかった夢を語りながら改めて思った。やはり、この星の動きはおかしい。今夜の空はどこか違う。星図盤をなぞりながら彼女は東の古い予言を口にした。
「紅い星の予言」。
遥か西の地で二つの首星を結びつける星が紅く輝く時、歴史の転換点が生まれる。話しながら、リゼーヌの中では一つの仮説が形になりつつあった。エリオットとゼフィランサス、かつて交わることのなかった二つの星。だが、今は違う。マクシムがいて、ソフィーがいる。
「……私は、あなたが“予言の星”なんじゃないかと思っているんです」
リゼーヌは言葉にした瞬間、自分でも少しだけ照れくさくなったが、ソフィーは笑っただけだった。
「私は“星”じゃないよ。選ばれたから動くんじゃない。動きたいから動く」
彼女の言葉を聞いた時、リゼーヌはふと思った。ああ、やっぱりこの人は星なんだ。予言とは関係なく、それでも何かを動かす星なのだと。やがて二人はマクシムの執務室へ向かった。扉を開けると、マクシムは机に突っ伏して眠っており、ソファのそばに座っていたリラが顔を上げる。
「……何の用?」
リゼーヌは占星術の話をした。星の動き。暗い流れ。そして、何かが迫っている気配。だが返ってきたのは、はっきりした答えではなかった。
「……今はまだ話せない。でも、いずれ話す」
リラはその言葉だけを残し、リゼーヌを部屋から送り出した。リゼーヌが自室に戻ると部屋の中は冷えきっていた。机の上には広げたままの紙がある。ホロスコープ、マクシムの出生図だ。リゼーヌは複雑に交差する線と星の位置、いくつもの凶角をチラリと見たが何度計算しても結果は変わらない。
「……何が待ち受けてるんだろう」
リゼーヌは紙を閉じようとして手が止まった。彼女が視線を上げると窓の外では相変わらず星が輝いていたが、その輝きはどこか鋭い。まるで何かがもうすぐ始まると知っているかのように。リゼーヌは眉間に皺を寄せながらしばらく空を見上げていた。
深夜のパリ、街はすでに眠りについていた。石畳の通りを照らす街灯だけが冬の霧の中でぼんやりと光っている。その静寂を破るように、ダラス家の屋敷の正門がゆっくりと開いた。玄関前には二台の馬車が停められ、黒塗りの車体は月明かりを鈍く反射し、まるで夜の中に溶け込む影のようだった。屋敷の扉が開き、ドミニクが姿を現すと外套の襟を軽く整えながら背後を振り返った。
「では、あの暴君をお迎えに上がるとするよ」
どこか愉快そうな声音で返事を待つこともなくドミニクは階段を下りると先頭の馬車へ乗り込んだ。御者が手綱を引くとギィと車輪が重く軋み、馬車がゆっくりと動き出して後ろの馬車も続いた。二台の黒い影は次第に霧の向こうへ溶けて完全に見えなくなった。その様子を窓際からシルヴェストルが無言で見送っている。部屋には彼のほかにピエールが控えていた。シルヴェストルは窓から視線を外すと淡々と告げる。
「……お前とダミアンは引き続き手紙の運搬だ」
ピエールは頭を下げる。
「承知しました」
シルヴェストルは机の端に腰をかけ、指先で机面を軽く叩いた。
「ダミアンはどこにいる?」
「サン・マロです。あの道具なら、今はそちらに。ドミニクと入れ違いになりました。……恐らく、ベルリオーズとエドガーの手紙のやり取りもひとまず休止でしょう」
ピエールが淡々と言葉を並べたあとシルヴェストルは彼に目を向けた。
「お前には再びドミニクから五人、部下が与えられたんだったな」
「はい」
「ならば、お前はブレストへ向かえ。ダミアンにはランデヴェネックに行かせる」
ピエールの表情がわずかに引き締まり、シルヴェストルはゆっくりと立ち上がるとアイスグレーの瞳が盤面を俯瞰する棋士のように光る。
「……そろそろ、駒を動かす頃合いだ。ピエール、お前には別件で頼みがある」
パリの夜の闇の下で、いくつもの駒が動き始めていた。
同じく深夜のマルセイユ。港町はすでに眠りについていた。遠くで波が岸壁を叩く音だけが聞こえる。屋敷の書斎で、セドリックは机に向かっていた。机の隅にはゼフィランサスの羅針盤が息を顰め、灯りの下には数枚の手紙が広げられている、どれもアランから届いたものだった。彼らがエドガーに攫われた経緯、息子ベルリオーズが密かに関わっているという陽動作戦の全貌。さらに囚われたルキフェルのこと。セドリックは一枚一枚、ゆっくりと読み返していた。先ほど届いたばかりの手紙も置かれている、サン・マロのリー・ウェンからのものだ。ニールたちが行方不明、アランは航路でランデヴェネックへ向かったとのこと。
「……やれやれ」
セドリックは羅針盤に視線を落とした。ニールたちにこれを返さなければならない。そして、フランソワが死んだ経緯も確かめる必要がある。
「エドガー・ロジャースなんぞに、あの子たちを殺させるわけにはいかない」
セドリックは新しい便箋を取り出すとペン先をインクに浸し、博士用の質の良い紙にスラスラと書き始める。
フランス海軍大元帥 エリオット・ド・レオパード殿
我が息子が、封印したはずのコルヴァンの名を再び名乗っているらしい。
事の経緯は省くが、情報を精査した結果、その疑惑は確信へと変わった。
いかなる処罰も受ける覚悟で、貴殿にご報告申し上げる。
十四代目コルヴァン セドリック・モンレザール
書き終えるとセドリックは封をして立ち上がる。部屋の隅の止まり木に一羽のワタリガラスがこちらをじっと見下ろしている。
「……お前に託すよ。お前は誰より賢く、速いからな」
セドリックの周囲には数羽のワタリガラスがいるが、その中の一羽——最も速く飛ぶ個体が羽繕いを始め、やがて首を傾けて目を爛々と光らせた。
これまた同じく深夜のサン・マロ。停泊するリヴェンジ・クイーンの上では風が帆をわずかに揺らしていた。船長室の灯りはまだ消えていない。机に向かっていたのはエドガーだった。彼が紙にペンを走らせている傍らに、ダミアンが無言で立っていた。やがて書き終えた手紙を前にエドガーは軽く振ってインクを乾かして封をするとダミアンへ差し出した。
「これをパリへ、十五代目の元へ届けろ。なるべく早くな」
ダミアンは黙って受け取って一礼すると、そそくさと船長室を出ていった。足音はほとんど響かない、まるで影が動くように。だが、その不気味さにすっかり慣れたエドガーはダミアンの背中を見送ると椅子に深く腰掛けて薄く笑う。
「さて……」
その頃、リヴェンジクイーンの船内では別の空気が流れていた。ジャスパーたち四人はエドガーの部下たちに囲まれていた。いや、囲まれているというより距離を取られている。部下たちは明らかに彼らを警戒していた。理由は簡単だ、彼らは捕虜ではない。エドガーと契約を交わした共同パートナーだから。ジャスパーは壁にもたれ、腕を組んでいるが目つきは鋭い。
——舐めてんじゃねえ。
言葉にしなくても彼の圧力は伝わる。部下たちはジャスパーから目を逸らして道を空けるとマテオが鼻で笑った。
「いい感じじゃねえ?」
「まあね」
コリンは肩をすくめた。ニールの作戦は単純。動けないなら動かない。その代わり、地位を作る。まずはエドガーの側を離れず信頼を築くところから始まっていた。
「……ここが戦場だ」
ジャスパーの言葉に残りの三人はこくりと頷いた。
一方、ダミアンはサン・マロ郊外に繋いでいた馬の手綱を解いた。夜の風が冷たい。彼は何も言わず鞍に跨ると手紙を懐へ収めた。目的地は、パリ。三日かかる道のりだったがダミアンは躊躇わなかった。彼は踵を軽く当てると馬はすぐに闇の街道へ駆け出していく。サン・マロの灯りが背後で小さく遠ざかっていった。
その頃、同じ夜空をもう一つの影が横切っていく。セドリックの屋敷から放たれたワタリガラスの黒い翼が夜風を切り裂く。目的地は同じくパリだが、この伝令には地図も道も必要なかった。出発の前、セドリックは一枚の絵を机の上に広げていた。そこにはパリの街並みが描かれている。そして、その中心にはフランス海軍総司令部の建物。カラスはその絵をじっと見つめていた。セドリックは何度も指でそこを示して位置を覚えさせたが、この鳥が本当に得意としているのは建物の形ではない。——人の顔だった。次にセドリックは古い新聞を取り出スト一枚の肖像画が印刷されている。フランス海軍大元帥、エリオット・ド・レオパード。セドリックはエリオットの顔を指で示し、カラスに見せた。カラスの黒い瞳がじっと紙面を見つめて首を傾げるとセドリックは呟いた。
「……あとは頼んだ」
それから数刻後、ワタリガラスはすでにフランスの空を飛んでいった。夜の空気は冷たいが翼は力強い。建物を探すことは難しくないが、問題はその先だ。エリオット本人がどこにいるか。そこから先はたった一羽のカラスの賢さにかかっていた。
夜明け前のパリは薄暗く、通りには人影もほとんどない。ダラス家の屋敷の前に一頭の馬が止まった。鞍から降りたダミアンはそのまま玄関へ歩いていく。三日間、ほとんど休まず走り続けたせいで外套には旅の埃がこびりついているが、彼は顔色一つ変えず屋敷の中へ入った。やがてシルヴェストルの執務室に着くとダミアンは部屋の中央で片膝をついた。
「……戻りました」
ダミアンは懐から手紙を取り出すが、その手紙がシルヴェストルの手に渡る前にピエールの手が伸びてきた。
「ご苦労」
そう言いながらピエールは手紙をひったくるように取り上げ、執務室を出ていく。ダミアンが唖然と手を彷徨わせていると、シルヴェストルは椅子に座ったまま口を開く。
「ダミアン」
「はい」
「次はランデヴェネックへ向かえ」
ダミアンは一瞬だけ沈黙し、恐る恐る口を開いた。
「あの……せめて、水だけでも」
シルヴェストルの目が細くなる。ダミアンはこれまで一度も命令に口を挟んだことがない、珍しい。シルヴェストルはダミアンをしばらく見つめた。旅の埃、疲労の影、それでも姿勢は崩れていない。
「……遅滞は許さない」
「承知しました」
「水は飲んでいけ」
ダミアンが頷くとシルヴェストルは再び書類に視線を落とした。ダミアンは深く一礼し、部屋を出ていく。
その頃、屋敷の別の部屋ではピエールが着替えていた。彼は庶民の粗末な上着に袖を通して帽子を被り、鏡をちらりと見るとどこからどう見ても街の男だった。ピエールは懐を軽く叩いて手紙があることを確かめると一度頷く。
「……よし、さっさと届けるか」
その時、彼の手首で何かが光る。金の腕輪だった。粗末な服装には釣り合わないが、ピエールは気にする様子もなく外套を羽織って部屋を出ていった。夜明けの光が屋敷の窓から差し込み始めている。
パリの朝が動き出そうとしていた。ピエールはカフェの隅の席に腰を下ろしながら店内を一瞥した。こちらに注意を向ける者はいない。悪くない。そして正面に座ったベルリオーズは相変わらず細身でどこか神経質そうな顔だが、その目は油断がない。情報屋の血だとピエールは思いながら封筒を卓上に置く。
「裏のルートで回ってきたんでオレに渡されたのは昨日。あんた宛だ。例の船長さんからさ」
ベルリオーズは手紙を取って封を切ると目を走らせた。
——焦ってるな。
ピエールは心の中で呟いた。眉間に寄る皺、わずかに乱れる呼吸。何かが想定より動いているが、ベルリオーズはすぐに表情を整えた。
「……どうかしたかい?」
「いや。問題ありません」
嘘だなとピエールは思うが追及はしない。ベルリオーズは追い詰めると逆に固くなるタイプだ。ベルリオーズはすぐに紙を取り出し、返書を書き始めた。
「これを返してくれ。それと、こちらも」
封筒が二重になる。報告書の写しと各部隊の動向、総司令部の内部情報だ。ピエールは軽く口笛を吹きそうになるのを抑えた。
「助かるよ。あんたが動くと向こうは安心する」
ピエールはさっさと去ろうと腰を動かした時、ほんのわずかな違和感を覚えた。店の空気、入口の外から靴音。重い、軍人だ。しかも速い。ピエールの背筋に冷たいものが走った瞬間、扉が吹き飛んだ。
ガンッ!
カフェの常連客たちが驚いて身を引く中、入口からズカズカと土足で踏み込んできたのは、真紅の外套を風になびかせたルソーだった。
——あれは、海軍の戦闘狂ジジイか!
「ちっ……!」
ピエールが舌打ちするのとほぼ同時ベルリオーズは即座に数歩後退する。
「なぜ、ここが……!」
「読みだ! おまえが静かすぎるからなぁ、怪しさ満点だったんだよォ!」
最悪の相手だ、逃げるしかない。ベルリオーズが蒼白になっているのがピエールの視界の端に映る。ピエールはすでに計算していた。距離、出口、カウンター、そして卓上にはエドガーの手紙。ピエールは指先だけで封筒を滑らせると外套の内側へ忍ばせた。ルソーの足音が迫る、時間はもうない。
「失礼、時間切れですね」
ピエールは椅子を蹴ってカウンターを越えた。
「ではでは、ごきげんよう」
ピエールが優雅にフードを被る瞬間、袖が捲れて金の腕輪が灯りを反射する。
「逃がすかァ!!」
ピエールの背後でルソーの怒号が追ってくるが遅い。ピエールはすでに裏口へ抜け、霧の路地へ足音を消して角を曲がるともう一度懐に触れた。手紙はある。エドガーの手紙、回収成功。ピエールの口元に笑みが浮かぶ。
「……やれやれ。あの赤い暴牛、相変わらずだな」




