第八章⑤ マクシム
ブレスト港、一人の男が交易船に乗り込もうとしていた。トゥーロンのリー・ウェンことリュウ・ヨシマサはここしばらく鍛冶屋としての仕事を休み、ブレストに滞在していた。表向きは鍛冶の出張依頼だが、実際には情報屋としての活動だった。リュウは船に乗り込む前に振り返り、桟橋に立っていたヤンに向かって言った。
「では、さっき説明した通りだ。くれぐれも扱いには気をつけたまえ」
リュウの視線がヤンの腕の中の木箱へ向けられる。ヤンは両手で木製のケースを抱えていた。中には重みのある何かが収められている。ヤンは丁寧に頭を下げて穏やかな笑みを浮かべた。
「ご相談に乗っていただき、ありがとうございます。貴方が偶然この街に滞在していて助かりました」
リュウはわずかに肩をすくめた。
「剣を捨てた武人は、武の道を極めんとする者を後押しするのもまた使命だ。君の顧客の動きも見せてもらったが、あれは見事だな。もう少し冷静さがあれば動きも流動的になると思うが」
「まあ、お若いですから。何事も経験でしょう」
ヤンが苦笑するとリュウは頷いて船の方へ体を向け、目を鋭くさせた。
「またいつか会おう。……ルキフェルについても、まだ聞きたいことがあるからな」
ヤンが抱えているケースと中身は、リュウが「ルキフェルの所在」を聞き出すための情報の対価でもあった。ヤンは最後に言う。
「では。トゥーロンまでの船旅、お気をつけて」
リュウは軽く手を上げるとトゥーロン行きの交易船へ乗り込んでいき、やがて船は港を離れていった。
一方、キール通りの宿舎。ソフィーは実家訪問のため不在だったが、残された隊員たちはいつでも戦闘に出られるよう備えている。その中で、一人だけ妙な音を立てている男がいた。
マクシムは今、自身の新しい戦闘スタイルを模索している。手にしているのは鎖鎌のような武器、重い鉄鎖が空気を裂くが彼の体格には明らかに不釣り合いだった。マクシムがブンと鎖を振ると剣先があらぬ方向へ飛んでガンッと背後の柱に当たる。マクシムは一瞬止まってもう一度構え直し、鎖を握り直して再び振った。ぎこちないが目だけは真剣そのものだった。陽が傾きかけた頃、中庭には金属の軋む音が断続的に響いていく。鎖が空気を裂く瞬間、マクシムの腕が引きずられる。
「っ……ぅおおおおおお……っ!? やっぱりまた手が滑った……っ!」
遠心力に身体を持っていかれ、マクシムは軽く一回転した。足元が流れ、危うく背中から転倒しかける。どうにか踏みとどまったが、肩から肘にかけて鈍い痛みが走る。重いし扱いづらい。そもそもこんな武器を本当に戦場で使うつもりなのか。マクシムは手の中の武器を見る。
柄から伸びる鎖の先に仕込まれた刃、連結剣。第六部隊が東洋の知見を参考に開発したという新兵装。斬るというより絡め取る。剣というより罠に近い。が、問題は武器ではない。使えていないのは自分だ。マクシムは歯を食いしばると、彼の視界の端でシャルルが一歩前へ出ようとする気配がするが、隣にいるグウェナエルが制する。
「——これ、実用性なくね?」
グウェナエルの声が耳に入った瞬間、マクシムの眉がぴくりと動いた。
「初見殺しって感じはあるが、戦場で振り回すには不安定すぎる。バランス悪いし、反撃の隙が多い。そもそも、近接武器と鎖を組み合わせる意味あるのか……?」
うるさい。今、必死に軌道を読んでいるんだ。鎖の重み、戻りの速度、自分の腕力、全部計算が狂だろう。だが、シャルルの軽い声が続く。
「いや、ここから化けるさ。こういう武器は、使う人間次第で驚くほどの殺傷力になる。制御できるなら、牽制にも奇襲にも応用が利く。要は慣れだ。隊長は……やればできる人だよ」
だから黙っててくれ。二人の会話はマクシムの耳に入っていたが、返事をする余裕はない。今は勝たなければならない彼の脳裏に浮かぶのは海、黒い船、そして、ルキフェル。あの戦い、あの速度、あの視線。もしまた相対したら今の自分では勝てない。いや、また負ける。マクシムは連結剣を握り直すと肩が悲鳴を上げて腕が震えた。
「もう一度……っ、もう一度だけ……ッ!」
鎖が風を裂くが、軌道がぶれる。マクシムはまた足元を絡めそうになり、慌てて剣を地面に突き立てた。膝が笑って息が荒い、汗が額から落ちるがそれでも止まれない。止まれば追いつけない。止まれば——あの海賊たちに負ける。
「…………でも、絶対、腕の筋肉おかしくなるぞ」
グウェナエルの呟きが聞こえるがマクシムは答えない。
「はあっ……、はあっ……ッ、くそ……!」
鎖がまた横へ流れ、危うく足元を取られかけ、剣を突き立てて呼吸を整える。マクシムの視界が揺れ、襟元のリボンはほどけて手袋は砂まみれだった。
「いやあ、捗ってますね!」
陽気な声が中庭に響いてマクシムは意識がプツンと切れて思わず顔を上げる。緑の衣を纏ったヤンがゆったりと歩いてきた。
「……っ、ああ!?」
マクシムの口から思わず声が出た。今か、どうして今なのか。ちょうど鎖の軌道が読めてきたところだったのに。
「リーさん……ッ、これ、扱いにくいんですけど!!
つい文句がマクシムの口を突いたが、ヤンはまったく気せ小脇に抱えたケースを地面に置きくと金具を外した。
「ですよね。やっぱりそうなると思って、ちゃんと別のもの用意してきました」
「……は?」
「マクシムさんの身長と関節の可動域、それに筋肉のバランスから見て、あの連結剣は全長がちょっと大きすぎたんですよ。で、たぶん巻き込み事故で手首をやるなと思って。ね?」
ヤンがケースの中から取り出したのは二本の剣。左右対称の銀の片手剣。見た瞬間、マクシムの呼吸が止まった。西洋剣に似ているが、重心が違う。刃の幅も独特だ。
「これ、知り合いが設計した“対人用・間合い短”モデル。名前はまだないけど。振り回すんじゃなくて、捌いて斬る感じ。連携技にも向いてます。……ほら、今にも投げそうな顔してたから」
マクシムは酸っぱいものを食べさせられたのか、と思うくらい苦々しく顔を歪ませた。言い返せない。確かに、さっき鎖の剣を投げたくなっていた。
「隊長。それ、正直なところめちゃくちゃ似合わなかったですよ」
「武器が化けるより、隊長の顔が死んでましたね」
マクシムの背後からグウェナエルがボソッと呟き、シャルルも悪びれずに言った。マクシムは一瞬だけ目を閉じた。
「………………くっ」
言い返す余裕もなく、マクシムは地面に置いた連結剣を見るとゆっくりと片手剣を手に取って握ってみた。軽い、重心が素直で刃の流れも読みやすい。
「……これは……」
「でしょ?」
マクシムが思わず声を漏らすとヤンが嬉しそうに頷く。マクシムは左手の細剣を軽く振ると音もなく空を裂いた。ラピエールに近い刃は突きを前提に設計されており軽快な反面、鍛えられた手首でないと制御しきれない。右手の剣は対照的に重量があり、幅広で重心も前寄りと完全に打撃用の造りだった。片手で扱うには骨が折れるが、一発でも当たれば並の剣士は膝をつく。マクシムは両手の剣を見下ろした。左は速く、右は重い。別々の理屈で作られた二本なのに不思議と手の中では喧嘩しなかった。むしろ、片方の癖がもう片方の欠点を補って、呼吸の違う二本が同じ意思で繋がってくる。
これなら、ひとつの型に自分を押し込めなくていい。ひとつの正解に従わなくていい。自分の身体に合う、自分のための答えを探せる。
グウェナエルが眉をひそめたまま口を開く。
「けど、二刀流って扱いにくいですよ。武道家や剣豪だって、最終的には一本の方が強いって結論づけてるじゃないですか」
マクシムは剣を構え直した。そんなことは嫌というほど知っている。効率、定石、最適解。を積み上げていけば、きっと一本に行き着く。無駄がなく、理に適っていて教本にも載せやすい。誰が見ても「正しい」と言える形だが、その「正しさ」の中に自分の勝ち筋があるとは限らない。
「知っていますよ。……でも僕は、僕のための結論を出したいのです」
マクシムが口にした瞬間、胸の奥に熱が走った。誰への反発でもない、ようやく自分自身に向けて言えた言葉だった。マクシムは構えを取ると左足を前に右足をやや引き、身体を斜めに傾けた。守るための形ではなく、刺し込むための形。受けるより先に奪うための形を取った瞬間、記憶がよぎった。
——薄暗い部屋、机に向かう小さな自分。鉛筆を走らせる指先、息苦しい勉強机。家のため、叔父のため、ルノアール家のためと言い聞かせていた頃。あの夜、ラウルが言ったのだ。
「ねえ、アントワーヌも休みなよ」
休めるわけがないと答えた自分。家を背負っているのは自分なのだと小さな身体で必死に納得していた自分。けれど、ラウルはそこで終わらなかった。
「ボクもさ、本当は海の上で生きたいんだ。自由になりたい」
自由。その言葉を口にした彼の目がひどく遠くを見ていたのを思い出す。
「あ、じゃあさ。明日は勉強やめて運動しようよ」
あの時のラウルはまるで世界の秘密でも打ち明けるみたいにベッドの下から模造剣を取り出した。
「これは秘密なんだけど……」
あの細い腕、あの年齢なのに剣を持った瞬間だけ空気が変わった。あの妙な高鳴りを思い出す。勉強机の前で縮こまっていた自分の身体が、初めて「動いていい」と許されたような感覚。初めて自分を遊びに誘ってくれたのはラウルだった。
「……しばらく、手合わせ願えますか?」
「え? あ、はい。いいですけど」
グウェナエルの間の抜けた返事が終わるより先に、マクシムは踏み込んでいた。左の細剣が伸びる風切り音は鋭く短い、自分でも驚くほど自然だった。腕だけではない。肩、背中、足先まで一本の線になるように動く。グウェナエルが慌ててマクシムの剣を捌く刹那、マクシムの右手が遅れて追う。重い打撃、鈍い衝突音にグウェナエルの剣が揺れる。
「……ちょ、ちょっと待て、それ、交互に来るの反則じゃないか!? どっちの間合いも違うし!」
マクシムは息を吐きながら言った。
「そのための二刀流ですよ」
「くそ、理屈が合ってる……!」
二人は鍔迫り合いになった。剣と剣が擦れ合い、乾いた音が中庭に散る。マクシムの呼吸、足運び、間合いはさっきまでの連結剣とは違った。武器に身体を振り回されるのではない、身体のほうが武器の個性を先回りしている。左で探り、右で断つ。右で押し、左で刺す。片方がフェイントになり、片方が本命になる。その流れの中で、マクシムの脳裏にまた記憶が蘇った。
——翌朝の庭、柔らかな日差し。ラウルが拾ってきた太い枝を差し出して言った。
「まず、剣の持ち方から覚えよう。こうやって握るんだ」
自分はあの時、ひどく不器用だった。力を入れすぎて枝のしなりにさえ振り回されていたが、ラウルは笑った。
「力を入れすぎると動きが鈍くなる。力を抜いて、でもしっかり握るんだ。足の運びも大事なんだ。防御はね、ただ剣を受け止めるだけじゃないんだ。相手の力を自分の体で受け流すようにする」
遊びの延長みたいな顔をしていたくせに、彼の教えは恐ろしく正確だった。
「面白いな、これ。君の先生もこんな感じで教えてくれたんだろうな」
自分が必死に真似している横でラウルはいつだって先にできていた。それが悔しかった。でも、それ以上に楽しかった。
「おれ、もっとできるようになりたい!」
あの時、自分はそう言った。もっとできるようになりたい、もっと強くなりたい。あいつの隣で、引け目なく剣を持ちたい。その願いは今も少しも変わっていない。
目の前のグウェナエルが半歩下がった。少しずつ押せている。マクシムは左を走らせ、すぐに右を振り抜くとグウェナエルが防ぐ。なら、次は逆。右で視線を奪い、左で懐へ届かせる。グウェナエルの顔にさっきまでの困惑とは違う緊張が走った。
——通じる、この型なら、この流れなら。
ラウルに教わった、受け流して返す感覚。ゼフィランサスから叩き込まれた殺気の読み。そして海軍で積み重ねた自分の基礎がようやく一本の線として噛み合い始めていた。木陰のほうでシャルルとヤンが何か言っている気配がした。内容は聞こえない。いや、聞かない。うるさいと思う余裕すら今はない。いま大事なのは一つだけ、この先に広がる海の向こうから海賊たちがまた現れる時、その中心にルキフェルがいる時、自分は今度こそ真正面から立てるか。負けて、斬られて、重傷を負って、地に伏す側ではなく。勝つために剣を振るう側にいられるか。グウェナエルの剣筋が変わった。本気で崩しにきている。マクシムは反射で左を差し込み、右で叩き落としにかかる。足が迷わない、手首がぶれない。呼吸だけが熱い。
まだ足りない、もっとだ。かつての神童に届くには、今なお越えるべき存在に追いつくには。もっと、できるようにならなければならない。
「……いや、なんか……マクシム隊長、あの二刀で覚醒してません?」
「ですねえ。予想より適応早いです。ていうか、振ってみるまでわかんないですからねえ、こういうのは」
シャルルが目を細めて何とも言えない表情で呟き、ヤンは手元のノートをペラペラと捲りながら唇の端を上げる。
「筋力は申し分なし、反応速度も上位一割。でもあれは技術じゃないです。たぶん、“噛み合った”んですよ。心と武器が」
「噛み合ったって……どっかの詩人みたいなこと言いますね」
「技術者ですから。噛み合ってるかどうかは理屈じゃなくて手の中でわかるんです」
「へぇ……」
シャルルは頷きながらも視線は試合の二人から離さない。
「それにしても、グウェンが地味に押されてるのは珍しいな……」
「マクシムさんの戦闘スタイル、本来は“柔と剛”の両立型だと思ってたんです。でも、今までは“規律と型”に縛られて片方しか出せてなかったんじゃないかな」
「ふーん……。それがこのタイミングで出てきたと」
「ですねえ。まあ、理由は分かりませんけど。……でも」
ヤンは口元に指を当てて、ふと笑みを薄くした。
「人って強くなるときは大抵、何かを壊した直後ですから」
鍔鳴りの音がひとつ大きく響いてグウェナエルの声が上がる。
「ちょ、ちょっと休憩しましょう! 腕がもげますって!」
マクシムが一歩退く瞬間、腕に残っていた振動が遅れて骨に響き、二刀を下げると肩で息をした。呼吸が荒いが、身体の奥では妙な手応えが残っている。マクシムが息を整えるその隙に別の記憶が脳裏に浮かんだ。今度は潮の匂い、強い日差し。
エル・イエロ島。九歳の自分——アントワーヌは地面に膝をついていた。剣が弾き飛ばされて、少し離れた砂の上に転がっている。腕が震え、息を荒くするの前に立つ男——ゼフィランサスの影が落ちて冷たい目で言う。
「誰が座れと言った? さあ、剣を持て」
アントワーヌは顔を上げて砂に手をつき、なんとか体を起こすとよろめきながら剣を拾い上げた。アントワーヌが構える瞬間、また弾かれて剣が空を飛んで地面に突き刺さる。アントワーヌの身体が崩れて肺が焼けるもゼフィランサスは一歩も動かず淡々と言った。
「強くなりたければ、自分の気持ちをコントロールしなきゃいけない。怒りも恐怖も、焦りもな」
海風が砂を揺らし、アントワーヌは必死に剣を拾うとゼフィランサスの視線が鋭くなる。
「最短で勝つためには剣の道筋を見るんだ。それでは負けるぞ」
彼の言葉の直後、また剣が弾かれた。その時もアントワーヌは思った。もっとできるようになりたい。記憶はそこで途切れた。
現実の中庭、マクシムの顎から汗が落ち、彼はふうと一息吐いた。ゼフィランサスの声は今でも耳に残っているが、その前に剣を握らせたのはラウルだ。ラウルは笑いながら剣を振った。ゼフィランサスは黙って叩き潰した。その二つの教えが今になって身体の中で重なり始めている。
一方、木陰ではヤンが腰のポーチをごそごそ探っていた。飴でも食べようかな、小腹が空いてきた。だが、ヤンの指先が触れたのは飴の包みではなく、小さなガラス瓶だった。ヤンの目が一瞬だけ細くなる。
……ああ、これ。
夢蛇。以前、密輸港から密輸品として持ち込まれていた代物。リー・ウェンとしては見過ごせず組織として回収したが、隠し倉庫に保管していたところ夢蛇特有の甘い匂いが漏れ始めてしまった。放置は危険だと組織で判断して各地へ分散することになり、いくつかの箱をそれぞれの人間が預かっている。そして今、その一つがここにある。ヤンはふと視線を上げて、試合をしていた二人を見つめるシャルルの横顔を見てなるほどと少し興味が湧くとサラリと口にした。
「ところで参謀殿。……奇抜な作戦は、考えられましたか?」
シャルルが涼しい顔で問い返す。
「奇抜? 誰に対して?」
「もちろん。……対ルキフェル戦の話です。あれにまともに対抗できるなら、こちらにも切り札が欲しいところでしてね。あなたの“面白い”頭脳も必要かと思いまして」
ヤンの目がわずかに笑い、シャルルは風の音に耳を傾けるように目を伏せてから呟いた。
「……そうですね。武術で対抗できないなら人道から外れた作戦にするしかないですね」
ヤンの指先がポーチの中の瓶を軽く回した。面白い、この参謀は思ったよりずっと面白い。
「……ははっ。あなたも、なかなか人が悪い」
「そう言うあなたこそ。どうせ、もう持ってるんでしょう?」
シャルルの問いにヤンは肩をすくめると腰のポーチから小さな青い小瓶を取り出してみせた。小瓶の中では濁った液体がわずかに揺れ、ガラス越しでもどこか不穏な気配を帯びていた。
「いつもお世話になってるお礼に、こちらを差し上げましょう」
「これは?」
「まあまあ、今から説明しますよ」
ヤンの目が愉しげに細められる。彼の仕草と声色はつい先ほどまで武器を届けていた技術者のそれだったが、この瞬間だけは薬屋とも毒屋ともつかない別の顔を覗かせていた。ヤンは荷袋を開き、小ぶりな木箱を取り出すと蓋の表面を指先で撫でながら言った。
「東の密林地帯で採れるものです。現地では“神の蛇の毒”なんて呼ばれてます」
「毒、とは物騒ですね」
シャルルが眉を顰め、ヤンは軽く笑う。その後のヤンの説明は長かった。蔓草の名、樹皮の名、煮出し方、煙で吸う方法、東方の薬学めいた話がしばらく続くが、シャルルの頭に残ったのは「この男は取り敢えず品物や情報を渡せば他所様の役に立てていると本気で想っている」という曇りなき眼と、敵味方の境界線を川に喩えるとしたら濡れた岩場をピョンピョンと渡ってくるような、疑いを知らぬ微笑みで過信しているという厄介な性分だった。
「……これは“真実を暴く毒”でもある。精神が脆い人間には、ちょっと刺激が強すぎるかもしれませんね。過去の罪が喰らいついてきたり、自分が誰だかわからなくなったり——」
その頃、中庭の中央ではグウェナエルが剣を振って手首をほぐしていた。
「じゃ、もう一回やるか」
マクシムも二刀を軽く構え直すと足を踏み替えて肩を回した。先ほどよりも呼吸が落ち着いている。風が鎖のように鳴って刃が光を拾う中、二人はゆっくり距離を詰めた。一方、木陰ではヤンが木箱を見下ろすと指先で蓋を持ち上げている。木箱の中には乾燥した蔓草と粉状の樹皮、どれも不気味な色をしている。
「……これで、ルキフェルを壊せると思いますか?」
ヤンはシャルルの問いには答えず、一瞬だけ視線を遠くへ向けた。彼の脳裏に浮かんだのはトルチュ島の宿の中庭。夕闇の下で静かな動きで舞う影、太極拳の緩やかな型、ルキフェルだった。呼吸と動きが完全に一致している。身体と精神が一つの軸で結ばれているような動き。……あれは精神が統一されている人間の動きだった。武術の頂点に近い状態だが、同時に技術が完璧な人ほど不意打ちに弱かったりする。人は集中しているほど視界が狭くなる。ヤンは軽く肩を竦めた。
「保証はできませんが、彼のような精神構造なら打ち所さえ正しければ――沈みます。たった一瞬で、あの輝く理性が自分の地獄に飲まれるかもしれませんよ?」
シャルルは箱の中の草を見つめている。風が枝を揺らす時、金属が激しくぶつかる音が響く。マクシムとグウェナエルが再び剣を交えていた。踏み込み、突き、打撃、鍔迫り合い。一瞬だけ刃が噛み合う瞬間、二人は同時に離れて距離を取る。グウェナエルの表情が変わっていた。先ほどまでの訓練顔ではない。完全に本気の剣士の目だ。次の斬撃が明らかに速い。
「……っ!」
マクシムの二刀が交差し、金属音が空気を震わせた。その光景を横目にヤンは皮肉な笑みを浮かべる。
「……策士は、時に毒を握るものですからね?」
シャルルは木箱を受け取るとヤンはにこにこしたまま深く頭を下げた。
「お礼はいいですからね? いつも“よしなに”していただいてるお返しです」
二人の背後では再び剣がぶつかる。グウェナエルの斬撃にマクシムはわずかに息を整え、再び剣を構える。さっきまでの打ち合いで互いの癖はある程度掴めているが、空気は先ほどよりも明らかに重かった。まだ二刀流が完全に手に馴染んだわけではないが、動けると確信できる何かがマクシムの両腕に握られていた。マクシムの額に汗が滲むが、口元には笑みが浮かんでいる。
「さあ、グウェナエル。今度はこっちから行きますよ」
「どうぞ、お手柔らかに」
軽口のように聞こえたが、グウェナエルの姿勢は完全に戦闘体勢だった。次の瞬間、マクシムが地を蹴ると風が頬を裂く。先に動いたのは左手、突き剣が鋭く前へ伸びる。軽い、速い。グウェナエルがそれを弾いた瞬間、マクシムの身体はすでに捻れて右手の剣が低く唸る。重い打撃に金属がぶつかり合う鈍い音が響いた。
「なるほど、こう来るか!」
グウェナエルが後方へ跳ぶが、マクシムの足は止まらない。左手で牽制、右手で叩く。二つの剣が、まるで別の生き物のように動いて見える。マクシムの視界が研ぎ澄まされていった。グウェナエルの呼吸、肩の動き、足の重心がゆっくり見えると同時に身体が勝手に動いて剣が風と一体になる。腕の延長ではない、身体そのものが刃になったよう。マクシムの胸の奥で何かが弾ける。
——ああ、これだ。おれが欲しかった感覚は。
思わず笑みがこぼれる。左の突きが舞い、右の剣が唸る。相反するはずの動きが同じ流れで繋がる。速さと重さ、軽快さと破壊力。二つの極が身体の中で噛み合った。一瞬、マクシムの脳裏にある顔が浮かぶ。幼い頃、庭で枝を振っていた少年。これなら、あいつと渡り合える。ラウル——今はルキフェルの背中を追い続けた日々が胸の奥で燃え上がる。マクシムは踏み込んで左の突き剣がグウェナエルの視線を誘った瞬間、身体を捻って右手の剣で低い弧を描いた。グウェナエルが寸でのところで右手の剣を受け止めた瞬間、わずかに体勢が崩れる。
「今だ」
「……っ!」
マクシムの突き剣が翻り、一直線にグウェナエルの喉元へ迫ると髪一枚の距離で刃先が止まった。グウェナエルはしばらく動かなかったが、やがて苦笑して手を挙げた。
「……参りました、隊長」
彼の言葉がマクシムの耳に入った瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
「やった!! 勝ったぞ、僕は!!」
マクシムは思わず跳ねるように後ろへ下がった。胸が爆発するようだった。全身が汗で濡れているが、それでも笑いが止まらない。ずっと届かなかった背中、いつも一歩届かなかった相手。そのグウェナエルに初めて勝った。木陰で見ていた二人が呟く。
「……これは、すごいですね」
「……まさか、ここまで適応するとは」
マクシムは振り向き、ヤンへ駆け寄ると彼の両手で肩を掴んだ。
「リーさん、この剣、完璧ですよ!」
ヤンは強めに揺さぶられながらも微笑みを崩さなかった。
「お代は要りませんよ、マクシムさん。あなたの笑顔で元が取れました」
「リーさん、ありがとうございます! またいつでも来てください! 絶対ですよ!」
「ええ。また何か面白いものが手に入ったら、真っ先にお持ちしますとも」
ヒラリと扇子を振るとヤンは中庭を去り、マクシムは彼の背に向かって大きく手を振る。
「またお待ちしてます!」
やがて中庭に静けさが戻る。シャルルは小さな箱を見下ろした。彼は夢蛇の入った箱をしばらく黙って見つめるとぽつりと呟く。
「……やっぱり、必要なかったかな」
時つ風が彼らの頬を撫で、滴る塩水も攫っていった。
宿舎の医務室。医務室のベッドで一人の男がうっすらと目を開けた。フェルナンドはぼやけた視界の中で、天井の白い板がゆっくりと形を取り戻していく。鼻をくすぐるのは薬品の匂い、耳に入るのはどこかで布が擦れる小さな音。彼はしばらく瞬きを繰り返しながら掠れた声で呟いた。
「……ここは……どこだ」
フェルナンドが身体を起こすと鈍い痛みが両肩を走った。彼が視線を落とすと上半身は裸で、撃たれた箇所には白い包帯が巻かれている。彼の中で記憶が少しずつ戻ってきた。
「撃たれた……のか」
フェルナンドは布団を退けて足を床につけるとヒヤリとした感触が足裏に広がった。その感触が妙に鮮明だ。
「……生きている」
そんな当たり前のことを今さらのように実感した。フェルナンドはゆっくりと立ち上がるとふらつく足取りで窓辺まで歩いて腰を下ろす。窓の外には昼の空が広がっていた。穏やかで、何事もなかったかのような青空。フェルナンドはぼんやりとそれを眺めながら次第に記憶が蘇ってきた。殴りかかってきた男、距離を詰めてくる足、マテオの姿。
「……よくもやってくれたよね」
あの男は本当に遠慮がない。フェルナンドはしばらく空を見上げていた。やがて、日差しが白いリネンを透かして柔らかな光を落としていくとジョルジュが駆け込んでくる。彼はもう包帯の取れた腕をぶんぶん振り回しながら医務室のカーテンの向こうを覗き込むと、フェルナンドはまだ空を眺めていた。
「……あ」
ジョルジュの口から声にならない声が漏れた。目の前にいるのは何もかもを混乱に陥れた張本人であり、それでも彼がずっと願ってやまなかった男の姿だった。
「あああああああお前!!」
フェルナンドが振り返るとジョルジュの顔が視界に入った瞬間、脳裏に別の光景がよぎった。
甲板の上、刃が走る感触、自分が斬りつけたジョルジュが海賊船から海軍船へ飛び移った彼の姿。
「ジョルジュ!」
その後に響いた女の声。焦りと怒りと必死さが混ざった声。……あれは今思えばソフィーだったのだろう。その記憶がふっと消えると現実のジョルジュが目の前に立っていて、フェルナンドは唇の端をわずかに持ち上げる。
「ようやくまともな顔を見られた気がするね、ジョルジュ君」
ジョルジュの表情が一気に崩れ、喜びに満ちた顔で衝動的に駆け寄り、フェルナンドを力いっぱい抱きしめた。
「っ、バカ野郎が……!よく……!よく生きててくれた!」
「うっ、ちょっと! それ、まだ……!」
フェルナンドが顔を顰めた。両肩に負った傷は完治しきっておらず、無理に動かせば痛むが、ジョルジュは離さなかった。
「悪かったな! でも離さねぇぞ……! お前が帰ってきたって、それだけで十分すぎる……!」
ぎゅっと目をつむって、ジョルジュは震える声で言った。彼の言葉には怒りも恐怖も恨みもない。ただ命がつながっていたことへの純粋な安堵だけがあった。
——そして、同日の夜。
北大西洋を航行するフランス海軍第一艦艇部隊ユルリッシュ・ルソー准将率いる主力艦《ヴォルカニク号》は対外海戦を終えてブレストへ帰還する途上にあった。勝利の余韻が残る艦隊の空気を破ったのは、見張りの報告。
「——准将!」
甲板を駆ける靴音とともに副官アンドリュー・マランが息を切らして報告に現れた。
「前方、右舷三時方向! 距離およそ八百、帆影一隻! 所属不明、信号にも応答なし! 見張りより、不審船との報告が!」
それを聞いた途端、ユルリッシュ・ルソーは破顔した
「——ほうらな! 言ったろ、オレ。来るって思ってたんだよ、こういうのが!」
アンドリューは半ば呆れながらもルソーの命令を復唱するしかなかった。
「全艦、警戒態勢に入れ! 舵はそのまま、不審船に接近する!」
「了解!」
艦隊は即座に進路を変えて不審船へ接近するが、奇妙なことに不審船からは一切の反応がなかった。やがてボート隊が送り込まれ、ルソー自身も乗り込むと判明したのはあまりにも拍子抜けする光景だ。
「——寝てます」
「……は?」
船倉には海賊が雑魚寝していた。
「……ぐぉ……うへへ……うぅん……」
やがて甲板に引きずり出された海賊たちを前にルソーは深いため息をつく。
「……んで、特に陰謀もなくただ寝てたと?」
「……はい」
その時、ルソーの目がある海賊の懐から覗く紙束を捉えた。
「……ん?」
封筒だった。汚れた封蝋と見覚えのある印章。ルソーは海賊から封筒を奪い取って封を破り、月光の下で羊皮紙を広げるとたった一行の文が浮かんできた。
「至急、北大西洋の合流地点へ。エドガー・ロジャース」
ルソーの眉がわずかに動く。海の底で動き始めた巨大な歯車を示す、最初の手掛かりだった。
「アンドリュー、早急にブレストへ戻るぞ」
「了解しました」
こうしてルソーは偶然にも大海賊エドガー・ロジャースの動きを示す書簡を手に入れていた。
この偶然が、後に大西洋全域を揺るがす嵐の引き金となる。




