第八章② ジャスパー
サン・マロの港。昼下がりの潮風が帆柱とロープの間を抜けていき、桟橋には酒と魚と海水の匂いが混じり合っていた。
その中を赤い髪の男——ジャスパーが珍しく第八船団の船を抜け出し気ままに歩いている。特に目的があるわけでもない、ただ船の上にいると退屈だった。
ジャスパーがふんふんと歪な鼻歌——ルキフェルが時折漏らす旋律のうろ覚え——をなぞっている時、彼の背後から声が飛んできた。
「あ、おい。赤髪」
ジャスパーが振り返ると見覚えのない海賊が立っていたので眉を寄せる。
「……誰だっけ」
目の前の海賊は呆れたように肩をすくめると指で自分を指す。
「おいおい、もう忘れたのかよ。おれ、第二船団で航海士の通訳やってたんだぞ」
ジャスパーはしばらく相手の顔を見ていたが首を振った。
「やっぱ覚えてねえわ」
「あっそ。まあいいけど」
海賊はため息を吐くと思い出したように言った。
「それよりさっき、お前を探してる奴がいた」
「へえ」
ジャスパーの眉がわずかに動く。興味があるのかないのか分からない彼の返事などお構いなしに、海賊は声を落として続けた。
「そいつ、エドガー船長のとこにいる奴なんだけどさ。なんか、船長が呼んでるらしい」
さっきまで飄々としていたジャスパーの表情がほんのわずか変わり、軽い笑みが消えて目だけが細くなった。
「……そう。じゃあ、行ってくるか」
ジャスパーは海賊の脇を通り過ぎながら気軽な調子で言うと海賊は「お、おう」とだけ返した。ジャスパーは振り返らず港を抜け、入江へ向かう道を歩き出すと潮の匂いが少しだけ強くなった。
——エドガー、何を考えている?
風が赤い髪を揺らし、ジャスパーは郊外の入江へ向かって歩き続けた。やがて、久方振りの入江に到着すると黒船は昼間でもどこか薄暗く見えた。ジャスパーは桟橋から躊躇なく船へ乗り込んで甲板に足を踏み入れた瞬間、周囲の海賊たちの視線が一斉に集まった。彼らの奇異の視線をものともせず、ジャスパーは甲板を横切って船長室の扉を押し開けたるとエドガーがいた。エドガーは机の向こうに腰を下ろしたまま口元を歪める。
「よお、ポート・ロイヤルぶりだな。ちゃんと生きていたか」
「まあね。何の用?」
ジャスパーは琥珀色の瞳に鋭い光を湛えているとエドガーは少しだけ笑う。
「頼みがある。オレの護衛だ」
「……なんでおれ? 他のやつでいいだろう」
ジャスパーが首を傾けるとエドガーは鼻で笑った。
「あいつら、陸の上じゃ役立たずだ」
ジャスパーは一瞬だけ黙ったが、どうでもよさそうに言う。
「はあ。ひとつ聞きたいんだけどルキフェルはどうした?」
「安心しろ。死んではいない」
「……まだ監禁してんのか」
ジャスパーの目が細くなるとエドガーは首を振って机の上で指を組んだ。
「違うな。あいつが部屋から一向に出ないだけだ」
「……あいつに何した」
ジャスパーの顔から完全に笑みが消え失せ、エドガーは少し考えるような顔をすると雑談でもするように口を開いた。
「ああ、いつだったかな。あいつは自分の自由を賭けてフェルナンドと決闘した」
「結果は?」
「負傷して敗北」
ジャスパーの目が見開かれるとエドガーは肩をすくめて淡々と告げた。
「自由を失った。今じゃ、あいつはオレのもの」
ジャスパーの指先がわずかに震え、普段の飄々とした空気も纏わず声を押し殺して唸った。
「……ふざけんな」
エドガーはわずかに口元を歪める。ジャスパーがここまで露骨に感情を表すのは珍しい。ジャスパーはエドガーを睨んだまま低く言う。
「それじゃ、なんだ? ……あいつを餌にして、おれを引きずり出そうってか」
エドガーは薄く笑い、否定もしない代わりに椅子にもたれて言う。
「ここでお前が断ればルキフェルは負傷どころでは済まない。——さあ、どうする?」
船長室の空気が重く沈んだ。ジャスパーはエドガーの言葉を反芻するように黙っていたが、やがて溜め息と共に言った。
「……ちゃんと詳しく聞かせろよ」
エドガーのは机の引き出しを開けると中から一枚の紙を取り出す。もう必要ないと思っていた契約書を机の上に置くと紙が乾いた音を立てた。
「仕事仲間としようか。悪いようにはしない」
エドガーが嬉々として言うと指先で紙を軽く叩いた。
「ここにサインすれば、お前とルキフェルの安全は保証する。ただし、この船から離れることはできない」
ジャスパーは紙を一瞬だけ見ると机の上の羽ペンを手に取り、さらさらと音が走って契約書の下に「Jasper」と書きつけてペンを置いた。インクがまだ乾かない文字を見下ろしながらジャスパーは言う。
「……ほら、これで満足だろ。だから、仲間には手ェ出すな」
エドガーは契約書を手に取ってざっと目を通すと思い出したように聞く。
「そういや、他の連中は?」
ジャスパーはわざとらしく鼻を鳴らした。
「さあ、知らねえよ。あんたのおかげで、みんなバラバラだ。生きてるかどうかすら分からねえ」




