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第七章② ニール

 ニールは船を降りると港の喧騒を背に歩き出した。市場も騒がしいが、ニールは人混みを避けて細い路地へと入る。旧市街へ向かう石畳の道は港よりずっと静かだった。やがて、見慣れた建物の裏口へ辿り着くと扉を叩き、すぐに内側から鍵が外れる音がした。ギィ、と扉が開くと中に立っていたのはディッキーだった。


「どうしたの?」


 ニールが尋ねるとディッキーは少しだけ身を乗り出すようにして声を潜めた。


「ソフィーさん、来ましたよ」

「ほんと?」

「はい。上司二人と一緒です。今は食堂にいます」

「それなら早速——」


 ニールの表情がぱっと明るくなってディッキーの横を通り抜けようとした時、ディッキーにぐいっと腕を掴まれて振り返った。


「待ってください」

「え?」

「お部屋に案内します」


 ディッキーは落ち着いた顔で言うと少し得意げに付け加えた。


「ほら、来賓用の部屋。あそこは密会に適していますから」


 ニールは一瞬きょとんとしたが、すぐに頷いた。


「……なるほど」


 二人は廊下を進んで階段を上がると奥へ奥へと進み、来賓部屋の前でディッキーが立ち止まって扉を開けた。


「どうぞ。ここなら、誰にも邪魔されません」


 ディッキーはそう言ってニールを部屋へ通した。ソフィーたちを待つ間、部屋は妙に静かだった。最初、ニールは椅子に座っていたが、落ち着かなくて立ち上がるとフランス窓を開けてバルコニーへ出た。秋の風がひんやりと頬を掠め、潮の匂いがかすかに届く。ニールは遠くに見える港の灯りをしばらく黙って眺めた。


「……この街もすっかり荒れたな」


 自由港、サン・マロ。かつては海商たちの拠点だった街だが、今は違う。エドガー海賊団、いや他の海賊団もこの街に巣食っている。もはや単なる寄り合いではない、同盟だ。海賊同盟、エドガーを海の王に据え、海賊たちはフランスの海を暴れ回っている。ここはもう海賊の街だった、小さな国のようなものだ。ニールは港を見つめながらぽつりと呟いた。


「……フランソワ船長、どう思っているんだろう」


 死んでなお、この混乱に責任を感じているだろうか。そんなことを考えるが、死者は死者だ。海の亡霊に問いかけても答えは返ってこない。その時、ニールの背後で扉をノックする音が響いた。ニールは振り返ってバルコニーの手すりに凭れるとガチャリと鳴る音に続いて、ギギィと扉が開く音がした瞬間、ニールは爽やかな声で口を開いた。


「待ってたよ」


 扉の向こうに現れたのは三人の人物、外套を羽織った影。先頭に立つのはソフィー、彼女の隣に立つのはマクシムだが、以前と違っていた。髪が灰色に変わっている。そしてもう一人、痩身長躯の男。強面の顔には右目をかすめるように傷跡——ルキフェルがかつて刻んだ傷——が縦に走っている。ニールは一瞬だけマクシムの髪色に面食らいそうになったが、顔には出さず柔らかな笑みを浮かべた。


「君たちが来てくれるか、ちょっと不安だったけどね」


 そう言って、彼は室内へ足を踏み入れると円卓を指し示した。


「座って。今夜は……少し、長くなるかもしれないから」


 三人が部屋へ入って椅子が引かれ、ニールも彼らと向かい合って座った。海軍と海賊、本来なら決して同じ席につくことのない者たちだが、今夜はその密会が始まろうとしていた。ニールは椅子の背に軽く体重を預けながら三人の様子を観察していった。ソフィー、マクシム、それから強面の副官らしき男。海軍の人間が三人、それも敵地の真ん中で自分の前に座っている。妙な光景だとニールは思った。最初に口を開いたのはソフィーだ。


「ニール、元気そうで嬉しいわ。こんなに早く再会できるなんて、正直思ってなかったけど」


 ——相変わらずだ。


ニールはふっと微笑んで肩をすくめる。


「そちらこそだよ。強くなった気配を感じるけど……僕の筋書き通りに動いてくれているみたいで、正直ホッとしてる」


 ソフィーの眉がわずかに寄ってじっとニールを見つめた。


「なぜエドガー海賊団にいるの? 無理やり? それとも……」


 ニールは視線を窓の外へ投げた。遠くの港の灯りが揺れている。


「そう。無理やり部下にされたんだ。でも、ちゃんとエドガーには僕らの意思は伝えてある。彼も知ってるはずなのに、強引だよね」


 一方、マクシムの脳裏には一瞬だけ別の顔が浮かんでいた。


 ——ラウル。


 まだ幼かった頃、同じ時間を過ごした少年。記憶を失い、ルキフェルという名の海賊になった男。あの男は、もう自分のことなど覚えていないはずだ。それどころか、つい最近あの男の刃で自分は重傷を負い、本気で殺されかけたばかりだ。それでも、どこかでまだあの頃の影を探してしまう。自分でも理由は分からない。その感情を押し込めるように、マクシムは表情を変えずにニールを見据えていた。


「ほかの四人の状況は? 特にルキフェルのことが気になります」


 ニールは彼の視線に少しだけ眉を寄せたが頭の中で情報を整理して顔を三人に向ける。


「みんな別々の船団に分散されてる。ルキフェルだけは、どこにいるか分からない。でも、監禁されているのは間違いない。姿が見えないんだ」


 ソフィーが息を呑む気配がした。


「じゃあ、残りの三人は?」


 ニールは言葉を紡いでいく。


「マテオはフェルナンドと同じ船団にいて、今夜も仕事をやらされていると思う。コリンはこの間、掃除させられているのを見かけた。ジャスパーは機転が利くからか、良いポジションに収まっているみたい」


 ニールは内心で思った。ジャスパーに関しては少し事情が違う。あれは良いポジションに収まったというより、アーシャたちが囲ったというべきか。だが、そこまで説明する必要はない。余計な情報は出さない方がいい。マクシムはニールの言葉にしばらく黙り込んだ。ルキフェルが簡単に死ぬとは思えない。あの男はそういう類の人間ではないが、それでも気になる。胸の奥で小さな違和感が消えないが、マクシムは頷いて情報の重みを噛み締めるように拳を握ると隣の男——ダヴィットがテーブルに肘をついて口を開いた。


「それにしても……分散されながらも、きちんと連携は取れてるじゃないか。まるで最初からそういう指示があったかのように」


 ニールは椅子の背に肘をかけ、足を組み直した。


「このサン・マロ全体が、今やエドガー海賊団の拠点みたいなものだからね。お互いの居場所も動きも、自然と共有されるようになってる」


 ダヴィットが顔を顰めて身を乗り出した。


「おいおい……そんな危険地帯に、よりによって俺たちを呼び込むとはな。危険を犯すこっちの身にもなってくれよ?」


 ニールは流し目にチラリとダヴィットから目を逸らした。


「だって、僕らは身動きが取れない状況なんだ。どこで誰に見張られているかも分からないし、外に情報を送る手段も限られてる。それに、手紙には何も『君たちに宛てている』とは書いてない。あくまで、『手紙の秘密を解いた者』に宛ててるんだよ」


 マクシムが鼻を鳴らした。


「詭弁ですね」


 空気がわずかに冷え、ニールは瞳から光を消して微笑みを湛えた。


「でも、事実でしょ?」


 金髪の男と灰色髪の男の視線がぶつかり、空気が張り詰めた。ソフィーが立ち上がってテーブル越しにまっすぐニールを見据え、声に焦りを滲ませる。


「それにしても、状況は最悪じゃない。サン・マロ全体がエドガーの拠点だなんて、本部に報告しないと!」


 怒りと焦燥がそのまま言葉に乗っていたが、ニールは微笑みを崩さず少し困ったように眉を下げて柔らかく言った。


「あー、それは難しいと思うな」

「そうですね」


 ソフィーの横からマクシムが言葉を継いでいく。


「そもそも僕たちは正式な許可もなくブレストを抜け出してここまで来ている。しかも、こうして敵勢力と接触しているとあっては……仮にこの場でどれだけ正しい情報を持ち帰ったとしても、海軍からの信用は得られないでしょう。まずは我々自身の行動が、すでに罪に問われかねないものですから」


 ソフィーは言葉を失って拳を握るとダヴィットが椅子に深く凭れた。


「……終わった。もう俺たち、詰んでるじゃないか……今だって謹慎中なのに、敵の縄張りに入り込んで、勝手に会合して……いやもう、何もかもがまずい。あとでグウェナエルに見つかったら本気で殺される」


 ニールは肩をすくめてお茶のカップに手を伸ばす。


「それは僕も予想してたけどね」


 もちろん嘘だ。そんな事情、これっぽっちも考えていない。なんなら、ここまで来る余裕など一度もなかった。リー・ウェンに泣きつき、アランに泣きつき、どうすればいいのか分からないまま必死に盤面を繋いできただけだが、それを口にするわけにはいかない。これは自分の戦いだ。だからニールはいつもの顔で続けた。


「でも、君たちが来てくれたおかげで状況は大きく動かせる。海軍の常識の外で動ける人間がいるってことはとても貴重なんだよ」

「つまり僕たちはもう正規の軍人ではなく、あなたの計画の一部になったと?」


 マクシムが目を細め、ニールは爽やかに笑った。


「その通り」


 それも嘘だ。そんな計画など最初からなかったが、今はそういうことにしておくしかない。静寂が場を覆い、その空気を切り裂くようにニールは背筋を伸ばしてテーブルの縁に指先を揃えた。


 ——やっと言える。この機会を、ずっと待っていた。ずっと。


「さて、ようやく本題に入れる。僕は、いや僕らは、君たちに伝えたいことがあるんだ」


 マクシムが目を細め、ダヴィットが身を乗り出し、ソフィーは息を呑んでいた。ニールは青い目を光らせて口を開いた。


「単刀直入に言おう。——お宅には内通者が潜んでいる。おそらく、その人はパリ総司令部にいる」


 灯りが落ちたような沈黙、ソフィーの目が見開かれ、マクシムは表情を崩さないが握った拳はわずかに強くなった。ダヴィットは呆然としながら呟く。


「……なんだって……?」


 ニールは三人をまっすぐ見据える。笑みは消え、もう冗談の色はない。


「この情報を渡すために、僕はずっと機会を探してた。信じてもらえるかわからない。でも、事実だ」


 ダヴィットが椅子を蹴るようにして立ち上がり、怒りと困惑が入り混じった声で部屋の空気を震わせた。


「ふざけるな! 内通者だと? そんな重大な話を、こんなふざけた言い草で——!」


 ニールは手を上げて穏やかに言う。


「ふざけてはいられないよ。これは事実だ。そして証拠も、君たちがもう手にしている」

「……この書簡か」


 マクシムが懐から取り出した封筒が円卓の上に置かれた瞬間、ニールは一瞬だけ目を細めた。


 ——いや待って。なんでこれ血まみれなの??


 ニールは内心で首を傾げるが顔には出さない。マクシムが続ける。


「この文書に記された『コルヴァン』……男性で間違いありませんか? 一体何者なんです?」

「前にルキフェルから聞いたことがある」


 そこから、ニールは三人への説明が始まった。フランソワ海賊団の旗揚げメンバーの一人、通名コルヴァ”。伝説の情報屋、そして貴族になった男。ニールはここに至るまでの経緯を語った。リー・ウェンに会ったこと炙り出しの手紙の技法を教わったこと、コルヴァンを名乗って該当する貴族たちに仕掛けを打ったこと。そして、その賭けが当たったこと。返答を寄越したのは一人だけだった。この話を聞く間、三人は一言も口を挟まなかった。ダヴィットは腕を組み、マクシムは沈黙のまま情報を咀嚼し、ソフィーだけが時折小さく頷いている。ニールは最後に言った。


「つまり、今の総司令部には、“伝説の情報屋”が潜んでいる可能性が高い」


 空気が重く沈み、ソフィーが目を伏、マクシムは再び拳を握り締めた。ニールは三人を見据えたまま言葉を締めくくる。


「そして僕は、それを君たちに伝える役を買って出たんだ。この情報を正しく渡せる人間は……君たちしかいなかったから」


 ソフィーが小さく頷いた。


「それで、あの戦闘を利用したのね。 “銀の猫”フェルナンドの出撃。その船団にいるマテオに書簡を託した」

「そして、君の目に届くように」


 ニールはソフィーだけを見つめながら言う。


「マクシミリアンだけじゃ不十分だった。君にこそ、この手紙の意味を見抜いてほしかったから。だから炙り出しにした」


 ニールはテーブルに肘をついて笑った。


「……その瞬間、僕の中で賭けが決まった。たとえマクシミリアンが気づかなくても、君なら気づいてくれる。『頼むから気づいて!』って、ちょっと本気で祈ったよ。君の鋭さに僕の賭けを乗せたんだ」


 ソフィーはしばらく黙っていたが、瞳には小さな火が灯っていた。ダヴィットが腕を組み、目を細めたままニールを見つめている。


「たしかによくできた筋書きだ。けどな……ひとつ、どうしても引っかかることがある」


 ニールは視線で続きを促すとダヴィットは少し眉を顰めた。


「俺がバカじゃなければの話だが……“コルヴァン”って人物、年齢が合わなくないか? たしかフランソワ海賊団が旗揚げしたのは十年くらい前だったはずだ。まあ当時は私掠船の看板だったな。だが今となっては、そんな年季の入ったおっさんが船を降りて、のうのうと海軍に勤めてるとは……ちょっと考えづらい」


 ニールは小さく瞬きをした。意外と鋭い。声がデカいだけのリアクション芸人じゃなかったんだな。それは正直、助かる。だが、ニールの頭の中でセドリックの顔が浮かぶ。


 ——まあ……おっさん扱いされるのは否定できないけど。だって手紙に親父ギャグ書く人だし。


 ニールは笑いが溢れないよう息を吐いてから言った。


「いい線突いてるね。僕に手紙を返してきた御方も、そのことについてちゃんと書いていた。コルヴァンという名前はね、一族が情報屋として活動してきた時に代々名乗ってきた通名、世襲名だって」


 マクシムの視線がわずかに鋭くなるが、ニールは続ける。


「彼自身は、その十四代目なんだってさ。もう貴族として正式な地位を得たから、情報屋としてのコルヴァンは引退した。名前も、役目も、封じたはずだったと書いていた」

「……そうか。じゃあ、息子か。あるいは娘か」


 マクシムの言葉にニールは頷いた。


「その通り。僕は、そのご子息が“十五代目”として今もコルヴァンの名を使って情報を操り、しかもそれが海軍総司令部の中に潜んでいると睨んでる。エドガーへの情報漏洩、その発信源だよ」


 ——というか……確定なんだよな。


 今頃、セドリックは確実に動いている。バカ息子の失態を確実に握るために、彼は全方位にワタリガラス飛ばしまくってることだろう。あの男ならやる、間違いなくやる。ニールは心の中で苦笑してるとダヴィットが肩を落として苦々しく言う。


「……なんてことだ。今すぐにでもこの事実を本部に伝えたい……だが、俺たちじゃ詰んでるんだったな……」


 ダヴィットの視線が床に落ちた。まるで見えない鎖が彼らの足元に絡みついているかのような空気の中、ニールは穏やかな笑みを浮かべて言った。


「……知るのと知らないのとでは大きな差があるよ。それに、風は気ままに流れるからね」


 慰めとも助言ともつかない言葉だっただが、三人は特に反論もしなかった。


 ——まだ大丈夫そうだ、キャパオーバーにはなってない。なら、もう少し裏側を話してもよさそう。


 ニールは声の調子を少しだけ変えた。


「ところで、謹慎中の君たちがどうして急に任務に呼び出されたか。気にならない?」


 マクシムが眉を上げる。


「確かに、気にはなっていましたが。どうしてあなたがそれを?」


 その瞬間、マクシムの瞳がわずかに見開かれて椅子が小さく音を立てた。


「まさか……それもコルヴァンが?」

「そう」


 ニールはゆっくり頷くとテーブルの上で指先を組んだ。


「情報はエドガーとフェルナンドの元に流れ込んできた。君たちがブレストで謹慎中だってことも全部把握されてた。それも、マテオが常に耳をすませてくれたおかげだけどね」

「マテオ?」


 ソフィーが思わず声を上げ、ニールは悪戯っぽく笑った。


「彼、相変わらず影の使い方が上手くてね。エドガーとフェルナンドの密会を盗み聞きして、君たちが海軍内で動けない状態だと知ったんだ。それで僕のところに相談しに来た。『どうすればソフィーたちに伝えられるか』って」

「それで、あの手紙を……」


 マクシムの言葉にニールは頷いて円卓の上の手紙を指差す。


「うん。僕は炙り出しの書簡を用意して、マテオに託した。そして彼はフェルナンドの部屋からコルヴァンの手紙を盗み出して、そのあと君たちの部屋に潜り込んで置いていったんだ。……血塗れの理由は僕にも分からないけどね」


 実際のところ、マテオが帰ってきて告げてきたのはたった一言だけ。


 ——言われた通りに置いてきた。


 だから今話している内容はほとんど推測だだが、状況を考えればだいたい見当はつく。少なくとも、この血まみれの封筒を見る限りでは。マクシムが手紙を一瞥し、ため息をつく。


「僕の書斎に忍び込むまでに、ずいぶん派手に暴れたようですね。道中、どんな殺生を働いたのか。それに……」


 マクシムの脳裏にはあの光景が蘇っていた。


 戦闘のあと彼が疲労の中で執務室に入った瞬間、机の上の書類はすべて床にばら撒かれ、引き出しは開けっぱなし。紙と海図が床一面に散らばり、インク壺は倒れ、椅子は蹴り飛ばされていた。羊皮紙も羽ペンも床に転がっている。おまけに窓は割れていた。まるで嵐でも通り過ぎたかのような惨状に、マクシムは一瞬腰を抜かしかけたが、机に近づくと二通の手紙がまるで「ここを見ろ」と言わんばかりに置かれていたのだ。


「……あれほど整頓されていた机の上が、見事にぐちゃぐちゃになっていました」

「帰ったら問い詰めることにするよ」


 ニールは軽く笑ったが内心では別のことを考えていた。


 ——あいつ、余計なことしてくれたな。机を荒らす必要はなかったはず。完全に嫌がらせだ。この手紙と同じように襟を掴んで、あの綺麗な顔にインクでも塗ってやろう。


 そんなことを考えながらもニールは表情だけ涼しげだった。ダヴィットがうなだれるように顔を上げる。


「なあ……それで言うと……俺たちが緊急出動したのも、あれも全部……仕組まれてたってわけか?」


 半分は冗談の口調だったが、ダヴィットの目は一切笑っていない。ニールは椅子の背もたれに体を預けて窓の外に目を向けた。


「信じられないと思うけど、その通り。エドガーは君たちをブレストから引っ張り出すために、他の海賊団を地中海やガスコーニュ湾で暴れさせた。マテオがそう聞いたらしい。警備と戦闘部隊を分散させて、君たちだけを浮かび上がらせた。……最も扱いやすく、最も動ける駒として」


 ダヴィットの口が開いたまま止まり、ニールは続ける。


「もちろん、パリの方でも、こっちから働きかける手は使ってたらしいよ。例えば“君たちの謹慎処分の緩和”を申し出た人物がいたとか、君たちの実績を“偶然”評価した報告書が上がったとか……」


 もちろん、これも嘘だ。ニール自身はそんな動きを一切知らないが、話に現実味を持たせるために少し盛った。


 ——まあ……こういうのは言い切ったほうが説得力あるし。


 ダヴィットはニールの言葉を受けてとうとう肩を落とした。


「なんかもう……情報の波が凄すぎて溺れそうだ……」


 ダヴィットはついに両手で頭を抱え、天井を仰いだ。ニールは彼の様子を見て「僕が追い詰めてるみたい、なんかごめんね」と内心で合掌しているとマクシムの声がぽつりと落ちる。


「いや……今の話で、僕にも思い当たることがあります」


 マクシムは窓の外を見て過去を探った。


「僕は、たびたび脱走をしては上官たちから咎められていました」


 マクシムの脳裏に浮かぶのはいつもの光景。書類仕事を抜け出した時のリラの冷たい視線、シャルルの呆れた声、そしてグウェナエルの静かな圧力。「書類業務をサボるな」という言葉にしない叱責。さらにもう一つ、ブレスト城にふらりと立ち寄ったときの先輩士官たちの声と表面上はにこやかな笑顔。


「今日も非番ですか?」


 あの笑顔の裏にあるのは出動の少ないマクシミリアン隊への皮肉だった。


「でも……最近は誰も咎めに来ないなとは思っていたんです。静かすぎるな、とも」


 マクシムはあの日の記憶を辿っていた。いつも通り執務室から逃げ出し、宿舎の裏口から外へ出た日。秋の空気がひやりと頬に触れた。ただ書類から離れたかっただけのためにブレスト港へ向かうが、そこで足が止まった。妙だった。港には普段、紺色の軍服が溢れている。見張り、整備兵、航海士、補給係。誰かが常に動いている場所だが、その日は違った。紺色が少ない、ブレスト城でも同じような光景が広がっていた。マクシムは椅子の背に身を預けて言う。


「宿舎、司令部、港。どこへ行ってもシーンとしていた。誰かの気配が薄い。……そうか。みんな、駆り出されていたんですね」


 ニールはほんの少しだけ目を細め、マクシムの傍らでソフィーが眉を寄せて声を震わせた。


「でも……一海賊団と、一人の情報屋だけで……ここまでの計画を動かせるものなんですか? 地中海やガスコーニュ湾の動きまでって、正直……スケールが違いすぎて」


 ソフィーの言葉は問いかけというより「そんなはずはない」という拒絶に近かった。マクシムがまるで思考を並べるように低く呟く。


「……エドガー海賊団、情報屋、そしてその他の海賊団。この陰謀は、彼らの背後にいる――もっと大きな存在が蠢いている気がします」


 マクシムのそれは直感だったが、言葉には妙な重みがあった。ニールは笑った。穏やかな声だが、その奥にほんのわずかな苦味が滲む。


「うん。……そうかもしれないね。でも、残念ながら――僕がわかるのは、ここまで」


 もちろん嘘だ。ニールは知っている。この裏で動いている旧ブルボン派の存在を。だが、それをここで話すつもりはない。海軍には海賊の相手をしてもらえばいい。旧ブルボン派の話まで持ち出せば、ソフィーたちの任務は濁る。——これは自分たちの戦いだ。旧ブルボン派は自分たちが追う。部屋に沈黙が落ちたが、マクシムが破った。


「……謹慎中の僕たちは、部隊としての機能が働けません。できることといえば、せいぜい大人しくしていることです。ですが……部隊内で、できることはある」


 マクシムはテーブルの上の血塗れの書簡を見つめ、ニールは黙って彼を冷ややかに見ていた。


 ……覚えてるよな。昔、同じ制服を着た仲間を殺したこと。


 ニールの胸の奥で鈍い棘が動いた。忘れたとは言わせない。マクシムは続ける。


「この状況で、お互いを疑い合っている場合ではありません。誰を信じるかではなく、何を為すか。そのほうが重要でしょう。そのために、僕は今夜のことを……自分の部隊にだけは、正直に話します。命がかかっているんです。僕たちはこのままでは終われません」


 その瞬間、ニールの胸の奥で何かが弾けて思わず拳を握り、耳の奥が冷たくなった。


 ……ベルナルドを殺したやつが、何言ってるんだ。——聞いてられない。


 椅子がわずかに軋み、ニールは気づけば立ち上がっていた。場が一瞬だけ沈黙する中、ニールはシャツの襟を整えた。


「……じゃあ、そろそろ帰るよ。僕らには僕らの計画があるから。そっちは君たちで片付けなよ」


 ニールが扉に手をかけようとした時、彼の背後から静かな声がした。


「……お待ちください」


 マクシムだった。ニールは肩がピクリと震えて足を止めるが、振り返りはしなかった。


「今夜、あなたがなぜここまで協力的なのか……お聞きしても?」


 マクシムの問いに、ニールは息を吐いて半身だけ振り返る。彼の横顔には冗談とも本気ともつかない曖昧な笑みが浮かんでいた。


「決まってるでしょ? これは情報戦だよ。僕が君たちに情報を流すことで、君たちの動向や立場を利用してるにすぎない。僕らは、エドガー・ロジャースが復讐に取り憑かれているのを知ってる。だから、手遅れになる前に手を打ちたいだけさ」


 その瞬間、鋭く割り込んだのはダヴィットだった。


「……それは誰のためだ? フランソワの意志か?」


 ダヴィットの問いは刃のように真っ直ぐだった。ニールの笑みがほんの少しだけ薄れる。


「船長の意思は、もう聞くことはできない。誰のためって? 他ならぬ、僕らのためだよ。もっと言えば、僕らの計画のため。滅びたきゃ滅べばいい。でも、僕らがエドガーを殺すんだから……感謝してね?」

「……なんですって?」

「本気か……?」


 思わずソフィーが声を上げ、ダヴィットも低く問い返す。ニールは子供が悪戯を仕掛けた時のような顔で告げる。


「もちろん。僕らはいつだって本気さ」


 そう言って、ニールが再び扉に手をかけた時、椅子が引かれる音がした。


「……ニール、と仰いましたね」


 マクシムが立ち上がって端正な動作で一礼する。


「ありがとうございます。僕たちに話してくれて。あなたも非常に厳しい状況にも関わらず、命を懸けてここまで来てくださった。あなたのその勇気と行動力に、心から感謝いたします」


 ニールは扉を見たまま立っていた。記憶が突然よみがえる。短剣、腕を貫く鋭い痛み、甲板に叩きつけられる衝撃。喉元に迫るサーベルと冷たい声。思わず息が詰まって眩暈が襲ってくる。それから、もう一つの記憶。夕暮れの港布を裂く音。ベルナルドの背中に突き刺さる刃。氷のような瞳——マクシミリアン・ブーケ。ニールの胃の奥が軋んで吐き気がせり上がる。


 ……気持ち悪い。


 ニールの手がわずかに震え、扉の取っ手を握る指に力が入る。


 ——ベルナルドを殺したやつが、僕を殺そうとしたやつが。……忘れてるのか。それとも覚えていて言ってるのか。


 今、その本人が「感謝している」と言っている。どちらにしても、吐きそうだった。早くこいつの口から真実を聞き出して——殺したい。喉の奥まで上がってきた感情をニールは必死に押し込めんで呼吸を整えた。


「だから、僕もあなたに情報を流します」


 落ち着いた声音、どこまでも誠実でどこまでも“マクシミリアン・ブーケらしい”声にニールは目を細めた。


「エドガーの右腕、フェルナンド。彼が大怪我をして、今は療養のために僕たちの元で保護されていることは……ご存知でしたか?」


 マクシムの一言でニールの背が揺れた。


「……それは、僕も知らなかったなあ」


 今度ばかりは本当に知らなかった。驚きがそのまま口をついた。マテオが何か隠している気はしていたが、まさかそこまでとは思っていなかった。ソフィーが立ち上がって言葉を継ぐ。


「マテオが、あの戦闘の中でマテオが、私と仲間を助けるために彼を撃ったの。私はすぐに治療して……でも、フェルナンドは今も意識が戻らないまま」

「彼が目覚めて、海軍司令部の目の前で計画を明かしてくれれば、状況は大きく一変します。それに、エドガー海賊団としても彼の存在を失ったことで計画に狂いは生じていると思います。僕たちの、もう一つの責務はフェルナンドを逃さず、必ず情報を吐かせることです」


 マクシムの言葉を聞いた瞬間、ニールは吹き出していた。肩が震え、堪えきれずに笑い声が漏れる。


「……あははっ」


 ニールは高らかに笑った。だってあの夜、マテオは帰ってくるなり「言われた通りに置いてきた」としか言わなかった。フェルナンドを撃ったことも。意識を奪って置いてきたことも、何一つ。——この期に及んで格好つけるなよと思ったが、同時にソフィーの口から「私と仲間を助けるために」と聞いて妙に納得してしまった。


 ——ああ。マテオならそうするか。


 結局、あいつはどこまでも仲間想いなのだ。それが可笑しくて呆れて、それでも少しだけ誇らしくて、ニールは笑った。彼はくるりと振り返るといつもの爽やかな笑みに戻ってウィンクすら浮かべる。


「ありがとう。実に有益な情報だよ! では、これにて失礼するよ。僕はこれからマテオを……そうだな、しばきに……いや、色々と問い詰めなくてはね」


 完全にあいつへの嫌味だった。ニールは歩きかけて思い出したように足を止めると再度振り返ってソフィーに目を向ける。


「そうだソフィー。実家には、戻ってるかい?」

「……え?」


 ソフィーが目を瞬かせるがニールは続ける。


「どんな過去があろうと時々は家族に会ってやればいいのにって、あいつが以前、言ってたよ」


 ニールの頭の中に浮かんでいたのはマテオだった。あいつは妙なところで人の傷に敏い。だからこそ、ぽつりとそんなことを言ったのだろうが、ソフィーの方では別の顔を思い浮かべたらしかった。


「あいつ……あいつね」


 ぽつりと呟く彼女の顔に浮かんだのは、どう見ても別人の記憶だった。ニールはそれ以上訂正しなかった。どうでもいいすれ違いだったし、わざわざ直すほどのことでもない。ダヴィットが腕を組んだまま口を開く。


「そういや、貴様らのリーダーは監禁されてるんだったか? 本当に無事なのか。貴様も奴に会えなければ困るだろう」


 ニールは微笑んだ。


「それなら心配は要らないよ。ルキフェルは、たとえ死の淵にいたとしても必ず這い上がってくるさ。一度手合わせした君らには、彼の凄さは嫌というほど分かってるだろう?」


 それは願望ではない、確信だ。ルキフェルという男を知っている者だけが持てる、揺るぎない信頼。あの男は倒れることはあっても終わることはない。奪われても傷ついても、地を這ってでも戻ってくる。一度手合わせした者なら、その異様さも執念深さも、その恐ろしさも嫌というほど分かっているはず。マクシムが愕然と肩を落とした。


「ええ、できれば二度と会いたくないですね。……ですが、そういうわけにはいかなそうです」


 ニールはどこまでも爽やかに笑ってひらひらと手を振る。


「じゃあね」


 そう言って彼は部屋を出た。彼の背後で扉が閉まる向こうで気配が少しずつ遠ざかっていく。

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