第七章① ニール
第四船団が壊滅し、第五船団がマクシミリアン・ブーケ隊と刃を交えている頃、サン・マロでは別の動きがあった。入江に鎮座するリヴェンジ・クイーンの船長室に二人の海賊が立っていた。アーシャとフェリス、第八船団の船長とクォーターマスターである。
「——というわけで、人員が揃いました。そろそろ海に出ます。報告だけ、と思いまして」
アーシャが軽く肩をすくめながら言うと机の向こうでエドガーが面倒くさそうに手を振る。
「いや、出なくていい。今ごろマクシミリアンが海に出た頃だ。フェルナンドに一任している。お前たちは動く必要はない」
アーシャとフェリスはほぼ同時に心の中で頷いた。
——でしょうね。
表向きは第八船団だが実態はほとんど役立たず扱いの船団だ。そんな連中に大事な戦を任せるほどエドガーは甘くない。
「ところで、エドガー船長」
アーシャは猫が甘えるような声で首を傾げる。
「そのマクシミリアンって人、どんな顔してるんですかぁ? 書類上では存在してるんですよね? 顔も分からないと、どいつを襲えばいいか分からなくてぇ、ちょっと気になってるんですぅ」
海賊の女らしく男の話題に興味を示す、いつもの彼女の調子にエドガーは鼻で笑うと、机の上にあった紙を無造作にひったくって二人の前へ差し出した。
「ああ、これだけど?」
そこに描かれていたのは見事な似顔絵だ。いや、見事というよりあまりに精密すぎる。髪の流れ、目の形、輪郭の癖、細部まで生々しいほど正確に描き込まれている。まるで本人をその場で見ながら描いたかのよう。アーシャとフェリスは同時に固まった。
——なんで?
二人の沈黙を見てエドガーが首を傾げる。
「好みじゃなかったか。まあ、こいつ小柄らしいからな」
アーシャは紙を凝視しているとエドガーが続ける。
「さっき届けられたものだ。オレが『あいつの顔、分からん』と言ったら、この場で描いて渡してきた」
フェリスが顔を上げて困ったように眉を寄せる。
「えーと……誰が、誰に?」
エドガーは肩をすくめた。
「ここに来たやつが、オレに向けてな」
エドガーの脳裏には黒衣と音のない足取り、目の前の紙を描いていた若い男が浮かんだ。時折しどろもどろで言葉は頼りない——今日は調子悪い日か——が、絵だけは異様なほど正確だった。だがエドガーはそれ以上は語らずあからさまに二人を追い払う。
「分かったな? ほら、さっさと帰れ。人員が揃ったなら次の戦いに向けて親睦会でもしてろ」
「……了解」
アーシャは軽く礼をして踵を返し、フェリスも彼女に続く。二人が黒船を出て入江を離れると潮風が二人の髪を揺らし、しばらく歩いたあとアーシャがぽつりと呟く。
「……ぱっと見た感じ、いなかったね」
「ああ。兄さん、落ち込むだろうな」
フェリスが肩を落とした。兄ニールから託された任務。エドガーの元を訪れて情報を探り、傷だらけの男を探せ。エドガーは確かに口が硬いが、二人は一つ持ち帰れるものがあった。ついこの間までエドガー本人ですら知らなかったはずのマクシミリアン・ブーケの顔を、今日のエドガーはなぜか知っている。アーシャは海を見た。
「……妙だね」
フェリスが頷く。入江には、潮の匂いだけが漂っていた。アーシャとフェリスが街中の港へ戻っていくと港には第八船団の船が停泊している。夜に備えてか、甲板には人影がまばらに動いていた。二人はそのまま船に乗り込み、船長室へ向かって扉を開けると室内にはニールとジャスパーがいた。コリンの姿はない。彼は今、狩りから一時的に戻って休憩している別の船団に駆り出され、甲板掃除をしているはず。
「——それで?」
ニールが執務机の向こうから顔を上げるとアーシャは椅子の背に手をかけ、軽く肩をすくめる。
「エドガーは動かないってさ。フェルナンドに任せてるって」
「それと……マクシミリアンの顔、もう知られてる」
フェリスの報告にニールとジャスパーは顔を見合わせた。
「……そうか」
ニールは机の上に視線を落として呟いた。すでに知られている。エドガーは知ってて、フェルナンドが知っているかどうかは分からないが、どちらにしても良い状況ではない。それより、ニールの頭の中は別のことでいっぱいだった。マテオは無事だろうか。今ごろ、どうしている。あいつなら何とかすると思う一方で、どうしても胸の奥がざわつく。ジャスパーが気楽そうに椅子を傾けた。
「まあー、その海軍にいるスパイが教えたんじゃないの?」
アーシャが眉を上げる。
「スパイ?」
ジャスパーは肩をすくめた。
「だって、海軍の情報なんて筒抜けなんだから。顔を知られてても別におかしくはないだろ」
フェリスが頷きかけ、アーシャは腕を組んだ。
「そうかなぁ」
「ん?」
「だってエドガー、今日知ったって言ってたんだよ」
「今日?」
「うん」
ジャスパーが首を傾げるとアーシャは思い出すように言う。
「しかも、その情報持ってきたやつがその場で描いたんだって」
ジャスパーの顔が固まる。
「……こわっ」
ニールはしばらく黙って机の上を見つめていたが、顔を上げてフェリスに目を向ける。
「……ルキフェルは?」
フェリスは一瞬だけ視線を伏せ、それから正直に答える。
「それらしい姿はなかったよ」
「そっか」
ニールが再び視線を机に落とすとアーシャとフェリスは思わず顔を見合わせた。その空気を払うようにジャスパーが軽く肩を回して椅子を傾けながら気楽そうに言う。
「ま、考えても仕方ないんだ。どうせマテオも無事だろう」
ニールがゆっくり顔を上げた。
「……なんで?」
「勘だ」
ジャスパーのいつもの一言。普段なら、ここで決まった流れがある。
「じゃあ、そうなんだろうな」
そう言って肩をすくめる男がいる。妙に説得力のない勘をなぜか皆が受け入れてしまう。そんなやり取りがいつもの日常だった。ニールの胸の奥でざわりと何かが揺れ、机の上で組んだ指に力が入った瞬間、机がキシッと鳴った。
その夜、第八船団の船長室には灯りがまだ残っていた。ニールは机の前に座ったまま何をするでもなく時間を過ごしている。書類は開かれているが、文字はまったく頭に入ってこない。考えることをやめられず夜が更けると、扉がギィ……と鳴ってニールは顔を上げた瞬間、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「マテオ……!」
入ってきたのはまさにその男だった。黒い外套を羽織り、戦場の匂いをまだ纏ったまま扉を静かに閉めるとマテオはニールを見据えて口を開いた。
「言われた通りに置いてきたぞ。それとソフィーの姿も見つけた」
ニールの肩から力が抜け、安堵が遅れて胸に広がる。
「……そうか、よかった……!」
作戦が成功したという実感がじわじわと込み上げ、気づけばニールは駆け寄って勢いのままマテオに抱きつくと、マテオは一瞬だけ固まって呆れたように息を吐いた。
「……またしばらく船から離れられない」
「え?」
「今夜も騒ぎの中で抜け出してきたんだ。戻らないと」
マテオはニールの腕を外すと扉へ向かって手をかけたが、動きを止めてニールを振り返った。
「どうしたの?」
ニールが首を傾げるとマテオは一瞬考えるように視線を逸らして言った。
「……なんでもない。けど、もし黒衣の男が街中にいたら大抵、オレだから」
マテオは口の端を上げて扉を開けると船を降りた。桟橋を渡ると街の灯りが石畳に滲み、遠くから酒場のざわめきが流れてくる。マテオは外套の襟を軽く上げて歩いていた。彼の頭の中では別の思考が巡っていた。ダラス家が関わっているんじゃないかと思っているが、それを打ち明けることはできなかった。打ち明けるには黒辰封儀教団の存在を話さなければならない。それから、自分の過去も。マテオは息を吐いた。言えない代わり、もし黒辰封儀教団が仲間たちを襲うことがあれば、その時は自分一人で受けて立つ。夜の街に黒衣の影が溶けていった。
それからニールの生活は妙な形で落ち着いていた。夜になると彼はカルロータとディッキーの宿屋へ向かった。もしソフィーたちが炙り出しの手紙を解いたなら、彼らはサン・マロへ来るはず。港へ出る途中、ニールは時折遠くからコリンの姿を見かけた。コリンは別の船団に駆り出され、甲板掃除をさせられている。まだ体格も少年の彼が真面目な顔で桶を運んでいた。ニールは遠目に一度だけ見守って歩き去り、旧市街へ向かう。彼は宿屋の裏口から入り、夜が明けるまで過ごし、朝が近づくとまた第八船団へ戻る。そんな日々が三日ほど続いた。
十月六日、夕暮れ時。船長室ではニールとジャスパー、それにアーシャとフェリスが談話していた。
「だからさ、その船団の料理人が——」
ジャスパーが何か言いかけた時、コンコンと船長室の扉がノックされて四人が同時に顔を上げる。
「ノックとか珍しい! 誰かわかんないけど、どうぞー」
アーシャが声を上げると扉が開く。入ってきたのはアランだった。片目を覆う黒い眼帯の下で残った瞳がこちらを見渡している。アランの背後には鋭い目を光らせる野生的な男、マルクが立っていた。マルクが扉を閉めてフードを外した瞬間、アーシャとフェリスが思わず目を見開く。
「あ、あなた!!」
「え。ウソですよね??」
アーシャとフェリスが同時に声を上げたが、それ以上の声量が部屋を裂いた。
「あああああああああ、あんたぁ!!」
ジャスパーだった。彼は金切り声を上げてマルクではなくアランの方へ駆け寄る。
「え、え、まじ!? 本物!? 信じられないですよぉ!!」
ジャスパーにしては珍しく目を輝かせている。ニールは耳を押さえていた手を下ろした。
「ええと、マルクは……まあ、ともかく」
ニールはマルクを無視してジャスパーと眼帯の男を交互に見た。
「二人とも知り合い?」
「知り合いも何も、この人やべえから。元上司だから」
ジャスパーがアランを指差すとニールの眉が上がる。
「この方はな……フランソワの私掠船時代、船団の旗揚げメンバーで元クォーターマスターだった人。つまり——ルキフェルの先生」
ジャスパーがにやりと笑うとニールの顔がまるで宇宙の真理に触れた猫のような顔になり、血の気が引いていった。
「……え?」
アランは肩をすくめた。
「今は船を降りた老耄だ」
ジャスパーが調子に乗って胡麻を擦り始める。
「またまたぁ、ほんとは照れてるくせに」
「どつき回すぞ」
二人のやり取りを前にニールの脳内は完全に処理落ちしていた。ルキフェルの先生、旗揚げメンバー、元クォーターマスター、フランソワの私掠船。あらゆる情報が彼の頭の中でぶつかり合い、ぷつんと糸が切れてニールは崩れ落ちた。
……ニールが目を覚ましたとき、船長室は静まり返っていた。ニールが身を起こすと頭が少し重かった。気を失ってから、そこそこ時間が経ったらしい。窓の外を見ると港はすっかり夜に沈んでいた。
「起きたか」
低く掠れた声がして、アランが腕を組んだまま壁際に立っている。
「……血が足りてないんじゃないか」
アランがぼそりと言った。栄養状態が悪いんじゃないかという意味の彼なりの気遣いだったが、ニールとアーシャとフェリスには別の意味に聞こえて三人とも硬直する。
——最近、血を浴びてないんじゃないか……?
そんな物騒な意味に聞こえ、アーシャとフェリスがジリ……とアランとの距離を取り、ニールもなんとなく背筋を伸ばした。彼らの様子を見てマルクが小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「……くだらねえ」
ジャスパーが腕を組むと顎でアランとマルクを示す。
「てかよ、ニール。協力者ってこの二人のことか? それに何で死んだはずのマルクがいるんだよ」
マルクの眉がぴくりと動く。
「死んでねえ。沈んだって噂が勝手に流れてただけだ」
アーシャとフェリスが顔を見合わせると妙にテンション高くはしゃぎ始めた。
「さすが、元第五船団の船長殿!」
「格が落ちてない!」
マルクは面倒くさそうに顔を背ける。そんな騒ぎの中でアランは一言も口を挟まずニールを見下ろして低い声で言った。
「俺はまずこのガキどもと雑談してる。お前は例の場所にでも行ってこい」
ニールが瞬きをするとアランは続けた。
「潮の匂いが妙だ。……なにかあるかもしれん」
一瞬だけ船長室の空気が静まり、ニールは頭を摩りながら立ち上がった。
「わかった。じゃあ、説明したいことは沢山あるんだけど皆で自己紹介でもしててよ。僕、出かけてくるから」
ニールは苦笑しながら扉へ向かって船長室を出て行く。彼が扉を閉めた直後、室内に残った四人は互いの顔を見合わせた。




