第六章⑧ マクシム隊VSフェルナンド率いる第五船団VSマテオ、潜入ミッション
海には硝煙の匂いが残り、第四船団の甲板には倒れた海賊たちが転がっていた。
「流石にエドガーはいないか」
マクシムが呟くように言い、視線は船倉の扉へと向けられていた。ソフィーは斃れた敵の間をゆっくりと歩き、まだ焦げ臭い木板の床に目を落とした。鉄のように冷たい彼女の視線が戦の全体像を測るかのように広がっていく時、柔らかな声が響いた。
「圧勝ね。怪我人も少なそう」
ソフィーが振り返るとアニータの姿があった。まだ戦場の余韻が残る空気の中で、彼女だけが穏やかな調子を保っている。
「でも、何かがおかしい」
ソフィーは手にした短剣を鞘に戻しながら言葉を継ぐ。
「私、一度だけエドガー本人に会ったことがあります。ひと目見ただけでもわかります。今回は分隊とはいえ、あの人がこんな正面から正々堂々と戦ってくるなんて信じられない」
「……陽動?」
「そうかもしれません。でも、何か違う……もっと、根のところが。これは“戦略”ではない。何かもっと……異質な“意思”を感じる」
アニータはしばらく黙っていると周囲の空気が変わった。
「……!」
遠く海の向こうに黒い帆影、第五船団が現れた。しかも、進路は完全に《ブリュヌ号》の横合いを目指している。
「新たな艦影、右舷より接近中! 方角変わらず、進路直線! 距離、八百!」
見張りの声が悲鳴のように響き渡り、すぐさまグウェナエルが船首へ向かってマクシムも視線をも目を向けて旗印を確認した。
「……挟み撃ちだ。あの船、エドガーの二番手か」
「舷側の砲を回せ!回頭しながら迎撃体制、急げ!」
マクシムの指示が飛び、乗組員たちが慌ただしく配置へ走る。ジョルジュは敵艦の大きさを一瞥しながら呟いた。
「まるで、ボクたちの出方を読んでいたみたいだな」
第五船団が徐々に距離を詰めてくる中、グウェナエルが剣を構えて誰にともなく言い放つ。
「この戦、まだ終わっていない。全員、第二波に備えよ」
第五船団が接舷し両船の間に板が掛けられると、海賊船の舷側に立つフェルナンドが風に揺れる長い外套を翻しながら、青い軍装の群れの中に小柄な一人の男と灰色の髪を見つけ、フェルナンドの唇が歪んだ。
「……やっと見つけた。乗り込め」
フェルナンドの一言で海賊たちは弾かれたように動いて板の上を黒い影が一斉に走る。
「うおおおおッ!」
乱戦が始まった。海軍と海賊が泥と血に染まりながら甲板の上で交錯し、混乱の中心を銀色の閃光が走った。フェルナンドは滑るように踏み込み、士官の剣を弾き返して刃で喉を裂くと血が弧を描き、別士官の背後に回って首筋に刃を滑らせると弛緩の体が崩れ落ち、側にいた海兵の一人が思わず叫んだ。
「……銀の猫だ!」
フェルナンドは振り向きも次の獲物を探すように歩いていった。一方、マクシムは海軍船の中心で背を合わせる形でリラと立っていた。二人を囲むように五人、六人と海賊がじりじりと距離を詰めるが、二人の間には焦りも恐怖もなかった。
「ここまで来てくれるとは、ずいぶん積極的な客人だこと」
リラの口元は余裕を保ち、手にしたサーベルの切っ先は寸分の狂いなく敵へ向いている。マクシムはリラをチラリと見て口を開く。
「お構いなしのようですね、今日のあなたも」
「あなたを守るためです。今日も側にいさせてください」
マクシムは右手に握る斬撃剣を肩の高さに掲げ、首にロープを垂らしていた。一瞬の間を裂くように海賊たちが一斉に飛びかかるが、リラは滑るように敵の間を抜け、脚払いでひとりを倒して倒れた男の背を踏み台にして舞い、宙で旋回する刃が海賊の首元を薙いて血飛沫で鮮やかな弧を描いた。マクシムは彼女の後ろで海賊の腕を試しにロープで絡め取り、瞬時に引き寄せてはサーベルで腹を突くと重い音がと共に海賊が崩れ落ちる。視
「本当は……こんなことしたくないのに」
マクシムの低い呟きが風にさらわれる。戦場の喧騒はまだ終わらず、接舷した二隻の船のあいだでは剣戟と怒号が絶え間なくぶつかり合っていた。火薬の煙が甲板を覆い、血の匂いと潮の湿気が混ざり合い、誰かが倒れて誰かが踏み越え、また誰かが叫ぶ。
その中を一人の影がすり抜けていく。
マテオは剣を振るわず流れる人の波を読み、海軍と海賊が入り乱れて斬り結ぶ隙を音もなく滑り抜けていった。誰も彼を見ていない。戦場では立ち止まらない者ほど目立たないものだ。途中、海兵のひとりが海賊を斬り伏せて血飛沫が弧を描き、赤黒い滴がマテオの頬と手に飛ぶが彼は拭いもせず後甲板へと進んだ。船尾楼へ続く階段を上がれば船長室の扉がある。階段の下ではまだ怒号が響き、剣が木板を叩く鈍い音と誰かの悲鳴、砲撃の残響さえマテオは振り返らず階段を上がる。船尾楼の扉を目の前に、彼は一瞬だけ周囲を見て扉に手を掛けるとギイと軋んだ音と共に室内へ滑り込んだ。
マテオが扉を閉めた瞬間、外の戦闘音が遠くなった。船長室の中は驚くほど静かだ。机、海図、航海用の計器。壁際には酒瓶とグラスが並び、床には厚い絨毯が敷かれている。マテオは一直線に机へ向かって引き出しを開けると紙束をめくって例の書簡を見つけた。記憶していた通りの封蝋、同じ紙質、同じ折り方。マテオが書簡を掴んで返り血を浴びた手で紙を広げると赤黒い染みが羊皮紙の端に滲んだ。
マテオの視線は紙面の下部へ向かうと“Corvan”の文字を見つけ、懐から小さな紙片——ニールが渡したメモ——を取り出すと照らし合わせた。間違いない、これだ。マテオは二つの紙を折り直し、素早く懐へ滑り込ませた。第一任務は終わり。外ではまだ戦いの音が続いている。マテオは一度だけ扉の方へ目を向け、外套の隙間から自分の剣帯に装着した二丁のピストルと護身用のナイフをちらりと見た。
「……なるべく正面で使いたくない」
マテオは船長室の窓を押し開けると冷たい風が室内へ流れ込んだ。彼はナイフを口に咥え、窓枠に足を掛けると身体を外へ滑らせ、船尾の外壁へと降りた。下は海だ、波が船尾に叩きつけられて飛沫が靴を濡らす。マテオは義手の指で窓枠を掴み、身体を安定させると五本の動物指がきちんと木枠を掴んだ。マテオの頭の隅でコリンの顔がよぎる。
「……助かる」
あの少年が改良してくれた義手だ。指が五本すべて動く。今こうして外壁を移動できるのも彼のおかげ。マテオはナイフを義手に持ち替えると刃を木板の隙間へ差し込んだ。ギシィと船体が軋み、体重を移すと右手で次の掴みどころを探し、身体を横へ滑らせる。戦場の喧騒はすぐ上にあるのに、ここは妙に静かだ。聞こえるのは波の音と遠くの剣戟だけ。やがてマテオの視界の端に索具の束が見えた。太いロープが縦横に張り巡らされている。
マテオは最後の一歩を移動すると義手でロープを掴んで身体を引き寄せ、索具に体を預けると隣の船へと視線を向けた。海軍船、小型ガレオン船《ブリュヌ号》、距離はわずか。マテオは躊躇なくロープを蹴ると身体が宙へ浮き、隣船の索具へと手を掛けて衝撃を吸収した。マテオはすぐに船尾楼へ登り始めると船尾の窓が並んでいた。彼は窓の一つへと身を寄せ、室内を覗き込む。机、椅子、海図、必要な物だけが整然と置かれた部屋だ。余計な物が何一つない、軍人の部屋だと一目で分かる。
「……ここか」
マテオは懐から銃を取り出して銃身を握って窓を叩きつけると、鈍い音が響いてガラスに蜘蛛の巣のような亀裂が走った。マテオは一度だけ周囲を確認すると義手を振り抜き、重い衝撃音と共にガラスが砕けて窓に穴を開くと破片が室内へ散った。マテオが義手の腕を空けた穴に差し込んで内側のラッチを探ると、指が鍵を捉えてカチリとした音と共に窓が開いた。マテオは音もなく身体を滑り込ませ、床に着地すると割れたガラスが小さく鳴った。マテオは机へ向かって歩き出しかけて足を止めると声を漏らして振り返った。
「あっ」
船尾の窓、自分が開けた大きな穴、割れたガラスが窓枠の周囲に残り、冷たい潮風がそこから吹き込んでいる。マテオは数秒眺め、肩をすくめて苦笑した。
「……やりすぎた」
こんな穴が開いていれば侵入経路など一目瞭然だ。マテオは息を吐いて机に目を向ける。
「まあいいや。誤魔化せばいい」
彼は整然と並べられていた書類の束を掴んでばらまき、引き出しを開けて紙を引っ張り出し、海図を床へ落とすとインク壺を倒し、椅子を蹴り飛ばした。静まり返っていた部屋が一瞬で乱雑になる。机の上も例外ではない。整えられていた書類はすべて崩されて羊皮紙が散らばり、羽ペンが床へ転がった。やがて、マテオは懐へ手を入れると二枚の紙を取り出した。片方はコルヴァンの書簡、返り血で端がわずかに汚れている。次にニールから渡された手紙、この二枚の紙を見比べるとマテオは机の中央へ置き、満足げにそれを見下ろした。
「……よし」
ぐしゃぐしゃに荒らされた机の上でその二枚だけが妙に整い、「ここを見ろ」と言わんばかりに主張している。
乾いた音、銃声が戦場の喧騒を切り裂き、フェルナンドは反射的に振り返った。彼のすぐ隣にいた海賊が胸を押さえたまま崩れ落ち、フェルナンドの視線が獲物を選別するように周囲をなぞる。煙、怒号、乱戦の向こうで紺色の影が木箱の陰から別の木箱の陰へ動いた。低く身を沈めたまま滑るように移動する影はジョルジュだった。フェルナンドの口元がわずかに歪むと剣を握り直し、音もなく歩き出す。
ジョルジュは木箱の裏で膝をついていた。手にはフリントロック式ピストル、火皿に火薬を落として弾丸を押し込んだ時、彼の背後でギシリと木箱が鳴った。ジョルジュが反射的に振り向いた瞬間、上から影が落ちる。フェルナンドが木箱に片足を掛け、剣を振り下ろしてきた。ジョルジュは咄嗟に銃を放り捨てて腰のサーベルを抜き、自身の頭上でフェルナンドの剣を受け止めた。鋼が激しくぶつかり、火花が散る。
「……しまった」
距離を誤った、この距離では勝てない。フェルナンドの剣が再び動いた。速い、重い、鋭い。ジョルジュは後退しながらフェルナンドの猛攻を受け流す。一撃、二撃、三撃、刃が何度もぶつかって火花が散る。フェルナンドの剣筋は冷静で無駄がなく、獲物を追い詰める猫のように距離を詰めてくる。ジョルジュは一歩、また一歩と後退り、気付けば船尾側に追い詰められていた。ジョルジュの腰が手すりにぶつかるとフェルナンドの口元がわずかに上がり、剣が閃いて金属音と共にジョルジュのサーベルが弾き飛ばされる。サーベルが宙で回転して甲板へ落ち、フェルナンドの刃が走るとジョルジュの右腕が深く斬り裂かれ、鮮血が弧を描いて甲板に赤い斑点が飛び散り、ジョルジュが声を上げる間もなくフェルナンドのブーツが脇腹にめり込んだ。
「ぐっ……!」
ジョルジュの身体が甲板に沈むとフェルナンドは剣を掲げて鋭い軌道で振り下ろされるも、ジョルジュは反射で身体を横へ滑らせて寸でのところで刃が甲板を裂いた。フェルナンドが顔を上げた瞬間、ジョルジュの靴底が板を叩いて柵を蹴って身体が宙に浮くと海軍船の船尾へと消えていった。フェルナンドは剣をゆっくりと持ち直すと血が甲板に染み込んでいく。陽光が刃に反射し、剣の軌跡には紅い筋と薄い虹のような煌めきが走った。
「逃がさないよ」
フェルナンドは船尾の柵に足を掛けた。彼の視線は常に獲物だけを捉えている。
一方、マテオが穴を開けた窓際に立つと窓の外、それも頭上で何か影が横切って天井の向こうから衝撃音が伝わってマテオの瞳が細くなった。
「……人か」
さっきの移動経路、船尾の外壁、あそこに人がいるなら同じルートは危険だ。落ち着いて息を吐くとマテオは窓から離れた。
「仕方ねえな」
彼は船長室の扉へ歩き、ゆっくりと開くと外はまだ戦場だった。煙と火薬の匂いが甲板を覆い、視界は数歩先までしか利かない。剣裁が耳を劈く中、マテオは樽の陰に身を滑り込ませた。
「……帰るの、むず」
海軍船への侵入も厄介だったが、戻るのはさらに面倒だった。さっきは混乱の隙を突いて渡れたが、今は状況が変わっている。視界不良とはいえ両方の船が完全に戦場になっていて人が多すぎる。
「……今までで一番難関か」
マテオは煙の向こうを眺めた時、船尾の方から若い男の声が響いた。
「そんな! じゃあ、エドガー・ロジャースも、隊長の命も狙ってるのか?」
「……ん?」
マテオの耳が音を捉え、眉がわずかに動いた。声は恐らく海軍側のものだ、しかも若い。戦場の喧騒の中でも妙に通る声にマテオは体勢を低くし、硝煙の中を滑るように移動した。彼は近くの階段へ張り付くと背を木板に預け、煙の隙間から声の続きを拾うために船尾側を覗いてみる。煙が風に流れ、その向こうに人影が三つ見えた。一人は負傷兵、もう一人は——ソフィーだった。そして、彼女たちの正面には赤いシャツと黒い外套、風に揺れる栗毛色の髪、フェルナンドだった。マテオの目が思わず細くなる。
「……あー、そりゃ荒れるわ。帰るの、もっと難しくなったな」
戦場のただ中で二人が向き合っている。まるでそこだけ舞台でもあるかのように。マテオは煙の中で身動きせず状況を見守った。ソフィーの声が硝煙の向こうから飛んでくる。
「フランス王国海軍、第七艦艇部隊マクシミリアン・ブーケ隊の軍医。剣は持たない」
マテオは階段に張り付いたまま薄い煙の中から彼女を見つめていた。ソフィーは一歩も退かず武器も取らず、両手を広げている。
「この手は、人を救うためにある。人を殺すためじゃない」
マテオの口元がわずかに歪む。
——それでいい。戦場のど真ん中であんな台詞を言える人間はそういない。
マテオはゆっくりと懐へ手を入れ、フリントロック式の短銃の冷たい鉄が掌に収まった。
「汚れ仕事はオレの役目」
マテオは親指で撃鉄を起こし、カチリと小さな金属音が鳴った瞬間、フェルナンドが動いて剣が振り上がった。ソフィーの喉元へ落ちる軌道を目の当たりにし、マテオの視界が急に静かになって怒号が遠ざかり、剣戟の音も波の音もが遅くなって狙う相手だけが鮮明に見えてくる。彼は銃口を持ち上げ、照準と距離と風が自然と揃うと引き金に指をかけた。フェルナンドの剣が振り下ろされ、ソフィーの瞳が見開かれ、ジョルジュが叫ぶ。世界の時間が引き延ばされている中、マテオは引き金を引いた。
——パンッ!!
火花、煙、銃口から弾丸が吐き出され、鉛の弾が空気を裂き、煙の中を一直線に進む。時間がさらに遅くなり、弾丸がフェルナンドへ迫ってあと少し、あと一瞬、次の瞬間には弾がフェルナンドの肩を撃ち抜いて血が弾け、フェルナンドの身体がわずかに揺れると世界が元の時間を取り戻した。
「……っ!」
フェルナンドが反射的に後退した時、マテオの手から銃が落ちてカランと乾いた音が甲板に転がる。硝煙が風で流れ、煙の向こうでフェルナンドの視線がマテオの方を向いた。マテオは黒い外套のフードの奥でフェルナンドを睨み返し、剣帯へ手を伸ばしてもう一丁の短銃をゆっくりと引き抜くと冷たい金属が光った。
——今まで仲間に働いた無礼をここで晴らしてやる。
マテオは銃を構えたまま煙の向こうの男を見据えていた。フェルナンドは肩口から血を流しているが、まだ動けるらしい。殺すかと一瞬だけ考えがよぎったが、マテオは息を吐いた。
……いや、殺すのは勿体ない。この男をここで殺せば状況が変わりすぎる。
それに……この男を生かす方が面白い。
マテオの頭が妙に冴えて思わず口元を歪めた時、フェルナンドが怒声を上げた。
「貴様ァアアアアアア!!」
フェルナンドは痛む肩を庇いながらも剣を持ち直して迫ってくる。マテオは目を細めて呟いた。
「じゃあ反対」
——パンッ!!
引き金を引くと火花が散り、煙の中を弾丸は一直線に飛んでフェルナンドの逆の肩へ叩き込まれた。
「ぐっ……ぉぉぉぉおおっ!!」
フェルナンドの身体が大きく揺れて剣が甲板へ落ちる瞬間、マテオは地面を蹴って煙を切り裂き、一直線に距離を詰めるとほとんど滑るようにフェルナンドに義手の拳を振り抜いた。
ガンッ!!!
鈍く重い音と共に義手の拳がフェルナンドの顔面を叩き抜き、フェルナンドの身体が大きく仰け反って甲板へ崩れ落ちた。動かない。マテオはしばらくその場に立って倒れた男を見下ろす。どうやら意識を失っているらしい。
——海軍への置き土産だ。
心の中で吐き捨てると息を吐いた。
「……ああ、少しはスッキリしたぜ」
今まで散々振り回された相手だ。これくらいは殴っても罰は当たらない。マテオは振り向くと視線の先にソフィーが立っていた。彼女はまだ状況を理解しきれていない顔で瞳を揺らしている。彼女の側ではジョルジュが赤く染まった手で床をついて支え、鈍痛の中で身を起こした。
——あの外套の男……間違いない。
あの超絶技巧の銃の使い手だ、フードで顔を隠しているがあの義手はかつて自分をぶん殴った代物。それが今この場で同期と自分を救ったなんて。ジョルジュのなかで警戒や疑惑を凌駕しているものがある。——目頭が妙に熱くなったことだ。
一方、マテオはソフィーを捉えて離さないままフードの奥でほくそ笑んでいる。
——無事でよかった。……お前なら帰れるって信じていたけど。
マテオはソフィーと負傷したジョルジュの方へ身体を向け、フードの奥で水色の瞳が爛々と光っていた時、見張り台からの声が戦場の空気を切り裂いた。
「海賊たちが撤退するぞー!」
——まずい。
マテオの思考は一瞬で結論に達した。ここに長居すれば終わる、海軍の視線が集まる前に消えなければ。彼はソフィーに背を向ける形で踵を返すと駆け出す。
「あ……待って、行かないで!」
背後でソフィーの声が飛んできたが、マテオは歯軋りするも振り返らない。振り返った瞬間、終わる。
「——マテオ!!」
名を呼ばれた瞬間、マテオの胸の奥が一瞬だけ揺れたが、足を止めるつもりはない。彼は甲板を蹴ると煙も血も砕けた木材も踏み越えて一直線に船縁へ走り、勢いを殺さず足を船縁へ掛けてまた跳んだ瞬間、世界が静かになった。海風、硝煙、波の揺れがゆっくりと流れて身体が宙に浮き、二隻の船のあいだの空間を滑るように越えていく。
ドンッ!
マテオが海賊船の船尾甲板へ転がり込むと肩から転がって衝撃を逃がしていく。二回転、三回転してようやく身体が止まると勢いで顔を上げた拍子に外套のフードがバサリと外れて潮風が顔に当たった。
「……あぶねー」
マテオが息を吐くと身体の力が一気に抜け、甲板に仰向けに倒れ込んだ。空が見える。硝煙で曇った灰色の空だが、今はそれすら心地よかった。ミッション成功の実感が遅れて身体に染み込んで口元が自然に上がった。
「完璧」
マテオは誰に聞かせるでもなく呟くとほんの少しだけ目を閉じた。あの凛とした声で名を呼んでくれたことが後になってじんわりと心を満たしてくる。
「……聞こえてるって」
騒音は聴こえているはずだったが殆ど耳に残らない。彼の頭の中ではすでに別の音が鳴っていた。
第五船団は慌ただしくサン・マロへ針路を向けて進んでいく。主人を失ったことにはまだ誰も気づいていない。




