第六章⑤ マテオ
同じ頃、ブレスト城の奥深くでは普段誰も近づかない石壁の裏にひとつの細い通路がある。黒辰封儀教団の暗殺者たちはそこを進んでいた。この抜け道は予めピエールから教えられていたものだ。足音を殺しながら進み、壁に耳を寄せる。石の向こうから声が聞こえる、会議室だ。
「出動できる部隊がかなり限られてる」
「海賊の脅威が大きすぎます」
「……いざとなったら、マクシミリアン・ブーケ隊を送るしかないか」
暗殺者たちは互いに視線を交わすと城を出て、すぐに港を確認した。軍艦も兵士も少ない。港も城も空っぽだ。
「今だ」
その夜、暗殺者たちはブレストを離れた。二泊三日、ほとんど休まず海岸線を移動し、サン・マロへ向かう。
サン・マロの入江の奥、黒船の船長室ではエドガーが椅子に腰掛けていた。机の上には海図と報告書が広げられている。扉が開き、暗殺者の一人が入ってきた。
「報告です」
「言え」
エドガーは顔も上げずに促すと暗殺者は手短に伝えた。ブレスト城の会議、出動できる部隊の減少、マクシミリアン・ブーケ隊の名。話を聞き終えるとエドガーはゆっくり椅子にもたれた。その場にはダミアンもいる。彼はちょうどパリから手紙を運んできたばかりだった。エドガーは机の上の羽ペンを指で転がして薄く笑う。
「なるほど。ようやく出てくるか」
暗殺者の報告が終わり、船長室には沈黙が落ちた。ダミアンは机の端に立ってじっと床を見つめ、胸の奥がひどく冷えていた。
——マクシムが狙われている。
ダミアンの喉の奥がきゅっと締まる。どうしよう、助けたい。でも、できない。ダミアンは息を吐いた。兄たちの命令は絶対だ。逆らえば死ぬ。この世界で生き延びるための唯一の方法は命令に従うことだけ。それ以外の道など最初から存在しない。だから、何もできない。ダミアンは拳をわずかに握ってすぐに力を抜いた時、エドガーが椅子にもたれたまま呟く。
「リヴェンジ・クイーンも、たまには遊ばせるか」
エドガーは海図を眺めながら、退屈そうに指先で机を叩くと立ち上がって窓の外に広がる夜の海を見ながら言った。
「オレたちも出る。この船は目立つ、海軍共を畏れさせてやろう。——これは宣伝だ。エドガー海賊団は脅威だとフランスに教えてやる」
エドガーはダミアンを振り返ると鋭い目つきで命じた。
「第五船団と共に出る。フェルナンドに知らせてやれ」
「……はい」
ダミアンは一瞬だけ目を伏せて答えると声は波の音に紛れて消える。その後、ダミアンは黒辰封儀教団の暗殺者たちを引き連れ、第五船団の旗艦へと向かった。船上では相変わらずの宴だった。その中へ黒衣の一団が現れる。甲板の空気が一瞬で変わり、笑っていた海賊たちが言葉を失って音楽がわずかに乱れた。
甲板の隅にいたマテオは黒衣の集団を見た瞬間、身体が硬直した。黒い外套、顔を覆うフード、静かすぎる歩き方。間違いない、昔の自分がいた場所、自分がいた組織。マテオの胸の奥がざわついて呼吸が浅くなり、反射的に柱の影へと身を滑り込ませた。海賊たちが騒つく中、ダミアンは気にしない振りをしてフードをさらに深く被り直すとフェルナンドの姿を見つけた。
「エドガー船長から伝言を預かっています」
フェルナンドはグラスを揺らしながら振り向き、一瞬だけ目を細めると声を漏らして笑った。
「そう。じゃあ、ボクの部屋で聞こうか」
フェルナンドが「おいで」と言うとダミアンと暗殺者たちは黙って彼の後に続き、船長室の扉が閉まる。その一部始終をマテオは影の中から見ていた。胸のざわめきはまだ消えていないが、今はそれどころではない。マテオは音を殺して甲板を離れ、船尾へ回って外回廊の影へ身を滑り込ませると、壁に背を預けて耳を澄ませた。船長室はすぐそこ、声が微かに聞こえる。
「……ほう、エドガー船長が出航しろと。その時、自分たちもリヴェンジ・クイーンを出すとは」
フェルナンドの声にマテオの瞳が鋭く光った。
——きた。待っていた瞬間。
マテオは壁から離れ、外回廊を進むと手すりを越えて船を降りた。着地の音はほとんどさせず、そのまま闇の中へ、夜の街へ影のように駆け出す。サン・マロの灯りの中へ、マテオの姿はすぐに溶けて消えた。一方、船長室内では机に屈み、ダミアンが額に汗を浮かべて紙の上にペンを走らせていた。
——お前、気持ち悪いんだよ。ちっとはその気持ち悪さ、一族のために役立て。
ピエールによる数々の罵倒がダミアンの頭の中でガンガンと鳴り響き、一度手を止めて目をギュッと閉じた後、また見開いてペンを走らせていった。フェルナンドは紙の上に浮かび上がる顔たちを眺めて声を漏らして口角を上げた。
夜の街を駆け抜けたマテオは第八船団の船の甲板を音もなく横切り、船長室の扉を叩くこともなく開ける。室内ではニールが机に向かっていた。灯りの下には紙とペン、それから封のされた手紙。マテオが息を整えるより先に言う。
「ついにきた」
「……そっか」
ニールは顔を上げると瞳の奥がわずかに光り、机の上に置いていた手紙を手に取ると封をして軽く指で叩きながらマテオへ差し出す。
「これをマクシミリアンの元へ。それから君が言っていた例の書簡、フェルナンドのところにあるやつだ。それも彼らに横流ししたい」
マテオは一瞬だけ目を細めた。彼の脳裏に船長室内の机の上が浮かぶ。色、質感、封蝋の位置。記憶を辿りながらマテオは頷く。
「分かった」
ニールは満足そうに頷くと机にあった羊皮紙を一枚引き寄せ、素早く何かを書きつけると小さく破り取った。紙片にはたった一つの単語、Corvan。ニールはそれもマテオに差し出す。
「セドリックが手紙に書いていた。コルヴァンの綴りはこれで統一しているらしい」
マテオは紙片をじっと見る。文字は読めないが、形は覚えられる。ニールは指でこの文字を軽く叩いた。
「内容は分からなくてもいい。でも、もしまったく同じ文字が紙の下の方に書かれていたら、間違いなく十五代目に関係している」
「任せろ」
マテオは紙片を受け取と踵を返して船長室を出る。船上の灯りの中で彼の影が一瞬揺れ、気づけばもう夜の中へ消えていた。
翌日から二つの船は慌ただしくなり、突如として命じられた出航準備に海賊たちは半ば強制的に働かされていた。帆の点検、索具の張り直し、火薬の補充、食料の積み込み。怒鳴り声と足音が甲板を絶え間なく行き交う。少しでも早く出航するためだ。その喧騒の中でフェルナンドだけは違う。彼は船尾の椅子に腰掛け、足を組んで優雅に紅茶を口に運んではしなく動く部下たちを見下ろしていた。
「急げ急げ」
マテオも例外ではなかった。縄を引き、樽を運び、帆布を畳む。作業の合間に何度か船長室の方へ視線を向けるが、フェルナンドの部屋へ入り込む隙はまったく訪れない。船員の出入りが多すぎる。警戒も強い。……だが、焦りはない。マテオは黙々と働きながら思う。海に出てからでいい。混乱の中で忍び込む方がむしろ都合がいい、と機会を待っていた。
一方、入江でも同じ光景が広がっている。黒船の周囲では海賊たちが急かされながら荷を運び込んでいた。エドガーは誰かを急き立てることはなかったが、日を追うごとに彼の存在感は増していた。エドガーが甲板に立つだけで空気が変わり、誰もが視線を避けて声を潜める。まるで嵐の中心にいるかのようだった。作業の合間、若い海賊の一人が小声で言う。
「なんか……おとぎ話で聞く黒髭みたいだな」
「言うな、あんま言うと殺されるぞ」
エドガーは気にしていない。そんなことよりも彼の視線は遠く海の彼方に向けられていた。紙の上でしか見たことのない名前、マクシミリアン・ブーケ隊。どんな連中なのか、どんな顔をしているのか。どんな戦い方をするのか想像するだけで胸の奥が高鳴り、エドガーは口の端を上げた。
その頃、黒船の奥の一室では時間の流れが違っていた。ルキフェルは引きこもったまま、扉は閉ざされて窓もない。薄暗い部屋の中で彼はひとり座っている。左脚はまだ完全には動かない。立ち上がれば、どうしても引き摺る。それでも、壁に手をつきながら何度か歩いては止まるり、また数歩歩く。それが今できるリハビリだったが、それ以上に重いものがあった。戦意がすっかり失われている。
やがてルキフェルは壁にもたれたまま床に座り込んで目を閉じた。外では海賊たちが走り回り、船は出航の準備を進めている。戦争はすぐそこまで来ていたが、この部屋の中だけは何も動いていなかった。やがて、黒船はゆっくりと入江を離れた。錨が上がり、重たい船体が海へ滑り出す。黒い船体と黒い帆は海から生まれた怪物のようで、黒船がサン・マロの沖に姿を現すと港の空気が変わって市場の声が止まり、船乗りたちが顔を上げる。
「……おい、エドガー・ロジャースだ」
ざわめきが波紋のように広がっていく。少し沖では第五船団も黒船を目撃した。甲板の上にいたフェルナンドが目を細める。
「……ああ、行くんだね。出港」
第五船団は黒船の後を追うように動き出した。帆が膨らみ、船体が海を切り裂く。二つの船団は並ぶように北へ向かっていった。黒船の船尾、操舵輪の横でエドガーは海を眺めていた。潮風が髪を揺らし、彼は黙って海面を見つめたあと口を開く。
「目指すはラ・マンシュ海峡、シェルブール付近だ。あの辺をぐるぐる回るだけでいい。暴れ回ってる海賊たちの中にオレたちもいるって知らせてやれ」
黒船は海峡近辺をゆっくりと巡った。商船は進路を変え、港は警戒を強めて海軍の伝令船が走る。エドガー海賊団が動いている噂は、あっという間に海に広がった。やがて、黒船の船尾から身を乗り出すようにして、エドガーが第五船団に向かって声を投げる。
「じゃ、帰るわ。あとは頼んだ」
フェルナンドは思わず苦笑し、エドガーはさらに続ける。
「くれぐれもマクシミリアンは殺すなよ! ま、どんなやつかは知らんけどな!」
「了解」
フェルナンドは肩をすくめ、片手を振った。二つの船はゆっくりと距離を取り始める。黒船は南へ、拠点の入江へ帰る。第五船団は北大西洋へ、マクシミリアン隊探索の名目のもとで始まる、海軍襲撃作戦へ。
第五船団が北へ進路を取ってしばらくした頃、マテオは呼び出された。船長室の扉を閉めるとフェルナンドと二人きりだった。フェルナンドは椅子に腰掛け、脚を組んで顎を支えながらマテオをじっと眺める。
「さて、君は知っているのかな? マクシミリアン・ブーケ隊について」
マテオは眉一つ動かさなかった。
「知っているも何も、あいつらは船長を追い込んだ奴らだ」
フェルナンドは指を軽く叩いた。
「その中で、マクシミリアン・ブーケって男はどんな特徴かな?」
マテオは一瞬だけ黙って記憶を掘り起こした。
「……黒い髪、茶色い瞳。それと背は低めだ。あの部隊、他の連中はみんなデカいから一際目立つ」
「なるほど、わかりやすそうだ」
フェルナンドは満足そうに頷くと椅子から立ち上がって窓際へ歩き、海を眺める。
「他の船団にも周知させておこうか。伝令係がちゃんと間違えず旗振ってくれるかな」
その隙にマテオの視線が机の上を滑った。紙、地図、羽ペン、そして机の端に一枚の書簡。見覚えのある形状封蝋の色にマテオの視線が止まる。……あれだ、ニールが言っていた獲物。今はまだ手を出さないが、混乱が起きればあれを貰うと心に刻んだ時、フェルナンドが振り返った。
「あ、いや……似顔絵があった方がいいか」
マテオは視線を戻してフェルナンドを見据える。
「……オレに絵を描けと?」
「いやいや、必要ないよ」
フェルナンドは笑うと机の引き出しを開け、一枚の紙を取り出す。フェルナンドが折り畳まれていた紙を広げてマテオに見せた瞬間、マテオの顔が歪んだ。
「……あ?」
紙の上にはマクシミリアン・ブーケ隊の顔ぶれが描かれていた。その中でもマクシムの似顔絵はそっくりというレベルではない、本人そのものだった。精密、リアル、まるで今そこに立っているかのような似顔絵にマテオが言葉を失っているとフェルナンドはくすりと笑う。
「やっぱり。この男がマクシミリアン・ブーケか」
マテオの頭は真っ白だった。フェルナンドは紙を眺めながら何気なく続ける。
「この前、ここへ来ただろう? あの黒いローブの集団。彼らの置き土産さ。……なるほど、思っていたより若い」
マテオの思考は完全に混乱していた。なんで教団がマクシミリアン・ブーケを知っているのか理由がわからない。フェルナンドは紙を折り畳むと机に戻した。
「ま、確認も取れたし君は下がってていいよ。部下たちに複写させて、他の船団にも渡していく」
マテオは黙って頷いて船長室を出る。扉が閉まったあとも頭の中では先ほどの疑問がぐるぐる回り続け、マテオ自身も船内をぐるぐると歩き回った。甲板の喧騒はもう落ち着き始めていたが、第五船団の船内はまだ慌ただしい。さっそく伝令役の海賊が行き来し、紙と筆を持った者たちが忙しなく机を囲んでいる中央では、さっき見た似顔絵が複写されていた。何人もの海賊が見本を見ながら粗い線で写し取っている。出来の悪い模写だが、特徴だけは分かる。マテオは遠巻きに眺めながら息を吐いた。……そもそも教団は今、どんな連中とつるんでいるのか思考が別の方向へ滑る瞬間、ある記憶が不意に蘇った。
「……そうだ」
マテオは歩みを止めた。あの冬の日、久しぶりに教団を見た日のこと。あの時、フランソワは言っていた。
「……あいつらはダラス家と名乗っていた。貴族らしい」
マテオは目を閉じた。ダラス家の名が、今になって頭の中で形を取り始める。エドガーの戦争計画の裏にいるという旧ブルボン派と、なぜかエドガーと関わっている黒辰封儀教団。さらに教団を引き連れていた貴族、ダラス家。
「……あの時のこと。なんで、今まで忘れてた」
マテオは眉を顰めた。いや、忘れていたわけではない。思い出したくなかっただけだが、ここまで情報が揃えば無視はできない。マテオの頭の中で結論が浮かぶ。
——ダラス家って……もしかして旧ブルボン派?
一瞬、呼吸が止まってその可能性に思い至った瞬間、マテオは強く頭を振った。
「……いや」
今じゃない。今それを考え続ければ判断を誤る。任務が先だ、まずやるべきことはひとつ、書簡を盗んで証拠を置き土産にし、ニールたちに共有する。
「これは……オレ一人じゃ抱えきれない」
マテオは再び歩き出した。第五船団の船内はまだ慌ただしく動いているが、その混乱こそが彼にとって唯一の好機だった。




