第六章④ マクシム隊
小ぶりのトランクに最後の包帯を詰め終えたとき、ソフィーはふうと息を吐いた。身支度は完了、パリ医務局の宿舎に与えられていた仮住まいとも、これでお別れだ。
「……思ったより、早く戻れるものね」
窓の外では深まる秋の気配が石畳の街路を曇らせている。霧が立ちこめ、行き交う人々の姿がぼんやりと歪んでいた。この三ヶ月、ソフィーはパリ医務局にて事務的な仕事と医療支援に従事していた。上層部の監視の目は薄れたとはいえ、いつまた呼び出されるとも限らない日々の中で彼女は黙々と与えられた役割を果たしてきた。
「これで、ようやく正面から戻れる」
彼女の手にはつい昨日届いた異動令状が握られていた。ソフィーは荷物をすべて詰め終えたトランクの蓋を閉じ、黒の外套に腕を通して胸元のアクアマリンのネックレスに触れて指先で軽くなぞると深く息を吸う。
「ここからが、新しい出発」
馬車は医務局が最後の手配として用意してくれていたものだった。彼女は助手たちに別れを告げ、荷台にトランクを積み込むと馬車はゆっくりと医務局前を離れていく。車窓の外には見慣れた街の景色が流れていた。往診に通った路地。薬草店。噴水のある広場だが、もう過去のものだ。彼女が向かうのは西の海。三ヶ月前、決して戻れないと思った場所だったが、今こうして再び歩み出すのは自分の意志だ。
ブレストまでは馬車を乗り継いで五日がかりの道程となる。ソフィーは眠りも浅く、道中に手帳を開いては断片的に記録を書き留めていた。医務局での症例、処置の覚え書き、そして書きかけのままの考察。秋の空の下、馬車は西へ、西へと進んでいく。海へ向かって。
一方、ブレスト。マクシミリアン隊の執務室に一人の女性が立っていた。
「お騒がせしてすみませんでした。本日より復帰いたします」
スザンヌはそう言って一礼したが、彼女の姿を見たマクシムの胸はわずかに締めつけられる。顔色が悪い。色白な肌は以前よりもさらに血の気を失っているように見えた。身体は立っているが、内側がどこか削れているような印象だった。万全な状態の者など、今この隊には誰一人としていない。それでも彼女の様子は明らかにおかしかった。マクシムの隣にいたリラが口を開く。
「スザンヌ。悩んだまま戻ってきたのでしょう?」
スザンヌの肩がわずかに揺れ、リラは続けた。
「耐えきれず実家を出てきたのでは? 必要なら医務局を紹介するわ」
スザンヌは顔を上げ、言葉を探すように視線が揺れた。
「……すみません。でも、いても経ってもいられなくて……色々あって、自分でも整理できてなくて……話せないんです」
「……分かったわ」
マクシムもリラも追及しなかった。スザンヌはもう一度小さく頭を下げ、執務室を後にする。スザンヌが去ったあと執務室にはしばし沈黙が残り、リラが息を吐いて書類の山を指先で整えながら言う。
「さて……片付けましょうか」
「……何をですか?」
マクシムは顔を上げた。とぼけた声音にリラはじっと彼を見つめる。
「逃げても無駄ですよ。月例報告書。それと月毎の備蓄品の申請。それから、シャルルが『根本のブロンドがだいぶ目立ってきた。そろそろ染料が欲しい』などと喚いています」
マクシムの眉がぴくりと動く。彼の脳裏に浮かぶのは、あのオレンジ髪の変人参謀の顔だった。
「無理です。髪染めに関しては、いつもの如くリー・ウェンに頼んでと本人にお伝えください」
言いながら、マクシムの内心ではあの男の顔を思い出してわずかに苛立っていた。リラは肩をすくめた
「……でしょうね。そういえば最近、あの男を見ていませんが」
彼女の脳裏に浮かんだのはブレスト担当の情報屋、ヤンの姿だっただが、すぐに打ち消してリラは書類の束をマクシムの前に押し出した。
「けど、先月分の月例報告書は書いてもらいます。提出期限、とっくに切れてますよ」
「嫌です。飽きました。というか、謹慎中なんだから書くことないし」
マクシムは顔を顰めるとリラは机の周りを片付け始めながら溜め息混じりに言う。
「書いてもらいますからね。司令部が火を吹かないうちに。謹慎中にも関わらず、戻ってきた隊員のためにも働いてもらいたいんですよ」
リラは一度動きを止めるが、また書類を整えて散らばった道具をまとめながら声を落として続けた。
「皆、あなたを心配して帰ってきたんですから。それだけじゃない。あなたは知らないでしょうね……ダヴィットは今でこそシャネル家の人間だけど貴族社会からは冷たい目を向けられる。なぜか分かりますか? 庶民の出だから」
リラはゆっくりと机の端を拭いた。
「彼が屋敷の中ではいつも窮屈な思いを抱いて過ごしていたとは、つい最近まで知らなかった。私も……今まで気づかなかった。逃げるように出てきたって、本人が打ち明けてくれた。皆、それぞれ事情があってこの宿舎に集まってるんです。もっと隊長としての自覚を——」
リラが掃除の手を止めて振り返った時、執務室には誰もいなかった。机の向こうにいるはずの男の姿がない。リラは視線を移すと扉が半開きになって廊下が見えた。
「ほんと、机に向かうの苦手よね」
執務室から逃げ出したマクシムは宿舎の裏口から外へ出た。秋の空気がひやりと頬に触れる。彼はブレスト港へ向かう道をあてもなく歩いた。ただ身体を動かしたかっただけ。書類と机から離れられれば、それでよかった。やがて港が見えてくるが、そこでマクシムの足が止まった。
「……?」
マクシムの視線がゆっくりと港をなぞる。妙だ。ブレスト港には普段、紺色の軍服が溢れている。見張り、整備兵、航海士、補給係と常に誰かが動き回っている場所だが、今日は違った。紺色が少ない。いや、ほとんどいない。商人や荷運び人の姿はあるが、海軍の人影が異様に少なくマクシムは腕を組んだ。
「……出払ってる?」
マクシムは海を見渡すが軍艦も少なかった。桟橋のいくつかはまるで歯が抜けたように空いていた。マクシムは怪訝な顔をして港を離れ、今度はブレスト城へ向かうと石造りの城門をくぐり、中庭へ出た。……静かだ。普段なら伝令が走り、士官が議論し、兵士が行き交う場所だが、今日の城は妙に音がない。マクシムはしばらく立ち尽くしていたが、やがて肩をすくめた。
「……気のせいかな」
そう呟くとマクシムは城を出た。考えすぎだと自分に言い聞かせる。彼は街の石畳をあてもなく歩き始めた。港町の喧騒はいつも通りだが、背後で見えない歯車が軋み始めていた。




