第五章③ マテオ
夜のサン・マロ。船の上では灯りが揺れ、酒瓶が打ち鳴らされ、海賊たちの笑い声が夜気を震わせていた。例によって第五船団の船上パーティーは今夜も盛大に続いている。その騒ぎから少し離れた倉庫街の陰、木箱と積荷の影の間に二つの人影が身を潜めていた。マテオとコリンだ。コリンが木箱にもたれながら港の灯りを眺めて小声でぼやく。
「……ねえ、このまま逃げてもバレないんじゃないかな」
マテオは腕を組んだまま溜め息を吐いた。
「オレだって逃げてえよ。でもな……フェルナンドが厄介すぎる」
マテオは倉庫街の暗がりから船の方を一瞥して舌打ちする。
「あいつ、遊び好きだけど用心深いところあるからな。下手に逃げたら、すぐ嗅ぎつける」
「うわ……」
コリンは苦虫を潰したように顔を顰めた。
「……寝るか」
マテオがぼそっと言うと二人は倉庫の壁際へ身体を寄せ、できるだけ気配を消した。コリンが腕を組んで頭を垂れた時、桟橋に一つの影が降り立ち、マテオは暗闇の中で目を凝らすと灯りの端に姿が浮かんだ。
「……誰だ」
整った輪郭とやけに軽い足取り、フェルナンドだった。彼は鼻歌を歌いながら歩いている。まるで夜の散歩でもしているかのように。
「♪——」
低い鼻歌が夜風に溶け、フェルナンドは桟橋を離れてどこかへ歩いていく。マテオは思わず目を見開いた。こんな時間に船を離れる理由が思い浮かばない。足音が遠ざかるとマテオは数秒考えて決め、コリンを振り返って小声で言う。
「悪い、ちょっと離れるわ」
「え?」
コリンが顔を上げて目を丸くするが、マテオは周囲を指差した。
「どっか隠れてろ、見つかるな」
「……分かった」
コリンが頷いたのを確認するとマテオは立ち上がった瞬間、気配を消した。暗殺者として叩き込まれた歩法、足音を殺して呼吸を抑え、影と同化して動くようにマテオは闇の中へ滑り込んだ。彼の視線の先には鼻歌を歌いながら歩くフェルナンドの背中、マテオは距離を保ったまま音もなく追跡を開始した。
夜は彼の味方だ。昼の世界は光と視線が多すぎるが夜は違う。夜の帷は古くからの友人のようなものだ。影が増えれば、そこへ溶け込めばいい。闇が濃くなれば身を隠せる。フェルナンドは鼻歌を続けたまま歩いていると、やがて鉄扉が見えた。フェルナンドが入江を隔てる扉の前で足を止め、マテオは影の中で目を細めた。扉が開いている。どうやら見張りの海賊が遊びに行くときに浮かれすぎて閉め忘れたらしい。フェルナンドは気にも留めず中へ入ると後ろ手に扉を閉め、軋む音が夜にわずかに滲んだ。マテオはしばらく動かず、足音が遠ざかって静寂が戻ると影から離れ、鉄扉に手をかけてゆっくり押した。蝶番が鳴きかけ、力を殺し呼吸を止めると鉄はほとんど音を立てずに動く。……ずいぶん甘いと心の中で呟く。こんな扉で入江を守ったつもりらしい。
マテオは中へ足を踏み入れるとすぐに岩壁の影へ滑り込んだ。入江は暗かった。岩の影が重なり合い、灯りは船の上にしかない。影ばかりだ。ここでは闇そのものが味方になる。マテオは岩陰から視線を上げた。黒い船体。船長室に灯りがついている。エドガーはあそこにいる、おそらくフェルナンドも。マテオは周囲を見回した。桟橋の端に魚獲り用の道具が転がっている。フック、長いロープ。彼はそれを拾い上げると結んで締め、形を整えて即席の鉤縄を完成させて船を見上げた。外回廊の手摺りとの距離を測り、フックを振る。一、二、三回と腕を振り抜くと金属が夜を裂いた。小さな音と共にフックが手摺りに掛かり、試しにロープを引くが外れない。
マテオは息を吐くと足を船壁にかけ、腕でロープを引き寄せて黒い船体を登っていった。まるで影そのものが壁を這い上がるかのように。波が黒い船体を鈍く叩いていた。重たい海のうねりが外壁を撫で、船腹の奥から低い軋みが伝わってくる。やがて、マテオは外回廊の手摺りを越えて影に張り付いた。船長室の窓がわずかに開き、灯りが細い帯となって漏れて海風に揺れ、中では声がしている。
「……マクシミリアン隊はまだ“謹慎中”か」
エドガーの声と名を聞いた瞬間、マテオのまぶたがわずかに動いた。──あの連中か。謹慎中、つまり今は海に出ていないということだ。室内ではもう一人の声、フェルナンドが応じる。
「ブレストに籠り続けてるって話だな。まあ、あの男なら勝手に抜け出しても驚かないが……意外にも沈黙を守ってる」
「ふん。だが、それも今日までだ」
エドガーの声が低く落ちた。紙の擦れる音。マテオは息を浅く整え、耳を澄ます。
「この静けさは、嵐の前の無音。奴らを、特に“奴”を海に引きずり出す」
「なるほど、陽動か」
マテオの視線がわずかに細くなる。陽動。
「……何を撒くつもりなんだ?」
少しの沈黙。紙の上を指が滑る気配と共にエドガーの声が聴こえてきた。
「地中海とガスコーニュ湾。双方に騒ぎを起こす。無意味に見せかけた動きで、意味を誘う。こちらの本意はそこにはないと向こうに思わせることが重要だ」
紅茶のカップが触れる小さな音が耳に届く。
「“意味深な無意味”ね……君らしい」
マテオは息を吐いた。──陽動、しかも二方向。それも海賊団を束ねて動かすつもりらしい。室内からの声は続く。
「地中海にはカシリオを。ガスコーニュ湾には、お前が船団を動かしてくれ。他の海賊団で協力的な奴も作戦に加えろ」
エドガーの声にフェルナンドが答える。
「それで、“奴”が釣れたら?」
「……見つけ次第、他の海軍員は殺せ。躊躇うな。マクシミリアン・ブーケだけは生け捕りにしろ。必ずだ。奴の喉を切るのは他の誰でもない……このオレだ」
エドガーの声音は冷えきっていた。マテオは眉をほんのわずかに寄せた。
──なるほど。マクシミリアンに的を絞っている。復讐か。海賊という生き物はだいたいそうだが、この規模は少し違う。
その時、紙の音がしてマテオは顔を上げた。エドガーが何かを取り出したらしい。
「この文体……らしいな」
「情報屋の血筋らしいわけか」
「そう、十五代目“コルヴァン”だ」
フェルナンドの声にマテオの瞳がわずかに見開かれた。
──コルヴァン。裏社会では古い名前だ。伝説の情報屋。昔、フランソワの旗揚げにも関わっていたという。
「だが、その正体は海軍総司令部のただの書記官……いや、“ただの”ではないな」
エドガーの声にマテオの思考が一瞬止まる。
──海軍総司令部? 中心じゃないか。そこに情報屋がいる? つまりスパイだ。
やっていることの規模がマテオの頭の中で急に輪郭を持ち始める。海賊の騒ぎではない、戦争の設計図だ。室内ではまだ声が続いている。
「この書簡はお前が預かってくれ。オレの手元にあるよりも遥かに安全だ。何かあったとき……それが鍵になる」
「……了解した」
書簡。マテオの視線が窓の隙間へ向いた。
──あれか。
つまり、何かの証拠。あるいは、もっと厄介なもの、鍵になる。気になるが、これ以上ここに張り付いているのは危険だ。二人の会話はまだ続いているが、マテオはゆっくり体を引いた。
──十分だ。
外回廊の影に溶け込んで音もなく窓から離れると夜風が彼の髪を揺らした。せっかく黒船に忍び込んだのだ。もう少し探っておく価値はある。マテオは視線を船の外縁へ向けた。ルカ、あの男がこの船にいないとは思えない。影は再び闇の中へ滑り込んでいった。
船長室のひとつ下の階。湿った木の匂いと海の塩気が混じった空気が小さな部屋に滞っていた。窓は狭く鉄格子が嵌められている。月光が細く差し込み、床に淡い筋を落としていた。ルキフェルは部屋の中央に座っていた。目眩はもう収まっているが、頭の奥が鈍く痛む。ルキフェルはこめかみを押さえながら舌打ちした。
「……あの野郎、何飲ませやがった。あれ、海賊が持ってる代物じゃねえだろ……」
ルキフェルの喉の奥に苦味まだ残っている。彼は壁にもたれて天井を睨んでいたが、憤りのあまり立ち上がって狭い室内を行ったり来たりして床板を軋ませた。
──どうする。せっかく耐えたのに、ここまで来たのに。また逆戻りじゃないか。
その頃、船の外側ではマテオが船長室の様子を一度だけ振り返って鉤縄を握り直した。彼は外回廊の手摺りから音を立てないように体を滑らせると縄が擦れ、シュルッと一段下の外回廊へ降り立つと着地の衝撃を膝で吸収し、すぐに手を伸ばして上の手摺りに引っかかっている鉤縄を回収すると影は再び、闇に溶け込んだ。船尾側から探ることにしよう、マテオは気配と音を殺して外回廊を進んだ。海風が吹き抜け、船体のどこかで帆索が微かに鳴っている。いくつかの小さな窓のうちの一つから淡い灯りが漏れていた。マテオは壁に張り付いたまま顔を寄せて慎重に窓を覗き込んだ瞬間、息が止まった。室内に人影が落ち着きなく歩き回っている。長い前髪が顔の前に垂れているが、それでも分かった。
傷だらけの顔と翡翠色の瞳。見間違えるはずがない、ルキフェルだ。
マテオの目が一瞬潤む。生存不明だった親友。何度も海を渡り、何度も死を見てきた男の姿が今ここにある。マテオは頭を振って感情を押し込めると慎重に窓へ手を伸ばし、コツ、コツと軽く叩いた。室内ではルキフェルが物音に反応して窓に目が向く。
「……?」
窓の外、ひとつの影。ルキフェルは眉を寄せて慎重に窓へ歩み寄ると影が月光の中へ半歩動いた。影の顔が月の下に現れた瞬間、ルキフェルの瞳が大きく見開かれた。
「……っ」
マテオだ。一瞬、目眩のせいで幻でも見ているのかと思ったが違う。間違いなく、あの顔だった。ルキフェルは思わず窓に飛びついて硝子に掌を貼り付けた。
「マテオ──!」
ルキフェルは叫んだが、声は厚い窓と海風に阻まれて外には届かない。それはマテオも同じだった。声を出せば危険だ。代わりにマテオは窓へ手を伸ばし、硝子越しにルキフェルの手のひらを重ねて口を開いた。大袈裟なほどはっきりと口を動かすマテオにルキフェルは一瞬ぽかんとしたが、すぐに気づいて彼の唇の動きを読む。マテオの口がゆっくりと形を作る。
──必ず助ける。生きろよ。
ルキフェルの胸の奥に何かが灯り、じんわりと温かいものが広がる。それからふっと笑うと親指を立てた。窓の向こう、マテオは一瞬呆気にとられて思わず吹き出し、声を殺して笑って肩を揺らすと軽く手を振ると名残惜しそうに窓から離れた。影が再び夜に溶け、外回廊の端へ移動して鉤縄を投げてフックが手摺りに引っかかったのを確認すると船壁を降りていった。黒い戦艦の影の下へ、闇の中へ消える。部屋の中、ルキフェルはしばらく窓を見つめていたが背中を壁に預けると、ズルズルと滑り落ちて床に座り込んだ。仲間が生きていた。ルキフェルの頬を一筋の涙が伝う。闇の底で生まれた、小さな光のように。
入江を出た瞬間、マテオは走り出していた。黒い海の匂いが彼の背後へ遠ざかり、石畳を蹴る足音が夜の港に響いた。マテオの胸の奥で何かが弾けている。笑いが止まらない。
「……っ、はは……!」
彼は息が上がるのも構わず走り続け、途中で足取りが軽くなって子供みたいにスキップまでしてしまう。
信じられない、あいつが──生きていた。監禁されていた、傷だらけだった。でも、あの目だった。あの翡翠の目。マテオはまた笑った。息を吐くたび胸の奥が熱くなる。やがて倉庫街に辿り着くと夜の倉庫群は静まり返っていた。隙間風が板壁を鳴らす中、マテオは構わず声を上げた。
「コリン!! コリン、どこだ!」
マテオの声が跳ね返り、開いたままの倉庫の扉からコリンの顔がひょいと
出た。
「……ん? うわあああっ!?」
マテオは全力で飛びつき、コリンの悲鳴も無視して二人はもつれ合って倉庫の中へ転がり込む。埃が舞い、木箱にぶつかり、砂埃まみれになりながら床を転がっていく。コリンが顔を上げると隣で伸びているマテオを見下ろして真っ赤にしながら怒鳴る。
「ちょっと、なにすんの!! 殺す気か!!」
マテオはようやく体を起こしてコリンと目を合わせた。髪も服も砂まみれだが、顔だけがやけに輝いている。
「あいつ、生きてた!! 監禁されてるけど……生きてる!」
マテオの声が震え、倉庫の空気が一瞬止まった。
「……え?」
コリンはぽかんとしていたが、彼の顔がゆっくり崩れて目が潤み、口元が歪んだ。
「……まじ……?」
「まじ」
マテオは何度も頷くと立ち上がってコリンへ手を差し出す。
「ニールとジャスパー、探そうぜ。会うなら今しかない」
コリンがマテオの手を掴むと、マテオはニヤッと笑って倉庫の外の夜を振り返った。港の向こうではまだ灯りが揺れている。
「夜は……まだ始まったばかりだ」
その後、マテオとコリンは倉庫街を抜けて夜の街へ繰り出した。港はまだ賑わっている。酒場の灯りが揺れ、酔った海賊たちの笑い声が潮風に混じって流れていた。マテオは通りすがりの男を捕まえる。
「この辺で赤い髪で背の高い男、見なかったか?」
かなり雑な聞き方だったが、ジャスパーは目立つからこれで大抵通じる。男は一瞬考えてから港の外れを指さした。
「ああ、そいつなら……たぶんあの船の船員だな」
男に指された先、第八船団の小型ガレオン船だった。マテオとコリンは顔を見合わせる。
「行くか」
「行こう」
二人は桟橋へ向かった。船の甲板では数人の船員が酒を飲みながら談笑している。マテオは気軽な調子で声をかけた。
「赤い髪のやつに誘われたんだが」
船員たちは顔を見合わせたが特に疑う様子もなく、「ああ、例のデカいのか」と笑いながら言い、「船長室にいるぞ」とあっさり二人を船へ通した。二人が案内された船長室の扉を開けた瞬間、室内にいた男二人が顔を上げた。ニールとジャスパー。四人の視線がぶつかった一瞬、誰も動かなかったがジャスパーが椅子を蹴って立ち上がり、ニールも同時に動いた。
「……マテオ!」
「コリン!」
四人は言葉より先に、互いに掴み合うように抱きしめ合っていた。肩を叩き、腕を掴み、背中を叩く。
「生きてやがったな……!」
ジャスパーが笑い、ニールの口元も緩んでいる。マテオは一度息を整えてから言った。
「ルカも生きてる。さっき確認した」
「マジかよ!」
ジャスパーの顔がぱっと明るくなり、コリンが続ける。
「監禁されてるらしいけどね」
ニールは息を吐くと肩の力が抜けた。
「……そうか」
四人がようやく落ち着くと船長室のテーブルを囲んだ。しばらく誰も言葉を発さなかったが、最初に口を開いたのはコリンだった。
「……助けなくちゃ」
「いや、それはできない」
マテオが即座に遮り、ニールが眉を寄せた。
「どうして?」
マテオは腕を組んだ。さっき見てきた黒船の構造を頭の中で思い出している。
「あの船そのものもそうだが……部屋の作りもかなり厳重だった。人が少ない上に監視も適当だったから侵入できたが、今だけだ。フェルナンドが見過ごすわけがない。すぐ監視が強化される」
「……なるほどな」
ジャスパーが頭を掻いた。重い空気を断ち切るようにマテオが言う。
「それに、話さなきゃいけないことがある。エドガーとフェルナンドの会話を盗み聞きした」
室内の空気が一瞬変わり、マテオは続ける。
「近々、大きな動きがある。陽動作戦だ」
ニールの目が細くなる。
「どこで?」
「地中海とガスコーニュ湾。狙いはマクシミリアン・ブーケ隊」
マテオが手短に答えるとジャスパーが眉を上げる。
「海軍か」
「らしい。あいつらは今、謹慎中で海に出てない」
ニールが椅子から半分身を乗り出して口を挟んだ。
「ちょっと待って、なんであの二人が軍の情報を握ってるの?」
マテオは苦い顔をした。
「オレも信じられないことにな……海軍にスパイがいる。しかも、総司令部だ」
三人の表情が固まった。しばしの沈黙が降り、ジャスパーが天を仰ぎながら口を開いた
「……総司令部ってことはパリだ」
「しかも、そいつは“コルヴァン”だと」
マテオの言葉にジャスパーは目をぱちくりさせた。
「……伝説の情報屋が?」
「前にルカが話してただろ。フランソワの旗揚げの頃、船に乗ったことがあるって」
「え、ちょ、ちょっと待って!」
ニールが突然声を上げて他三人が振り向く。
「コルヴァンが……パリにいるって? いや、おかしいよ。だってつい最近、本人と手紙でやり取りしたんだよ? その人、マルセイユに住んでるはずなんだけど」
ニールが取り乱したように頭を振り、ジャスパーが思い出したように言う。
「ああ、そういや前に聞いたな」
コリンが肩をすくめる。
「でもコルヴァンってカラス使うんでしょ? 場所は関係なくない? 文章ならいくらでも嘘書けるし。それともなに、もしかしてコルヴァンが二人いるって言いたいの?」
「そうだよ!!」
ニールが鋭い声で切り裂いてきた。完全に狼狽している。彼の横でマテオは腕を組んだまま黙っていた。密会の記憶をゆっくり掘り起こし、やがて神妙に口を開く。
「ニール。その手紙、宛名に“何代目”って書いてあったか?」
「え?」
ニールの動きが一瞬止まるが、マテオは顎でジャスパーを指す。
「ジャスパー、せーので言おうぜ」
「バカじゃないの?」
コリンが呆れたが、ジャスパーは面白がって手を上げた。
「よし、せーの」
「十四!」
「十五」
ニールとマテオの口から同時に声が出てぴたりと重なり、コリンとジャスパーもほぼ同時に声を漏らす。
「……は?」
ニールがゆっくりマテオを見る。
「……え?」
マテオは腕を組んだまま目を細めて口元だけで笑った。
「やっぱりな、後継がいる」
「後継……? そんなバカな……」
ニールの声が震え、顔色がみるみる青くなって今にも泡を吹いて倒れそうな勢いだった。ジャスパーが肩をすくめる。
「あー……でも、なんか納得いくかもな」
三人がジャスパーを見ると、ジャスパーは腕を組んで椅子を揺籠のように転げ落ちない程度に揺らし始めた。
「十四代目……って言うのも紛らわしいな。ここからは真名でいくわ。セドリック。そいつさ、ガキが一人いたんだよ」
コリンが眉を上げる。
「子供?」
「ああ、略奪で海に出る時はいつもガキをどっかの貴族に預けてたらしい。もちろん、誰も見たことないけどな」
ジャスパーはガタンと椅子を揺らすのを止めると突然指を鳴らした。
「ああ、そうだ。完全に思い出したわ。十年前だよ、そのガキの話を聞いたの。まあ、今ごろ大人って言われる年齢になっててもおかしくないな」
沈黙が続き、マテオは義手の腕をドンとテーブルに落とすと声を押し殺して呟いた。
「……まずいな。今一番まずいのは、この事実を海軍側が一切知らないことだ。さっきの会話を聞く限り、情報が流れてるのは一回じゃない。何度も流れてる」
ニールが息を飲む横でマテオは淡々と言った。
「海軍側の情報漏洩が酷すぎる。まあラッキーなことに、コルヴァンとのやり取りも物的証拠として存在している。書簡だ。今はフェルナンドの手に渡っている。……マクシミリアンの部隊が狙われてるなら、当然そこにはソフィーがいるかもしれない」
マテオはわずかに目を伏せて義手の拳を握った。
「……あいつ、今どうしてんだろうな。……海軍だろうが関係ない。仲間がそこにいて、今後巻き込まれるなら助けてやりたい。どうすればソフィーたちに伝えられるか……それを考えないと」
ジャスパーはマテオをチラ見すると、マテオの水色の瞳が揺れていた。ジャスパーはランプの灯りのせいではないと悟って意味ありげに微笑む。
「気になるか?」
マテオは手を後ろに回して椅子の背に肘を置いて体重を預けた。
「……なにが」
「いやいや。そりゃ彼女は海軍にいると思うけどよ、マクシミリアン隊にいるとは限らないだろ」
ジャスパーは鼻を鳴らすとマテオは不貞腐れたように唸った。
「……あいつの家族の話が引っかかって。あの口ぶりだと長らく会ってないだろ。どんな過去でも、たまには会ってやればいいのに。……そうすれば戦争なんてものに巻き込まれなくて済む」
ジャスパーはいつになく真剣なマテオの横顔を見て「そうかよ」と柔らかく声を落としたが、コリンは頭の上に疑問符をいくつも浮かべていた。一方、ニールは二人の会話を流し聞きして顔を曇らせたまま窓の外に目を向けていたが、会話がひと段落したと察すると三人の顔を順番に見る。
「……まずセドリックに確認を取ろう。コルヴァンが二人いることについて聞かなくちゃ。僕がやり取りしてる相手は確かに本物だよ。文面でしか見えないけど……文章だけでも格が違った」
マテオが頷くと眉間に皺を寄せた。
「なるべく早いと助かる。フェルナンドの船も、いつ出るかわからない」
ニールは首を横に振った。
「急いては事を仕損じる」
「……なんて?」
マテオが眉を顰めて間抜けな声を漏らすとニールは少し笑った。
「僕の協力者が言っていたんだ。その人、雰囲気ちょっと怖いけど……たぶん優しい人だよ。今度、その人の仲間もこの街に来る予定なんだ。対面することになってる」
「へえ」
コリンが腕を組み、ニールは声を落として続ける。
「それに、その人言ってたんだ。僕らは下手に動き回らないほうがいいって。危険だから、って」
「……耐えるしかないかあ。ま、ルキフェルが生きてるって知れただけでも今夜は収穫あったし」
ジャスパーは机の上で腕を組んで伏せるとコリンも頷く。
「味方は多い方がいい。この街に協力者がいるだけで、まだ希望はある」
「よし、ちょっと妹と弟を呼んでくる」
ニールが立ち上がって軽く手を叩くと、マテオとコリンが同時に顔を上げた。
「……え?」
「二人に紹介するよ」
ニールが振り返って言い、ジャスパーがマテオとコリンのキョトンとした顔を見てケタケタ笑い出した。
「驚くなよ。あんま似てないから」
部屋の空気が少しだけ柔らいだ。夜はまだ続いている。この船の中でも、事態は次の扉を開こうとしていた。




