第五章② ピエール
昼間のサン・マロ。港町はすでに海賊で溢れ返っていた。桟橋では怒鳴り声が飛び交い、酒場からは昼間だというのに笑い声と罵声が漏れ出している。道端では酔った海賊が寝転がり、どこからか魚と酒の混ざった臭いが漂ってきた。ピエールは人混みを縫うように歩きながら、うんざりしたように眉を顰めている。
「……多すぎる、海賊が」
つい数か月前まではここまで無秩序ではなかったはずだが、今のサン・マロはもはや都市というより巨大な溜まり場だ。どの船団の人間なのかすら分からない連中が好き勝手に歩き回っている。ピエールはため息をつきながら歩き続けた。目指すのは町外れ、あの入江だ。かつてはダラス家が密かに取引所として使っていた場所をフランソワ海賊団が根城にし、今はエドガー海賊団が巣食っている。
「……面倒なことになった」
ピエールは歩きながら、ふと気づいて舌打ちした。そういえばダミアンに黒辰封儀教団の紋章を描かせるのをすっかり忘れていた。
「どうしたもんか……」
そんなことを考えているうちに、彼は目的の場所に着いていた。ピエールが入江へと続く鉄の扉を見つけた瞬間、身体が違和感を感知した。
「……ん?」
ピエールは音もなく横の茂みに身を滑り込ませると、扉の前に別の海賊が立って扉をノックした。
「合言葉は?」
中から声がし、海賊は呂律の少し怪しい声で答えた。
「三剣全て自分のもの」
扉がギイと音を立てて開き、海賊はそのまま中へ消えていくと扉が再び閉まり、ピエールは茂みの中で目を細めた。
「三剣全て自分のもの」
扉の向こうの気配が落ち着いた頃、ピエールは茂みから出てきて鉄扉の前に立つと軽くノックする。
「合言葉は?」
中から声に、ピエールは何でもない調子で答えた。
「三剣全て自分のもの」
ガチャリと扉はあっさりと開いた。どうやら海賊どもは一々扉の様子を確認する気もなくなっているらしい。ずいぶん緩んだなとピエールは内心で呟く。今回は黒辰封儀教団の黒衣は持ってきていないが、そんなものは必要ない。この場所では、むしろその方が自然だ。ピエールは肩をすくめるようにして入江の中へ足を踏み入れる。周囲では海賊たちが酒瓶を振り回しながら騒いでいた。ピエールは連中を横目に見ながら自分もその一員であるかのような顔でズカズカと奥へ歩いていった。やがて、ピエールは黒き戦艦の甲板へ足を踏み入れた。甲板でも海賊たちが酒を飲み、賭け事をし、怒鳴り声を上げている。
「……相変わらずだな」
この船の中でまともな話が通じる場所はあそこしかない。ピエールはその騒ぎを横目にまっすぐ船長室へ向かう時、彼の背後から少し掠れた声が聞こえた。
「今日はその格好で来たのか」
ピエールの足が止まって振り返ると、そこに立っていたのは顔面に無数の傷跡を刻んだ男、ルキフェルだった。ピエールは一瞬だけ目を細めるが、すぐに表情を消す。
「……なんのこと? お前、誰だよ」
ルキフェルは眉を上げると少し呆れたように笑って自分の顔を指で軽く叩いた。
「おい、この顔を見て覚えてない奴がいるか? そんなこと言われたのは初めてだな」
ルキフェルはピエールとの距離を詰めると翡翠の瞳をギラリと輝かせて見下ろした。
「今日はなんの用だ?」
「お前には関係ない」
ピエールが視線を逸らすことなく吐き捨てた瞬間、ルキフェルの手が動いてガシッとピエールの肩を掴むと顔を近づけ、ピエールの耳元で低く囁いた。
「旧ブルボン派に、黒辰封儀教団」
ピエールの瞳がわずかに動き、ルキフェルは彼の無機質な表情を横目に冷たい声で言った。
「お前たちがエドガーを煽っていることは分かってる。これ以上、海賊社会を混乱に陥れるなら……俺はお前たちも赦さない」
ルキフェルの言葉を聞いた瞬間、ピエールの頭の中で警鐘が鳴った。……こいつ、やばい。海賊がその単語を、この状況で理解している。次の瞬間、ピエールの身体が反射的に動いて手が閃き、トンと鋭くルキフェルの喉を突いた。
「っ……!」
ルキフェルの呼吸が一瞬詰まり、隙を逃さずピエールは金の腕輪の小さな機構を開き、中から取り出した微量の粉末——夢蛇で精製した幻覚剤——を一瞬でルキフェルの口元へ押し込んだ。
「……!」
ルキフェルに眩暈が襲いかかって足がよろめいた。ピエールはすぐに距離を取り、大げさに肩を押さえると声を張り上げる。
「あ、なんかこいつ掴みかかってきたんだけど」
近くを通りかかっていた海賊たちが振り返り、ピエールは顔を顰めて舌打ちする。
「あー、肩負傷したわ。ムカつくからこいつ、部屋に閉じ込めてくんない?」
「まじか」
「こいつ、とうとう手出しやがったのか」
「また監禁させようぜ」
海賊たちは顔を見合わせ、ふらつくルキフェルを取り囲む。
「おい動くな」
「船長怒るぞ」
ルキフェルの視界はぐらついていた。彼は海賊たちに腕を掴まれ、引きずられるように連れて行かれていく。ピエールはそれを一瞥し、何事もなかったかのように服を整えると船長室の扉の前に立ってコンコンと軽くノックすると、返事を待たず扉を開いた。部屋の中には重い空気が漂い、机の向こうにエドガーが座っている。ピエールは彼に歩み寄り、懐から封筒を取り出して机の上に置いた。
「戦闘準備の方はいかがでしょう? 街は何やら遊んでばかりですが」
エドガーは腕を組み、椅子の背にもたれたまま窓の外を見ている。ピエールは肩をすくめて笑った。
「……まさか。遥々この街まで来ておいて、やっぱり止めるなんてことないよな?」
エドガーの眉がわずかに動き、ピエールは窓の外を顎で示す。
「街をよく見てみろ」
外では海賊たちの笑い声が聞こえる。無秩序な光景を眺めながらピエールは口角を上げて続けた。
「みんな快楽に溺れてやがる。そんな奴らから快楽を取り上げれば、何が残ると思う? ……暴力だよ。快楽を欲しがるあまりに暴れたくなる。そして、その暴力を束ねる者がいれば、お前が喉から手が出るほど欲しがった支配が簡単に手に入るぞ」
エドガーの目がゆっくり動いてピエールを見据える。彼の瞳の奥で、何かが揺れ、ピエールは指を二本立てて畳み掛ける。
「復讐と報復、どちらも達成させる。三本の剣の誓いも現実となる」
エドガーの表情がわずかに歪み、ピエールはさらに踏み込んだ。
「そして、フランソワ。あの男の無念も晴らせるぞ。なによりも……海上統治の夢。海を制すれば海賊たちは真に自由であれるだろう。そのためには……海賊たちが一致団結しなければならない。——今がその時だと思わないか?」
エドガーの瞳が大きく揺れ、ピエールは眼光鋭く相手を見つめた。窓の外では海賊の笑い声が響く中、エドガーはゆっくり立ち上がって机に手をつくと拳をギリィと音を立てた。そして低く言う。
「……復讐も報復も、やってやるよ。その上で海上統治を目指す。フランス海軍相手にフランソワの弔い合戦を——必ず現実のものにする」
エドガーの瞳が燃える、船長室が沈黙したあとピエールはわずかに微笑んで軽く一礼して踵を返した。
「十五代目コルヴァンと手紙のやり取りをしたければ私がいます。手紙の運搬は私にお任せを」
「……待て」
呼び止められた低い声にピエールが扉に手をかけたところで振り返ると、エドガーは腕を組んでピエールを見ていた。
「はい?」
エドガーは椅子に深く座り直し、少し笑って顎を上げた。
「オレの配下に、第五船団のフェルナンドって男がいる。そいつに伝言がある。今夜、ここに来いと伝えろ。端正な顔だが……大袈裟な奴だ。すぐ分かると思う」
「お安いご用で」
ピエールはにこやかな表情で頷くと船長室を出ていった。扉が閉まるとピエールは海賊たちの騒ぎ声の中を何事もない顔で歩き、甲板へ出ると近くにいた船員を捕まえた。
「第五船団はどこに停泊してる?」
「街の方、倉庫街の近くだ」
「そうか」
ピエールは軽く手を振ると黒き戦艦を降り、入江の騒ぎを背に鉄扉を抜けて迷いなく歩き出した。向かう先は第五船団、倉庫街の外れ。そこには第五船団の船は停泊していた。桟橋には酒瓶が転がり、船の上からは笑い声と音楽のような騒ぎが聞こえてくる。どうやら例の船上騒ぎは昼間になっても止んでいないらしい。ピエールは遠目に彼らの様子を眺め、眉をわずかに顰めた。
「……相変わらずだな」
数歩進んだところで、彼はふと足を止める。
「待て、この街では顔を覚えられるほど厄介なことはない。あまり不必要に顔を晒さないほうがいいな」
ピエールは軽く肩をすくめた時、桟橋の近くにいた海賊の一人がこちらを見えたのでピエールは迷いなく歩み寄る。
「おい、第五船団の人間か?」
「……ああ?」
海賊が振り返って怪訝そうな顔をするもピエールは淡々と告げる。
「エドガー船長から伝言がきた。今夜、リヴェンジ・クイーンの船長室に来てほしいとのこと」
海賊の顔色が青ざめて素直に頷いた。
「分かった」
ピエールは軽く手を振ってその場を離れた。
「これでいいだろう」
余計な会話は必要ない。ピエールは振り返ることなく倉庫街の影へと消えていった。一方、伝言を受け取った海賊は船に戻り、騒ぎの続く甲板を横切って船長室の扉を開いた。室内ではフェルナンドが椅子に腰掛けている。優雅な姿勢、栗色の髪が窓の光を受けて淡く光っていた。
「エドガー船長から伝言です。今夜、リヴェンジ・クイーンの船長室に来てほしいとのことです」
フェルナンドは目の前の海賊ではなく扉の向こうの騒ぎを一瞥して肩をすくめた。
「……分かった。今夜は君たちで楽しみなよ。ボクは親玉のところへ、仕事に行こうか」
船長室の窓の外で、海賊たちの笑い声が響いていた。




