第五章① スザンヌ
スザンヌは父フィルマンと共に馬車に乗っていた。車輪が石畳を越え、やがて街道へと入る。窓の外には初夏の野原が広がり、柔らかな陽光の中で麦が風に揺れていた。向かう先はブルボン本家の屋敷、発端は数日前に届いた一通の手紙だった。
「久しぶりに親戚で集まって、お茶でもどうかな」
差出人はブルボン本家の当主。政治の匂いなど微塵もない、実に平和な文面だった。旧王家の血を引く家として分家のフィルマンも無視するわけにはいかない。結果、こうして娘も連れて出席することになったのだった。一方、スザンヌ本人の心はどこか遠くにあった。
リラから手紙が届いて以来、彼女の胸の奥には奇妙な安堵が残っている。ソフィーが無事という事実だけで、どれほど救われたことか。だが同時に、別のことも考えてしまう。あの二ヶ月間、ソフィーは恐らく海賊たちのもとで過ごしていたならば、当然あの男の近くにもいたはずだ。ルキフェル、あのとき戦場で再会した男。彼は何を考え、何を抱え、何を背負っていたのか。ソフィーは彼のすぐ近くでそれを見ていたのだろうか。……なぜ、こんなことを考えてしまうのだろう。スザンヌは膝の上で手を組み、そっと目を伏せた。かつての秘密の友人だから? ……いや、かつて本気で想いを寄せていた相手だったから。スザンヌの胸の奥で言葉にできない感情が残っている。仮面もなく、戦場で再会してしまった日からこの想いを今も抱え続けていいのか、それが分からない。だから、マクシミリアン隊へ戻ることもできなかった。あの場所に戻れば、また彼の話を聞いてしまうかもしれない。また思い出してしまうかもしれないと思うと足が止まって、結果としてスザンヌは今も実家に留まっている。
馬車はゆっくりと街道を進んでいた。遠くの丘の向こうにロワール地方の城館が小さく見え始めている。今日の目的地、ブルボン本家の屋敷だった。そこではきっと政治とは無縁の穏やかな午後が待っているのだろう。紅茶と菓子と退屈な親戚の会話、まるで世界のどこにも戦争など存在しないかのような平和な集まりが。
フィルマンとスザンヌを乗せた馬車がブルボン本家の屋敷へと到着した。石造りの門をくぐると広大な庭園が広がっている。整えられた芝生、薔薇の花壇、遠くには噴水。初夏の陽光の下で白いテーブルクロスを掛けた長机が並び、既にお茶会は始まっていた。使用人に案内され、二人が庭園へ姿を現すと親戚一同が一斉に立ち上がり、まるで祝い事でもあるかのような勢いで迎え入れた。
「おお、来た来た!」
「フィルマン! 久しぶりじゃないか!」
「スザンヌも大きくなったなあ!」
この歓迎ぶりは実に盛大だったが、フィルマンの表情はどこか微妙に固い。理由は単純だ。フィルマンとその長男——すなわちスザンヌの兄は政治的には現王党派に近い立場にある。旧ブルボン派の親族から見れば決して同じ旗の下に立つ人間ではない……のだが、当のブルボン家の面々はそんなことをまるで気にしていなかった。彼らが重視しているのは政治よりも家族のつながりである。
「まあまあ、政治の話なんてどうでもいいさ!」
「親戚なんだから、来てくれただけで嬉しいよ!」
そんな調子で、二人は気さくに席へ引きずり込まれた。フィルマンは苦笑を浮かべながら席についたが肩のあたりが少しだけ硬いまま、当のブルボンの血を引く人々は実にのんびりしたものだった。紅茶を啜りながら誰かが言う。
「それにしても、昨今の情勢を見るに王様たちは大変だよなあ」
「国のために働いてくれてるんだろ? いいことじゃないか」
別の親族が肩をすくめると、別の男が大袈裟に肩を震わせながら口を挟む。
「いやいや、もし俺たちが王冠なんか被ったら……たぶん三日で国が滅びるぞ」
一瞬の沈黙のあと、庭園にどっと笑いが起きる。
「それは間違いない!」
「三日も持たんだろ!」
「初日で財政破綻する!」
過去の王朝の歴史すら冗談に変えてしまう、あまりに気楽なブラックジョークだった。フィルマンは紅茶のカップを持ったまま、困ったように笑う。スザンヌもまた、同じようにカップを手にしたまま引きつった笑みを浮かべるしかなかった。目の前で笑い合う人々は間違いなく自分たちと同じ血を引く一族だが、空気はあまりにも緩い。
その後、庭園では相変わらず賑やかな会話が続いていった。紅茶の香りと焼き菓子の甘い匂いが漂い、親戚たちの笑い声が穏やかに広がる時、分家の一人がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、本家のご子息はどうされてるんです? エティエンヌくん、最近お見かけしませんが」
話を振られた本家の当主はティーカップを持ったまま首をかしげる。
「エティエンヌ? さあねえ。もうずっと家に帰ってきませんよ。まあ、いつものことですけど。どこをほっつき歩いてるのやら。たまにはねえ……両親と過ごそうとか思ってくれてもいいんですけどねえ」
拗ねたような本家当主の口調に、親戚たちがくすくすと笑った。
「若いんだから仕方ないですよ」
「昔から自由人ですしね」
スザンヌの手はカップを持ったままわずかに止まっていた。エティエンヌの名前を聞いた瞬間、スザンヌの胸の奥に古い記憶が浮かび上がる。十四歳の頃だった。やはりこんなふうに親族が集まっていた日のこと、庭園の隅でエティエンヌとスザンヌが二人きりで立っていた時、エティエンヌがふいに言ったのだ。
「スザンヌってさ……なんか、消えてしまいそうだよね」
「え?」
スザンヌは意味が分からず目を瞬いた。彼女が問い返した時、彼はもう視線を逸らしていた。まるで自分でも余計なことを言ったと気づいたかのように。結局、彼の言葉の意味を聞くことはなかったが、その時の表情だけはなぜか今でもはっきり覚えている。スザンヌは紅茶をひとくち飲み、上書きするように別の記憶を掘り起こした。この話をしたのは一人だけ、ルキフェルだけだった。それも十年前のこと。
——昼間の港。潮の匂いは今よりずっと柔らかかった気がする。波がゆっくりと桟橋に触れ、木材の軋む音が小さく響いていた。あの日も彼は狼の仮面をつけていた。仮面越しでも分かるくらい、真っ直ぐこちらを見ている。スザンヌは彼の視線に少しだけ照れながら言った。風が吹き、彼女の銀に近い髪をそっと揺らす。
「背中向けられると寂しいって思ってたの」
ルキフェルは少し首を傾げるだけ、スザンヌの方が先に言葉を続けた。
「でも本当は……私も見られるの苦手だから。親戚とかに見られて、珍しいだの消えそうだのって言われるの、ちょっと疲れるのよね。綺麗とか言われるけど……本当は、ちゃんと中身を見てほしい」
スザンヌは海を見ながら呟いていた。少しだけ恥ずかしかった。強く振る舞う理由、外に出る理由、息をするためのささやか逃避。ルキフェルはずっと黙っていた。仮面越しでも分かる。ちゃんとこちらを見ている。彼の視線が妙に落ち着いて、スザンヌはふっと笑って言った。
「ノワールの眼はね、そんなのじゃない。ちゃんと人を見てる。嫌な感じがしないの。……変かな?」
ほんの少し間があり、仮面の向こうから低い掠れた声が返ってくる。
「……変じゃない」
スザンヌの中で温かさがこみあげ、少しだけ視線を逸らしてから再度彼を見た。
「それに……声と瞳が好きって言ってくれたの嬉しかった」
スザンヌの頬がわずかに染まり、昼の陽光が彼女の輪郭を柔らかく縁取っていた。——その記憶がふっと途切れる。
スザンヌは庭園の椅子に座ったまま紅茶のカップを見つめていた。あれから十年、あの時の言葉を彼は覚えているのだろうか。庭園のあちこちで会話が続く中、分家の一人がふとフィルマンに声をかけた。
「そういえば、スザンヌは海軍にお勤めだとか?」
フィルマンはカップを静かに置き、何でもないことのように答えた。
「ああ、戦闘部隊だ。海賊討伐任務に就いている。今は部隊が休暇中でね。たまたま帰省しているだけだ」
まるでそれ以上の詮索は不要だと言うように。娘を庇う父のさり気ない一言だったが、分家の男は特に気にした様子もなく頷く。
「そうなんだね」
それだけで話題は流れていき、別の親族がふと思い出したように言う。
「そういえば、海賊といえば……地中海方面がなにやら騒がしいとのことですよ」
「ああ、聞いた聞いた」
誰かが相槌を打つと本家の当主がティーカップを持ったまま肩をすくめた。
「物騒な世の中ですなあ。もはや争いですよ。争いって、結局は正義対正義じゃないですか」
親戚たちは「それもそうだ」と笑いながら頷く。戦争の話題ですら、どこか他人事のようだ。再び笑い声が広がる時、庭園の奥の小道から誰かが軽い足取りでこちらへ歩いてくる。
「いやー、みなさんご無沙汰してまーす」
呑気な声が響いて一同の視線がそちらへ向くと、そこに立っていたのはエティエンヌ・ブルボン本人だった。整った身なりの客人用の服装、まるで最初からこのお茶会に出席する予定だったかのような装いだ。彼は庭園へ歩み寄りながら自分の父へ向かって軽く手を挙げた。
「父上、すみません。さっき帰ったところです」
ブロンドの髪に薄い緑の瞳、エティエンヌ——ティエンは庭園の縁で足を止めた。彼は席につく様子はなく軽く片手を挙げ、親戚一同へ向かって言う。
「母上から、みなさん集まってるって聞きまして。ちょっと挨拶に来ただけです」
ティエンが親戚一同に視線を巡らせると、ある人物に目が止まった。銀に近い髪、見覚えのある横顔。——従姉妹のスザンヌだ。十年ぶりというほどではないが、最後にまともに顔を合わせたのがいつだったのか、すぐには思い出せなかった。その時、呆れた声が庭園に響く。声の主はティエンの父、ブルボン本家の当主だった。
「まったく、お前はいつもいつも、どこへ行っているんだい。せめて行き先くらいは伝えておいてくれるとありがたいんだがな」
親戚たちがくすくす笑う。当主はふっと視線を動かし、スザンヌの方を示した。
「見なさい。フィルマンのところのスザンヌは海軍勤めだそうだ。彼女の兄だって、王宮で良い役職に就いているという。それに、彼女の二人の姉も立派に嫁いで、貴婦人として屋敷を支えているそうだ」
本家当主は息子のティエンをじとりと見た。
「それに比べて、お前はどうだ。仕事もせず、ふらふらしてばかりで。いったい何をしているんだ」
叱責というより半ば冗談のような調子に茶会の空気はどこか和やかだったが、ティエンは気にした様子もなく目を細めて口を開いた。
「スザンヌのお兄さん? 良い役職って何ですか」
ティエンの父が得意げに顎を上げた。
「王宮海務院だよ、航路監査官だ。ほら、すごいだろう?」
親戚の何人かが「おお」と頷くが、ティエンは少し首を傾げただけだった。
「……それ、具体的に何する仕事ですか?」
庭園に小さな笑いが起きる。肩書きでは納得しない、如何にも彼らしい反応だった。ティエンはそのままフィルマンの方へ視線を向ける。
「すみません、叔父上。航路監査官って何を見てるんです?」
フィルマンは苦笑して紅茶のカップを静かに置いて口を開く。
「簡単に言えば、海の記録係だ。王宮海務院では、王国の港を出入りする船の航路と積荷、許可証と海図の記録を管理している」
ティエンの眉がわずかに動き、フィルマンは続けた。
「その中で航路監査官というのは、記録と実際の航路が一致しているかを調べる役職だ。船が申請した航路と違う動きをしていないか。港の記録に不自然な点がないか。つまり、密輸や不正な交易が行われていないかを調べる役目でもある」
庭園の空気がしんと静かになり、ティエンはふっと笑う。
「なるほど。海賊より、よっぽど海の裏側を見てる仕事ですね」
ティエンは紅茶の香りの漂う庭園のざわめきの中で、わずかに視線を落とした。航路監査官、頭の中でその言葉をもう一度転がす。
——もし夢蛇がフランスに密輸されていることを明かしたら……どうだろう。ティエンは内心で思案する。オレとアラン……それに、他のみんなの話を聞いてくれるだろうか。
夢蛇の件はまだ証拠も完全ではないが、航路監査官という立場なら港と交易の記録から何かを掴める可能性がある。ティエンが顔を上げると肩をすくめるようにして口を開く。
「その航路監査官って、要するにヴェルサイユにいるんでしょう? また会いたいなあ。次のお休みって、いつとか分かります?」
突然話を振られたフィルマンは少しだけ考え込むような顔をした。
「いつだろう。あいつも妙な奴でな。突然ふらっと帰ってきては食べて寝て、また王宮に向かう。休みらしい休みなんて、本人にも分かってないんじゃないか」
二人のやり取りをスザンヌは耳を傾けていた。兄は立派に勤めを果たしている。それに比べて、自分は本当にこんなところにいていいんだろうか。庭園のざわめきがどこか遠くに聞こえる。彼女の頭に浮かぶのは海だった。荒れる波。帆船。銃声。そして、ルキフェル。気になる。理解できない。それでも目を逸らせない。
——全然整理できてないけど……部隊に戻れば、また分かるかもしれない。
スザンヌはカップをそっと皿に戻した。海へ戻れば。戦場へ戻れば。また彼と出会う可能性がある。
——結局のところ、私はあの人に会いたくて海に出るんだ。それでもいい。わからないことは、また本人に聞けばいい。
それがいつになるかは分からない。戦場かもしれない、港かもしれない。あるいは、もう二度と会えないかもしれない。それでも……ここにいても、しょうがない。庭園の向こうで、夏の風が葉を揺らしていた。
やがて、お茶会は穏やかな笑い声とともにお開きとなる。帰り支度を始める親戚たちのざわめきが広がり、門前には次々と馬車が並んで従者たちが荷物を整えていた。スザンヌとフィルマンもまた帰路につくため庭を後にする。門の前まで来たところで、ティエンがスザンヌに軽く手を振った。
「じゃあね」
スザンヌは少しだけ困ったように笑い、軽く会釈する。
「ええ。また」
フィルマンも穏やかに頷き、二人は馬車へと乗り込んだ。扉が閉まり、馬車はゆっくりと門を抜けていく。やがて、親戚たちを乗せた数台の馬車が続々と屋敷を後にし、石畳の道を遠ざかっていった。しばらくして、ティエンはくるりと振り返って両親の方を見る。
「オレも、もう行くわ」
「え?」
「もう?」
父が目を瞬かせ、母も少し驚いた顔をする。
「せっかく帰ってきたのに?」
「ええええ」
二人の声が重なったが、ティエンは気にした様子もなく肩をすくめる。
「ちょっと用事思い出した。じゃあねー」
ティエンは手を振って門をくぐり、歩道へ出た。馬車も従者も連れず一人で石畳の道を歩いていく。ブロンドの髪が夕方の光に淡く揺れ、屋敷の前の通りを町の若者のような気軽さで歩いていく。やがて、ティエンは少し遠くに停まっている一台の馬車に気づいて目を細めた。
「……あ」
馬車の近くには三人の男の姿があった。ティエンは歩調を速め、早歩きで近づいていくと、馬車のそばで控えていたニコラがこちらに気づいた。
「お待たせ」
ティエンが気軽に声をかけるとニコラは軽く肩をすくめた。
「……貴公子さん、次はどちらへ向かいますか」
「やめろやめろ」
ニコラの言い方にティエンは顔を顰め、胸元を引っ張るようにして着ている上等な服を示す。
「オレは早くこれ脱ぎたくてしょうがないんだ」
「それにしても、君がそんなたいそうな身分とは思わなかったな」
イヴォンが腕を組みながら笑い、マルクも「だな」と頷いた。ティエンは頭を抱える。
「だあああああああ、勘弁してくれよ……」
ティエンは深くため息をつき、三人を順に見て少し身を乗り出して言う。
「頼むよ? アランには絶対に秘密にしてくれよ」
ニコラは呆れたように笑うと馬車の方へ顎をしゃくる。
「はいはい、本人もこう言ってることだし……じゃあ、行きますか。アランさん、なんか呼んでるっぽいし」
マルクが御者台に手をかけると振り返って三人を見る。
「だな。んじゃ、サン・マロに向かうぞ。お前ら、乗り込め」
ティエンとニコラ、イヴォンが次々と馬車へ乗り込むと扉が閉まり、マルクが手綱を引く。馬車はゆっくりと動き出し、石畳の道を進み始めた。




