第四章⑦ パリ総司令部
パリ総司令部。窓の向こうに見える街路樹の青い葉がまるで何かを待っているかのように風もなくじっとしていた。
エリオット・レオパードは静かな執務室の中で一人、分厚い報告書の束に目を通している。書類の端には六月二十六日と記された判決日付、若き軍医についての最終報告が綴られていた。消息不明とされ、かつ内通の疑いもかけられた人物の裁判は既に終わり、今はパリ市内の病院に配置されて監視下にあるという。潔白とする証言は複数あれど疑いが完全に晴れたわけではない。処遇欄には簡潔にこう記されていた。
「様子見」
エリオットはぺらりと一枚をめくる途中で手を止めると、背もたれに身を預けて大きく伸びをすると古びた椅子が軋んだ音だけが響いた。
「……あちこちで、実に大きな波が起きている。だが、私のもとに届くのはいつも風が止んだあとだ。まったく……総司令部とはそういう場所だったか」
エリオットは天井を仰ながら呟いたと、立ち上がって窓際へと歩いた。外には白く烟るような夏の光が満ちて雲は遠くで滲み、空気は熱を孕んで揺らめいている。風はなく街の音もどこか遠い。エリオットはじっと空を見つめていた。
今年もまた夏が来た、もしラウルが生きていたら——。そんな考えが胸をよぎる。
「今ごろ……二十六歳か」
エリオットの顔に自嘲のような笑みが一瞬だけ浮かんだ。まるで見えぬ“風の行方”を探すように——。
「失礼いたします、大元帥」
重厚なドアを軽快なノックが叩き、控えめながらも澄んだ声と共に一人の青年が姿を現す。
アルフォンス・シャトレだった。端整な顔立ちに整った白い制服と几帳面な所作、茶色の髪を丁寧に後ろへ撫でつけ、涼やかな瞳には忠誠心と気品が宿っている。見た目も佇まいも好青年という言葉をそのまま形にしたような男だ。
「おお、アルフォンス。お前が来ると少しだけ部屋が若返る気がするな」
エリオットは書類をひとまとめにしながら穏やかに笑う。
「差し入れです。例の薬草茶、頭の痛みに効くやつを淹れてきました。香りも心を落ち着かせてくれると軍医の先生方が言っておりましたので」
「軍医ねえ……」
エリオットはふっと笑い、受け取ったカップから立ち昇る湯気に目を細めた。
「こうして部下の茶に頼る日がくるとは。老いた証拠だな」
「老いてなどおりませんよ、大元帥。むしろその風格と貫禄は今まさに最盛期かと」
「うまいこと言うじゃないか、まったく」
アルフォンスはにこりと微笑むだけだった。柔和な表情の奥には若者らしい真面目さと日々を生き抜く覚悟が宿っている。エリオットは茶をひとくち啜ると薬草の香りが執務室にゆるやかに広がった。
「……アルフォンス」
「はい」
「正義ってのは、どこにあると思う?」
エリオットの突然の問いにアルフォンスは一瞬だけ戸惑いの色を見せたが、すぐに真っ直ぐな声で答える。
「答えはひとつではありませんが、もし僕が信じられる正義があるとすれば、それは大元帥のなさることです」
「……馬鹿正直め」
エリオットは苦笑するとぽつりと呟いた。
「国家の理念を貫くために、親友を手にかけることも正義なのか……?」
エリオットの言葉は思いのほか重く部屋に沈んだ。
十九年前の光景が彼の脳裏をよぎる。ヴール・レ・ロズの別荘地。あの日の昼間、自分はゼフィランサスと会って決裂した。その夜、家族は殺された。偶然のはずがない。そう信じるしかなく親友を討った瞬間、自分は国の英雄になった。国家の理念を貫いた英雄。だが、本当はただ復讐を果たしただけ。
「……大元帥。あのことは言わない約束です」
アルフォンスの声が若者らしからぬ落ち着いた声音で割って入り、エリオットはふっと目を伏せて苦笑した。
「そうだったな……でなければ君の父上に申し訳が立たん」
アルフォンスのまなざしが柔らかく揺れた。
シャトレ家。フランス海軍において副提督時代から大元帥ポスト設置まで、海軍の頂点に側近兼伝令係として仕え続けてきた一族。エリオットがまだ若く、情熱の奔流に心を翻弄されていた傍らには、いつも寡黙で思慮深いシャトレ家の先代アルマンがいた。そして今、その息子が同じようにここに立っている。
「歳を取るといかんな。つい口が滑る」
「滑ったままで終わらせはしませんよ。そのために僕がいますから」
アルフォンスはニョキニョキと背筋を伸ばした。主を諫めることに躊躇のない誠実さは、ただの忠誠ではない。長年の信頼が築いた距離だった。エリオットはようやく笑みを返す。
「まったく。君たち父子はどちらも恐れ入る」
その後、アルフォンスが差し出した革張りのファイルを受け取ると、エリオットは椅子に深く腰を戻した。月例の部隊成果報告書、各司令部から総司令部へ送られてくる戦況整理の束である。エリオットがページをめくる音だけが静かな執務室に響いた。第一艦艇部隊は依然として主力。第二、第三はその後方支援。地中海の戦線はまだ終わりが見えない。第五艦艇部隊は内部の混乱が継続。第七は慢性的な人手不足。エリオットは書類の角を軽く叩きながら息を吐いて次のページをめくると眉が上がった。
「……ほう」
そこには第六艦艇部隊からの報告書が挟まれていた。
【トゥーロン司令部提出 第六艦艇部隊 技術開発報告書(抜粋)】
現在、東洋の兵法および武術理論を応用した新兵装の試作が進行中。
■連結剣(別名:スリングブレード)
特徴:刀身または刃を鎖で連結した近接武器。振り回すことで遠距離攻撃が可能であり、投擲にも使用可能。
東洋要素:中国・日本の鎖鎌系武器の技術を参考。柔術的な身体操作と組み合わせることで真価を発揮。
戦術的用途:白兵戦、船上戦闘、砲撃後の混乱状態における敵船突入時。
■震撃砲
特徴:爆発ではなく振動衝撃を利用した特殊砲。衝撃波を地面・船体に伝え、構造物を破壊する。
東洋要素:東洋武術および兵法思想における「気」の概念を機械化したもの。
戦術的用途:船底破壊、港湾設備・建築基礎の破壊など。
いずれも現在試験段階ではありますが、東洋知識を持つ顧問の助言により実用性は高いと判断しております。
総司令部におかれましては、導入をご検討いただければ幸いです。
トゥーロン司令部 第六艦艇部隊隊長 兼 技術総監督
報告書を読み終えたエリオットは思わず控えめに笑った。
「またずいぶん面白いものを作っているな」
戦争はいつも人間を妙な方向へ進歩させるが、実用性が伴えば戦術の幅は広がるだろう。冬季までに一個小隊へ試験導入くらいの予算拡張なら問題はない。書類を脇へ滑らせ、エリオットは次の報告へ目を移した。第七艦艇部隊と徴兵対象の拡張案。そこまで読んだところで彼の指がふと止まった。
彼の頭の片隅にまず浮かんだのは「セルティック・シェルフ漂流事件」だった。士官学校の候補生たちが訓練航海中、嵐に巻き込まれ漂流。本来ならば全滅していてもおかしくなかったが、彼らは帰ってきた。漂流事件の中心にいた青年、マクシミリアン・ブーケ。荒削りで型破りで、驚くほど鋭い判断力を持っていた。エリオットはその時、直感的に思ったのだ。
「この男は戦場向きだ」
だからこそ、精鋭部隊としてあの部隊を作らせた。その後の報告書にはいつも派手な戦果が並んでいた。大海賊フランソワ討伐、数々の奇策。そして、今は参謀本部による謹慎処分。エリオットは重い溜め息を吐いた。……才能はあるのにな。戦場というのは妙なものだ。大人しく整った兵より時に厄介な連中の方が役に立つ。こういう状況こそ、あの連中の出番ではないのか。だが総司令部の机の上では規律が先に来る。
その後、エリオットはアルフォンスにメモを取らせ、各部隊への来月の助言と要求を告げた。
「……第七は徴兵対象の拡張を。既存の兵力では沿岸警備が手薄になる。このことは参謀本部にも、謹慎中の部隊に対して少しでも緩和を促そう。第八、第九は現状維持。特段の異常は見られないが、合同訓練の再開は提案しておこう。いずれにせよ、中央が思っているほど平穏とは言い難い」
エリオットが書類を閉じるとアルフォンスはすでに筆記を終えていた。
「以上の内容をベルリオーズ君に渡し、書式を整えた上で各司令部へ通達するよう伝えます。念のため、本日中に一次案をお目通しいただけるように申し添えましょうか?」
「頼むよ、アルフォンス。君がいなければ、私の言葉は半分も伝わらん」
アルフォンスは一礼して颯爽と執務室を出るとカツカツと回廊を反響させ、とある執務室の扉を通った先で書類を整えるベルリオーズの元へ真っ直ぐ向かった。
「ベルリオーズ君。大元帥より、各司令部への助言および要求事項の通達内容です」
「ああ……拝命いたします」
アルフォンスが手渡したメモをベルリオーズは受け取った。
「……戦況の整理と再配置案ですね。ふむ、了解です。数時間もあれば草案は仕上がるかと」
抑揚の乏しい声でベルリオーズが告げると、アルフォンスは礼を述べて退室した。ベルリオーズは再びペンを走らせ、さらさらと流れるような筆致で書類の整形、文面の整理、命令書の書式化を驚くほど正確で早く作成していった。誰にも聞こえぬほどの声で彼は呟く。
「……すごい情報量だ。さすが元参謀官だな。地中海……それにガスコーニュ。潮目が変わるにはちょうどいい頃合いだ」
総司令部の片隅で書類を捌く、陰気な事務官。多くの者がそう思っているが半分だけ正しい。ベルリオーズ・モンレザールは整った顔立ちをした、青白い男だ。肩まで伸ばした髪を後ろで束ね、眼鏡の奥の瞳には濃い隈が落ちている。寝不足のせいだろう、夜を徹して書類を読むことも珍しくない。その姿はひどく地味で目立たないが、その観察眼と頭脳は軍人としても情報屋としても、あまりに優秀すぎた。裏社会にはコルヴァンと呼ばれる情報屋の一族が存在する。ベルリオーズはその末裔だった。
「……普通に生きたかったんだけどな」
彼自身は軍人として静かに生きる道を選んでいたが、去年すべてが狂った。エドガー・ロジャースの名を思い浮かべると、ベルリオーズはわずかに眉を歪める。粗野で残忍で底知れぬ狡猾な男。彼はコルヴァンの名を嗅ぎつけ、ベルリオーズに近づいた。いや、近づいたというより絡みついた。
「君の血筋を思えば、選べる道は一つだけだろう?」
エドガーの一言で、ベルリオーズは初めて自分の血を知った。コルヴァンの末裔。そして、自分がその名を継ぐ者であることを。
「……ちっ、相変わらず目障りだな」
低く吐き捨てながらも、彼の唇には微かに笑みが浮かんでいた。危険だと分かっているが、同時にその綱渡りがたまらなく面白いのだ。破滅の匂いとインクの匂いが混ざる時、脳の奥が痺れるように震える。どうしようもない男だった。やがて、ベルリオーズが書類の整理が終わる頃には窓の外の光が傾いていた。ベルリオーズは左手の黒い指輪を見つめ、精巧に刻まれたワタリガラスをうっとりと眺める。
「……ノクター、腹でも空かせてる頃か」
自室で待つ飼い鴉を思い出して笑う。書類を鞄に収めると、彼は席を立った。時計は午後四時半を指している。
「……休憩時間だな」
ベルリオーズは誰にともなく呟くと外套を羽織り、総司令部を後にした。
パリ市内、石造りの建物が並ぶ裏路地にひっそりとした喫茶店がある。看板の文字は半ば消え、客もほとんどいないが、ベルリオーズは迷いなく奥へ進み、窓のない個室の扉を開けた。そこにはすでに男が座っていた。エドガーとの中を取り持つ同業者——情報屋を騙るピエール——である。相変わらずの薄汚れた服、手首にはやけに立派な金の腕輪を嵌める姿に、ベルリオーズは一瞬だけ顔を顰めた。
「……今日は着けてるのか」
この男は妙に気まぐれだった。腕輪を着けたり、着けなかったり。服装は相変わらず貧相なのにアクセサリーだけ妙に上等なのが腹立たしい。
——その腕輪、服より高いだろ。
内心で毒づきながら、ベルリオーズは椅子に腰掛ける。
「久しいな、ベルリオーズ」
ピエールが低く言うとベルリオーズは即座に鞄を開いた。
「時間が惜しい。これだ」
封筒を一つ、総司令部の軍令書の写し。さらにもう一通、ベルリオーズは封をされた手紙を差し出した。封蝋には髑髏と三本の剣、エドガー海賊団の紋章である。ベルリオーズの茶色い瞳が一瞬だけ光った。
「これは、“船長”への個人宛てだ。どう動くか、私にも分からない。ただ潮目がどう揺れるか、見てみたくなっただけさ」
それだけ言うと、ベルリオーズは椅子から立ち上がって外套の裾を翻し、そのまま店を出た。扉が開いた瞬間、外の光が差し込む光を受けて、彼の左手の指輪がかすかに輝いた。刻まれたワタリガラスの紋様。見た瞬間、ピエールは低く呟く。
「……“コルヴァン”は、やはりまだ死んではいなかったか」
ピエールはゆっくりとコーヒーを飲み干して店内で静かな時間を楽しんだあと机の上の書類を手に取った。
「さて」
ピエールは椅子を引いて立ち上がり、店を出ると外に繋いでおいた馬の手綱を握り、軽やかに鞍へ跨って石畳の通りを駆け出した。向かう先はパリ郊外、シルヴェストルの屋敷だった。




