第四章④ ニール
隠れ部屋、もう時間の感覚も曖昧だ。
ニールは今日もこの場所でテーブルに肘をつき、腕を組んで顔を隙間に埋めていると顔を上げ、窓の外の北の空をぼんやりと見つめた。手紙はまだ来ない。わかっている、そんな簡単に返事が来るはずがないのに胸の奥が落ち着かない。今日はワンもポーランもいない。ヤンはカルロータの宿だろう。
この部屋には自分一人……のはずだった。
ニールが視線を動かすと別のテーブルに男が一人いた。日に焼けた小麦色の肌、頬を横切る浅い古傷、赤銅色の短髪に筋のように混じる白髪。琥珀色の右目は鋭く、左目には黒い眼帯。身体は引き締まり、椅子に座っているだけなのに風貌からして明らかに庶民ではない。ニールは一瞬視線を止めたが、何事もなかったようにまた窓へ戻す。無理に視線を外へ向けるが、ニールの意識は向かいの男へ向いている。空気が少し重い。
——自分から関わらない限り、たぶん大丈夫。それに、ここの出入りを許されている時点でリー・ウェン側から信頼されている人なんだろう。
一方、向かいの男アラン・クロードは琥珀の右目でちらりとニールを捉えた。
……あのガキ誰だよ。
アランの表情は動かないが内心では警戒。あの金髪好青年は痩せた身体付きだが、姿勢は崩れてなく窓を見るふりをしている。
——落ち着かねえな。
アランの指先が机を軽く叩くがすぐ止めた。ここはリー・ウェンの部屋、不用意に動く場所ではない。窓の外、北の空がゆっくりと橙に染まり始め、ニールは相変わらずテーブルに突っ伏し、アランは椅子に深く腰掛けて動かなかった。——その時、遠くから羽音がパサリと聴こえ、アランの視線が鋭く上がって立ち上がり、彼の動きでニールもハッと顔を上げた。窓辺にワタリガラスが舞い降りようとして夕陽を背に黒い影が揺れる。
「……ワタリガラス」
ニールの胸が跳ね、一瞬アランを見る。
——ワタリガラス、久しぶりに見たな。……というか、あの人も手紙待ってたんだ。
アランは何も言わず、窓辺へ歩くとカラスが彼の腕に止まった。アランは筒形の入れ物へ手を伸ばし、慣れた手つきで蓋を外して中身を取り出すと眉が動いた。封筒が二枚重なっている。アランは黙ったまま二通を見比べ、片方の裏側に綴られた丁寧な文字、「アラン・クロード殿へ」の文言を見つけて琥珀の右目が細くなった。もう一通へ視線を落とすが、何も書かれていない。アランの視線がテーブルにいるニールへ向くと、ニールはカラスと目を合わせていた。アランは無言で歩み寄ってニールの前に立つと封筒を一枚差し出す。
「……これ、こっちがお前宛だろう」
ニールの目が見開かれ、封筒を見るなり震える指で受け取った。
「あ……ありがとうございます」
アランは何も言わず踵を返して元の席へ戻ると自分の封筒を開き始めた。窓辺ではワタリガラスが羽を整え、ニールは速攻で封を切って便箋に目を落とすと、やがて最後の一文まで読み終えた。達筆な文字、揺るぎない筆致。ニールは十四代目コルヴァンと真名セドリック・モンレザールの名を目でなぞり、ゆっくりと息を吸うと天井を仰いだ。表情は変わらないが、心の中では拳を握っている。繋がれた、しかも協力者として。炙り出しを見抜いたこと、「同じ旗の下」の意味も察していること。
——伝説の情報屋って……こういうことか。
文面に滲む余裕を感じ、ニールは一人納得していた。一方、アランは自分宛ての手紙を読み終え、ゆっくりと視線を上げてニールを捉える。
「……あのガキが?」
フランソワの部下。賢そうではあるが若い。若すぎるが、確かめなければならない。アランは立ち上がると椅子がわずかに軋み、ニールの前へ歩いていった。
「おい、ガキ。いくつか質問に答えろ」
ニールはワタリガラスと一緒に首を傾げ、きょとんとした顔を浮かべるとアランの視線がニール宛の封筒へ落ちて琥珀の目が細くなった。
「同じ封筒。同じ便箋。お前もコルヴァンと通じているのか」
ニールは素直に頷くと自分の便箋を差し出した。
「はい。と言っても、やり取り自体は初めてです。どうぞ」
アランは引ったくるように受け取って一通り目を通すと視線だけ上げた。
「……なるほどな。フランソワの船では何をしていた」
「航海士です」
ニールが即答するとアランの片眉がわずかに動いて頷く。
「そうか。じゃ、フランソワが死んだ後にお前は何をしていた」
「仲間と一緒にトルチュ島に向かいました」
「それなら、なぜこの街にいる?」
アランが声を鋭くさせるとニールの瞳が一瞬揺れた。
「……拉致されたんです。エドガー海賊団の奴らに」
アランの目つきが鋭くなり、ニールは小さく付け足す。
「言っても信じてくれないかもしれませんが——」
「信じていないわけじゃない。信用と信頼は別だ。信用は積み上げるもの。信頼はここから先の未来を見込んで託すものだ。覚えておけ、ガキ」
ニールが驚きのあまり目が点になっていると、アランは片目でニールを射抜いて吐き捨てる。
「それで? なんでコルヴァンと接触しようとしてる」
「仲間がバラバラなんです。みんな別の船団にいて……だから、外部の人間と通じるしかなくて」
ニールが捲し立てるように話すとアランの眉が寄る。
「仲間がバラバラ? 共に船を動かす仲間だろう。一人くらい一緒じゃないのか」
「五人です」
「……は?」
「僕含めて五人です」
ニールが感情を削ぎ落としたような表情で告げると、アランは目を瞑って天を仰いだ。
「……正気か」
ニールは俯かずにアランを見上げたまま言葉を紡いでいく。
「僕らはエドガーを止めるために動いていたんです。こんなことになってしまうなんて……」
ワタリガラスがバサバサ羽を鳴らし、アランはしばらく黙ったままニールを見ていたが息を吐いた。
「まあ……事情は大体分かった。お前しか動けていないことも。というより……お前たちはエドガー海賊団に取り込まれているだろう? 下手に動けば却って危険だ」
琥珀の右目が鋭く光り、アランは書棚の方へ歩くと慣れた手つきでインク壺とペン、それから便箋を数枚取り出した。彼が戻ってくるとニールの向かいの席にどさりと物を置いて椅子に腰掛けると何の説明もなく書き始めた。ペン先が紙を滑る音だけが部屋に響く中、アランはぽつりと言う。
「仲間が何人かいる。まずお前と俺たちの利害が一致すれば、俺たちも協力しよう。海賊社会の均衡が崩れるんだ。黙って見過ごすわけにはいかない」
ニールはほんの少し目を見開く。
「海賊社会に理解があるんですね」
「……この眼帯見れば察するだろうと思っていたんだが。……言っておくが伊達じゃない」
アランの右目が細くなり、左の黒い眼帯を指先で軽く叩くと再びペンを走らせた。セドリックへの返書には無駄がない。ふとアランのペンが止まって顔を上げ、ニールはピシリと背筋を伸ばした。
「名前は?」
「ニール。ニール・セイルハートです」
一瞬の沈黙のあとアランの口元がわずかに動く。
「今にも漕ぎ出しそうな名前だな」
「漕ぐというより、帆を張ると言ってくれると嬉しいです」
「うるさい」
アランが即座に返し、ニールは思わず苦笑した。その後、アランはペンを置くとニールに向き直り、低い声で言った。
「仲間が集結するまで時間がかかる。セドリックとのやりとりも俺が引き受けよう。お前はこれ以上動き回るな。今の状況で下手に動けば逆に足がつく」
アランがカラスのハーネスに手を伸ばすと筒を開けて返書を丸めて滑り込ませ、ニールはアランの言葉に一瞬だけ言い返しかけたが肩を落として呟いた。
「……分かりました」
「今は静観だ。嵐の前に船を出す馬鹿はいない」
アランは頷くと立ち上がって再び棚へ向かう。ニールはアランの背をしばらく見つめていたが、やがて視線を窓の外へ移した。夜空の向こうでワタリガラスが黒い影となって飛び去っていく。ひとまず自分の役目は終わった。少なくとも今は動かない方がいい。ニールはそう判断し、事態を静観することにした。




