第四章③ ダミアン
パリ、医務局。石造りの廊下に規則正しい足音が響く中、ソフィーは淡々と業務をこなしていた。負傷兵の診察、薬剤の管理、報告書の整理。医師としての手は揺れないが、定期的に訪れる足音がある。参謀本部の人間、今日もまた別の顔ぶれだった。
「ルノアール殿、時間をいただきます」
形式ばった口調だが目は焦っている。ソフィーは小会議室へ通され、机を挟んで向かい合った。
「では改めて、大海賊フランソワの残党、通称“五人組”について」
ソフィーはまたそれかと思うが、顔には出さず溜め息を飲み込んだ。
「金髪碧眼の青年、茶髪の美青年、黒髪で小柄な少年、赤髪で長身の男。それと顔に傷がある男」
「特徴は?」
「剣術に優れ、判断が早い。……ですが」
参謀官が身を乗り出す。
「ですが?」
「理念を持っている」
ソフィーの言葉に一瞬空気が止まり、参謀官は顔を顰める。
「理念、ですか?」
「ええ。単なる略奪目的ではありません」
参謀官は何かを書き留める、同じ質問をまた繰り返す。外見の詳細、身長口調。戦、闘時の癖。尋問が終わる頃にはソフィーは内心うんざりしていた。昨日も同じことを言った。しかも、来るたびに顔ぶれが違う。昨日は若い参謀、今日は年配の参謀、明日はまた別人。全員が同じ質問をし、全員が同じ顔で頷く。全員が「重要案件だ」と言うが、誰一人として引き継がれている様子がない。
その頃、参謀本部では書類の山と地図が広げられた机を前に一人の参謀官が声を上げる。
「よし、これまでのフランソワ海賊団関連の報告書と照らし合わせる。五人組の正体に迫るぞ」
他の者が頷くが直後、扉が勢いよく開く。
「地中海方面より急報! トゥーロン司令部より、海賊増加の報告!」
「誰が出張する?」
「人手が足りません!」
「分析班も回せ!」
「五人組の件は一旦保留、地中海優先だ!」
机の上の“五人組海賊の資料は脇へ寄せられ、書類が重ねられて封をされ、棚へ滞っていく。
パリ総司令部、石造りの重厚な建物の一室。整然と積まれた書類に窓から差し込む昼の光。
総司令部所属書記官、ベルリオーズ・モンレザール。自称十五代目コルヴァン。昼休憩の鐘が鳴り、彼はペンを置くと結んでいた髪留めを解き、艶やかな黒髪がさらりと肩に落ちると鼻梁にかけていたレンズのない眼鏡を外し、机の端へ置く。月例報告書の写しをごく自然な動作で封筒に滑り込ませて鞄に入れると立ち上がった。誰も疑わない。優秀で真面目で、出自も確かな青年貴族。——表向きは。
ベルリオーズは街へ出ると石畳を踏み、裏通りにある昼下がりのカフェへ向かった。ベルリオーズは何の躊躇もなく入店すると店内を見渡す。奥のテーブル席、薄汚れた市民が一人で身を潜めている。ダミアンだ。今日もまた仕事を押し付けられた。夢蛇探しに夢中の兄ピエールの代わりとして自分がここにいる。ベルリオーズは身を潜めているダミアンにじっと目を凝らして内心で思う。
——あいつ、情報屋とか名乗ってたけど音がしなさすぎて不気味なんだよな。本当にいるのか分からないほど存在感が薄い。
ベルリオーズはダミアンの向かいに座り、言葉は交わさず鞄から封筒を取り出し、机の上に滑らせた。ベルリオーズの左中指には黒い指輪が嵌っている。カラスの意匠が刻まれたコルヴァンの証、自分こそが正統な後継だと主張する誇示の印だ。ダミアンは一瞬だけ彼の指輪を見ると封筒を受け取り、ベルリオーズが口を開く。
「今月末……いや、もう少し早いかもしれない。違う報告書が来る可能性がある。また時期になったら持参しよう」
ベルリオーズは返答を待たず立ち上がるとカフェを出た。ダミアンは冷めたコーヒーを一口も飲まず、テーブルの隅に硬貨を置くと外へ出た。彼はカフェ脇の馬に跨ると音を立てずに走り出す。向かう先はダラス家の屋敷。国家の月例報告書は今日もまた闇へ流れていく。報告書はシルヴェストルの元へ届けられた。
「先月の月例報告書になります。今月末かそれより前に、また違う書類を持参するそうです」
ダミアンは封筒を差し出すといつものように部屋の隅へ退こうとし、シルヴェストルは手を挙げた。
「待て」
長兄が自分を引き留めただけでダミアンの背筋が冷える。シルヴェストルは書類を開き、淡々と読み進めた。ページをめくる音だけが響き、シルヴェストルは溜め息を吐いた。
「……例の部隊はまだ謹慎中か」
シルヴェストルは机の引き出しを開けて便箋を取り出すと、利き手ではない方の手でさらさらと書き始めた。筆致は崩れない、癖を消すための筆跡だ。彼が書き終えると便箋を封筒に滑り込ませ、ダミアンは思わず彼の動きを凝視していた。ダミアンの視線に気づき、シルヴェストルが顔を上げて口元を歪めた。
「気になるか? 今のはエドガー宛だ。『陽動も視野に入れた方がいい』とな」
シルヴェストルは頬杖をつくとダミアンに封筒を差し出す。
「エドガーに渡したらランデヴェネックへ向かえ。ドミニクがいるはずだ、あいつを手伝え。ピエールと違ってお前は従順だ。何もしないピエールには俺から言っておく」
ダミアンの呼吸が止まる。褒められた。生まれて初めて長兄に。動揺が一気に押し寄せる。
「……っ、失礼します!」
ダミアンは封筒を受け取ると殆ど逃げるように扉を出て、廊下を歩くたびに心臓が暴れる。
「従順……」
胸がざわつく。怖い、嬉しい、怖い。ダミアンはそのまま備品倉庫へ向かい、黒辰封儀教団の黒衣を肩掛け鞄に詰めると屋敷を出て馬に跨った。命じられたままにサン・マロへ。そして、その先のランデヴェネックへ。
部屋に残ったシルヴェストルはゆっくりと椅子にもたれた。
「甘さもまた身を蝕む毒となる。——父上の言う通りだ。さて……これからエドガーをどう誘導したものか。このままサン・マロにいさせても、いずれ勘づく。戦争はもっと大きく燃やさねばならん」
静かな部屋で計画だけが先へ進んでいた。
ダミアンは三日かけてサン・マロへ辿り着いた。彼は馬を降り、久しぶりに石畳を踏むとサン・マロの空気が違うことに肌感覚で理解した。以前よりも騒がしい、いや騒乱に近い。海賊たちが街を占拠して、酒場から溢れる怒号と笑い声、喧嘩の音が街中を見たし、港を見れば大小様々、国も出自も違う帆船がずらりと並んでいる。
「増えている」
ダミアンは視線を伏せ、裏通りへ入ると鞄を開いて黒衣と手帳を取り出すと鉛筆をしゃりっと紙の上に走らせ、黒辰封儀教団の紋章と星を丁寧に描いた。完成させるとページを破り、黒衣を羽織ってフードを深く被ると人目を避けながら例の入江へ向かった。ダミアンは鉄扉をノックすると間を置かずに絵を扉下の隙間へ滑り込ませると向こうから声が飛んできた。
「お、久々に見たかも」
鎖が外される音と金具が軋む音の間に、ダミアンはフードを深く被り直す。やがて、扉が開いて見張り役の海賊が顎で合図した。
「入れ」
ダミアンは無言で通るとリヴェンジ・クイーンへ案内される。ダミアンが入江に侵入し、黒船へ歩いてくる様子を、ルキフェルは船尾から見ていた。
「まさか、あれが黒辰封儀教団か」
不気味だ。宗教とも思想ともつかない、ただ匂いがある。ルキフェルはじっと観察するとダミアンは桟橋を渡り、タラップを渡って船に乗り込んで思わず周囲を見渡した。視線を感じる、見られているが振り向かない。ダミアンは甲板を横切って船長室へ向かうと、案内役の海賊が扉を開けてダミアンを中へ入た。その直後、ルキフェルも距離を詰めるが入れ違いに案内役の海賊と鉢合わせしてしまい片手で制された。
「おら、船長は二人きりで話したいって言ってたんだ。捕虜は黙って黄昏てろ」
海賊にしっしっと追い払われ、ルキフェルは舌打ちしかけるが抑えた。胸騒ぎ、嫌な予感がするが今は入れない。ルキフェルは仕方なく元の場所へ戻った。船長室ではエドガーは椅子にもたれ、黒衣の男を見て口元を歪めた。
「よお、待っていたぜ」
ダミアンの喉がわずかに鳴る。……兄だと思われてるが、声は揺らさない。
「お待たせしました。月例報告書になります。内容は先月のものです」
ダミアンが封筒を差し出すとエドガーはほとんど引ったくるように奪い取って封を破り、紙を広げた。彼は英語に翻訳された文書を一瞥し、机の端へ押しやる。
「いらねえ」
エドガーは原文に目を走らせてページをめくり、舌打ちした。
「……また謹慎中か」
——荒い人だな。
ダミアンが内心で思っているとシルヴェストルの指示が脳裏をよぎり、一瞬躊躇してから口を開いた。
「……封筒に、まだ入ってますよ」
「ん?」
エドガーが顔を上げ、封筒を持って逆さにするとヒラリと便箋が机の上に舞い落ちる。エドガーは便箋を拾い上げて目を通すと眉が寄り、ダミアンは声を押し殺しながら言う。
「よく熟考すべきです。時間はあまりないと思った方がいいです。コルヴァン殿曰く、今月また違う報告書を流すそうです。早ければ今月末、また持参いたします」
次はおそらく兄が持ってくる番か。エドガーは便箋を折り、机に置いた。
「そうか。ご苦労なこった」
「失礼します」
ダミアンは深く一礼するとフードを被り直し、船長室を出た。彼は甲板を横切ってタラップに向かうとルキフェルが行く手を塞ぐ。
「何を話していた?」
ルキフェルの翡翠色の双眸がまっすぐに射抜く。傷だらけの顔、焼けるような視線にダミアンの背筋に冷たいものが走った。
……怖い。
次の瞬間、ダミアンはするりと身軽な動きでルキフェルの横を抜け、ルキフェルが腕を伸ばすより早く駆けて船を降りて桟橋を渡り、やがて入江を抜けた。黒衣があっという間に遠ざかり、ルキフェルは舌打ちする。
「……あいつ、音がなかった。気配を極限まで殺してやがる」
ルキフェルの胸がざわつき、気配を殺すことができる親友の顔が頭に浮かんできた。
「マテオ……」
次いでジャスパー、ニール、コリン。次々と浮かぶ仲間の顔にルキフェルの胸が締め付けられる。
「あいつら……生きてるんだろうか」




