第四章② ルキフェルとエドガー
サン・マロの入江、黒い戦艦。その最下層の薄暗い一室で影が身じろいだ。
ルキフェルは変わらず冷たい床に横たわったまま浅い呼吸を繰り返している。視界はぼやけ、時間の感覚も曖昧だ。その時、ガチャリと金属音が耳に届いて扉が開くと同時に重い空気が動いた。ルキフェルは朧げな意識のまま目を開くと、視界の端に映るのは磨かれた黒いブーツだった。ルキフェルがゆっくりと視線を上げるとエドガーが逆光の中に立っている。エドガーは床に伏しているルキフェルを見下ろしていたが、やがて自身の背後に控える部下に「船長室に連れてこい、慎重にな」と告げると踵を返すと部屋を出ていった。
ルキフェルは部下たちに両脇を支えられ、強引に起こされると目眩がして床が揺れた。彼はおぼつかない足取りで部屋を出ると廊下へ、階段へ、一段ずつぎこちなく上がるも息が荒い。やがて、ルキフェルが甲板に出ると眩しさに目を細めた。潮風が垂れた前髪を揺らし、久しぶりに外気を吸い込むと肺が痛くてすぐ吐いた。生きている実感が少しだけ戻るが、休む暇はない。ルキフェルはそのまま甲板城を歩かされた。黒旗の下、船員たちの視線が突き刺さる。ルキフェルが船長室の前で止まると扉が開かれ、暗い室内にはエドガーは机の前に立って背を向けていた。ルキフェルが室内へ足を踏み入れるとエドガーが唸るように言う。
「二人きりにしてくれ」
部下は一瞬だけルキフェルを見るが、何も言わず扉が閉めた。波の音だけが遠くから響き、ルキフェルは壁に寄りかかった。まだ体が重い、喉が焼けるように乾いている。しばらく沈黙し、やがてルキフェルの方から掠れた声が落ちる。ガサガサの声。砂を噛むようだ。
「……あんたも、ひでえことするよな。なんの用だ」
エドガーはわずかに肩が上下させたあと口を開いた。
「昔話だ」
「……は?」
ルキフェルは怪訝な顔をするとエドガーはゆっくりと振り返った。
「お前、知ってるか。フランソワが最初に海に出た日のこと」
ルキフェルは目を細めた。エドガーは自分の過去を振り返らないと言っていた。地獄みたいな場所だったと吐き捨てていた。そんな男が「昔話」と言う。
「……どういう風の吹き回しだよ」
ルキフェルは壁に寄りかかったまま睨むとエドガーの目が一瞬だけ揺れる。
「七月だ。昔を思い出すには、ちょうどいい」
波が船腹を打ち、部屋の空気がわずかに変わる。戦争の話ではない。エドガーは窓の外を見たまま口を開いた。潮風が窓の隙間からわずかに入り込む。
「オレとフランソワはな、出稼ぎのためにエル・イエロ島から船に乗った。それが最初に海に出た日だ。肌を焦がす日差し。塩の匂い。波の揺れ。あの時の心地良さは今でも覚えてる」
ルキフェルは黙って聞き、エドガーは鼻で笑って続ける。
「海の向こう、スペインで金を稼いで登り詰める。そんな夢を見てたが、現実は残酷だった。オレは力と体力がある。港で荷運び。フランソワは飲屋で知り合った男に仕事を紹介されて、大金に釣られて着いて行くと暗殺の片棒を担がされていった。その時、悟ったんだ。——この世界に、自由な選択なんてない」
ルキフェルはエドガーから目を逸らして口を開く。
「……トルチュ島の長老が話してくれた。フランソワは元々孤児だったと」
エドガーは頷くと息を吐き、視線を遠くに投げて苦笑した。
「瞳の色が紫だからって理由で親に捨てられる。そんな理不尽なことがあるのかとオレも疑ったさ。多民族集団の連中も適当だった。フランス出身らしい? じゃあ『フランソワ』でいいだろう。フランスと響きが似てるだけって理由でな。今思えば、追われた者に名を与えることで同じ傷を持つ者同士、傷の舐め合いをしたかったんだろうが、オレには理解できなかった。傷を共有して安心する世界なんて気持ち悪い」
エドガーはルキフェルに視線を戻して目を鋭くさせた。
「だから、海に出た。奪われる側じゃなく、奪う側になるために」
ルキフェルはしばらく黙ったあとぽつりと問う。
「ゼフィランサスは?」
エドガーの目が細くなり、口元が歪んだ。
「……剣の師匠か。厳しかったな。カディスの港でオレとフランソワをエル・イエロに連れ戻したと思ったらすぐに剣術稽古だ。朝から夕方まで、ずっと。 『もっとマシな人間になれ』ってさ。自分だって世間じゃ大海賊って恐れられてたくせに。まあ……めちゃくちゃ強かった。沢山扱かれて、手は血だらけだし腕は上がらなくなるし。それでも、あいつは止めなかった」
「……あの羅針盤、どこにやった?」
船がわずかに揺れ、ルキフェルの声が空気を裂くとエドガーの表情がわずかに変わると無造作に言う。
「それが本題か。フェルナンドが持っていった、相変わらず綺麗なものに目がないらしい」
ルキフェルの拳が強く握られたのを見てエドガーは釘を刺すように続ける。
「お前がフランソワとゼフィランサスの何を探っているのかは知らん。けどな、あの島に行っても意味はないぞ」
エドガーは「過去は終わった」とでも言うように断言したが、ルキフェルは目を逸らさなかった。
「意味があるかどうかは俺が決める」
沈黙の中で二人の視線がぶつかり、ルキフェルは視線を強めてエドガーを見ていた。
「お前、さっきからフランソワの過去しか話してない。そんなお前はどんな奴だったんだよ」
エドガーの目がわずかに鋭くなり、低く笑った。
「……斬り込んできたな。いいだろう、教えてやるよ」
そう言うとエドガーはコートを脱ぎ捨て、シャツの左袖を乱暴に引き裂いた。布が裂ける音と同時に露わになった左腕、二の腕の内側に黒い刻印を目の当たりにしてルキフェルの目が細くなる。
「……タトゥー?」
「違う」
エドガーは鼻で笑い、指で刻印をなぞる。
「これはな、黒辰封儀教団の所有物って証だ」
黒辰封儀教団という聞き慣れない単語にルキフェルは頭の中で繰り返した。
「なんだよ、その胡散臭い団体は」
「オレも詳しくは知らねえな。星がどうたら、選ばれし者がどうたら。宗教臭え話ばっかりだ」
ルキフェルの胸がわずかに波打つ。黒い奴ら、星、焼印。
……なんだ、見たことはない。関係ないはずだが、聞き逃してはいけない気がする。理由は分からないが、直感がざわつく。ルキフェルの中で違和感が言葉の形を取り始める。エドガーは唸るように続けた。
「宗教であり思想であり、組織だ。貴族の子供を攫い、洗脳教育して、自分たちの支配下に置く。攫われたガキは暗殺者にされる。言っとくがフランソワが関わってた暗殺とはまた別の団体だ」
エドガーは冷たい声で線引きした後、ルキフェルを見ながら続ける。
「オレも元々はな、やんごとなき身分の人間だったさ。ある日、家を襲われたて黒い奴らに攫われて、この焼印を入れられた。命からがら逃げ出した先で、多民族集団に匿われた」
「あんた……そんな過去、背負っていたのか」
ルキフェルが掠れた声で問いかけると、エドガーは腕を下ろして破った袖を机の上に乱暴に投げ捨て、コートを羽織りながらルキフェルに目を向けて射抜く。
「振り返ったところで現実は変わらない。だから、オレは言ってる。過去を振り返っても意味はない。振り返らない」
ルキフェルは顎に手を当てて床に視線を落とした後、コートを羽織ったエドガーの背に目を向けた。
「……今の話、聞いてて思ったんだが」
「ん?」
エドガーが振り返るとルキフェルは一瞬だけ迷ってから問う。
「フランス国内の話か?」
「ああ、そうだけど?」
エドガーの何気ない返答に、ルキフェルの目が思わず細くなる。
「……お前、フランス人だったのかよ」
「そうだな」
エドガーが肩を震わせてくつくつと笑い出した。
「フランス発音だと“エドガール”だった。エル・イエロの連中が“エドガー”って発音するせいで、それが定着しただけだ。……苗字? すっかり忘れたな」
窓の外で波が砕け、ルキフェルはエドガーを真正面から見据える。
「……それで? このあとどうするつもりだ」
エドガーは窓の外へ視線を向ける。
「協力者が情報を取ってくるはずだ。しばらくは休息。……そろそろ来るはずなんだが」
エドガーの言い方にわずかな焦りが滲んだのを聞き逃さず、ルキフェルはふっと口角を上げた。
「エドガー。俺もな、過去を振り返っても意味ないって生きてきた人間だ。がむしゃらに生きるのに必死だった。……そんな俺に真っ向から言葉で切り込んできたやつがいた」
ルキフェルの脳裏に浮かぶのじゃ凛とした瞳と迷いのない声。思い出すたび胸の奥が熱を帯びる。
「エドガー、お前が本当に欲しいのは支配じゃない。強さだろう?」
エドガーの目がわずかに細くなるが、ルキフェルは続ける。
「そいつが言ってたんだ。強さってのは、己の心に向き合うことだって。今なら間に合う。戦争なんてやめてくれないか。復讐だって……俺もかつては奪う側だった。命を奪ってきた人間が、最後に残るものはなんだと思う? ——罪悪感だ。奪い、罪を犯した後悔。それから失ったものに対する悲しみ。俺はフランソワを奪われて怒り狂って、悲しかった。お前はまだ自分の心に潜む悲しみを見つめられていない」
部屋が静まり返り、エドガーはじっとルキフェルを見つめたあと呟いた。
「……まだ堕ちないのか」
ルキフェルはせせら嗤った。
「とっくに堕ちていたさ。……そこから這い上がっただけ。言っとくけどな、俺はまだ死に方を決めていない。——俺たちの自由は死すら超越する」
ルキフェルの翡翠の瞳がギラリと輝き、彼の言葉にエドガーの瞳が揺れる。
「フランソワは死んでも、フランソワ海賊団の理念は死んでない」
潮風が窓を揺らし、エドガーはルキフェルから視線を外して背を向けると窓の外、波間から誰かを探すように視線を落として沈黙し、やがて振り返った。
「……この船上に限り好きに過ごすことを許可する。ただし、抜け出そうなんて思ってみろ。オレの部下の刃が襲う」
ルキフェルの眉がわずかに動くとエドガーの目が鋭くなって距離を詰めてくる。
「今度は鞭打ちどころでは済まない」
ルキフェルは鼻で笑って扉へ向かいながら吐き捨てるように言う。
「すっかり傷だらけにしやがって。エドガー、考え直せよ。お前は旧ブルボン派とかいう気色悪い奴らに利用されてるだけだ。いい加減、自覚しろ」
返答はなかった。ルキフェルが甲板出ると久しぶりの潮風に肺いっぱいに吸い込んだ。塩の匂い、夏の熱。……生きてる。ルキフェルが視線を巡らせると帳簿を抱えた男が目に入った。頭良さそうな航海士だ。ルキフェルは彼に歩み寄る。
「おい、今日は何月何日だ」
航海士は一瞬ぎょっと目を見開くとルキフェルを凝視し、なんで捕虜が自由に歩いてんだよと警戒しながらも答える。
「……七月十日だ」
「七月十日か」
ルキフェルは小さく復唱すると入江の隙間から覗く空を見上げた。
「夏が来たな。てことは……俺、二十六になったのか」
ルキフェルはしばらく白い雲と濃い青を眺めていると潮風が暗褐色の髪を揺らした。
「……始めたい日か。俺は這い上がった日にする。あの地獄みたいな日々を耐え抜いたんだ、別に構わないだろ」
ルキフェルは岩場の隙間から漏れる太陽光に手を翳し、目を細めてほくそ笑んだ。
「七月十日……悪くない」
入江の向こうに青空が果てしなく広がっていた。




