第四章① 北と南
七月に入った。太陽が容赦なく焦がし、潮の匂いがどこか濃くなる季節。手紙がそう簡単に行き渡るはずがないことは頭では分かっていたが、ニールはあの隠し部屋へ通い続けた。彼は夕方になるとワタリガラスの影を探すように窓を見ている。第八船団で寝泊まりしているジャスパーは、彼の背中を何度も見送っているが、表情はどこか神妙だ。ジャスパーの背後でアーシャとフェリスが小声で囁く。
「兄貴、最近より怖い」
「うん。笑ってるけど目が笑ってない」
ニールは気づいていても止まれないのか焦りを表に出さないが、内側で何かが削れていく。
一方、第五船団の船長室ではフェルナンドが銀の羅針盤を指先で転がしていた。繊細な細工、かつてゼフィランサスが持っていた私物が光を受けてキラリと輝く。フェルナンドがうっとりとした視線を向けているのを、マテオは部屋の隅から見て拳が震えた。今は動けないが、心の底では沸騰している。いつか、あれを取り戻す。あれは奪われたものだ、象徴だ。その時、扉が開いて船員が顔を出すとフェルナンドは顔を上げた。
「フェルナンドさん。エドガー船長から伝言です。捕虜がいるなら解放してやれって。今は利用価値ないから、とのこと」
「へえ、あの男が?」
フェルナンドは口元を緩めて肩をすくめる。
「まあ、いっか。確かに今は戦う時じゃない。休息だし、暑さで死なれても困るしね」
フェルナンドは羅針盤をくるりと回すとマテオをチラリと見る。
「好きにしなよ。街からは出られないけど」
マテオは何も言わず船長室を出た。廊下の空気が重い。彼が甲板へ上がるとコリンが今日も甲板掃除をしているのが目に入った。コリンは木板を磨きながら汗を拭うとマテオと目が合い、マテオはぽつりと呟いた。
「……オレたちが黙ってるのは納得できねえ」
コリンは手を止めないが、わずかに笑う。
「やられたらやり返すって言葉があるよ。たぶん、もうすぐだ。その時が来る」
七月。誰もまだ動いていないが、動き出す準備はもう整いつつあった。潮風が少しだけ強くなる。
マルセイユ、モンレザール家の屋敷。夕陽がバルコニーの石床を橙に染めている中、羽音がして一羽のワタリガラスが舞い降りた。
「戻ったか」
セドリックが穏やかに声をかけるとカラスの頭を撫で、餌を与えてから筒形の入れ物を外して蓋を開け、書簡を取り出して広げると白紙だった。
「……なんだこれ。アラン? いや、あの男は冗談をやらないし似合わない。じゃあ、リー・ウェン? いやいや、あの連中がわざわざ白紙を送る意味がない。……あ、そうだ」
セドリックの記憶の引き出しが開くと東洋知識と炙り出しの単語を取り出し、彼は踵を返して自室へ入っていった。ワタリガラスがトコトコと彼の後を追って小さな爪が床を鳴らす。セドリック執務机の前で立ち止まると後ろのカラスが「グア」と呻いて彼の足にぶつかった。
「……ごめん」
セドリックは謝りながら白紙を机に置くと引き出しを開け、火打石と要らない紙束を持って暖炉へ移動した。この時期に火は使わないが、今日は使う。暖炉に紙を放り込み、火打石を打つと火花がパチと鳴り小さな炎が燃え始める。セドリックは机の上から書簡を掴むと火に近づけ、距離を保って慎重にゆっくりと白を揺らすと淡い茶色の線が滲んでみるみるうちに文字が浮かんでくる。セドリックの口元が思わず歪み、背筋がゾワっと擽られて火の明かりが横顔を照らした。
「やっぱりな」
彼の背後ではワタリガラスが他の仲間と戯れている。セドリックは炙り出された書簡を持ち直して立ち上がると暖炉の火がゆらりと揺れた。
「さて、読むか」
セドリックは目を細めて怪訝な顔で書簡を覗き込んだ。
「『かつて同じ船長の旗の下で働いた同志として、協力をお願いしたい』。……差出人はコルヴァン」
セドリックの視線は文面をなぞると楽しそうに声を漏らした。
「お願いしたい、か。そこは『願いたい』だろう。炙り出しと言い、字の正確さと綺麗さと言い……手紙の主はお育ちのいい子かな」
情報屋だった頃の癖として文字から人を読み、言葉遣いから環境を推測する。セドリックは暖炉の火を決して独り言を続ける。
「それにしても……コルヴァンの名で差し出してくるとは、俺を煽ってるのかな? まあいい、今は情報が滞ってて退屈してるんだ。悪戯の相手くらいにはなろう」
セドリックは執務机へ戻ると引き出しから便箋を取り出し、羽ペンにインクを浸して紙面に滑らせる。
「拝啓、お育ちのいい子へ。炙り出しとはまた古風な手を使うね。私を試したかったんだろう? 手紙と共に、本物を炙り出すために。なんちゃって」
ワタリガラスたちが押し黙る中、セドリックはインクを浸し直して綴っていく。
「如何にも、私が十四代目コルヴァンだ。君が誰の紹介でうちのカラスに手紙を運ばせたのか詳細を聞くつもりはないが……同じ旗の下ということは、君はフランソワの部下だったのかな? 私も君のことで聞きたいことが山ほどある。まずは返事をくれないだろうか。お互い、協力者として」
署名には十四代目コルヴァン、真名を明かすためセドリック・モンレザールの名も綴ると、セドリックは羽ペンを置いて封筒へ入れて別の便箋に再びペンを流れるように走らせた。
「アランへ。ずいぶん前の報告の手紙、ありがとう。サン・マロが自由港になって以降、海賊の数が増加した件も把握している。近頃、地中海でも海賊が頻発していてな。やはり、君の仲間マルクが言っていた通りだ。彼は地中海方面にも詳しいとは恐れ入った。さすが、元私掠船の船長。……実はフランソワの部下と思わしき者から手紙が届いた。もしその人物が君の近くにいるなら、私の代わりに探っておいてほしい。よろしく頼む。セドリックより」
セドリックは封をし、こちらの封筒の裏面には「アラン・クロード殿へ」と丁寧に記すと二通をまとめ、顔を上げた。部屋の中、数羽のワタリガラスが止まり木に並んでいる。
「さて……この中で暇してる奴はいるか?」
ガアガアという鳴き声と共に翼がばさりと揺れ、セドリックはほくそ笑んだ。
「よし、仕事だ」
七月、火種は四方へ放たれる。




