第三章④ ニール
サン・マロ、旧市街の裏通り。ニールが隠れ部屋の扉を押し開けると室内には一人、背筋を伸ばして立つ男がいた。見慣れた横顔、ブレストのリー・ウェンことヤン・ジュンジャーだった。ポーランが馬で駆け回り、ようやく探し当てた人物。ワンとポーラン曰く組織の中でもこの男は少し変わり者らしいと聴いている。ヤンがニールを振り返ると軽く会釈した。
「お久しぶりです」
ニールはここまで辿り着いた緊張が一気に解け、喉を詰まらせて膝から崩れ落ちた。
「やっと……ようやく会えたよ」
ニールは床に手をついて息を整えているとヤンは瞬き一つせず言う。
「まあまあ、そんなところで這いつくばっていないで。椅子に座りましょう」
ヤンに促されるままニールは椅子に腰を下ろすと、ヤンも彼の向かいに座った。
「さて、わたしに用事とは何のことでしょう」
「僕らが攫われてきたってことは……聞いてるよね?」
「ええ。漏洩防止のため口伝でしか聞いていませんが」
ヤンは頷くと部屋の隅に立つワンとポーランに視線を向けた。
「二人きりになりたい」
ヤンの言葉に二人は部屋を出ていって扉が閉まると、ヤンは再びニールを見据えた。
「戦争のことでしょう」
彼の断定的な物言いにニールは苦笑する。
「エドガーの戦争計画の裏で糸を引いている旧ブルボン派。でも、どう崩せばいいのか分からない。仲間とはバラバラだし、今まともに動けるのはジャスパーくらいだ。だから、君たちの力が必要なんだよ。これからどうしたらいい」
ヤンは一瞬、目を伏せた。
「戦争を止めるにしても計画を崩すにしても、壁が高すぎます。それに旧ブルボン派が関わっている以上、これはただの戦争ではないです。あなた方は何故エドガーに立ち向かうのか、忘れかけているのでは?」
ヤンの言葉に、ニールの脳裏が揺れてルキフェルの声が蘇る。
——戦争には参加しない。あいつが海の王になるつもりなら俺は止めたい。
エドガーはすっかり王の顔をしている。海賊社会の均衡は崩れ、ルキフェルの行方は知れず。守りたいものも守れない。
「……海の王」
ニールが無意識に呟くと顔を上げ、ヤンが首を傾げる。
「……ルキフェルが生きてるかどうか分からないんだ。生きていたら僕らで救い出す。そのためには仲間と合流したい。——マテオとコリン、二人に接触しなければ。……けど、フェルナンドが邪魔すぎる」
ニールの脳裏に舞台役者のようにマントを翻し、微笑みながら刃を隠す男が過ぎって苦く呟く。ヤンの眉がわずかに動いた。
「銀の猫ですか。厄介だという噂は聞いていますよ。寝ている時でさえナイフを隠し持っているとか。戦場でも優雅に笑いながら人を殺す、と」
ニールは乾いた笑みを浮かべる。
「そのフェルナンドの船に、マテオとコリンがいるんだよ。ほんと、あの男……邪魔」
ヤンは椅子の背に体を預けた。
「……一筋縄ではいきませんね。今は辛抱強く待つしかないでしょう。わたしもしばらくはこの街にいます。必要であれば、この部屋へ。昼間はカルロータさんの宿に出入りしています。焦りは選択を誤らせますから」
ニールは視線を落とした。分かっているが、時間はない。落胆を隠しきれないニールを、ヤンは見つめたあと情報屋の顔になった。
「……他に聞きたいことはありますか?」
ニールはハッと顔を上げると前のめりになった。
「あ、そういえば! ルキフェルから昔、聞いたことがあるんだ。伝説の情報屋コルヴァンが、フランソワ船長が私掠船時代の旗揚げメンバーだったって。その人、今どこにいるか知ってるかな?」
一瞬、ヤンの脳裏に黒い羽根がよぎる。書面上でやり取りをしている男、セドリック。組織と協力関係にあるアランの知人だ。ヤンは穏やかに言う。
「ええ、知っていますよ。ちゃんと“貴族”しています」
ニールの目が見開く。
「本当?」
「はい。表ではね」
「その人にも協力を仰ぎたい。どうすればいい?」
ヤンは椅子の背にもたれ、わずかに口角を上げた。
「一つ、提案があります。手紙を送りましょうか。それも、特殊な方法で。炙り出しはご存知でしょうか?」
「……いや?」
ニールが首を傾げた瞬間、ヤンの目が少しだけ楽しげになってニールは思わず椅子ごと一歩引いた。講義が始まる合図だ。
「可視の文字とは別に不可視の情報を記す方法です。レモン汁や特定の薬液を使い、熱を加えることで文字が浮かび上がる。古くから密書に用いられています。検閲対策としても優秀で——」
ニールはヤンの言葉を真顔で聞いているが、内心では別のことを思っていた。ああ、自分が良かれと思って知識を広める一方で仲間たちはこんな気持ちだったのかもしれないな。ルキフェルのうんざり顔が、ニールの脳裏にうっすら浮かぶ。ヤンは講釈を一区切りつかせると机の上で両肘をついて指を組んだ。
「……なので、まず炙り出しの手紙を作りましょう。情報屋であるなら白紙を渡されてもすぐ意図を察します」
「何でそんな面倒なことを?」
ニールが首を傾げるとヤンは一瞬だけ微笑を消した。
「申し訳ありませんが、これはプライバシー防止のためです。コルヴァン氏がどの家に属しているか。わたしも知っています。組織も、ね。ですが、あなたに明かすわけにはいきません。そこで、わたしがかつて情報屋だった家名を全て教えます。その中から、あなたに炙り出しの手紙を書いてもらいましょう。……あ、手伝いもして差し上げますよ。うちのポーランがね」
ヤンは扉向こうで待機していると思われる青年を思い浮かべて続ける。
「完成した手紙は組織の人間が運びます。安心してください、痕跡は残りません」
ニールはしばらく黙ったあと頷いた。炙り出しの白紙、戦争に対抗するための最初の一筆だ。その日はこれでお開きとなったが、ニールは止まらなかった。
翌日、彼は昼間にはカルロータの宿へ足を運んだ。表向きはただの客だが、奥へ通されると昨日と同じ顔が待っていた。ヤンが紅茶を嗜んでいる。
「おや、早いですね」
「まあ、時間がないからね」
ニールは椅子に腰掛けると早速講義が始まった。炙り出しの薬液の配合、紙質の選び方、熱の加減をヤンは容赦なく細部まで説明し、ニールは真剣に聞きながらメモを取った。そして、ヤンは情報屋家業をしていた貴族の名を一つ、二つ、三つと告げていく。
「……以上です」
ニールはゆっくりと息を吐いた。数は思っていたより多い。ヤンがふと問う。
「ところで、手紙の文面はどうするんですか?」
「『かつて同じ船長の旗の下で働いた同志として、協力をお願いしたい』。全員に同じ文言で送る」
ヤンがわずかに眉を上げる。
「差出人は?」
「コルヴァンを名乗る」
ニールが微笑を浮かべ、ヤンが一瞬だけ口角を上げた。
「……当の本人が怒らないといいですね」
「怒られたら、その時は謝るよ」
それからニールは隠し部屋へ移動し、机の上に白紙の束と薬液を並べて実践に入った。レモンの調達にはポーランが市場と部屋を行ったり来たりしている。
「レモン、追加っす!」
「助かるよ」
ポーランが息を切らしながら戻ってくると、ニールは借りた筆を握って透明な文字を慎重に走らせる。一枚、また一枚。家名の数だけ同じ文言、同じ覚悟を乾かし、重ねて整える。作業は地味だが、これは戦争を止めるための弾丸だ。書きながらニールはふと笑ってヤンの顔を思い浮かべた。
「あいつ、僕を試したかったな」
情報をどう使うか“繋がりをどう築くか。海の王を止めるなら剣だけでは足りない。知を使えと言われていた気がする。やがて、ニールは最後の一枚を書き終えると紙を整えて深く息を吐いた。透明な文字はまだ誰にも読めないが、熱を加えれば必ず浮かび上がる。まるで今は見えない真意のようだった。
陽が沈みかける時刻になると部屋の中は橙色に染まっていた。机の上には封筒の山。ニールはそれを見下ろし、ゆっくりと顔を上げてヤンとポーラン、そしてワンを振り返った。
「じゃあ、この手紙はみんなに任せるよ」
ヤンは頷く。
「受け取りは夕方、この部屋で。コルヴァンは必ずワタリガラスに運ばせますから」
ニールは何も言わず頷くと扉を開けて去っていった。足音が遠ざかって扉が閉まるとワンが机の上の封筒を見つめる。
「……本当にやり遂げちゃったわね」
半ば感心、半ば呆れ。彼女の横ではポーランがぶつぶつ言いながら大量に消費されたレモンの皮を片付けている。
「レモン高騰するっすね……」
ヤンは封筒の山を見つめたまま微かに口角を上げる。
「さすが。海賊はやると決めたらちゃんとやる。」
それから、ヤンは指先で一枚の封筒を摘み上げると軽く振った。
「まあ……これだけの量を書いた本人には申し訳ありませんが」
「さっそく、送っちゃいましょうか。……モンレザール家に」
ワンが頷くと首にかけていた小さな笛を取り、軽く吹いた。ピィという短い音のあと、バサバサと重い羽音と共に窓辺に一羽のワタリガラスが降り立つ。黒い羽、賢い目、体にはハーネス。筒形の入れ物がまるで剣の鞘のように帯びられていた。ヤンは手紙をくるりと丸めて筒へ差し込み、蓋をしっかり閉めた。
「では、お願いします」
カラスはわずかに首を傾げると合図を理解したかのように翼を広げた。窓から夜へ、黒い影が橙色の空へ溶けていく。三人はカラスの軌跡を見送ったあと、ワンが口を開いて封筒の山を見下ろした。
「……それで? 残りの紙はどうする」
ヤンは肩をすくめた。
「裏紙にでもしちゃいましょうか。それか、手帳の追加用紙として」
窓の外ではカラスの影はもう見えない。戦争を揺らす黒い羽がモンレザール家へと向かっていく。




