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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】5・6巻「胎動編」  作者: セキユズル
第三章「——迷った時は星を見ろ」
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第三章③ ピエール

 サン・マロの外れ、人目につかぬ入江。岩肌に沿うように設けられた鉄扉が、陸からの唯一の出入口だった。夕闇が落ちきる直前、コンと乾いた音が鳴って見張りの海賊が眉を顰めた。


「……合言葉は?」

「——合言葉? そんなもの知りませんよ」

「は?」


 扉向こうの声に見張りが顔を顰めた瞬間、鉄扉の下のわずかな隙間から紙が一枚、するりと滑り込んできた。


「エドガー・ロジャース船長に、この絵を見せていただけると有難い」


 見張りは舌打ちしながら紙を拾って広げると、炭で描かれた黒い星の絵に見張りは頭を掻いた。


「……なんだこりゃ。はあ、よく分かんねえけど見せてくるわ」


 見張りは自分の隣にいた別の海賊に紙を押し付けた。


「これ、船長のところ持ってけ」

「え、おれ!?」

「さっさと行け!」


 紙を受け取った海賊は慌てて黒船リヴェンジ・クイーンへ向かって走っていった。入江に浮かぶ黒き戦艦は夕闇を吸い込むように佇んでいる。やがて、息を切らした海賊が鉄扉の前まで戻ってきた。


「……入れていいって」

「マジかよ」


 見張りが目を丸くするが、命令は命令だ。彼が鎖を外すとギチギチと重たい音と共に錆びた金属が擦れ、最後の留め具が外すと鉄扉が軋みながら開いた。闇の向こうから一人の男が姿を現す。足元まで覆う黒い長衣、胸元には紙と同じ黒い星の紋章。ピエールだった。消えた夢蛇の貨物を追い、結果を出せず兄たちに呆れられた男。今は黒辰封儀教団の一員として密書の運搬役に甘んじている。彼の顔には、かつての自尊心と今の立場への諦念が混ざっていた。見張りが顎で黒船を示す。


「船長のところへだろ?」

「案内してもらえませんか」


 ピエールが頷くと紙を運んだ海賊は肩をすくめる。


「ああ……てか、船長の方が呼んでるんで」


 ピエールは目を細めた。予想通りか、それとも想定外か。


「こっちだ」


 海賊に促され、ピエールは岩場を進んでいく。入江に停泊する黒船へ、黒衣の裾が夜風にわずかに揺れた。



 黒船リヴェンジ・クイーン、船長室。ランプの灯りが机の上を鈍く照らしている。エドガーは二枚の紙を見比べていた。一枚は炭で描かれた黒い星、もう一枚は以前、ルキフェルが偶然手にして自分の元へ戻ってきた、旧ブルボン派宛ての返書。返書の隅に小さく刻まれた星の印を見て、エドガーが訝しんでいるとノックもなく扉が開いた。


「船長、客人です」


 海賊が扉からひょこりと顔を出した。彼の後ろにはピエールが控えている。エドガーは紙から顔を上げ、海賊を一瞥すると顎をしゃくった。


「……へい」


 海賊がそそくさと退室して扉が閉まると船長室には二人分の呼吸音だけが残る。エドガーは黒衣に刻まれたピエールの胸元の星をじっと見つめるとニヤリと笑った。


「なるほど、お宅が旧ブルボン派だな」

「私はその末端に過ぎませんがね」


 ピエールは表情を変えずに淡々と補足すると黒衣の下を探り、封筒をいくつも取り出すと机の上に置いた。


「ここに海軍側の書類があります。十五代目コルヴァンが横流ししてきた、ここ数ヶ月の記録です」


 エドガーの目がわずかに細くなり、ピエールは続ける。


「これをお渡しするために、我々はあなたを装って海軍総司令部にいるコルヴァンと手紙でやり取りしていたのです。もちろん……コルヴァンは、あなた本人とやり取りしていると勘違いしているでしょうな。あくまで、我々は影の者ですから」


 エドガーは封筒の一つを手に取って重みを確かめるとふっと鼻で笑う。


「……面白ぇ。オレはな、死んだ友の敵討ちと弔い合戦を叶えられるなら、それで十分だ」


 エドガーは書類から顔を上げて鋭い目でピエールを射抜いた。


「言っとくが、お前らのほうこそ出しゃばって邪魔すんなよ。黒い旗の下で指揮を振るのが、海賊船長の役目だ」


 船室の空気が重くなる。ピエールはわずかに目を伏せる。


「無論、我々はあくまで裏方。表の戦はあなたにお任せします」


 エドガーは机から身を乗り出して厚みのある封筒をほとんど引ったくるようにして掴み取ると封蝋を乱暴に裂いた。紙の擦れる音と共に彼は中から書類の束を引き抜くと無造作に机へ広げるが、手当たり次第には読まない。まずフランソワの死亡時期と前後の日付を探した。エドガーの指先が紙の端をめくる速度が速まると海軍総司令部の書記官がまとめた記録を見つけた。題目には「大海賊フランソワ討伐記録」。エドガーの呼吸がわずかに乱れ、慎重な手つきでページをめくった。


 ——標的は重症にも関わらず海へ身を投げた、「その後、船は爆破。


 淡々とした筆致と感情の欠片もない文章だが、一行一文ごとに友の最期が冷たい言葉へと変換されている。エドガーが歯を食いしばって指を強く握ると紙に皺が寄った。書面は事実だけを記すが、その事実の裏にある熱はどこにも書かれていない。フランソワの笑い声も帆を張る背中も。潮、風の匂いも全て削ぎ落とされている。エドガーは読み進めていくと最後のページの下部に討伐の詳細を記録した担当部隊の署名が記されていた。ランプの灯りに照らされた名を前にエドガーの喉が鳴り、震える声で呟く。


「ブレスト司令部所属、第七艦艇部隊マクシミリアン・ブーケ隊。部隊長マクシミリアン・ブーケ中尉。……こいつらがフランソワを追いつめた奴らか」


 エドガーは思わず拳を机に叩きつけ、紙束が数センチほど浮いた。個人の名と部隊の名を見つけ、今しがた復讐の対象がはっきりと輪郭を持った。その後、エドガーは最も新しい日付の書類に目を走らせるとご丁寧にも「十五代目」から英語に翻訳された文書が添えられていた。エドガーは一瞥して鼻で笑うと英語版を机の端へ押しやった。


「いらねえ」


 エル・イエロ島。多民族の坩堝の中で育った男だ、仏語くらい読める。翻訳紙はあとで裏側にメモでも書くつもりだった。エドガーの視線が原文へ戻ってページをめくって読み進めると荒い声を上げた。


「……は?」


 ピエールの眉がわずかに動く。


「どうかしましたか?」


 エドガーは怪訝な顔で同じ行を何度も行き来する。読み間違いかと確かめているが、文字は変わらない。エドガーは思わず舌打ちして溜め息を吐くと書類をピエールの方へ突き出した。


「おい、マクシミリアン・ブーケ隊が謹慎中ってどういうことだ?」


 ピエールは書類に目を落とす。確かに書類には「第七艦艇部隊 マクシミリアン・ブーケ隊、一時謹慎処分」と記されている。エドガーは書類からパッと手を離すと背もたれに身を預けて歯噛みした。


「こいつらが稼働してねえなら復讐できねえ」


 ランプの炎が揺れ、エドガーの手から離れた書類がハラリと床に落ちるとピエールが口を開いた。


「……内部処分ということは、何か不祥事か政治的判断か」

「どうでもいい」


 エドガーは鼻を鳴らして立ち上がると床に落ちた書類には目もくれずに歩き回った。


「オレが狙ってんのはこの隊だ。ブーケ隊が動いてねえ戦争なんか意味がねえ。……ふざけやがって」


 ブツブツと呟きながら窓の前を往復するように歩くエドガーを見て、ピエールは内心で考えた。この男の戦争はただの領土争いではない、個人の因縁が戦の軸になっている。エドガーはようやく書類を拾い上げると再び目を走らせて口元を歪めた


「謹慎ねえ……動かしてやるしかねえな」


 黒旗の下で標的が動かなければ動くように仕向ける。船長室の空気がさらに冷たくなった。復讐は延期されるものではない、加速するものだ。彼の向かいでピエールが小さく咳払いをした。


「あー、そのことなんですけど。あなた、復讐がしたいんですか? それとも戦争ですか? 確認ですけど」


 エドガーは鋭い目をピエールに向けると机の上に書類を置いた。


「両方。まず、こいつらだ。フランソワを間接的に奪った奴らに復讐する。それから、フランソワを悪と断じた連中、つまり国家への怨みは戦争という形でぶつける」


 ピエールは一瞬だけ目を細めた。


「つまり……後者は“報復”ということですか」

「好きに呼べ」


 エドガーが肩をすくめるとピエールは机に置かれた書類を指で軽くなぞった。


「なるほど。あなたにも、段階的な考えがあるわけですね。それなら……まず一ヶ月、待ってみませんか?」


 ランプの炎が揺れ、エドガーの眉がわずかに動く。


「待てだと?」

「ええ。その部隊を動かすには材料が要る。内部処分が解けるきっかけ、あるいは動かざるを得ない状況を手にするには再び“十五代目”の力が必要になるでしょう。七月に入れば、海軍総司令部には各司令部から月例報告書が集まります。私はパリにいるコルヴァンから密書として受け取り次第、こちらへ持参します。それまで辛抱強く待つべきです」


 エドガーは腕を組んで沈黙するとピエールはさらに畳みかける。


「なんなら、今は仲間を募る方が先決では? 戦争は感情だけでは勝てない。旗の下に人を集める時間だとお考えください」


 船室の外で波が船腹を打つ音がする。エドガーはゆっくりと椅子に沈み直して指先でトントンと規則的な音で机を叩くと口を開いた。


「……一ヶ月か。七月までだな」

「それまでに動かす手段を揃えます」

「いいだろう。が、七月に何も持って来なければ」


 エドガーの口元がわずかに吊り上がり、ランプの灯りが瞳に映る。


「お前らも敵だ」

「承知しております。では、私は一度帰ります」


 ピエールは微笑を崩さず、黒衣の裾を整えながら柔らかく微笑んだ。


「ここでのことは……私とあなた、二人だけの秘密にしましょうか。書類はお好きにどうぞ。元々、あなたに差し上げるものですし」


 ピエールは踵を返しかけて、ふと足を止めると振り返った。彼は机の隅に置かれた、炭で描かれた黒い星を見つけて目を細める。


「それにしても……あれだけ粗末な絵で我々が旧ブルボン派と分かりましたね。本当は旧ブルボン派の紋章と迷いましたが、身バレ防止のために星の紋章にしました。あなたが我々からの手紙を隅々まで読んでいることを願ってね」


 ピエールは内心でほんの少しだけせせら嗤った。


 ——まあ、あれはオレが描いたんじゃない。ダミアンに無理やり描かせた代物だ。


 エドガーは紙の上の黒星をじっと見つめているとピエールは続ける。


「それに、その絵の紋章はごく限られた者しか知り得ないはず。手紙と絵が一致した、だけではないのでしょう?」


 エドガーは一瞬だけ俯くと顔を上げてピエールを凝視した。


「……黒辰封儀教団、だろ?」


 ピエールの瞳がわずかに見開かれ、エドガーは椅子から立ち上がった。


「お前、自分では“末端”と言いつつ本当はもっと上だろ。末端はな……洗脳し切ってて命令でしか動けねえからだ」

「……ほんと、よく知っているな」


 ピエールの喉が鳴った瞬間、エドガーは突然コートを脱ぎ捨ててシャツも引き剥がした。彼は鍛えられた上半身をランプの光に晒すと、自身の左腕——二の腕の内側に刻まれた黒い星をピエールに見せつけた。


「……はぁ?」


 ピエールの口から思わず声が漏れた。同じ位置、同じ形、自分の部下たちの腕に刻まれたものと寸分違わぬ印。エドガーは自分の腕を見下ろすと指で刻印をなぞった。


「地獄みてえな場所だったな。過去を振り返りたくねえと思うほどに。……忘れんじゃねえぞ。お前を全面的に信用してるわけじゃねえ」


 エドガーは服を拾い上げ、無造作に着直すと最後にコートを羽織りながら冷たい目と共に吐き捨てる。


「さっさと出ていけ。オレの部下が襲いかかってくる前にな」


 ピエールが一歩後ずさると一礼して船長室を後にした。扉が閉まると、エドガーは腕を見下ろして呟く。


「……目的のためなら、憎い奴でも使い潰す」


 黒い瞳が揺れ、ランプの炎が揺れた。復讐はもう個人の感情だけではない。過去そのものを燃料にした戦争へと変わっていく。



 ピエールが入江を出た頃には夜の風が冷たくなっていた。鎖の軋む音を背に彼は振り返らない。彼は郊外の林に繋いでおいた馬へと足早に向かうと鞍に足をかけ、跳ねるように跨って手綱を強く引いた。馬の蹄が地を蹴り、闇を裂くように一直線に駆け出した。馬の走りに合わせて、ピエールの鼓動も速まる。風が頬を打つが、彼の頭の中に浮かぶのはあの光景だけだ。ランプの下、左腕の黒い星にピエールは歯を食いしばる。


「……あのおっさん、父上の商品だったのかよ」


 教団の元所有物、逃亡者が今や大海賊。ピエールの顔が歪み、胸の奥に冷たい理解が広がる。攫われた貴族の子供、売られた先で育てられた暗殺者、そこから逃げ出した一匹。市場に出したはずの“商品の存在にピエールは目を細めて馬をさらに速めた。


「最悪だな。生かしちゃいけない奴だ」


 ダラス家は秘密で成り立っている。過去の商売も裏の契約も、血の流れも。すべては水面下で完結していなければならない。


「知られては困る。一族の秘密は守る」


 それが彼の正義だ。正義という名の家への忠誠。馬は闇の中へ消えていく。ピエールの背後では入江が何事もなかったかのように静まっていたが、黒い星は消えない。ピエールの脳裏にも、エドガーの腕にも。そして、いずれ交差する運命にも。



 黒い戦艦リヴェンジ・クイーンの最下層、陽の差さない一室。湿った木の匂いと潮の塩気の中、冷たい床に横たわる影がかすかに身じろぎする。ルキフェルは薄く目を開けるが焦点が合わずにまた閉じた。闇がすぐに押し寄せ、夢の中で銃声が鳴って血が跳ね、倒れていく海軍士官たちの顔が浮かんでくる。一人、また一人と倒れる彼らは黙っていない。彼らは目を見開き、自分に問いかけてくる。


 ——奪ったのはどちらだ。復讐の名の下に、何人殺した。報いは来ないと思ったか。


 亡霊がじわりと近づき、フランソワの背中が遠ざかっていく。自分が手を伸ばして空を切った瞬間、ルキフェルは飛び起きた。荒い呼吸の中で喉が焼け、彼は壁に背を預けて額に手を当てる。


「……っ」


 息を整えようとするが上手くいかない。ルキフェルは虚空に目を向けてぽつりと呟く。


「俺が奪ってきた報いが……跳ね返ってきてんのかな」


 返事はない。あるのは自分の呼吸音だけ。


 それから、数日。エドガーは動かなかった。フェルナンドは船室で優雅に紅茶を啜りながら指示を待っている。マテオとコリンは第五で唯一優しかった船医を甲板から見送っていた。ジャスパーは相変わらず自由だ、第八船団に出入りする変人扱い。トルチュ島から流れてきた海賊たちが続々とサン・マロへ集結しているが、ルキフェルだけは暗い部屋で身動きひとつ取れず時間だけが流れる。



 同じ頃、パリでの極秘審問廷。ごく限られた高官のみが出席を許される、閉ざされた場。石造りの広間と高い天井、冷たい光の下でソフィーは再び立たされた。詳細な質疑と航路の確認、接触者の洗い出し、戦闘への関与の有無を一つ一つ調べられる。


「あなたは敵に刃を向けたか」

「向けていません」

「敵を助けたか」

「医師としての判断に基づく行為はありました」

「それは軍人として正当化できるか」

「……医師としては正当化できます」


 沈黙の中で審問官たちは視線を交わす。軍医という職務の特殊性と直接の敵対行為の不在、供述の一貫性、何より帰還したという事実。結論は妥協だった。


「ソフィー・ルノアール少尉。情状酌量の余地ありと認める保護観察処分とする。首都パリ医務局に一時配属。三ヶ月間、監視下勤務」


 軍籍は維持だが自由ではない。赦されたわけでも、信頼されたわけでもない。ただ、保留された。ソフィーが審問廷を出た時、パリの空は高く澄んでいた。ブレストへは戻れない。第七艦艇部隊へも、すぐには。彼女は命じられるままパリ医務局の門をくぐった。規律を背負う者と同時に、疑いを背負う者として。



 ソフィーの極秘審問が医務局行きを決定づけた夜。ダラス家の屋敷では重厚な扉の向こうで、ピエールは長兄シルヴェストルに報告をしていた。部屋の隅で控えるダミアンがびくりと肩を震わせている。報告を聞き終えたシルヴェストルは指先で机を軽く叩いた。


「なら、処分しかあるまい。あの“エラー品”には、なんとしても戦争を起こさせなければ。——ドミニクにはランデヴェネックへ向かわせよう。港の整備をさせる。拠点提供の案をエドガーに与えて少しでも信頼を積め。それと海軍からの報告によれば、地中海で暴れる連中が増えているらしい。ならば、サン・マロに巣食う海賊団も大西洋側でも暴れさせようか」


 ピエールは無言で頷き、シルヴェストルは双子を見やる。


「お前たちは引き続き密書の運搬だ。ピエールが貨物探しで下手を打っている間、お前の影を十五代目と接触させねばならなかったのだぞ。本来、陽の光と人の目に晒してはならぬ存在なのだからな」


 シルヴェストルが吐き捨てるとピエールは歯軋りを我慢し、ダミアンは指先をわずかに震わせた。シルヴェストルは双子の反応を無視して続ける。


「貨物探しは後回しだ。戦争の準備を進める。言っておくが、消えた夢蛇の件を許したわけではない」


 ピエールの背筋がわずかに伸びる。戦争は加速する。復讐のためでも、国家のためでもない。証拠を消し、エラー品を処分するための戦争。黒い星はまだ誰も知らないところで軋み始めていた。

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