第三章② ニール
深夜のサン・マロ。港町の灯りはすでに落ち、石畳は夜露を帯びている。第五船団はまるで夜そのものに溶け込むように音を立てずに進んだ。向かったのは、人目につきにくい小さな港。表の港からは死角になり、補給船しか使わない狭い穴、かつてベルナルドが教えてくれた場所に第五船団は滑り込んだ。船底がかすかに軋み、錨が最小限の音で落とされると闇の中で影が固定された。
船長室ではランタンの灯りが揺れ、マテオは縛られて床に転がっており、部屋の隅ではコリンが縮こまっていた。フェルナンドはゆっくりと椅子から立ち上がるとマテオの側まで近寄ってはしゃがみ込み、彼の顎を軽く持ち上げた。
「よく頑張ったね」
フェルナンドが腰に帯びたナイフを抜くと、刃がランタンの灯りを受けてキラリと光り、気づけばマテオの手首が軽くなって縄がパサリと床に落ちた。
「一時的に拘束は解いてあげるよ。でもね、エドガー船長が来るまでは船から降ろすわけにいかないからね」
フェルナンドは立ち上がりながらナイフを納めた。マテオの腕に縄の跡が赤く残っている。自由になったはずなのに逃げ場はない。フェルナンドの視線が部屋の隅へ移り、コリンが小さく息を呑む。
「もちろん、キミもね。なんなら、甲板掃除でもさせようか? 船は綺麗に保たないと。血も痕跡もね」
フェルナンドがマントを翻して船長室から出ていくと扉が閉じて足音が遠ざかる。マテオは手首を見下ろしたまま、縄の跡がじんじんと熱を持っている。ベルナルドが教えたこの港をフェルナンドに明かしてしまった。あの夜、暴力の痛みよりもコリンの首に当てられた刃の方が怖かった。
「……悪い」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。ベルナルドか。フランソワか。それとも、ルキフェルか。マテオは思わず床に拳をついた。
数日後、サン・マロは様相を変え始めていた。すでに軍の手は届かず、名目上は港町だが実態はほぼ自由港。入る者も出る者も問われない。第五船団が忍び込んだ夜のあと、第二・第三、そして他所の海賊団が数日おきに増えていった。夜明け前に入る船、夕暮れに紛れる船、堂々と旗を下げて入る船。港の酒場は急に賑やかになる。荒い笑い声、異国の言葉、剣の鞘がぶつかる音が重なっていく。
「久しぶりだな、サン・マロ!」
誰かが叫ぶと樽が開けられ、金貨が投げられる。女たちが笑い、海賊たちは街を堪能していた。第二船団の中心にはジャスパーの姿がある。彼は喧騒の中にいながら、どこか距離を取っていた。杯を傾けるが酔わない。彼の視線は街の奥、石造りの建物の向こうを捉えていた。
「集まりすぎだな……」
自由港だが、自由は均衡の上にある。船団が増えれば増えるほど目立ち、火種も増える。今のサン・マロは軍の影がないからこそ、皆が油断する。第五船団は港に隠れ、第二は表の港に停泊し、第三は郊外へ物資を流し、武器を整えていた。そして、いよいよリヴェンジ・クイーンがやってきた。夜明け前、霧の向こうに黒い影が浮かび上がる。艦首から艦尾まで闇を纏ったような戦艦、帆は墨を流したように暗く、船体は波を切り裂く刃のように鋭い。港のざわめきが止まり、誰かが小さく呟く。
「……来たな」
大海賊エドガー・ロジャース。彼は堂々と入港はしない。黒き戦艦はかつてフランソワが拠点にしていた入り江へと身を潜めた。仲間の記憶が刻まれた場所に別の王が君臨する。その日のうちに第二・第三・第五の船長たちは呼び出された。フェルナンドが扉を閉めるとエドガーは椅子に深く腰掛け、片脚を組んだ。
「しばらくは、このサン・マロの地に停泊する。遊んでもいい。飲んでもいい。だが、準備は怠るな。オレはな……しばらく協力者とコンタクトを取る。海軍共の情報を得るためだ。皆、思い思いに過ごしてくれ」
戦乱の前の休暇。号令は軽いが、その軽さが街を狂わせる。サン・マロはさらに騒がしくなり、酒場では昼夜を問わず満席。歌声、怒号、金貨の音に元いた住民たちは顔を顰め、この街で宿の第二号店を構え始めたカルロータとディッキーは帳簿を抱えながら小声で話す。
「何が起きているんだろう」
「目立たない方がいいわね」
サン・マロのリー・ウェンことワンも余計な視線を集めないように肩身を狭くして動いていた。第五船団ではマテオは常にフェルナンドの近くにいる。側近という名目だが、実際は監視対象。コリンは甲板掃除に励み、第二船団ではジャスパーがいい位置に収まっている。彼に関しては自由に出歩ける立場であるため、第二船団を抜け出しては遠目から第五の船を眺めてマテオとコリンを見つけては胸を撫で下ろしていた。
そして、例の入り江の奥、黒船の陽の差さない部屋でルキフェルは床に伏していた。サン・マロに着いても監禁は続いている。窓は小さく、光は届かない。身体は回復しているはずなのに重い。長い前髪が視界を塞ぎ、オールバックにする気力もない。彼の中では時間の感覚が曖昧になる。閉じた扉の向こうで足音だけが時折響く。各々が生かされている。自由な者もいれば監視される者もいて、閉じ込められる者もいる。
そして、港の別の桟橋では一隻の船が接岸した。第八船団の甲板から、一人の青年が降り立つ。航海士ニール・セイルハート、五人組のブレーン。彼はゆっくりとサン・マロの石畳を踏みしめると辺りを見回して呟いた。
「……ずいぶん物騒になった気がする」
彼の背後ではアーシャとフェリスが船員たちに報酬を分配していた。二人で袋の口を締め、名簿を確認し、金額を読み上げる。秩序は保たれている。ニールは一度、深く息を吸うと歩き出して港沿いを進んでいった。どの旗が立っているか、どの船団の紋章か、どの船員がどの色の腕章をしているか。酒場前の会話を拾っていく。
「第二は今日も派手にやってやがるな」
「第五はあっちの小港だ。フェルナンドが動いてるらしい」
「黒船は例の入り江だとよ」
ニールは笑い声の中から断片を拾い、必要な情報だけを選別した。
——第五船団、小港。
ニールは人目の少ない細い道に足を向けて歩みを早めていった。通路を抜けると海藻の匂いが濃くなって小さな桟橋と停泊している船を目の当たりにする。第五船団の甲板ではコリンが黙々と甲板を磨いている。コリンはふうと額の汗を拭って顔を上げると、倉庫の陰に身を潜めるニールと目が合い、周囲に気づかれないよう小さく手を振った。ニールは胸の奥がわずかに緩むのを感じた。
「……よかった」
ニールは視線だけを残し、踵を返した。長居はできない。彼は港へ戻る途中、石畳の角を曲がった瞬間に長身の影とバッタリ出くわした。
「あ」
「……ニール」
立っていたのはジャスパーだった。二人は距離を詰めて互いの無事を確かめるように抱き合うとすぐに離れた。
「マテオとルキフェルは?」
ニールが間髪入れずに問うとジャスパーは顎で小港を示す。
「マテオならあの船だ。コリンと一緒。あいつは……分からん。生きているならエドガーの元だろう。あの入江、陸からの入り口は見張りが立っている。正面突破は難しい」
ニールは顎に手を当て、数秒思考する。
「ひとまず……街の様子を探るところからだね。誰がこの街にいるのか把握したい」
「軍の影も、な」
ジャスパーが小さく頷く。
「動くか?」
「静かにね」
二人は並んで歩き出すと喧騒の裏へ、酒場の影へ、細い路地の奥へ消えていく。
その夜、第八船団の船長室では油灯の火が小さく揺れている中、ニールとジャスパーがテーブルを挟んで向かい合った。ニールは自分の背後に立つアーシャとフェリスを親指で示す。
「あ、この子達は味方だから安心して。妹と弟」
ジャスパーはゆっくりと天を仰いだ。いつも飄々としている男があからさまに動揺している。
「……お前。そんな重大事項を今出すな」
アーシャはにこやかに一礼し、フェリスが小さく会釈して口を開く。
「兄貴がいつもお世話になっております」
「……聞いてない」
ジャスパーは額を押さえ、ニールは笑った。
「説明は後でね」
やがて四人は酒盛りという名の水盛りを始めた。グラスに注がれるのは水。彼らは頭を冷やしながら思考を巡らせる。
「エドガーの狙いが見えない限り、こちらも打ちようがない。しばらく停泊して協力者と接触、情報収集に励もう」
ニールが指でテーブルを軽く叩き、ジャスパーが口を開く。
「マテオとコリンは?」
「こちらから迂闊に接触すれば、かえって危険だ。監視されてる可能性が高い」
ニールは首を横に振り、ジャスパーが頷く。
「エドガーよりフェルナンドが厄介だ」
「……だね。奴に生存は匂わせない方がいい。動くなら、気配ごと消して動く」
結論は単純だった。待つ、焦らない、その間にこの街を探る。ニールの頭の中にはすでにいくつかの名が浮かんでいた。カルロータとディッキー、組織ぐるみで動くリー・ウェン。そして、かつてルキフェルの口から聞いた伝説の情報屋。まだ輪郭は見えないが、この街から出られない以上は外部と接触可能な人物を見つけるのが先決だ。
「閉じた港は逆に言えば情報の溜まり場だ。出られないなら中で繋がる」
ニールはグラスを傾け、アーシャが口を開く。
「街を読むのね」
「そう。エドガーが何を狙っているのか、誰と繋がっているのか。その糸口がこの街にある」
ジャスパーはゆっくりと息を吐いた。
「待つのは嫌いだが……今はそれしかない」
四人は水を一気に飲み干した。外では笑い声が続いている。
翌日、ニールは日中動かなかった。港は船団が多く、下手に動けば顔を覚えられる危険があった。動くなら夜だ、月は薄く雲も流れ、石畳は昼の熱を失い、ひんやりと冷たい。ニールは外套の襟を軽く整え、旧市街へ足を向けた。持ち前の爽やかな笑顔と柔らかい声、丁寧な言葉遣いに敵意を持たれない距離感を演出して。
「こんばんは。少しお尋ねしても?」
ニールが声をかければ、彼の海賊とは思えない物腰に住民は警戒を解く。
「褐色肌の女性? この街には珍しくはないけど、それがなにか?」
「新しくできた宿屋? ああ、それならあそこかな。最近できたはずだ」
「東洋人? さあ、最近は見ないねえ。昔はいたが」
ニールが情報の断片を拾ううちに頭の中では地図の上に点が打たれていく。やがて、一人の行商人が顎を撫でながら言った。
「ああ、その宿なら旧市街の方面だ。それも裏通りにあるよ。ラ・プティット・トゥルって名前さ」
ニールは彼に礼を言うと旧市街へ向けて歩き出した。旧市街は道が狭い。石壁は高く、窓も小さい。ニールが裏通りへ入ると人通りは一気に減った。通りを進むうち、手入れは行き届いている木造の宿を見つけた。一見目立たないが、軒先に控えめな看板を吊るしていた。ニールは目を凝らして小さな金文字を確認するとラ・プティット・トゥルの名が刻まれていた。
「……なるほど」
ニールは立ち止まり、数秒だけ観察すると扉の前に立って指先で軽く叩いた。コツ、コツと静かな音が夜に溶ける。数秒の沈黙のあと内側で小さな足音がした。木の軋む音と共に扉がゆっくりと開くと現れたのは小柄な青年だった。整えられた前髪、きちんとした身なり、ディッキーだ。彼は三度瞬きをするとニールの顔をじっと見つめた。
「あれ、あなた確か……」
ニールはにこりと笑った。
「ニール。ほら、トルチュ島でおしゃべりしたろう? 愉快な五人組の一人だよ」
「ああ、あの時の……!」
ディッキーは目を丸くして声を上げた。
「え、なんでフランスに? わざわざ海を渡ったのですか?」
ニールは軽く視線を横に流す。
「ちょっと事情があってね。カルロータさん、いるかな」
ディッキーは一瞬だけ、考えるように目を細めたがすぐに頷いた。
「ええ、いますよ。なんか訳ありみたいですし。さあ、入って入って」
ディッキーが扉をさらに開くと暖かい灯りが外へ溢れた。木の床の匂いと煮込み料理の残り香が漂ってくる。ニールが足を踏み入れると、彼の背後で扉が閉まってカチリと小さな音が響いた。ニールはディッキーの案内のもと宿の奥、小さな食堂に通された。木の丸テーブルに座っていたのは、カルロータ。彼女はニールの姿を見つけるなり目を大きく見開き、ディッキーが彼女の向かいにある椅子を引いた。
「どうぞ」
ニールはディッキーに軽く礼を言ってから腰を下ろすとカルロータと目を合わせた。
「久しぶりだね」
「ええ、本当に」
カルロータが微笑むが、再会の言葉は短い。すぐに空気が変わり、ニールは深く息を吸って告げる。
「……僕らはエドガーに拉致されたんだ。別々の船団に引き剥がされた。でも、ルキフェル以外はみんな生きてる」
ディッキーの手が無意識にテーブルの端を握り、カルロータはゆっくりと頷いた。
「……やっぱりね。以前からこの街はおかしかったけど。あの黒船が現れてから、より“海賊の街”って感じがしてる。宿屋をやってもね、街全体がこうじゃとても休まらない。トルチュ島とは違う。いや……異常かも」
ディッキーが身を乗り出す。
「エドガー海賊団が続々とこの街に来てるんですよね。何があったんですか?」
ニールは一瞬、言葉を選んだ。エドガーの戦争計画、海軍との衝突、血の匂い。それをこの宿に持ち込むわけにはいかない。
「……わからない」
珍しく下手な嘘だったと自分でも分かる。カルロータの目が細くなると肩をすくめた。
「はいはい、そういうことね。わかった、話せる時が来たら話しなさい」
ディッキーはにこにこと笑った。
「ボクたちもこの街にいる以上、無関係じゃないですからね。手遅れになる前に、ちゃんと話してくださいよ?」
ニールは思わず苦笑した。
「……手厳しいな」
「当然です」
ディッキーは胸を張り、カルロータが声を落として続ける。
「あなたたちが動くなら、私たちも巻き込まれる覚悟はしておくわ」
ニールは目を伏せた。守りたいと思っている相手ほど自分の知らないところで覚悟を決めている。
「……ありがとう」
嘘はついただが、この宿は敵ではない。むしろ、この街の中で最も信頼できる灯りかもしれない。しばしの沈黙のあとニールは咳払いした。
「じゃあ、早速……聞きたいことがあって」
カルロータが微笑みながら首を傾げる。
「なに?」
「今すぐ、リー・ウェンに会いたい。それも、トルチュ島に来た方のあいつ。組織の誰かじゃなくて、あいつがいい」
ディッキーが目をぱちくりさせ、カルロータは納得したように笑うと肘をテーブルに置いて指を組んだ。
「それなら、まずこの街担当のリー・ウェンに話を通さなきゃね。私たちが会ったあいつはブレスト方面担当らしくて。えーと、確か隠れ家が……」
カルロータは天を仰いだあと何気ない調子で立ち上がった。
「ちょっと耳貸して」
ニールは彼女に身を寄せるとカルロータは小声で場所と行き方を口伝で告げた。地図に書けば危険な情報だから記録には残さない。ニールは一言も挟まず、ただ頷いた。彼が口で反復もせず一度で覚えると、最後にカルロータが囁いた。
「時間帯、間違えないで」
「ばっちりだよ」
ニールは身を引き、椅子に戻る。
「ありがとう」
「貸し一つね」
「高くつきそうだ」
「そうね」
ディッキーが楽しそうに言う。
「でもボク、なんかワクワクしてきました」
カルロータが彼を睨んだ。
「ワクワクしてる場合じゃないでしょ」
ニールは立ち上がると扉の前で一度振り返った。
「無茶はしない」
ニールが外へ出ると夜の空気で通りはすっかり冷えていた。次に会うのは情報屋。組織の影ではなく、あの男自身。
翌日、陽が沈む直前の曖昧な時間。街はまだ騒がしいが、光はゆっくりと色を失い始めている。ニールは一人、石壁に囲まれた細い石畳の通路を歩いていた。潮の匂いと昼の熱がまだ残る空気の中、影が長く伸びる。やがて、目的の建物が見えた。粗末な三階建て、外壁はくすんで窓は小さい。
「……ここか」
ニールは足を止めた。一階の玄関口の横に小さな花壇があり、季節の花々が無造作に咲き乱れている。一見、ただの民家だが、ニールの視線が一輪のアプリコット色のチャイナローズに止まる。控えめだが目を引く色に、彼はしゃがみ込んでよく見た。
「……造花か」
本物に見せかけた精巧な細工。風に揺れず香りもない。ニールは空を見上げた。今、空は淡い橙から群青へと変わりかけ、橙の部分は花の色と一致している。夜明けか、夕方。この花が花壇に差される時間帯がリー・ウェン側からの合図。カルロータの言葉が蘇る。
——ご依頼どうぞ。このバラの存在そのものが試されてるの。
チャイナローズ、東方の花の意味を知る者、東の知識を持つ者、花への理解がある者だけが気づき、気づいた者だけが扉を叩ける。“知識”が、通行証。ニールは小さく笑った。回りくどいが、その回りくどさこそが信頼の基準。誰でも辿り着けるわけではない。ニールは立ち上がると建物を改めて見上げた。静まり返った外観、中に気配は感じられないが、見られている感覚はある。
「さて」
ニールは袖口を軽く整えた。彼の表情はいつもの爽やかなものだが、目は鋭い。ニールが扉の前に立ってドアノッカーに手を伸ばそうとした瞬間、軋む音もなく、扉が内側からすっと開いた。中に立っていたのは、小柄な青年。ディッキーよりさらに小柄の東洋人、目元は柔らかいが視線は鋭い。
「お兄さん、初めて見る顔っすね」
青年の口調は軽いが、ニールの足元から頭の先まで一瞬で観察している。ニールは微笑んだ。
「そうかな?」
「どうぞ」
青年は肩をすくめるとあっさりと招き入れた。試されているのか、通されたのか。どちらにせよ、もう後戻りはない。室内は質素で無駄がない。青年——ポーランはニールより先に階段を上り、二階を通り過ぎて三階へ辿り着くと廊下の一番奥の扉前で立ち止まってコンと軽く叩いた。
「リーさん、お客さんですよ」
返事はないが、ポーランは迷わず扉を開けた。室内の窓辺に立つ、背の高い東洋人——ワン・ユーリン——が振り返った瞬間、ニールは確信した。
——すらりとした体躯、静かな佇まい。あれがサン・マロのリー・ウェンだ。
男装中のワンは丁寧な所作で一礼した。
「初めまして。私、リー・ウェンと申します」
ニールも軽く会釈する。
「初めまして、ニールと言います」
ニールは一歩踏み込むと目を細めて微笑んだまま言う。
「なるほど、あの男と同じような雰囲気だ」
ポーランがニールの横で固まって見上げる。
「……へ?」
ワンも目を細めて唇に薄い笑みを浮かべた。
「……なるほど。 それじゃ、君は我々のことをよく知っているというわけか」
ニールは肩をすくめ、ワンの視線を真正面で受け止めながら言う。
「まあ、多少は。それにあなた、女性ですよね?」
室内の空気が止まり、ポーランは目を見開いた。
「えっ!? ちょ、ちょっと!?」
ワンは一瞬だけ沈黙すると「ふふ」と声を漏らして笑った。
「賢いな。私の男装を見破ったのは君が初めてだよ」
「え、え、え? なんで!? どこで!?」
ポーランが動揺している中、ニールは爽やかに笑った。
「観察が得意なだけです。それと、あなたの仲間に会ったことがあるんですよ。トルチュ島でね」
ワンはニールの言葉を聞き流しながら懐から一冊の小さな手帳を取り出すと革表紙と紙の擦れる音だけが部屋に響かせ、整然と並ぶ文字と符号と記号を流し読みし、やがて人物記録に指を止めた。トルチュ島、ヤン・ジュンジャーから共有された情報が羅列している中、ワンの指先がある一文をなぞる。
「金髪碧眼、若い、爽やか。なるほど」
ワンは目を上げてニールを見るとパタンと手帳を閉じた。
「君がフランソワ海賊団の残党の一人ってことか」
「そうなりますね」
「遥々海を渡ってこの地へ来るとは、なにか大きな目的があるのではないか?」
ワンの問いにニールは一瞬目を伏せてから答える。
「あります。その大きな目的の中に、トルチュ島で会ったリー・ウェンに会いたいんです。どうか、会わせていただけませんか?」
沈黙が部屋を満たす中、ワンはニールの目元と声の震え、呼吸と指先を観察すると息を吐いた。
「落ち着き払っているが、言葉の端々が掠れている。焦っているな、緊急事態らしい」
ニールの瞳がわずかに揺れ、ポーランが小声で「やっぱり」と呟く。ワンは頷いた。
「構わないよ。ただし、あいつが今どこにいるのかは正確には分からない。恐らくブレストだろう。この街に来るまで、かなり時間を要する」
「待ちます」
ニールがこくりと頷くとワンは続ける。
「この空き家は好きに使って構わない」
ポーランが「え?」と小声で驚くとワンは目を鋭くして指を一本立てた。
「ただし、この場所は誰にも言わないと約束してくれ。君の仲間にもだ」
「約束します」
「なるべく夜に来るように」
ニールが再び頷いた瞬間、ポーランがぱっと部屋を出ていった。
「お茶の準備っす!」
彼が階段を駆け下りる足音を聴いたのち、ワンは机の向こうを指して穏やかな笑みを浮かべた。
「さて。せっかく来たのだから、ゆっくりしたまえ。東洋のお茶は好きか?」
ニールは微笑む。
「はい。むしろ、お茶の方が馴染みがあります」
「ほう」
やがて湯気が立ち、香りが広がる。戦の匂いでも鉄の匂いでもなく、茶の香りが。情報屋と海賊。利害で結ばれた関係だが、そこには一つの合意があった。




